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花一輪

作者: 瑞原螢

 あるれいむが死んだ。いや、でいぶと呼ばれていた。

 死の間際、彼女は自分がでいぶだったことを自覚した。

 それは、彼女にとって幸せなことだったのだろうか?



 彼女は、街棲みの、決して裕福ではないゆっくり夫婦──父ありすと母れいむ──の間に生まれた。多くの兄弟が共に生まれ、その内の何匹かは赤ゆっくりの内に幼くして病気で死んでしまったが、それでも妹ありすと共に育っていった。


 彼女が子ゆっくりと呼ばれるのに相応しいほど大きくなってからほどなく、父ありすは帰らぬゆっくりとなった。街棲みとは言え、野良のゆっくりとしては常に覚悟していなければいけないことではあったが、とある狩りの途中で人間の子供達に捕まり、弄ばれ、……結果として潰されて殺されたのだった。時代のせいもあったのだろう。その頃の人間の子供達は、今よりもゆっくりを殺すことにためらいが無かったのだ。

 残された母れいむは気丈に振舞ってはいたが、内心はかなりゆっくりできない状態だった。そんな母れいむを見初めたのが、後に再婚相手となるまりさだった。母れいむもまりさのことが好きになっていったが、子ゆっくり達のことを考えると、簡単には再婚に踏み切ることはできなかった。しかし、そんな母のことを察した子ゆっくり達は、その背を押し、母れいむはまりさと結婚することになる。

 やがて、新しい夫であるまりさと子ゆっくり達によって、母れいむの心は徐々に癒されていった。そして、父まりさと母れいむの間には、三つ子の赤まりさが生まれた。子ゆっくり達にとっては見慣れぬ姿の弟まりさ達であったが、新しい父を受け入れた時と同様にその赤まりさ達を受け入れ、両親と共に可愛がって育てていった。貧しいながらも賑やかで楽しい、ゆっくりした家庭だった。


 時が経ち、成体となったれいむ(そう、彼女は最初から「でいぶ」だったわけではない)、ありす、まりさ達の五匹の兄弟は、やがてそれぞれ巣立っていった。そして、それぞれが番を見つけ、家庭を築くことになる。



 都会ではゆっくりにとっての良い狩場は決して多くなく、限られている。そうした場所でゆっくり同士が出会うことも少なくない。そんな時、愚かな個体はその狩場を自分の「ゆっくりぷれいす」だと主張して専有しようとするが、ほとんどの場合そうした個体は、ゆっくり達のコミュニティに入れずに自滅するか、その狩場を利用する他のゆっくり達によって制裁されて身を滅ぼすのだった。

 幸いにして、両親の教育が良かったせいもあり、れいむはそれほど愚かではなく、自分の食料をまかなえる程度の狩りの腕もあった。そして、さらに幸運なことに、れいむが通っていた狩場に来る数匹のゆっくり達は、どれも賢い(もしくは、それほど愚かではない)個体だったので、その狩場を平和裏に共有していた。彼女は、そのなかの一匹のまりさと恋に落ちた。


 後にれいむの番となるこのまりさは、ゆっくり達にしてみれば変わり者だった。実はこのまりさは、飼いゆっくりだったのだ。それも、人間達の世界で言うところの「地元の名士」である老人に可愛がられている、本来ならば狩りをする必要さえないようなゆっくりだった。それでも律儀なこのまりさは、飼い主の負担を少しでも減らそうと考え、自分の食事を自分でまかなうために狩りに出てきているのだった。

 実際のところ、このまりさの餌代程度は、老人にとってはささいな物ではあったが、まりさにしてみれば、飼い主であるこの老人をゆっくりさせることこそが、自分がゆっくりできることだと思っていたのだろう。


 れいむと知り合ってから数週間後、まりさは彼女にプロポーズをした。れいむは頬を赤らめながらそれを受け入れ、番となることを約束した。

 まりさはれいむを連れて飼い主の元に向かい、れいむをその老人に紹介したが、これは、まりさにとっては賭けだった。飼いゆっくりが野良のゆっくりを番として迎えたいなどと言うのは、普通なら言語道断のことなのだ。それはまりさも理解していた。家から放り出されるかも知れないし、場合によっては潰されて一生を終わることになるかも知れない。その覚悟がまりさにはあった。そして、まりさはれいむにそうはっきり話していたわけではなかったが、彼女もまた、その覚悟を持っていた。

 ただ、まりさの心配は杞憂に終わった。まりさの最大の理解者である老人は、『お前が選んだ番に間違いはなかろう』とだけ言うと、れいむのことを喜んで迎えてくれたのだった。


 れいむと番になることを飼い主に認められたまりさは、彼女に対して、すぐに自分と一緒に住むようにと話した。れいむは、自分にもそれまで住んでいた家があるので、その整理に時間が掛かるので数日待って欲しいと言った。元より頑固な面があったまりさだが、しかし、なぜか頑として譲らなかった。押し問答の末に、かろうじて身の周りの物だけを取ってくることを許されたれいむは、棲家に一旦帰ると、その日の内に身支度をしてまりさの元へと戻ってきた。

 まりさにも想像のつかなかったことだが、その翌々日、れいむの棲家があった空き地は整地され、その気づかれにくい(外敵にさとられにくい)場所にあった棲家の穴は、完全に潰されていた。それは、もしそこにれいむが棲んでいたら、間違いなく死んでいたであろうことを意味していた。これは全くの偶然ではあったが、まりさのおかげでれいむの命が救われることになった。



 まりさが老人の飼いゆっくりとなったのも、偶然のことだった。ある日、まだ子ゆっくりだったまりさは、老人の家の庭で瀕死の大怪我の状態でぐったりしていた。それを見つけた老人が介抱し、そのまま育てることになったのだ。

 まりさの飼い主である老人は、子供をもうける前の早くに妻を亡くし、以後、再婚はしなかったので、長い間独り身だった。そんなこともあって、老人は助けたまりさのことをまるで自分の子か孫のように可愛がった。

 野良であったろうまりさにも老人の愛情が十分に伝わったのか、まりさが老人に心を開くのには、さほど時間は掛からなかった。まりさも老人に懐き、甘え、そして、甘え過ぎてはいけないと自らを律しつつ育っていった。

 しかし、老人に心を開いてからも、なぜそんな大怪我をしたのかだけは、まりさは話そうとはしなかった。実際には、記憶が混濁していて正確に思い出せないのだったが、彼自身、何か思い出してはいけないようなことがあったような気がして、極力思い出さないようにしてもいたのだった。


 老人は、世間的にはかなり有名な工芸家だった。まりさは老人の仕事を見るのが好きで、老人が仕事をしている時で、かつ、自分が家にいる時は、必ずと言って良いほど近くで(と言っても、彼なりに気を使い、邪魔にならない程度に少し離れて)その仕事っぷりを見ていた。そのせいもあってか、また、生まれつき器用なこともあったのだろうが、まりさもまた、(ゆっくりが自分で作ったにしては)かなり出来のいい道具を自分用にこしらえたりもするようになっていた。


 「地元の名士」である老人の飼いゆっくりであるまりさは、近所の人間達にもよく知られていた。これは、元野良のゆっくりとしては大変な優遇だった。なぜなら、少なくともまりさが出歩く必要のある近所では、人間やその家畜によって生命の危機にさらされる危険性がほぼゼロだと言えるからだ。

 もちろん、野良の小動物などに襲われる危険は依然としてあったが、成長していく過程において、まりさはそれらから身を守る知恵と能力さえも手に入れていた。



 まりさの番となり一緒に暮らすことになったれいむは、もちろん飼いゆっくりとして扱われるようになったわけだが、最初はその生活に馴染めなかった。それまでの野良の暮らしとはまるで違っていたからだ。

 老人の家の庭には、綺麗で十分な大きさの屋根付き棲家があったし、れいむ達が望めば、そして、汚れた足をマットで拭いてさえおけば、家の中にも入れてもらえた(もっとも、足を拭き忘れたところで、老人にほんの少し怒られるだけだったが)。食料はまりさが狩りで取ってくるし、時にはデート気分でれいむも一緒についていった。それでも充分な食料が確保できなかった時には、老人が餌を与えてくれた。まりさはそれを嫌がったが、れいむの嬉しそうな顔を見ると断り切れないのが毎回のことだった。

 家族と暮らしていた貧しい棲家、独り立ちしてから暮らしていた厳しい棲家、そのどちらともまったく違う環境。このあまりに違う環境に戸惑い、それが何を意味しているのかが、れいむには即座に理解できなかったのだ。しかしやがて、それがとても恵まれた環境であるということに徐々に気がつくにつれ、れいむは落ち着いてその恩恵に浴していった。もちろん、家族と一緒の頃の賑やかな楽しさは無かったが、れいむは隣にまりさがいるだけでとてもゆっくりできた。


 ほどなく、近所の人間達にも、れいむがまりさの番であるということが知れ渡っていった。れいむは最初の頃は、人間達に遭遇した時にどう対処したらいいのか分からなかったが(当然、野良の頃は逃げることしかできなかったし、それしかしようとも思わなかった。だから、最初に老人に会いに行く時に『覚悟』をしていたのだ)、まりさと一緒に近所を歩き回っている内に、まりさが人間達にしていたような挨拶程度ならできるようになり、言わば地域の一員として認められるようになった。



 まりさとの生活に慣れてきた頃、れいむは自分達の子供が欲しいとまりさに訴えた。まりさは一応、子供を作ってもいいかと老人へと伺いを立てた。が、もちろん老人が許さないはずもなく、むしろ、『君らの赤ちゃんに会えるのを、楽しみにしているぞ』とまりさ達に微笑んだ。

 ほどなく目論見通り、れいむは赤ゆっくりを身篭った。まりさはれいむのことを気遣い、彼女をあまり外には出さなくなったが、まりさ自身は以前にも増して必死に食料を集め、また、生まれてくる赤ゆっくりのために棲家の内装を整えていた。

 だが、その初めての子供は満足な形では産まれてはこなかった。れいむの胎内から通常より早い時期に吐き出された『子供になるはずだった』ものは、醜く不完全な餡子の塊でしかなかった。いわゆる流産である。

 れいむは、初めての子供を失ったという落胆と身体的な疲労とで憔悴しきっていた。気持ちが落ち込んでいたのは、まりさの方も同じだったが、それでも彼は気丈に振る舞い、れいむを元気づけた。


 忘れることができない傷を心に刻み込まれたものの、それでもやがて二匹は、もう一度子作りを試みることにした。どうしても愛する相手との子供が欲しかったのだ。二匹は、先の流産が心に痛手を残していたこともあり、念のために、ということで、今度は植物型の妊娠を選択した。すると、今回もやはり目論見通りに妊娠はしたのだが、れいむの額から伸びた茎には、驚くほど少ない──具体的には、たった一匹の──赤まりさが下がっているだけだった。

 それでも二匹は、このかけがえのない命を大切に見守った。その甲斐あってか、この小さな命は無事に産まれることになり、れいむは母れいむ、まりさは父まりさとなった。ただ、その赤まりさは、お世辞にも丈夫とは言えない体の持ち主だった。


 最初の子を失ったことと、やっと得た子の体が弱いことも相まって、母れいむはその赤まりさを溺愛していた。もちろん、父まりさも自分に良く似た姿のその赤ゆっくりを可愛がってはいたし、飼い主の老人もまるで初孫ができたかのように可愛がっていたが、溺愛っぷりに関しては母れいむの方が数段上だった。

 毎日狩りに出かける父まりさに比べて一緒にいる時間が長い分、赤まりさは母れいむの方によく懐いていた。ただ、赤まりさは決して父まりさのことが嫌いなわけではなく、父まりさが老人の手仕事を見に行く時には、必ずといって良いほどに一緒についていったし、また、父まりさが道具を作るところや、作った道具を見ることが好きで、父まりさ自体も憧れの対象になっていた。



 やがて、赤まりさが子まりさと呼ばれるに相応しいほどに成長した頃、彼の両親、もしくはそのどちらかが代わる代わる、彼を外に連れ出すようになった。

 一般的な親ゆっくりの場合、その子が赤ゆっくりの内に初めて外に連れ出すことが多いのだが、この一家の場合はそれがかなり遅かったのだ。これはつまり、最初の子供を流産した母れいむの心の傷がそれだけ深く、それ故にやっと授かった子まりさを溺愛し、少しでも危険に遭遇するのを遅らせたいと思っていたからだった。


 他のゆっくりの親子と同じく、父まりさが子まりさを連れ出した時は狩りの学習の時間だった。子まりさは狩りを学ぶこと自体は嫌いではなかったが、生まれつき体が弱いこともあって、一度に長い時間続けることは難しかった。それ故なおさらに、体を強くすることもできなかった。

 ただその代わり、老人と父まりさの見よう見まねで、子まりさは道具作りに割く時間が多くなっていた。父からの遺伝というのがあったのかどうかは分からないが、思いの外に手先の器用さを発揮し、歳の割には上出来な道具を作ることができるようになっていった。



 子まりさはやがて、たまには独りでも外出するようになった。それ以前にも他のゆっくりと会ったことはあったが、母れいむの溺愛の悪影響か、初対面のゆっくりとの会話は苦手で、いつも親の後ろに隠れてしまうような子だった。ただ、独りの時に他のゆっくりと出会えば、お決まりの挨拶──『ゆっくりしていってね!』──をせざるを得ないことは知っていたし、実際にそうしていた。


 ある時、他の(ちょっと薄汚れた)子まりさと遊んでいた時のことだった。相手の運動能力が自分より劣ることに気がついたその薄汚れの子まりさは、あの母れいむの溺愛っぷりを思い出して、嘲笑うかのように言った。

「まりさは『かほご』なのぜ……」

「ゆ? 『かほご』? それってなに?」

 子まりさは自分のことを指されたであろうその初めて聞く言葉に、怪訝な表情を浮かべた。

「『かほご』は『かほご』なのぜ。『かほご』なまりさのことなのぜ」

 薄汚れ子まりさの答えは、まったく要領を得なかった。意味が分からないながらも、なんとなく不愉快になった子まりさは、薄汚れ子まりさとの遊びを切り上げ、老人の家へと急いで帰った。


 家へと戻った子まりさは、その『かほご』の意味が知りたくて仕方がなかった。ただ、生まれつき賢かったのであろう彼は、子ゆっくりながらにその未知の言葉には批難の意味が含まれているのではないかと薄々思い、これを両親に尋ねるのはまずいことなのではないかと考えた。そこで、両親に悟られぬように老人の元に行くと、意を決して尋ねることにした。

「おじいさん、おじいさん。ききたいことがあるんだけど?」

「ん? なんじゃな?」

 仕事終わりでくつろいでいた老人は、いつもの優しい微笑みを子まりさに向けた。

「あのね、『かほご』ってどういういみ?」

 まさか子まりさからそんな言葉が発せられるとは思わなかった老人は、一瞬怪訝な表情を浮かべた。

「『過保護』か……。そうさな、『大切にされ過ぎてひ弱』……、いや、『とても大切にされている』ってことかな」

「……ゆっくりりかいしたよ。……ありがとう、おじいさん」

 そう言うと、子まりさは一家の棲家へと戻っていった。子まりさは最初にその言葉を聞いた時の不快感が正しかったことを認識し、やり場のない屈辱と怒りに身が震える思いがしていた。老人の前ではそれを悟られぬように装おうとしていたが、しかし、その幼い努力が老人の目をごまかすことはできなかった。


 老人は子まりさに理解できるようにと言葉を選びながら答えたつもりだったが、自分が発した言葉は少々無神経だったような気がして、苦い感情が湧き出していた。しかし、自分は人間であり、ゆっくりの子育てに口を出すべきではないと思った彼は、そのことを父まりさにも母れいむにも言うことは無かった。



 他者が傷つくことにあまり関心を持たない子ゆっくりであるが故に放たれたであろうその『過保護』という言葉は、しかし、子まりさの心の深い傷となり、トラウマとなった。ただ、自分が『過保護』なのは、両親、特に母れいむが大切に育ててくれたのだからなのだということを幼いながらに思い、母に対して食ってかかるようなことはしなかった。


 子まりさは『運動』自体は(能力はともかくとして)好きだったが、それでも、『運動能力比べ』で彼らを見返そうとはしなかった。

 時間があれば彼は、趣味と言える道具作りをしたり、両親や老人と会話をしては知識を高めるのが好きだった。それは少しずつだが着実に実を結び、両親の自慢するところとなり、やがて、友達の子ゆっくり仲間でも賢さや器用さにおいて一目置かれる存在となった。


 ただ、人間の子供達と同様に、子ゆっくり達は残酷だった。子まりさは自らの賢さや器用さを自慢することは無かったが、それでも他の子ゆっくり達は、その能力を目の当たりにし、自分らがそれにかなわないと感じると、それがどれだけ相手を傷つけるかなどは考えることもなく、悔し紛れに『かほご』と批難の言葉(と言うよりは、悪口)を乱暴に投げつけるのを繰り返すのだった。

 それは、傍から見ればよくある子ゆっくり達のじゃれ合いに見えるものであろうが、子まりさにとっては耐え難い苦痛の繰り返しであった。


 それでも子まりさは、他の子ゆっくり達との付き合いをやめて棲家に籠るような真似はしなかった。恐らく生まれつきではあろうが、彼は妙なところで負けず嫌いであり、他の子ゆっくり達に会わないようにすることは、『逃げ』であり、『負け』であると思っていたのだった。



 ある時、父まりさがちょっとした用事で、古い知り合いであるぱちゅりーの棲家へと行くことになった。子まりさは母れいむに頼んで、父から離れないという約束の下に父についていくことを許された。

 ぱちゅりーの棲家は、子まりさが普段通う狩場や遊び場に比べるとかなり遠くにあり、そこに着く頃には彼はヘトヘトになっていた。

 しかしその目的地では、彼の疲れはどこかへ行ってしまった。父まりさよりも年上であるぱちゅりーはまた、父まりさの憧れの存在でもあった。その経験に基づく生き生きとした昔話や、深い知識に基づいた教訓は、父まりさと同じ方向性の興味を持つ子まりさの心を捉えるのに十分であり、すぐにファンになってしまったからだ。

 もちろん、棲家に帰った時も子まりさはヘトヘトにはなっていたが、得た物の多さによって彼はとてもゆっくりした気分になっていた。


 父まりさのぱちゅりー宅通いは三日続き、子まりさはその三日共に父についていった。

 父と一緒にわくわくしながら行き、ぱちゅりーのきらめく宝石のような言葉を一言たりとも逃さぬように聞き、父とその言葉を反芻するように会話しながら帰る。

 まったく退屈することのない子まりさの三日間が過ぎた。



 彼にとって夢のような三日間が過ぎた後、子まりさはある異変に気がついていた。自分の体力が明らかに上がっていたのだ。それは恐らく、あの長い道のりを何度も往復したからであろうことは、子まりさにも分かった。


 かつて、子まりさが自分の体の弱さを疑問に思い、母れいむに聞いたことがあった。その時の母の様子を子まりさは鮮明に憶えている。母れいむは目に涙をためながら言ったのだった。

「わたしが……、つよいからだにうんであげられなくて、ごめんねぇ……」

 子まりさは、それ以上は何も言うことができなかった。

 そんなこともあり子まりさは、自分の体力や運動能力を向上するのは無理だとあきらめていたのだった。


 しかし、この数日で明らかに体力が向上しているという事実は、彼に新たな希望をもたらした。もし鍛えることによって自分の体が強くなるなら、他の子ゆっくり達から繰り返し与えられる苦痛──言うなれば、『いじめ』──から逃れることができるのではないだろうか? 子まりさの中で頭をもたげてきたその疑念は、やがて希望という名に変わりつつあった。


 母れいむは、子まりさが独りで出歩く時は、いつもの狩場や遊び場と、その通り道以外には行かないように強く言っていた。もちろんこれは、子まりさの身の安全のことを思ってであり、それまで子まりさがその言い付けを破ることは無かった。

 だがその日、彼は初めて言い付けを破った。いつもよりほんの少しだけ遠い狩場に向かい、いつもよりほんの少しだけ危険な狩りの練習に挑戦した。

 多くの赤ゆっくりや子ゆっくりは、こうした親の言い付けを破ってしまったために命を落としてしまう。その点においては、この子まりさは幸運だった。もちろん彼にとってはドキドキしながらの初体験だったが、結果として無事に棲家にまで帰ることができたのだから。


 親には内緒のまま、子まりさはその密かな鍛錬を毎日のように繰り返していた。何度かは危険な目にも遭ったが、幸いなことに、命に関わるような大怪我をすることも無かった。

 それから、どれぐらいの時が経っただろうか。気がつけば彼の体は、他の子ゆっくり達に見劣りしないほど強くなり、まさかに一番ではないものの、運動能力の方も平均以上になっていた。



 決して楽ではない鍛錬をしつつも、充実した毎日を送っていた子まりさだったが、そのゆっくりした日々は、母れいむによって破られることになった。


 毎日泥だらけで棲家に帰ってくるし、時には怪我をしてくる子まりさのことを、母れいむは怪しく思うようになってきていた。そしてある日、ついに子まりさにそのことを問い詰めた。

 子まりさは最初、無断での遠出のことをごまかしていたが、母れいむが何度も何度もしつこく問い詰めるに連れ、その口うるささに嫌気がさし、ついにすべてを明らかにしてしまった。

 それを聞いた母れいむは激昂した。

「なんでそんなことするのぉ?! あぶないでしょぉ?!」

 約束を破ったことは分かっている。だが子まりさには、母がなぜそこまで激怒しているのかが分からない。

「だまっていってたことは、あやまるよ! でも、からださんをきたえるためなんだよ! ゆっくりりかいしてね!」

「あぶないでしょぉ! おおけがさんをしたらどうするのぉ?!」

「だから、しんぱいさせたのは、ごめんなさいするよ。でも、からださんをきたえるためだって……」

「おおけがさんをしたら、とりかえしがつかないでしょぉ! おかあさんは、おちびちゃんのことをかんがえていってるのよぉ!」

 まったく取り付く島が無かった。母れいむは子まりさの言い分も聞かず、むしろかぶるぐらいの勢いで叫び、目に涙を浮かべた。


 子まりさは戸惑っていた。母は自分のことを大事にしてくれているのではないのか?それならばなぜ、自分の話を聞いてくれないのか?

 思えば、自分が食べ物を取ってきた時でも、それを食べることを許してもらえないこともあった。『餌をもらったから、こっちを食べなさい』と人間さんからもらった餌を食べさせられる。自分が取ってきた餌の方が食べたくてもだ。『こっちが腐っちゃうから』と母は言うが、自分や父まりさが食べ物を取ってくるのが分かっている時でも、わざわざ人間さんから餌をもらい、それを押し付ける。なんでそんな無駄なことを……。


 そういえば、母には自分が仲間の子ゆっくり達から『かほご』と言われていじめられていたことを話してはいない。そのつらい経験を話せば、母も理解してくれるかも知れない。そう考えた子まりさは、それ自体もつらい決断ではあったが、封印していた記憶のことを話すことにした。

「おかあさん、おちついてね。おちついてね。まりさのおはなしをきいてね。まりさはおともだちのれいむやまりさに、からださんがよわいからっていじめられてたんだよ!だからいじめられないように、からださんをつよくしようとおもって……」

「そんなことかんけいないでしょぉ! おかあさんは、おちびちゃんのことをおもっておこってるのよぉ!」

 彼の言葉は、涙を噴き出させながら叫ぶ母の声で、再びさえぎられた。


 子まりさは、自分の視界が歪むような感覚に襲われた。やっとの思いで吐露したつらい記憶を、母は『そんなこと』と言い放った。母は、それがどんなにつらいことだったか理解するどころか、何があったかさえちゃんと聞いてくれない。

 なぜなんだろう? 子まりさは、必死に考えをめぐらせていた。確かに、自分のしていることには危険がある。母が自分のことを大事にしてくれていて、その危険を心配してくれているのも分かる。でも、自分はその危険の──最悪の場合、命を落とす──ことは分かっていたし、分かった上でやっていた。いじめ続けられ、ゆっくりできない日々が続くよりかは遥かに良かった。現についさっきまでの自分は、とてもゆっくりできていたのだ。

 彼の餡子脳はそれでも、恐らく正しいであろう答えを導き出した。母は自分のためと言っているが、それは正しくない。なぜなら、母の言うことは自分がゆっくりできないことだからだ。とすると、母はなんのために泣き叫んでいるのだろうか? そう、『子まりさのことを考えている、子供思いの母れいむ自身』のためなのだろう。母れいむは子まりさのことを考えているわけではなく、自身の理想を傷つけられることに対して泣き叫んでいるのだろう。

 子まりさはその考えに至ると、得体の知れない吐き気に襲われた。それをかろうじて抑えつつ、母れいむを見上げた。その瞳に映ったのは、涙を垂れ流し、顔を歪ませて大声で泣き叫ぶ醜いゆっくりだった。

 なぜこのゆっくりは、こんなにもゆっくりしていないんだろう? 取り乱す母の様子とは対照的に、子まりさの心は急激に冷めていった。こんなにゆっくりしていないゆっくりに、ゆっくりした理想を語っても無駄なだけだ。そう彼は思い、それ以上母に何かを語るのはやめた。


 母れいむはしばらくの間、もはや意味不明な言葉を大声で羅列していたが、子まりさが何も言わなくなったため、母の言い分を納得したのだと勝手に理解し、やがて少しずつ落ち着きを取り戻した。

 しかし、そんな母れいむの様子とは別に、子まりさは今までに自分で作った道具の内のいくつかを、母に気づかれぬように帽子の中へと詰め込んでいた。


 やがて父が狩りから戻ると、一家三匹は何事も無かったのように食事をし、そして眠りについた。


 しかし、父母が眠りについた頃、子まりさはこっそりと床を抜け出し、棲家を後にした。恐らく両親にとっては驚きであったろうが、子まりさにとっては覚悟の家出だった。



 一晩中一睡もせず、へとへとになるまで街中を走り回った子まりさは、それでもなんとか、棲家にできそうな場所を見つけた。そこに最低限の寝床を整えた彼は、疲れのためか、そのまま気を失うかのように眠りに落ちた。


 目が覚めた子まりさは、しばらく自分の置かれている状況が把握できなかったが、自分が家出してきたのだということを思い出した。そして、独りぼっちであることを認識して寂しく思いながらも、目を覚ますことができたこと──つまり、生きていたこと

──に感謝した。


 一家で一緒にいた頃に比べれば、子まりさの生活は過酷だった。独りで身を守り、独りで餌を探し、独り棲家を守る。普通の生物にすれば当たり前のことではあったが、ゆっくりの、しかも独り立ちするにはまだ早い彼のような個体にとっては、間違いなく厳しいことであった。

 ほんのわずかな知恵と能力。だが、とても貴重な知恵と能力。子まりさが努力して手に入れたそれらだけが、自身を守る武器なのだ。


 子まりさの後悔といえば、家出によってできなくなったことにあった。それは、老人の仕事や父まりさの道具作りを見て、もっと学びたかったということだった。

 ただ、あの『ゆっくりしていない母親』のいる場所に比べれば、すべてが思い通りとまではいかないものの、少なくとも自分の意志で行動ができる今の方が遥かにマシなのだった。


 他の野良ゆっくりと同じく、幾度となく敵に襲われ、生命の危険にさらされた子まりさだったが、殺されることも不具にされることもなかった。彼の実力と、それが呼び寄せる幸運が、彼を守っていたのだ。

 自作の道具の中には、折りっぱなしの木の枝とは比べ物にならない精度の自慢の武器もあり、それを帽子のリボンに差して狩場に通う様子は、仲間のゆっくり達の間では有名になっていった。仲間から『するどいけんのまりさ』という二つ名を得た彼がその武器を抜く時は、彼か仲間に危険が迫っている時だったが、幸いなことに、彼自身がささいな怪我をしたことを除けば、仲間どころか襲ってきた相手さえも傷つけることはなかった。



 子まりさがいなくなってから数日の間、母れいむは泣き暮らしていた。彼女には、なぜ子まりさが家出したのかが分からなかった。子まりさのことを考えた自分の行動は絶対に正しい。あの子は賢い子のはずなのに、なぜこんな簡単なことが分からないのか。なぜ母の思いが理解できないのか。そう思い続けては泣くばかりだった。

 そして、泣きやんだ頃には、きっと他の誰かにそそのかされて家出したのだと思うようになっていた。その思考の中には、自分の非の可能性を考えるということはまったくなかった。


 父まりさと老人は、子まりさがいなくなったことは悲しかったが、それは巣立ちが少しばかり早かったのだと思うようにしていた。実際にはそれほど『少し』ではなかったのだが、あの賢い子まりさならば、きっと生き延びて、そしてまたいつの日にか元気な姿を見せてくれるだろう。そう思うことにして、父まりさと老人は悲しみをまぎらわせていたのだ。

 その一方、父まりさと老人は、子まりさの家出の原因が母れいむにあるのだろうということにも気がついていた。母れいむの溺愛っぷりに関しては、彼らも良く知っていた。その溺愛が故に子まりさを所有物のように扱い、彼の自由を奪っていたのは傍から見ても明らかだった。そして、自分こそが正しいと信じて疑わないその母れいむの様子は、『でいぶ』の典型的態度そのままだということにも気がついていた。

 ただ、父まりさは、直接に母れいむをいさめることはなかった。彼は、いかにして母れいむが子まりさを溺愛するようになったかということを痛いほど知っていたし、自らプロポーズをし、色々と無茶を聞かせてまで番になった相手をいさめることなどできなかったのだ。

 老人もやはり、母れいむをいさめることはできなかった。そもそもゆっくりの子育てには口を挟むまいと思っていたし、自分が長い間可愛がってきた父まりさが番として選んだ母れいむに対しては、父まりさが何も言わない内に自分が口出ししてはならないのだと思っていた。



 子まりさのいなくなったゆっくり夫婦は、微妙な軋みを抱えながらも、それなりにゆっくりした日々を重ねていっていた。


 そんなある日、老人が死んだ。

 老人は、仕事を終えて立ち上がった直後にバッタリと倒れた。近くで見ていた父まりさは、自分の力ではどうにもならないと悟ると、近所の人を呼びに走った。近所の人はすぐに救急車を呼んでくれたが、老人が再び目覚めることはなかった。


 ゆっくり夫婦は老人の死を悲しんだが、やがて、老人の物だった家は売られ、彼らもそこに棲家を置くことは出来なくなった。身寄りのなかった老人の飼いゆっくりだった彼らは、誰にも引き取られることはなかったが、彼らの棲家自体は、近所の人達によってそのまま近くの路地に移されることになった。

 他のゆっくり達に比べれば遥かにマシな環境ではあったが、それまでと比べて良くなるはずもなかった。彼らがかつて老人の飼いゆっくりだったことを知っている近所の人が、たまに餌をくれることもあったが、それはいつもというわけではなく、父まりさが取ってくる餌が少ない時には、貯めてあった食糧を切り崩して食いつなぐ必要が多々あるようになった。

 しかし、母れいむには、それまでの贅沢な生活が身に染み付いてしまっていた。母れいむの食べる量が減ることはなかったし、他のゆっくりが訪ねてきた時は、それはそれは豪勢にもてなした。身内ではない訪ねてきたゆっくりが相手であっても、それをゆっくりさせることが正しいことだと彼女は信じていたし、そうすることによって、自身もゆっくりできるのだった。

 但しそれは、父まりさの狩りの成果が芳しくない時や、蓄えていた食糧が充分でない時も同じだった。結果としてそれは、父まりさの負担を増やし、彼がゆっくりできない時間が増えることになった。


 そしてついに父まりさは、ある寒い日の朝に倒れてしまった。



 自分の体が大きくなるに連れ、子まりさは、自分の体に合うよう何度も新しく武器やその他の道具を作り替えた。それは実際に使うには十分な物ではあったし、作るたびに洗練されていってはいたが、父まりさが作った見事な道具の記憶と比べるにつけ、自分の道具作りの腕の未熟さが身に染みて、微妙にゆっくりできない感情が湧き上がってくるのだった。


 常に時間が足りないと感じるような、他のゆっくり達から見れば忙しい日々を過ごしているように見えた子まりさだが、自分としてはかなりゆっくりした毎日を送っていることを感じていた。

 過ぎ行く日々の内に、いつしか彼は十分に成長し、成体ゆっくりとなっていた。



 そんなある日、ゆっくり達の風の噂に、まりさは自分の父が倒れたのだと聞いた。母への反発で家出した彼だったが、むしろ父には再会したいと常々思っていた。そんな思いが、その噂を聞いたことによって堰を切ったようにあふれ出した。

 まりさは即座に自分の棲家に戻り、蓄えてある食糧を詰められるだけ帽子に詰め込むと、両親の棲家へと向かった。


 道のりは決して近くはなかったが、家出したときよりも遥かにたくましくなったまりさにとって、そして、父まりさに再会したいという熱い思いにとって、それは大きな障害とは成り得なかった。

 老人の家が無くなっていたことには驚いたまりさだったが、その近所に移されていた両親の棲家を見つけるのには、それほど長くはかからなかった。


 まりさは最悪の事態も覚悟してはいたが、幸いなことに両親の棲家に着いた時には、父まりさは彼に笑顔を見せた。その笑顔は弱々しかったが、当面の命の危険はないことも表していた。

 まりさは一安心したが、直後の母れいむの言葉に眉をひそめた。

「あぁ、よくもどってくれたわね、おちびちゃん」

 この母親は変わっていない……。確かに母親にしてみれば、まりさは子供だろう。それは一生変わらない。でも、成体になったまりさを見て、自分より大きい相手を見て、なぜそんな無神経なことを言えるのだろう? せめてその後に、『おおきくなったわね』の一言でもあれば、また違ったかも知れないが……。

「さぁ、ごはんさんをよういするから、むーしゃむーしゃしてね」

 次の母れいむの言葉に、まりさは怒りさえ覚えた。母がもてなし好きなのは知っている。久しぶりに自分の子が戻ってきて嬉しいのも分かる。しかし、今はその時ではない。まずは自分に父と話をさせるなり、看病をさせるなりすべきではないのか? 少なくとも自分はそうしたいと思っているし、それが正しいと思っている。だが、母は違う。まりさのしたいことをことごとく妨害する。そしてそれは、昔と何も変わっていない。

「いまはいらないのぜ。おとうさんと、はなしをしたいのぜ」

 母れいむが変わっていないのなら、強く言っても逆上されるだけだと思ったまりさは、つとめて感情を抑え、静かに言った。

「ええぇ? なんでそんなきたないことばをしゃべるのぉ?!」

 恐らく『のぜ』口調のことを指していたのだろう。母れいむは動揺して叫んでいたが、まりさはもう無視をして父の近くに寄った。


 母はまだ何事かを叫び続けていたが、まりさは聞いていないふりをして、父まりさと会話した。ほんの二、三言を交わしただけで、彼と父は十分にお互いを分かり合えた。父の笑顔が、その何よりの証拠だった。


 父の無事を確認して、ほっと一段落を感じたまりさは、もう一つ気になっていた──老人の家がなくなっていた──ことを尋ねた。そして、老人が死んだことを知った。

 まりさは、言い知れない違和感を感じていた。ゆっくり達が死ぬことは知っている。仲間の何匹かが死ぬところは実際に見たし、自分も死ぬかも知れないような危険な目には何回も会っている。ただ、人間が死ぬということには、まったく現実感が湧いてこなかった。老人はいつもあそこに居て、まりさが戻ってくればまた、老人が仕事をしている様子が見られると思っていたのだ。

 二度と再び老人の姿を見られないのが現実だと徐々に認識するに連れ、まりさの心をとてつもない喪失感が襲い、老人が生きている内に戻ってこなかった自分への後悔が、その目に涙を浮かべさせた。



 久しぶりに両親の棲家に泊まることになったったまりさだったが、両親が眠りに落ちた後もしばらく、今後のことについて考えをめぐらせていた。


 あの母れいむと一緒にここに棲むのは、とてもゆっくりできない。しかしこのままだと、父まりさが再び過労で倒れてしまうかも知れない。今度は、死んでしまうかも知れない。それは、もっとゆっくりできないことだ。それに父まりさとは、まだ沢山話したいこともある。道具作りも見たい。もし父がすぐに死んでしまったら、自分はまたこの

──老人が死んだのを知った時と同じ──とてもゆっくりできない喪失感を味わうことになるのだ。


 結局まりさは、しばらくはこの棲家に住むことにした。少なくとも父まりさが回復するまでは自分が居ようと決めたのだ。それが自分が一番後悔しない方法だと考え、結論付けた彼は、ようやく一日の疲れに身を任せ、眠りに落ちていった。



 まりさが帽子に詰め込んで持ってきた食糧のお陰で、しばらくの間は狩りに出ることなく、父まりさの看病に専念することができた。

 一度にあまり大量に食糧を消費しないように気をつけてはいたが、懸命の看病もあって、それをすべて食べ尽くしてしまうより先に、父まりさは狩りに出られるほどに回復した。


 それからというもの、まりさ親子は毎日、二匹で狩りにいそしんだ。母れいむは相変わらずだったが、それでも二匹が毎日懸命に集めてくる餌は、一家で食べる量をほんの少しだけ上回り、ほとんど底をついていた食糧の蓄えも、徐々に増えていった。そしてその頃には自然と、まりさはこの棲家に居続けることになっていた。



 そんな毎日が軌道に乗り始めた頃、一家の棲家には珍しい訪問者があった。それは母れいむの弟、三つ子の末弟まりさ、つまり、まりさの叔父だった。その棲家は決して一家の棲家から近くはなかったが、わざわざ訪ねてきたのだった。母れいむ以外はもちろん初対面だったが、以前から話だけは聞いていたまりさと父まりさは、特に抵抗なく迎え入れた。


 叔父まりさが断っているにも関わらず、いつも通りに大量の食糧を持ち出してもてなそうとしている母れいむを見て、まりさは内心、若干いらついていたが、叔父が母にしだした話の内容は、それどころではない深刻なものだった。


 実は、母れいむの妹の(つまり、まりさの叔母にあたる)ありすが病気で死んだというのだ。

 叔母ありすは、とある頃から体に極々小さな荒れができるようになっていたという。それ自体は大したものでもなく、普段の生活にも支障が無かった。ただ、体調不良を訴えて床についた次の朝、目覚めることが無かったのだという。その話は、叔父まりさが叔母ありすの番だったれいむから聞いたものだった。

 叔父まりさがその話を自分の番であるぱちゅりーに話したところ、ゆっくりの病気に詳しい彼女は、それは遺伝による病気の可能性もあると言っていたという。幸い、自分と兄まりさ二匹にそれらしい症状は無かったが、遠くに住んでいる自分のもう一匹の姉

──異父姉ではあるが──である母れいむのことが心配になり、わざわざ遠い道のりを経てこの棲家を訪ねてきたのだという。

 母れいむは妹が死んだことを聞いてひどく悲しんではいたが、叔父まりさが体のことを心配する段に至っては、そんな症状はまったくないと笑って答えた。


 叔父はひとしきり話をすると、慌しく帰っていった。彼にも自分の家族が有り、それほどのんびりとはしていられないのだ。


 叔父が帰った後も、父まりさは母れいむのことを心配していた。まりさも、母親のことは好きではなかったが、死んで欲しいと思うほど嫌いではなかったので、気にはしていた。ただ、父とは違い、言葉にはしなかった。

 それでも母れいむは、そんな症状はないと言い、のそりと一回りして前、横、背中と自分の体を見せた。父まりさはそれを見て、取り敢えずは安心したようだった。



 まりさ親子が餌をせっせと集め続けたおかげで、一家の食糧の備蓄は着実に増えていった。そして、それがそれなりの量だと言えるほどになった頃、事件は起きた。


 久しぶりに、父まりさと母れいむは二匹で近所を散歩していた。まりさが生まれる前は、『でーとさん』と称して二匹でよく出歩いたものだった。まりさが家出してからもたまには一緒に散歩していたが、父まりさが倒れてからは初めてだった。

 人間でもそうだがゆっくりでも、よく並んで歩く相手とは自然と左右の位置関係が決まっていたりする。その位置が逆だったりすると、妙に落ち着かないものだ。普段は父まりさが左、母れいむが右に並ぶのだが、その日はまったくの偶然か気まぐれか、逆に並んで歩いていた。

 散歩のコースのほとんどは近所の路地だったが、一部は二車線ある比較的大きな通りだった。その通りを歩いていた時のことだった。


 猛スピードで走ってきた自動車があった。歩道を歩いていた二匹は、それでも若干の危険を感じていたが、その車は彼らを踏み潰すでもなく通り過ぎた。

 母れいむはほっとして歩き続けようとした、が、その瞬間、父まりさはパタリと倒れた。見ると体の一部がえぐれていて、その近くには餡子にまみれた石が転がっていた。恐らく、さっきの車が石を弾き飛ばし、彼に直撃したのだろう。その傷はゆっくりが受けるものとしては決して大きなものではなかったが、当たり所が悪かったのか、父まりさは一言も発することなく即死していた。


 泣き叫ぶ母れいむをよそに、近所の人によって父まりさの遺骸は住処の近くに埋葬された。



 まりさは、二度と味わいたくなかった喪失感を再び味わっていた。一家での生活がようやく安定してきて、父まりさと話す時間がようやくできたと喜んでいたところだった。それなのに……。まりさは自らの不運を呪い、自らのゆん生における数々の判断ミスを後悔した。

 恐らく、老人からしか学べないことは、まだ沢山あった。恐らく、父からしか学べないことも、まだ沢山あった。しかし、まりさはその両方を永遠に失ってしまった。いや、学べなくてもいい。父と、そして、老人と、まだまだ話したいことが沢山あった。しかし、それは永遠にかなわぬことになってしまった。


 まりさがいつもの狩場より遠くまで行き、綺麗な花を摘み、それを父まりさの墓前に供えた日のことだった。前日まで泣き暮らしていた母れいむが、まりさの横で父まりさの墓に向かって言った。

「まったくおとうさんは、さっさとしんじゃって、れいむとおちびちゃんにたべものをもってこなくなるなんて、とんだゲスだね!」

 まりさは、目眩と吐き気を同時に覚えた。あの時と同じだ……、と彼は思った。

 まりさは、母れいむが父まりさのことを自慢げに語っていたことがあったのを憶えていた。その父のことを『ゲス』と呼んだ。偶然とはいえ、失っていたはずの命を二度

──いや、実際には二度だけではないだろうが──も救われた相手に向かって。まりさの尊敬する父に向かって。老人に可愛がられていたゆっくりに向かって。

 まりさは、自分の思いのすべて、いや、自分のゆん生のすべてを母れいむに否定されたような気がしていた。目から自然と涙がこぼれてくるのも分かったが、母には何も言わなかった。そして、もう取り返しがつかない遅さだとは気がついてはいたが、今度の判断は早かった。


 まりさは、夜になる前に棲家を後にした。



 まりさが去ってから、母れいむは実在しない『おちびちゃんをたぶらかしたゲスゆっくり』のことを再び暫く間ののしっていたが、独りになった彼女は、自らの食糧を確保するために狩りをすることにした。

 すでに周囲のゆっくりからは『でいぶ』と呼ばれていた彼女にしてみれば、食糧の備蓄が底をつく前にその考えに至ったのは賢い判断だったかも知れない。だが、長い間実際に狩りを行っていなかった母れいむの腕では、たとえ一匹分だけとはいっても、充分な食糧を確保するのは難しかった。


 そしてこの頃になると、近所の人が餌をくれることも少なくなっていた。

 母れいむは知る由も無かったが、実はこの付近には新しく鉄道の駅ができ、一帯は再開発地域に指定されていた。そのため、近所の住民の多くは転居──悪く言えば、地上げによる立ち退き──していき、結果としてここに元飼いゆっくりが棲んでいること自体を知っている人が極端に減ってきていたのだった。



 珍しく雪が降ったある朝、母れいむは体にひどいだるさを感じていた。食糧の備蓄もほぼ底をつき、狩りに出なければならないのに、まともに体を動かせないのだ。

 不思議に思った母れいむだったが、何の気なしに自分の体に視線を落とした。するとそこには、かつて話に聞いた『荒れ』が広がっているのに気がついた。驚いてよく見てみると、それはどうやら足の裏から広がっていったように見えた。恐らくはそのせいで、でき初めの頃には気がつかなかったのだろう。

 母れいむは焦ったが、思いに反して体は重くなっていく一方だった。狩場へ行くのはおろか、他のゆっくりの棲家にまで助けを求めに行くことさえ無理だと思った彼女は、重い体を引きずって食糧のそばまで行き、残り少ない食糧に口をつけた。

 やがて、彼女の足は完全に動かなくなった。


 もう動けない母れいむは、自分を助けてくれないあらゆるものを呪っていた。

 なぜ、あんなに可愛がって育てたおちびちゃんは、家出してしまったの?

 なぜ、あんなに愛してくれていたまりさは、死んでしまったの?

 なぜ、あんなに可愛がってくれたおじいさんは、死んでしまったの?

 なぜ、あんなにご飯さんをくれてた近所の人間さんは、もうくれないの?

 なぜ、あんなに仲の良かった弟達は助けに来てくれないの?

 なぜ……?


 感情がドス黒いもので埋まりきった時、彼女は自分が死の淵にいることを認識した。

 すると、体がまったく動かなくなるのと引き換えに、急激に思考がクリアになっていった。


 昔の私は、とってもゆっくりしていたような気がする。

 食べものさんは少なかったけど、弟や妹と楽しく過ごしていた気がする。

 なぜ、貧乏なのにゆっくりできていたんだろう?

 そうだ。みんながお互いのことを思いやっていたからだ。

 私はそれからどうしたのだろう?

 毎日のように食べ物さんを取ってきてくれる夫に、感謝しただろうか?

 たくましく育った息子の姿を見て、喜んだだろうか?

 もてなしたお客さんは、喜んでくれただろうか?

 ……どれも自信がない。

 もしかして、ゆっくりした気になっていたのは、自分だけだろうか?

 相手もゆっくりできると、思い込んでいただけだったのだろうか?

 相手にゆっくりできない思いをさせていたのだろうか?


 それでも体は動かなかったが、彼女の目からは涙があふれ出した。嗚咽さえも声として出せないが、彼女の思考は続いていた。


 私は自己中心的だった。私は『でいぶ』だったの。

 ごめんなさい、まりさ。私はあなたをゆっくりさせてあげられなかった。

 ごめんなさい、おちびちゃん。私はあなたをゆっくりさせてあげられなかった。

 ごめんなさい……。

 ありがとう。こんな私でも、おちびちゃんはたくましく育ってくれた。

 きっと、おちびちゃんは……、いえ、

 ちびなんかじゃない。お父さん似の素敵なまりさね。

 ゆっくりした素敵なまりさ。

 うそなんかじゃない。私の自慢よ。

 いつまでも、ゆっくりしてい、て、ね……。


 母れいむの意識は混濁し、やがて白の中にすべてが溶けていった。彼女はそのまま、まったく動かなくなったが、その表情には微笑をたたえていた。



 そこには、父と母の墓から去るまりさの姿があった。また風の噂で母の死を聞き、花を手向けに来たのだった。


 父まりさの墓には、花束が添えられていた。そして、母れいむの墓には、一輪の花が添えられていた。

 一輪の花……。それは、まりさの母親に対する気持ちそのものだった。自分を大事に大事に育ててくれた母への感謝。それに、最期まで自分の意志を尊重してくれなかった憎しみ。その二つがないまぜになった結論だった。



 まりさは、独りでも強く生きていくだろう。そして、ほんの少しの幸運があれば、生き延びていけるだろう。それは恐らく、多くのゆっくり達がそうであるように……。


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