第3話『女だよね、匂うよ』
時刻はすでに日付が変わる時刻になろうとしている。朝灯はひなたを自宅に送り届け、下宿しているマンションの自宅の扉の前に立っていた。
帰り道で二人は特に会話らしい会話をすることができなかった。何を言っても墓穴にしかならないような、そんな空気が漂っていたから。
語るべき事はたくさんあったはずだ。二人がやるべき精神の回復に対する事や、何故式姫がここまで協力的であるのか、そもそもファンタジー過ぎやしないか、など、二人は流されるままに色々な事に目を瞑りすぎている。
「はぁ……何が何だか……」
溜息をつきながら朝灯は自宅への扉を開ける。鍵が開いていた。
「おかえり朝灯」
「電気ぐらいつけなよ、一夜」
朝灯が扉を開けると、一人の女の子がそこに立っていた。照明がつけられていない薄暗い自宅の中、黒髪で細身な人影が朝灯の制服をがっちりと掴む。
「……こんな時間まで、何処に?」
「ちょっと野暮用で」
「女だよね、匂うよ」
「犬かよ」
何故か朝灯の腰に女の子の手が伸び、密着する。
「簡単な話、いつも嗅いでいる匂いとの差異を計ればいいだけのこと」
朝灯の首筋に女の子は吸血するように鼻を近付けた。
「なぁ、このボディチェックはいい加減やめないか。俺だって年頃になれば女の子の一人や二人と付き合うことだってあるだろうさ」
「何を言っているの? 日本語が分からない」
乳房をわざと朝灯の胸に押し付け、女の子は誘惑するように朝灯に迫る。朝灯は無言でそれを受け入れていた。
しばらく官能映画さながらの熱烈な抱擁を繰り返し、ようやく女の子は朝灯から離れる。
「気に食わないなぁ、身に着けているものを全て洗濯機に放り込んで、早くお風呂に入ってほしい」
「分かった、分かったから……」
朝灯はよろよろと風呂場に向かう、まるで朝灯の嫁のように朝灯の鞄を受け取り、女の子はリビングに向かう。
「久しぶりに背中流してあげようか?」
「馬鹿言え、学園に入ったらもうやめる約束だろ」
朝灯はさらりと受け流し、風呂に逃げ込んだ。服を脱ぎ、言われたとおりに着ている服全てを洗濯機に放り込む。
「……ふぅっ……」
朝灯は自宅に戻る前より深い溜息を長々とつく。相変わらず疲れる双子の一夜だった。
現在、このマンションに朝灯は一夜と二人暮らしだった。両親は同じ会社に共働きで、夫婦セットで単身赴任で遠い土地に行っている。単身赴任ならぬ両親赴任と言ったところか。
かなり稼ぎは良いみたいで、朝灯と一夜とマンションを維持する事になんら苦労はしていないようだった。
「一夜、もうちょっとどうにかなんないかな……」
弐々村一夜、弐々村朝灯の姉であり、妹でもある双子。生まれた順番は両親の教育方針により教えられていない為、どちらが上でどちらが下なのかは分からない。
一卵性双生児で異性。姿形はほぼ一緒であり、二人が子供の頃はほとんど違いが分からなかった。
それだけ、それだけならば別に朝灯と一夜はちょっとレアな双子、という存在であるはずだった。
けれど一夜は、朝灯に対してこの世の誰よりも愛というか、執着というか、とにかく朝灯を中心に物事を考えてしまう思考回路の持ち主だった。
朝灯を導く為、朝灯を守る為、一夜はその為なら本当に何でもする、できる人間だった。朝灯自身も一夜の事を超人、人外の類であるのかもしれない、と思うほどだった。特に最近は嗅覚が鋭すぎる傾向にある。
ああこれから一夜になんて言い訳をするべきか、ひなたと上手くやっていけるのだろうか、そんな事を考えるだけで朝灯はあっという間に風呂での時間を過ごしてしまう。
朝灯が風呂からあがり、冷蔵庫から麦茶を取り出すついでに一夜の姿を見ると、当然のように一夜は朝灯の携帯を操作していた。
「玉藻式姫、明星ひなた、ふぅん……玉藻はまぁ、優秀な人間だから分からなくも無いけど、何故あの地味なクラスメイトとアドレスを交換しているの?」
「一日毎に携帯をチェックするのはやめにしないか」
「交換条件でボクの携帯を二十四時間いつでもチェックする権利をあげたはず」
「一夜の携帯見てもなんも面白い事ねぇよ! いつも俺への発信履歴しか更新されねぇじゃねぇか!」
朝灯の携帯の本日の着信履歴、弐々村一夜×50なり。
「あのね朝灯、彼氏追跡アプリというのを知ってる? そのサービスに申し込もうかと思っているの」
「……そのうち俺は切り取られるんじゃないかと不安になる」
「そんなに勿体無いことする気はないよ」
ふふ、と当然のように登録した式姫とひなたのアドレスが消去される。朝灯はその事はもう予期していたので、数学のノートの数式に紛れてバックアップをとっていた。
「それで、ボクと一緒に帰らないで何で女の子に携帯の貞操を捧げていたの?」
「……交流だよ、交流。俺だって俺の交流関係を広げたっていいだろ。一夜がずっといるから俺は女子から話しかけられた事が無いんだ」
「必要無いじゃない、ここにボクっていう理想のタイプがいるのだから」
「確かに俺は黒髪が好きだと公言しているけどさ」
「……胸? ああ、胸? 困った、いくらでも整形してあげたいのだけど、それだと朝灯の価値観と相反してしまうし……」
ぶつぶつと一夜は自分の世界に入り込み、独り言を呟いていく。
「ああ、明星ひなたは確かかなりの胸のサイズだった。目視でE。着替える時にあらかたチェックしたつもりだけど……ふむ、着眼点を変えよう。そうか、朝灯は眼鏡に食いついたってことなのかな」
一夜は音も無く自分の部屋に戻り、駿足でリビングに戻る。
「眼鏡ならこれでいい? さぁ!」
一夜は当然のように眼鏡をかけ、朝灯の腰に抱きついた。
「俺は本当に一夜の事が分からなくなる……」
「え!? 反応が無い、くそ……っ! ぱ、パイメガ? パイメガなの!?」
「何処の業界の用語だよ、だから、明星とは何でも無い、ちょっと話しただけだってば!」
「『いい天気ですねパイメガさん。とどのつまりアドレス交換しましょう』ってそんな馬鹿な事があるわけないでしょ! 朝灯は何を言ってるの!?」
「とどのつまり流行り過ぎだろ! お前はさっきからずっと何言ってるんだ!」
朝灯は無理矢理一夜を引き剥がし、疲れきった瞳で虚ろに自室へと逃げていく。
「もう寝る……寝させてくださいお願いします」
「むむ……朝灯がグレた……お姉ちゃん悲しい……」
朝灯は四つんばいでにじにじとよってくる一夜からエスケープする。
「お姉ちゃんなら聞き分けてくれよ、弟がこんなに眠そうにしてるのに」
「一緒に寝よう、お兄ちゃん!」
「めんどくせぇ! めんどくせぇ!」
ばたーん、と朝灯は自室のドアを閉め、すぐにベッドへと飛び込んだ。それはまるでベッドに吸い寄せられるかのような動きだった。朝灯はいつもと同じベッドが吸い付くように自分を包み込んでいる気がした。
「くぁ……やっぱいつもよりかなり疲れてるな」
朝灯は通常なら適当に課題を片付けるぐらいの真面目さはあるのだが、今日はそのやる気も微塵も沸いてこなかった。一夜やひなたと話している時は感じなかったのだが、一人になるとやる気のなさが顕著に現れる。
魂の疲労。得体の知れない不思議な感覚。もう何もしたくない、そんな感覚。加えてひなたを運んだ時の肉体の疲労も加算されていた。
朝灯は明日の準備も放棄して、目を瞑って横になる。ゆっくりと近づいてきた眠気に身を委ねようとして――携帯に着信があった。舌打ちしそうになる気持ちを抑え、携帯を見ると誰か知らない人からのメールだった。
『本当に私なんかでいいのでしょうか。明日からよろしくお願いします』
その文面とアドレスから、朝灯は送り主がひなたである事が分かった。アドレス登録は一夜に消されてしまったが、このタイミングで送ってくるのはひなたしかいない。
いじらしい文面と、これからの恥ずかしい儀式に対する勇気が伝わってくるようで、朝灯は頬を緩めながら返信する。
『相手が明星でホッとしてる、俺もよろしく』
男友達に返信するような簡素なメールになってしまった。試行錯誤の上のメールだが、朝灯は自分のセンスの無さに少しガックリする。
メールを送った直後、朝灯は自室の扉が開かれている事に気付いた。心臓が口から出んばかりに驚き、慌てて携帯を隠すが、一夜はその様子の一部始終を見ているのだった。
朝灯は背中にじっとり汗をかく。今のメールの文面を見てしまえば、今からでも一夜はひなたの住所を割り出し、問い詰め、朝灯との関係性を暴き出してしまうだろう。
「……携帯、見るか?」
朝灯はこの問いに対して頷いた瞬間、携帯を叩き折る覚悟だった。その後に全力で言い訳すればなんとかひなたの身の安全は確保することができるだろう、危ない勝負だが。
「いい、今日一緒に寝てくれれば」
「む、えらくひさしぶりだな」
一緒に風呂に入る、一緒に寝る、といった行為は中学生まで、という二人の取り決めがあったはずなのだが、今日はそれを一夜は破ろうとしている。朝灯はここで断るべきなのだろうが、ここで手打ちにすることができるのならばいい取引であると判断した。
一夜は何も言わずパジャマ姿のまま、朝灯のベッドに潜り込んでくる。当然のように抱きつき、朝灯の胸に顔を埋める。女の子特有の甘い匂いと柔らかさが朝灯に伝わってくる。
「ねぇ朝灯、ボクは朝灯の事が好きだよ」
「知ってる。それは嬉しいし、俺だって一夜の事が好きだ」
朝灯は子犬のように慕ってくる一夜の頭を撫でると、一夜は朝灯の胸に頬ずりした。
「浮気はしないでほしい」
「好きっていうのは家族に対する愛情だから」
「ボクは……そうじゃない……」
一夜の吐息は朝灯の唇のすく横に吹きかけられる、繋がれた手は指と指が絡められ、客観的に見ればそれは熱烈な恋人同士の抱擁にしか見えない。
「朝灯……」
唇に吐息を感じても、朝灯は動じなかった。こんな事は何度もあって、そしていつも結果は決まっている。
「んっ……」
一夜の柔らかな唇は朝灯の頬に優しく触れ、甘美な感触をもたらす――だけ。朝灯は体温の上がった一夜の身体を包み、意識を沈めていく。
朝灯にとって一夜は、何よりも大切な自分の一部だった。
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