12月
*
市立図書館の自習室で、わたしたちは黙々と課題に取り組んでいた。
わたしは塾に通っていないからというのもあるし、倉橋さんは、塾に行くまでの時間、わたしに付き合ってくれている。なんだかんだ彼女は医学部への進学を希望しているので勉強ができる。わたしが分からなくて困っていることについては、時々教師以上に丁寧に分かりやすく説明してくれた。
自習室は暖房が効いていて暖かい。眠気とも闘いながら、わたしはなけなしのお小遣いで買った問題集と闘う。
進路希望調査票はまだ提出していないけれど、来週の模試は受けなければならない。
時計の針が12時を指す。
倉橋さんが片付けを始めた。彼女は13時から22時まで塾に行くのだ。
ピアスはどんどん増えて、右に4つ、左に3つ開いていた。本人曰くもっと開けたいらしい。
そんな医者がいていいのかとも思うけれど。
倉橋さんがひらひらと手を振って自習室から去って行く。
わたしも振り返す。
それから、両肩を軽く回して深呼吸。
今日は何時までここにいようか。
どうせ、勉強以外することはないのだ。
*
『最悪』
わたしにとっては学年5位なんて絶対に手の届かない領域だけど、倉橋さんにとっては不満な結果であるらしい。
模試の結果が画像付きで送られてきた。
すぐに電話がかかってくる。
『ありえない。めっちゃ怒られた。こんなに寒いのに、靴ごと家から追い出された』
「え。大丈夫……?」
『大丈夫じゃない。とりあえず財布は持ってたから、 街のネカフェにでも行って時間潰すけど』
怒っているというよりは、落胆とか、失望の色が声に滲んでいる。
かすかに電車がホームに来るアナウンスが聞こえた。駅からかけているようだ。
『どうがんばればいいのか、ほんと分かんない』
そこから倉橋さんの様子がちょっとずつおかしくなっていった。
*
"クラムボンは死んでしまったよ……。''
*
ひっきりなしにスマートフォンにメッセージが届く。
電話をかけてくる。
最初は真摯に対応していたけれど、反応する度に罵詈雑言を吐かれるので、わたしは極力電話に出ないようになっていた。
図書館にも現れなくなったし、学校でも姿をあまり見かけなくなった。
今何してる
どうして返信してくれないの
電話に出てくれないの
薄情者
偽善者
裏切り者!
何をしてても、責める声が聴こえてくるようだった。
それを打ち消したくてわたしは必死に勉強した。スマートフォンの電源は父親と連絡を取るとき以外落としていた。
『今すぐ来て。じゃなきゃ死ぬ』
朝の5時。まだ夜も明けていないときに、たまたま電源をつけてしまったら、そんな文面が目に飛びこんできた。
わたしは着替えるとマフラーを巻いてありったけの暖かい服を着込んで家を飛び出す。
真っ暗闇のなか、自転車を力の限り漕いだ。
JRの駅のホームのベンチの隅に倉橋さんが座っていた。
また、夜をネットカフェで明かしたのだろうか。
にやにやと笑ってわたしを見るので、思わず脱力する。
「狂言はやめて」
「ほんとに、夜は死にたかったの」
溜息を吐き出すと真っ白だった。
わたしは倉橋さんの隣に腰かける。
自動販売機で買った温かいミルクティーのペットボトルを手渡すと、暖を取るように両手で包みこんだ。
「小川さんとホテルに泊まったあの日眠剤がなくても眠れたのは、画期的なことだったから。何も効かないときはあの日のことを思い出すようにしてるんだ」
両腕には何重にも包帯が巻かれていた。
「……わたしには分からない」
溜息を吐き出してベンチに腰かけた。しっかりと冷えていて、冷たくて身震いする。
「小川さん。母親に首を絞められたとき、どんな気分だった?」
わたしはぱっと倉橋さんを見た。
たぶんものすごい形相になっていたのだと思う。倉橋さんの両目が大きく見開かれた。
しまった。反応してしまった。と後悔したものの時既に遅し、瞳が不気味に輝く。
「『代理によるミュンヒハウゼン症候群』。これはとある事例のひとつなんだけど」
「やめて」
「母親が小学生の娘の尿に自らの血液を混入して、血尿を装い、異常を訴えて小児科を受診したのです。何年にもわたり複数の小児科を渡り歩いて、最終的には大学病院での検査も行われました。母親はあたかも献身的に、娘を心配しているかのように装っていましたが、最終的に呼吸不全の状態を意図的に作り出す為に娘の首を絞め、救急車を呼びました」
「やめて」
「入院中、血尿が再発したところ、不審に思った医師が警察に相談。さまざまな鑑定や捜査の結果、児童虐待防止法により母親は逮捕。現在は懲役刑に服しているそうです」
「やめて!」
乾いた軽い音がして、気づくとわたしは倉橋さんの頬をぶっていた。
かつて、母親の”病気”によって、わたしは死にかけた。
記憶なんてない。
だから感情すら湧き起こらない。
残っているのは母親がいなくなったということ、父親が罪の意識を感じているということ、わたしがかんたんに死ねないということを知ってしまったということ、だけだ。
「殺されかけたとき、どんな気分だった?」
「……覚えてない」
声が掠れて、震えているのが自分でも解った。
視線を地面に落としたまま、わたしは、言葉を選べずに吐き出す。
「付き合いきれない、あなたには」
「あたしを、棄てるの? パパのように?」
「ちがう」
弾かれるように顔を上げた。
「最初から、拾ってない」
ひどいことを言われている筈なのに、彼女は笑っていた。
ミルクティーに口をつけるとそのままわたしに唇を重ねてくる。
まるで、世界が止まったかのような、感覚。
ふんわりと、温かくて甘い香りがした。
だけどそれ以外のすべては刺すような冷たさしかなかった。
そのまま倉橋さんは線路に降りて、ふらふらと、歩いて行ってしまう。
わたしの足はもう動こうとしなかった。
意志は、彼女を追いかけようとしなかった。
始発列車がホームに滑り込んできてドアが開いた。倉橋さんの姿は、いつの間にか見えなくなっていた。
*
"それならなぜクラムボンはわらったの。"
*
それ以降、倉橋さんがわたしに連絡をしてきたり話しかけてくることはなくなった。学校で見かけても存在を無視されたし、わたしも視界に入れないようにした。
やがて冬休みに入ろうとした頃、彼女が急性アルコール中毒で救急車に運ばれて、学校ともめて、自主退学したという噂を耳にした。
わたしは公園のベンチで、同じ制服を着た人間たちが談笑しているのを眺めながら呟く。
「くだらない」
わたしも小学生のとき、こうやって噂されていたのだろうか。
かち、かち、かち。
刃を出したカッターナイフで左腕に線を引いてみる。
びっくりするくらい切れないし、ただただ痛いだけだ。
「全然分かる訳ないだろ、ばーか」
ふわ、と、白い結晶がカッターナイフの痕に落ちた。
空を見上げると灰色のような真っ白さ。少しずつ、雪が降ってきていた。肌に触れるとすぐに消えてしまう微かな初雪。
わたしはカッターナイフを鞄にしまう。
代わりにスマートフォンを取り出して、倉橋さんの連絡先を、消した。
「世界と心中できる方法が分かったら」
また会える日が来るかもしれない。
しかしそんなもの、果たして存在するのだろうか。
もしあるとしたら、それはクラムボンみたいな説明できない、答えのないものだ。
わたしたちの関係と同じように。
*
薄暗いリビングで、父親は泣きそうになりながら笑っている。
テーブルには『第一志望:県立大学・児童福祉学科』と書かれた紙が載っている。
「そんな顔しないで。模試の判定的には悪くないし、このままがんばりきれたら大丈夫だよ。もし学費のことが不安なら、奨学金とか減免とかうまく使うし」
「そうじゃない。自分の不甲斐なさの所為で、律花を一生苦しめていかなければならないと思うと」
父親は堪えきれなくなったのかテーブルに涙をぽとりと零した。
「それはちがうよ、お父さん。わたしは囚われているのかもしれないけれど、そうじゃない。これは、わたしがわたしを救う為だから」
わたしがわたしの物語を紡ぐ為の、第一歩にしたいから。
世界と心中できる方法が分かったら、きっとわたしはまた”彼女”に会えるだろう。
それまで、身勝手でも、偽善でもなんでもいいから、生き延びてやるんだ。
「わたしは、生きるから」
ゆらゆらと涙に揺られる父親の瞳のなかで、わたしはわたしが笑っているのを初めて見た、気がした。
了
※参考
宮沢賢治『やまなし』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/46605_31178.html