第2話『小野坂宅』
朝也と沙月が出会ってから一週間経った。
あの日から朝也も、観鈴と同じように放課後川辺で沙月と会うようになっていた。
それから一週間目のこの日、沙月は入学式以来の登校をした。
その日の放課後。
先に授業が終わった朝也と観鈴は校門前で沙月を待っていた。
「沙月、かなり元気になったね。」
校門前で沙月を待ちながら、観鈴は口を開いた。
「だな。」
校門前の塀に持たれかかっている朝也は頷き答えた。
「一週間前より、顔色も大分良くなっているしな。」
朝也の言葉に、観鈴は朝也の側に来て、リボンを弄くりながら言った。
「七三里君のお陰だよ。七三里君が沙月と会ってから、沙月一気に健康になったみたいだし。」
「何言ってんだ。」
朝也は少しおかしそうに答えた。
「俺が小野坂と会うより先に、小野坂と一緒にいて元気づかせていたのは神崎、お前だろ。ならお前のお陰だ。」
二人がそんな会話をしていると、
「観鈴、七三里君、お待たせ。」
待っていた沙月がようやく来た。
「おう、小野坂。」
朝也はちょっと手を上げて答えると、
「じゃ、行くか。」
そう言うと帰り道を歩き出した。
沙月と観鈴はそれに続いた。
学校を出た三人は、いつもの川辺へは向かわなかった。
朝也と観鈴は、この日は沙月をそのまま自宅まで送る事に決めており、沙月も承諾していた。
夕暮れの茜雲に照らされる道を三人は並んで歩いた。
四月中旬の夕方はきつい寒さは感じない。
先日まで時折吹きつけていた北風も、季節の役目を終えようとしていた。
「沙月、」
歩きながら、観鈴は沙月に聞いた。
「久しぶりの学校はどうだった?」
「‥うん、」
沙月は鞄を後ろ手に持って、
「‥かなり、緊張したの。でも登校出来て凄く良かったわ。」
少し笑顔を溢して答えた。
「そうか、」
その表情を見て朝也も尋ねた。
「友達とかとは、何か話したか?」
朝也の質問に、
「‥。」
沙月は笑顔だった表情を少し暗くして答えた。
「私、一年の時から学校をかなり休んでいたから、友達はいなくて‥。教室でも、誰かと会話とかは殆どしなかったの。」
「‥そうなのか。」
沙月の返事を聞いた朝也は少しバツが悪そうな顔をして、
「‥何か、悪かったな。」
謝った。
すると、
「いいの。」
沙月は不意に両腕で左右の朝也と観鈴の手を取り、強く握りながら笑顔で言った。
「今私には、観鈴と七三里君という二人の大切な友達がいるから!私、凄く嬉しいわ!」
笑顔が茜色の空に照らされ、眩しく映った。
やがて、三人は沙月の自宅の近くまで辿り着いた。
「じゃ、ここで。」
自宅の五十m程手前まで来ると、沙月は二人を振り向いた。
「観鈴、七三里君。また、明日。」
「ああ、またな。」
「明日も学校に来れそう?」
観鈴の問いに、
「まだ分からないけど、今の感じだと明日も大丈夫そうなの。」
沙月は頷きながら答えた。
「そう。」
観鈴は笑顔で言うと、
「また明日ね、沙月!」
バイバイと手を振った。
「うん、じゃあね観鈴!」
沙月も手を振り返した。
と、三人が別れようとしたその時。
「沙月?」
不意に女性の声がした。
見ると少し離れた場所で、紺のスーツ姿をした二十代後半位の若い女性が此方を見ていた。
「沙月、この方達は?」
女性は三人の元に来ると、沙月に聞いた。
沙月は少しおずおずとした様子で答えた。
「私のお友達なの。玖実さん。」
「そうですか。」
頷くと、女性は観鈴と朝也に体を向け、少し頭を下げて挨拶した。
「こんにちは。私、沙月の姉の小野坂玖実と言います。クは久しいと王、ミは果実の実です。二十九歳です。よろしくお願いします。」
丁寧な挨拶を受け、二人も慌てて挨拶を返した。
「御崎坂高校二年E組の七三里朝也です。小野坂沙月さんとはクラスは違いますが、先週知り合いました。」
「同じ二年E組の神崎観鈴です。沙月さんとは入学式の時に知り合って、今は友達同士です。」
挨拶を聞くと、玖実は二人に尋ねた。
「お二人共この後、何かご用事等はありますか?」
「いえ、何もありませんが‥。」
「そうでしたら、」
玖実は自宅を指し笑顔で言った。
「もし良かったら、お食事していきませんか?」
「えっ。」
少し驚いた二人を見ると、玖実は沙月にも言った。
「沙月もそれが良いでしょう?」
「‥うん。」
沙月は無表情で頷いた。
少し暗くなったようにもみえた。
観鈴と朝也は玖実の誘いを受け、小野坂宅で食事を頂く事にした。
小野坂宅に上がった二人は、玖実が食事を用意する間、沙月に部屋へ案内された。
「沙月、アニメとか観るんだ。」
沙月の部屋。
卓の前に座ってお茶を飲みながら、観鈴は部屋の隅にあるビデオが並んだ棚を見て言った。
「たまにね。」
ベッドの上に座りながら沙月は頷き答えた。
「体の具合が悪くて寝ている時に、観たりするの。」
「どんなアニメ観るんだ?」
朝也の質問に、沙月はちょっと小首を傾げて、
「‥あまり有名じゃないマイナーなものだけど、『翼~夏空の夢”』とか『赤糸~“闇の少女”』をよく観るの」
「‥知らないな‥。」
そういうのに詳しくない朝也は苦笑いした。
だが観鈴の方は棚の側に行き、『翼~“夏空の夢”』のビデオを手に取ると、
「私も以前これ観たよ!」
沙月に笑顔で言った。
「そうなの。」
「うん。悲しいけど暖かいアニメだったから、今でも結構好きだよ。」
「へー。観鈴は誰編が一番好き?」
「私は花乃編だな。沙月は?」
「私はやっぱりラストの鈴美編。」
アニメ談議に華を咲かせている二人を見て、アニメには全く詳しくない朝也も、
(俺も、観てみようかな。)
お茶を飲みながらなんとなく思った。
やがて、夕食の準備をととのえた玖実が三人を呼びに来た。
食事の場は食堂の卓で、夕食はビーフシチューだった。
「玖実さんの作った料理、とても美味しいです!」
夕食を頂きながら、観鈴が感嘆したように言った。
「ありがとうございます。」
玖実は嬉しそうに笑った。
「玖実さんは、以前料理学校に数年間通ってたの。だから料理の腕は確かだよ。」
沙月が観鈴に教えた。
「そうなんですか。私も料理学んでみようかな。」
観鈴はそう呟きながら、シチューを口に運んでいた。
その後食事が終わると、玖実は皆にコーヒーを淹れた。
「ありがとうございます。」
観鈴と朝也は礼を言い、コーヒーを飲んだ。
「あの、」
一息ついた後、朝也は玖実に尋ねた。
「玖実さんと小野坂は、ご両親さんとは別に二人で暮らしているんですか?」
朝也の質問に、玖実はコーヒーを一口折り目正しく飲んでから、
「ええ。」
ゆったりとした口調で答えた。
「父と母は、二人とも七年前に病で亡くなりました。それ以来沙月と私の二人で暮らしています。」
「ご両親さん‥亡くなられていたんですか。」
観鈴と朝也は驚いた。
「‥うん。」
沙月が両手にコップを握って小さく頷いた。
やや微妙な雰囲気が流れた。
その空気をとかすように玖実が、
「七三里さん、コーヒーのおかわり如何ですか?」
笑顔で聞いた。
「あっ、はい、どうも。」
少し慌てた返事をした朝也を見て、沙月と観鈴はちょっと笑った。
それから十分後、観鈴と朝也は小野坂宅を辞去した。
沙月は玄関まで二人を見送った。
玄関口で靴を履いた二人に、
「今日はありがとう。」
沙月はお礼を言った。
「うん。沙月、また明日も学校来れそう?」
再度の観鈴の問いに、沙月は身体の具合を確かめるように胸の辺りを撫でながら、
「うん。体も大丈夫そうだし、明日も登校するの。」
はっきりと元気な口調で答えた。
「本当!良かった!」
観鈴は嬉しそうに言うと、
「じゃ、また明日ね沙月。」
挨拶した。
「じゃあな小野坂。」
観鈴に続いて朝也も挨拶した。
「また明日。観鈴、七三里君。」
沙月も笑顔で挨拶を返した。
「‥。」
傍らでその様子を見ていた玖実は、無言で少し微笑った。
玖実は家の外まで二人を見送りに出た。
「夕食、御馳走様でした。」
小野坂宅の門前で、二人は玖実に頭を下げた。
「いえ、」
玖実は少し小手を振ると、
「こちらこそ、お二人が沙月の御友達になってくださり感謝してます。」
深々と礼義正しく頭を下げた。
「そんな‥、」
玖実の言葉と礼に、観鈴は慌てた口調で、
「私も七三里君も、沙月といると楽しくて、早く元気になって欲しいんです。ね、七三里君。」
言いながら朝也に振った。
「ええ、」
朝也も頷き言った。
「俺達、小野坂が健康になる為に、少しでも役に立ちたいだけなんです。」
「‥。」
玖実は二人の言葉を聞くと、少し口元を抑えた。
そして二人を見つめ、
「本当に‥ありがとうございます。あの子にあなた方という親友がいて下さり、私も嬉しいです。」
そう言うと、ポケットから鍵を取り出して観鈴に渡した。
「これは‥?」
「この家の合鍵です。」
玖実は微笑んで言った。
「お二人共、私に構わずご自由に沙月に会いに来て下さい。私よりもあなた方の方が、沙月を元気にさせられます。あの子も、それを望んでいるでしょうから。」
言いながら、玖実は再び頭を下げた。
「‥はい。」
二人は少し怪訝な表情をしながらも頷いた。
観鈴と朝也は小野坂宅を後にした。
夜空は雲一つ無く晴れていた。
だが季節が夏に近い為か薄く靄がかかっている感じで、寒い季節特有の澄んだ夜空ではない。
それでも星ははっきりと観えた。
そんな夜空の下を、観鈴と朝也は並んで帰り道を歩いている。
「玖実さん、良いお姉さんだね。沙月の為に本当に頑張っているみたい。」
歩きながら観鈴がそう言うと、
「だな。」
朝也も同意と頷いた。
「両親が亡くなっていて、沙月も病気で色々大変だろうに、全く辛そうな雰囲気がないもんな。多分料理を学んだのも、沙月の病気が良くなる為にとだろう。本当、妹想いと言うか、家族想いな人だ。」
朝也の言葉の後、
「‥でもさ、」
観鈴は胸ポケットから、先程玖実から渡された小野坂宅の合鍵を取り出した。
「妙な所もあったよね。」
ポツリと呟いた。
朝也はその様子を横目で見、それから夜空を見上げて言った。
「最後の挨拶の言葉か?」
「‥うん。」
観鈴は合鍵を胸ポケットに戻すと頷いた。
「『私よりもあなた方の方が沙月を元気にさせられます』って、どういう意味なんだろ?」
小首を傾げながら観鈴は言った。
朝也は夜空を見上げたまま、
「俺達をそれだけ頼りにしてるって意味じゃないのか?」
「‥多分そうだと思うけど、」
そう答えてから、
「‥なんか、悲しそうな口調にも感じたから。」
再び呟くように言った。
「‥それに、あともう一つ、」
観鈴は朝也を見て再び首を傾げた。
「沙月、姉なのに玖実さんの事を“さん”付けで読んでたよね。」
観鈴の言葉に、
「ああ、それは俺も少し気になった。」
少し腕を組んで朝也は答え、そして続けた。
「でも、家族を“さん”付けで呼ぶのはそんなに珍しくもないからな。それにあの二人、年が十歳以上離れているんだから、別に不思議でもないだろう。」
「‥そっか。」
観鈴はまだ少し気になるような素振りだったが、結局頷いた。
******
その頃、小野坂宅。
観鈴と朝也が帰った後、玖実は食事の後片付けをし、それを終えると薬と水を持って沙月の部屋へ行った。
「沙月、入るよ。」
そう断ってから玖実は部屋に入った。
沙月は机の前に座って勉強をしていた。
沙月は玖実が持ってきた薬と水を飲み込むと、一つ深呼吸した。
その顔色は以前よりかなり良くなっていると玖実は思った。
「沙月、」
その顔色を見ながら玖実は聞いた。
「神崎さんと七三里さんは優しい?」
「うん。初めて会った時から二人とも凄く優しいの。」
沙月は笑顔で答えた。
最近見せなかった明るい笑顔だと玖実は思った。
玖実は再び聞いた。
「あのお二人と友達になれて良かった?」
「うん!本当に良かったの。」
沙月はすぐ頷いた。
「そう。」
玖実も少し笑顔を浮かべ、沙月の飲み終わった薬と水の容器を持った。
「あなたが元気になってきたのも、あのお二人のおかげだね。」
「うん。」
沙月は笑顔で頷いた。
玖実は立ち上がり、
「お休みなさい。」
そう笑顔で言うと部屋を出た。
沙月の部屋を出ると、玖実は薬と水の容器を片付け、自分の部屋に戻った。
(…良かった‥)
部屋に戻り机の前に座ると、玖実は淹れてきたコーヒーを一口飲んだ。
(…あの子が少しでも元気になってきてくれて、本当に良かった…)
玖実の脳裏に、観鈴と朝也の姿が浮かんだ。
(…あのお二人が、沙月を元気づけてくれた。‥)
玖実は嬉しかった。
本当に嬉しい‥心から嬉しいのに、玖実の眼からは涙が自然に零れ、雫となり机に落ちていた。