第1話『――君はこの子を助けたくないの?』
弐々村朝灯が屋上に出ると、一人の女の子がそこに佇んでいた。それはとても絵になる光景で、朝灯は目が覚めたように目を開く。
「おっす」
屋上には二人きり、朝灯は思い切って声をかける。このまま無言で夕陽を眺めても良かったのだろうが、朝灯は何故か声をかけていた。
「え、あ……弐々村くん」
女の子は振り返り、朝灯を見る。
女の子は分厚い眼鏡をかけ、正しく着こなした制服を着ている。大半の人々が彼女に野暮ったい印象を受けるだろう、そんな外見だった。
「明星がこんな所にいるなんて珍しいな」
「ご、ごめんなさい、お邪魔でしたか」
「んにゃ別に。ここの綺麗さは俺の独り占めにするのは惜しいから」
朝灯が在籍する虹雪学園は海の傍にあり、その屋上からはちょっとした絶景が拝める。沈む夕陽と接する海が茜色に染まる光景は、今風の若者ならすぐにケータイのカメラを起動するだろう。
「俺こそ邪魔じゃなかった?」
「いえ全然そんなこと、無いです」
「……ここにくるのは初めて?」
「あ、えっと……たまに」
質問を連発するのはあまり上手い会話ではないな、と悩みながら朝灯は話し続ける。女の子――明星ひなたはなかなか会話が続かないタイプの人種らしい。
ひなたは何度も口を開き、言葉を発するのを躊躇っていた。朝灯はその様子を見て僅かに頬を緩める。
「こうやって明星と話すのも初めてだよな」
「は、はい……私、は、あまり誰かと一緒にいる事が少ないので」
「明星は大人しいから。今や絶滅危惧種の大人しい系だ」
「ただ単に臆病なだけだと思いますけど……」
「いやいや貴重だよ、大体の男はそっちのほうが好きだから。黒髪で乳がでかかったら大体の事は許せるっていうのが男ってもんだ」
「でも、大体の女の子は茶髪に染めたりしてますよ」
「そこなんだよなぁ、俺は黒髪処女厨なもんで……冬の時代を耐え忍んでいるところ」
朝灯はなるべく饒舌に話し続ける努力をする。いつまでも姉だか妹だか分からないあの子以外の異性と話した事も無い、というのは悲惨だと思ったから。
「黒髪ということは、やっぱり一夜さんみたいな女の子が良いんですか?」
ひなたは分厚く光を反射する眼鏡をかけていた。その為表情は分かりにくいが僅かに頬を染めている。どうやらこの手の話が苦手らしい。
「やはり俺の周りは一夜の事をそういう風に見てるってのか」
「あ、ごめんなさい……」
「いや、いいんだよ。大体分かってたから」
それっきり話題が途絶える、ちょっと気まずいが、海と夕陽の美麗な風景が沈黙を和らげていた。
明星ひなた。
虹雪学園2―C、朝灯と同じクラスメイトだが、夏休みがもうすぐの七月になった今でも一度も話した事も無いクラスメイトだった。三ヶ月という短い期間であるが、人当たりの良い朝灯としては珍しい存在。
授業中で教師に当てられてるぐらいしか声を発さない。朝灯の記憶の限りはそうだった。外見も野暮ったくてぱっとしないし、いつも窓際で文庫本を読んでいる印象である。
学園というものは割と『みんな仲良く』ある事を前提に成り立っている事が多く、一人でいるのは辛い空間である。なのでひなたの姿はそれなりに悪目立ちしてしまっていた。
「あぅっ」
少し強い風が吹き、ひなたは目を押さえて眼鏡を外した。なんとなく朝灯はその姿をぼおっと眺める。
わたわたとひなたはポケットから目薬を取り出し、目薬をさす。ゴミでも入ったのだろうか。
「明星さぁ」
「は、はい、なんでしょうか」
朝灯はひなたの目薬が涙のように見えて少し鼓動の調子が狂う。
「眼鏡外したほうがいいよ」
「え、ええぇ……そ、そうですか?」
朝灯は磨かれていない宝石を見つけた気がして、頬が熱くなるのを感じながら言う。
「目、大きいし睫毛も長いから、その、なんだ。可愛いと思う」
「ひぎぃっ!?」
「いやもうちょっと可愛らしい驚き方もあったろうに」
「ででででも、そんな、からかわないでくださいよぉ」
「その謙遜もナイスだ。それは明星の武器になるだろう」
「私は誰と戦ってるんですか!?」
朝灯はそんなひなたの初心な様子に心を潤していた。一夜がいるから中々こういった機会に恵まれなかったからだ。
ひなたの潤んだ瞳は子犬のように純粋で邪気が無い。あどけない、思わず愛でてしまいたくなるような幼い可愛らしい瞳だった。
朝灯はひなたの変化に心をときめかせていた。
朝灯はそらされたその瞳を覗き込もうと、フェンスにもたれかかる。
ぐらりと揺れる。
「あ」
朝灯の気の抜けた声がその唇から零れる。フェンスの根元の錆びた部分がくきくきと滑稽な音をたてる。
倒れていく。
手を伸ばす、朝灯。
手を取る、ひなた。
ろくに身体を支えていない状態での無謀な救助。ぐるんと朝灯の身体が反転する。屋上から宙に投げ出されたのは――ひなただった。朝灯は声にならない声をあげる。
明星は朝灯が屋上の地面に居るのを見て、微笑んだ。重力に引かれて墜落しながら、それでも。
「明星ぃっ!」
数瞬の後、鈍く重い音が地面から聞こえた。朝灯は真っ白になった頭で地面を見る。
ひなたは、死んでいた。
断定できる、そう朝灯は絶望した。身体は仰向けなのに顔はこちらを向いていない。中庭に潰れたひなたの身体は赤い血を迸らせている。
脚も向いてはいけない方向に向き、膝からは白い何かが飛び出ている。朝灯は心を白濁させてその死体の元に駆ける。死んだと確信しているのに、何かに抗うように。
ひなただったモノに辿り着いた時、朝灯は膝が痛んでいるのに気付く、階段か何かで転んだ事にも気付かなかった。
「明星、明星ぃっ!」
何で助けた、何で微笑んだ、何で自分じゃなくてひなたが――時間を巻き戻したい、そう強く願いながらひなたを揺さぶる。
朝灯はパニック状態になり、冷静な思考を欠いていた、本来ならば救急車、終わっているから警察を呼ばなくてはいけないだろう。しかし朝灯はそれを認めたくない、そう単一な考えでひなたを揺さぶり続ける。
「ソレ、死んでるよ」
「嘘だ、嘘だ……嘘だろっ……」
脈絡が無い、理不尽過ぎる、こんな展開なんて誰も求めていない、あり得ない、おかしい、おかしい。
「死んでる、壊れてる、戻ってこない、だから落ち着いて」
朝灯はようやく、誰かが話しかけている事に気付く。
赤に染まった薄暗い中庭に、ひなたの死体を冷静に眺める人影。
「おち、つけるか! なんで、どうしてだよ!」
「死ねば死ぬし、落ちれば割れる。それが命ってもの」
「うるせぇよっ! お前誰だよ!」
「玉藻式姫。そんな事より落ち着いてほしい。その子を助けたいのなら」
亜麻色の髪の女の子は虹雪学園の制服を着ていた。冷静なその女の子は懐からチョークを取り出す。
「よく聞いて、その子は死んでる。首の骨が折れてるし肋骨は心臓を貫通してる。残念だけど即死してる。だから救急車も警察も無意味」
チョークを明星の死体の周りに走らせ、訳の分からない言語を書いていく。フリーハンドで正確な真円を描く。
「この子を助けたいのなら、今から私の言う通りにして欲しい。繰り返すけどその子は死んでる。だから抗って、生き返らせる」
「訳の分からない事を言ってんじゃねぇよ! 何か、何か……そうだ、救急車、救急車を呼ばないと」
式姫と名乗った女の子は、鞄から帽子とマントを取り出し、ハロウィンでしか見ないような魔女の格好に着替えていく。
「心臓は動いてない、脈は無い、瞳孔は開いてる、それでも呼ぶ?」
「何だよ、何なんだよ、お前っ……!! そんな風に、言わないでくれよ……」
「信じられないだろうし、混乱もしていると思う。それでもこの状況はある意味幸運と言えるの。条件は揃っているから、生き返る可能性が僅かにある」
式姫は鞄から粉を取り出し、ひなたの死体にはらはらとふりかける。
「君が喚いて救急車を呼ぶのなら、ただ単に不幸な事故として片付けられる、けれど何も言わずに私に従うのなら、ひょっとしたらこの子は生き返るかもしれない」
式姫は朝灯を強い意志を持った瞳で射抜く。その瞳は目の前の死に対して、認められないとでも言うかのようだった。
「――君はこの子を助けたくないの?」
それは静かな怒りだった、同時に人間らしい苛立ちと焦燥も含まれている。
冷静そうに見えた彼女が見せた、感情の発露。朝灯はその様子に息を呑む。
「くそ、ふざけんなよ、なんだよ、なんなんだよ!!」
朝灯は自分の頬を張った。信じる根拠なんてないし、あまりに現実的ではない。けれど、僅かに、突如現れたこの女の子の真剣な様子を見て、ほんの少しの光を見た。
それは逃避なのかもしれないし、子供じみた願望でしかないのかもしれない。
けれど認めたくなかったから。あまりに理不尽だったから。
「……どうすりゃいいんだ」
「手を握ってほしい、そしてこの子の事を強く想って欲しい。恋人か何かなんでしょ」
「違うよ、さっき初めて話した」
「それはキツいかもね……なら、人としてでもいい。目の前の人を助けたいって願って」
「分かった……なぁ、人に見られたら大事にならないか、俺は別に何を言われようが受け入れるけど、玉藻先輩は不味くないか」
「落ちた瞬間を偶然見ていたの。その瞬間にもう人払いは済ませてあるよ……こんな好条件、本当にもう奇跡的なんだから、絶対に助ける」
人払い、という現実離れの単語に朝灯は驚いたが、それもすぐに忘れようとする。藁にもすがると決めたのだ。
朝灯はそのゾッとするひなたの冷たい手を握り、強く願った。この子を返して欲しい、自分の死と引き換えに……最期に微笑んだ女神のような女の子を返して欲しい、と。
理不尽な死があるのなら、理不尽な奇跡があってもいい。
「どうか届いてほしい、抗う祈りが罰であるのなら、あまねく罰を受けよう」
朗々と式姫が言葉を紡ぐと、チョークで描かれた陣が白く発光する。
「二度と放さぬ為に、もう一度この胸に生命を抱く為に」
ひなたにかけられた粉末が光の粒となり、ふわふわと宙に浮く。
「どうか届いてほしい、抗う願いが罪であるのなら、あまねく罪を受けよう」
直後朝灯の全身から力が抜ける。同時に凄まじい虚脱感を感じる、心にいきなり黒いものが注ぎ込まれるような不快感で、代わりに、何か、綺麗な、白いものが流れ出ていく。
「今度こそ、奪わせないんだから……ッ!!」
これは何かの儀式のだろうか――と、やや霞む視界で朝灯は思う。最後の式姫の表情は感情を剥き出しにしていた。
式姫の言葉とともに、光の粒がひなたを包む。その光の粒はひなたの身体に浸透していき、その身体を修復していく、幻想的な光景であり、この世ならざる力がそこにあった。
「明星、生き返れ……」
限界を超えて全力疾走をしたような疲労感、得体のしれない疲弊が朝灯に叩き込まれる。けれど、その代償が奇跡を生むのなら朝灯は全てを投げ出すつもりだった。
「生き返ってくれ!」
その願いが、信仰していない神様に届いたのか、光の中からひなたが元の身体を取り戻して現れる。
すぐに式姫は明星の胸に手を当て、次に口元に手を当てる。
式姫は瞳に涙を浮かべ朝灯とひなたを見つめた。
「間に合った――成功したよ!」
「え……本当に?」
朝灯はそんな陳腐な言葉しか浮かばなかった。それぐらいありえなくて、現実離れした出来事だった。
「生き返った、生き返ったんだよ!」
式姫と朝灯は、同時に腰を抜かしたようにその場に座り込む。
出会って、死んで、生き返った。
朝灯は訳の分からない事ばかりで頭がどうにかなりそうだったが、確かな安堵を覚えていた。
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