5月-2
*
「律花が高校に入って、友だちと遊びに行くなんて初めてのことじゃないか」
父親が嬉しそうに5000円札を差し出してくる。
「いいよ。まだ今月のお小遣い残ってるから」
「それは取っておきなさい。せっかくのことなんだし、思う存分楽しんでおいで」
その表情がわたしの心を刺してくる。
この数年、わたしは積極的に他人と関わろうとしてこなかった。休日だって部屋にこもっていることが多かった。
だから着るものもなくて中学生の頃に量販店で買った、白いシャツと紺色のスカートで家を出る。
今日も快晴だ。
自転車をこぐのにちょうどいい気候。
いつもは徒歩か地下鉄しか使わないけれど、これはこれでいい。
無料の駐輪場に自転車を置いてJRの駅に向かうと、改札前に倉橋さんが立っていた。
全身真っ黒。パンク系、というやつだろうか。
黒いジャケット、レースのトップス、フリルの派手なミニスカート、ごついブーツ。時々シルバーの装飾。なんだかどれも高級そうだ。
「だっさ」
「うるさい。そっちだって、なんかよく分かんない恰好してきて」
「ひとの趣味にケチつけないでくれる?」
倉橋さんはICカードで、わたしは切符を買って、鈍行列車に乗った。
5月の連休の中日だから、鈍行とはいえ車内は賑わっている。
わたしたちは一列に並んだ座席の隅っこに隣同士で座った。
30分ほど経ったところで窓の外は水平線に変わる。
子どもの頃の見慣れた風景。山と海に囲まれた景色だ。
不意に倉橋さんがわたしの右肩に肩を乗せてきた。
やわらかな髪の毛が首に当たってくすぐったい。
わたしとは違うシャンプーの香りがする。柑橘系のいい香りだ。
「いい香りじゃん」
声を発したのは倉橋さんの方だった。
「市販の安いやつだよ」
「ふーん」
それきり黙り込んでしまう。
彼女にとってはふつうに通学路。
わたしは、5年ぶり。住んでいた街へ向かっている。
1時間ほど揺られたところでわたしたちは降りた。
他の乗客たちは終点の海水浴場まで行くのだろう。
降りてみると、懐かしい、という感覚は何故だか減っていく。
こんな場所だっただろうか?
わたしはここに住んでいたのだろうか?
ちぐはぐな感情が湧いてくる。振り払いたくて、問いかけた。
「倉橋先生は元気?」
「元気なんじゃない?」
「いい先生だったと思うけど。なんとなくだけど、覚えてないから」
「無理して褒めなくてもいい。仕事にしか興味ないし、私学に落ちてからあたしのこと見向きもしなくなったし」
いつもの冗談めいた感じのない、心底不機嫌そうな言い方だった。
駅から倉橋内科クリニックはすぐだった。
駐車場併設の、白い壁の、地元の人間がかかりつけにしている小さな個人病院だ。
倉橋さんが外階段から2階の住居スペースへ上がっていく。
無言で玄関を開けた。
わたしも後に続いてそろりそろりと入る。
「お邪魔します……」
「誰もいないから気にしなくていいよ。パパはもうすぐ出張から帰ってくるだろうけど」
広くてきれいなリビングの、大きくて弾力のあるソファーに案内される。
あまりに広すぎて、なのに静かすぎて、どこか落ち着かない。
「ママに頼んでケーキを買っておいてもらったんだ」
冷蔵庫から小さな箱を出して、おしゃれで繊細なデザインのお皿にケーキを載せてくれる。
お揃いのティーカップには温かい紅茶。
あたしはショートケーキが食べたいから、と倉橋さんがわたしにブルーベリータルトをよこす。
「めっちゃ探したんだけど、これ、小学校の卒業アルバム。転校しちゃったから見てないでしょ」
倉橋さんに分厚いアルバムも渡される。
「あ、ありがとう」
思いがけないことだったけれど当然だった。
わたしは今日、話を聞きに来たのだ。
春の遠足。運動会。作品展。修学旅行。
ところどころに幼いわたしが写っていた。
どれもなんとなく表情はこわばっていて、ぎこちなく見える。
「こんなだったっけ」
「そうだよ。こんな感じだった」
変な汗が出て、しだいに、ブルーベリータルトの味が分からなくなる。
「ほら、これが授業参観のときの」
隣に倉橋さんが座って、体を寄せて、アルバムの1枚の写真を指差した。
宮沢賢治の『やまなし』だ。
心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。
この1か月後だった。
わたしが死にかけたのは。学校に、行けなくなったのは。
「倉橋さんは、どこまで知っているの」
そのときリビングの扉が開いてスーツ姿の中年男性が入ってきた。
倉橋先生だ。
記憶のなかの先生はいつも白衣だったから違和感がある。
わたしは立ちあがって会釈をした。
「あの、お邪魔して、ます」
「望未。塾はどうした」
部屋のなかの空気が一気に張りつめる。
途端に倉橋さんの背筋がぴんと伸びて表情がこわばる。
「今のお前には休日に友人を招くほど余裕はない筈だ。それで約束通り医学部に進めるのか?」
「パパ、斉藤律花さん。今は小川だけど」
ソファから勢いよく離れて倉橋さんがわたしの両肩を掴んだ。
痛いくらいの力。だけど、震えていた。
「あ、あの、ご無沙汰しております」
倉橋先生は、まじまじとわたしの姿を見た。
どうやら認識してもらえたらしい。顔じゅうに、眉間に、深い皺が寄る。
「斉藤さん……。斉藤律花さん、なのか……」
「はい。……小川は、父親の母方の姓です」
ばっ、と先生はその場でわたしに向かって土下座する。
「本当に、申し訳なかった! 見抜けなかったのは、私の責任だ……」
「や、やめてください、そんな」
「私がもっと早く気づいていれば君たち家族を苦しませずに済んだのに」
「くだらない」
誰よりも大きな声で叫んだのは倉橋さんだった。
「偽善者」
「望未。なんてことを言うんだ」
「誰にでもいい顔をして。ほんと、最低」
倉橋さんは吐き捨てると居間から去って行った。
「待ちなさい」
「あ、あの、お邪魔しました」
わたしは会釈をして、荷物を掴むと倉橋さんを追いかけた。
「倉橋さんっ!」
駅前でようやく追いつく。
倉橋さんの顔は真っ青に、唇は真っ白になっていた。
「気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い」
「倉橋さん、大丈夫?」
ぶつぶつと呟き続けている視線は虚ろで、わたしの声は聞こえていないようだった。
ふらりと体が揺れてそのまま歩き出す。
「待って!」
放っておくことはできなかった。
わたしは彼女の左手を取る。びっくりするほど冷たかった。
手を繋いだまま、気づいているのかいないのか、倉橋さんは歩くのをやめない。
線路沿いを、ひたすら、終点の方へ歩いた。
……死にかけた日のことを考えていた。
何も思い出せないから、何も考えることはできないのだけど。
それでも、あの日に死んでいたら、ということは何千回何万回と考えてきた。
人間はかんたんには死ねない。
だからわたしは死にたいということすら思えなくなってしまった。
それは、幸せなことなのだろうか?
考えていること、の中心は、もしかしたら、その答えなのかもしれない。
線路、歩道、車道、海。
わたしたちは舗装された道路を歩いている。だんだんと車道には街へ戻る自動車が増えてきた。
時々よろめいてくる倉橋さんを受け止めつつ、ひたすら歩く。
反対車線の渋滞が伸びてくるにつれて、空の色も移ろってきた。
海と一体化しそうな爽やかな青だったのに、今は見たことのない鮮やかなピンクと、深い紺が溶けあっている。
海の色も、青、紺、黒と、だんだん深くなってきた。
とても美しい色彩に、息を呑む。
見たことのない色合いだ。こんな瞬間があったなんて。
「きれい」
ぽつりと、言葉を落とす。
倉橋さんはまだ無言でふらふらと歩いていた。
手を繋いだまま先を行くのでわたしはバランスを崩しかけて慌てて追いかける。
やがて電車もほとんど通らなくなって、自動車のライトだけが灯りになりつつあった。
薄着ゆえに肌寒さを感じ出す頃には、倉橋さんの掌は熱を取り戻していた。
完全に太陽が沈んで辺りが闇に包まれたのと同時に、我に返った倉橋さんがわたしの手をほどく。
急に右手が空っぽになって、冷えた。
「やっば。うける、ここどこ」
「わたしが知りたい」
わざとらしく大きな溜息をついてあげた。
ほんとうに無意識に歩いていたようだ。
倉橋さんはスマートフォンを取り出して嫌味な笑みを浮かべた。
「結局塾はサボったのかって。ああ、くっそめんどくさ」
「心配してくれてるんだよ」
「そんな訳ないって。見たでしょう、あの態度。腹立つ」
父親は夜勤だと言っていたから連絡は特に入っていない。
わたしがスマートフォンを確認していると、きょろきょろと倉橋さんが辺りを見回し、急に瞳に楽しそうな光が灯った。
「そうだ、小川さん、今幾ら財布に入ってる?」
「恐喝?」
「まさか。せっかくだから、1泊してかない? 親には泊まるって言えば大丈夫」
倉橋さんが指差したのは、100mほど先にぽつんと建つ、いわゆるラブホテルというやつだった。
ボロボロの外観に怪しげな宣伝幕がかかっている。
わたしは鳥肌が立って、首を左右に振った。
「ちょっと。正気?」
「だって今から駅まで歩いたってもう電車ないし、潔く泊まってから帰った方が安全じゃない」
「あ、あんなところに泊まる方が安全じゃないし、健全じゃない」
「やだ、偏見」
「当たり前でしょうがっ」
「そんなにムキにならなくても。あたしだって処女だし、女どうしでも泊まれるらしいから。ほら」
「ひとのファーストキスを奪っておいてよく言う……」
「あたしだってあれが初めてだから問題ないって」
「そういうことを言ってるんじゃない」
10分間を超える押し問答の末に折れたのは結局わたしだった。どのみち、今から帰る方法なんてなかった。
父親から貰ったお金もあるし、帰ってくるのは明日の昼過ぎだろうし、と、なんとか自分に言い訳をする。
「堂々としてればきっと平気だから」
廃墟に見えなくもないホテルにおそるおそる足を踏み入れる。
すぐに、マンションの管理人室よりも小さい窓からおばさんらしき受付のひとが、手を出してきた。
倉橋さんが幾つかの会話を終えると、鍵を差し出される。
ボロボロのエレベーター。乗ると煙草の臭いが壁に染みついていて反射的に顔をしかめて、息を止めた。
203だって、とスキップでもし出しそうな倉橋さんの足取りは軽い。
がちゃりと鍵を回して扉を開けると、さらに1枚曇りガラスの扉があって、奥には見たことのない大きさのベッドがあった。あとスロットマシーンというのだろうか、カジノにでもありそうな大きな箱がある。
迷わず倉橋さんはベッドに飛び込んだ。
「はー、疲れた! ねぇ、お風呂に入りたくない?」
「そ、そう、だね」
わたしはまだ躊躇していて荷物すら置くことができない。
「まだ緊張してるの? 大丈夫だって。お風呂見に行こうお風呂」
浴槽はそこまで大きくなかった。
お湯を張り、待っている時間にようやくわたしは備えつけのポットで飲む為のお湯を沸かす。
「紅茶とか、緑茶とかあるよ」
「要らない。あたし、自分の家以外の水、飲めないんだ」
小さな冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターのペットボトルが2本入っていた。
その1本を倉橋さんは半分飲み干す。
あとは歯を磨くように使う、と言ってキャップをしめた。
ベッドに腰かけてメニュー表らしきものをめくる。
「すごい。食べるものを注文できるし、ピザの宅配もやってる。あ、でも、宅配は時間終了しちゃってるか。もし、小川さんが食べたいものあったら頼むといいよ」
食べられないから、という意味に受け取った。
我慢しようかと思ったけれどお腹がなったので、いちばん安い天ぷらうどんを頼んだ。
10分くらいでチャイムが鳴る。
ふたりで顔を見合わせてから、外壁にある小窓を開けてうどんを受け取る。
これなら顔を合わせなくてもいい。
ただのインスタントうどんだった。食べ頃がいつなのか分からない。それが倉橋さんのツボに入ったようでげらげら笑っている。
そして、ひとしきり探検して満足したようだった。
「先にお風呂入っていい?」
「どうぞ」
水は飲めないけれどお風呂は入れるのか。基準がよく分からない。
わたしはうどんを啜って、速攻で噴き出した。
倉橋さんが目の前で突然脱ぎ出したのだ。
「じゃーん!」
右腕だけじゃなかった。全身に無数の剃刀痕があった。
痛々しい、しかない……。
前は視線を逸らしたけれど、今度は、まじまじと見てしまう。
これが、彼女の生きている証だというのか。
「手首は切ろうと思って切るんだけど。それ以外は切ってるときの記憶がないんだよね」
「笑って話すことじゃないと思う」
「脳内麻薬が出るんだってさ。切ると。エンドルフィンとか。そういうの。すごく、気持ちが、楽になる」
「……早くお風呂に入ってきて」
「冷たいなぁ。はーい」
うどんの麺だけ啜り終わって、天ぷらを箸で沈めてふやかす。
ぶくぶく、と気泡が浮かんできた。やわらかくなった天ぷらは汁のなかで崩れてしまう。
わたしの生きている証とは、何だろう?
そもそも、そんなもの、あるのだろうか?
倉橋さんの後にお風呂に入る気にはなれなかった。
わたしは使い捨ての歯ブラシで歯を磨くと、洋服のままベッドに潜り込んだ。
大きくて弾力性に富んでいて、とても心地がいい。保健室のベッドに似ていた。
「ねぇねぇ」
いつの間にか倉橋さんがベッドに潜り込んできていた。
左を向いて横になっていたわたしの背中にぴたっとくっついてくる。体温と柔らかさが伝わってくる。
「キスしていい?」
「いやだ」
「ケチ」
「そういう問題じゃないでしょう」
「じゃあ、意地悪ー……」
振り向くと一瞬にして倉橋さんは眠りについていた。
すやすやと寝息を立てている。
彼女のペースに巻き込まれてばかりだけれど、悪くはない。そう思う自分もどこかにいる。
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"それならなぜ殺された。"
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