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5月-1


一気に吸い込んだ煙は不快感になって口内を満たす。

異物感にむせて涙目になっていると、背後から声がした。


「だっさ」


声の主は同じブレザーを着ている同じくらいの背丈の女子だった。

髪の毛は茶髪で短く、両耳にはピアスをしている。アリスのウサギみたいな、かわいいけどどこか毒のあるモチーフ。

わたしに近づいてくると手中に燻る煙草を奪って、馴れた手つきで自らの口元へやる。そのまま間髪入れずにわたしの唇へ重ねてきた。やわらかな感触のあと、

――煙が、侵入してくる。

堪えきれなくなって再びむせると、彼女は笑いながら煙草を地面に落として踏みつけた。


「世の中に反抗したいならもっと他の方法を考えたら?」


笑っているけれど、瞳の奥は少しも笑っていない。

言い捨てて彼女は去って行く。

わたしは茫然と見送るしかなかったけれど、我に返って、消された煙草の吸い殻を拾った。

雲ひとつない5月の濃い青色の空に、無残な姿になった吸い殻。


「まるでわたしみたい」


声に出したらなんだかおかしかった。

高校と駅の間にある公園で制服姿の女子が喫煙している姿を誰かに見られたら問題にしかならないのは解っていてやった。

きっと、彼女にしてみれば、それがださい反抗に映ったのかもしれない。

だけど今のわたしには、方法が思いつかなかったから。

どうしようもない感情を、どうにかする方法を。



『皆さん、おはようございます』


数日後、月曜日の朝に行われる全校生徒集会。

壇上に登った茶髪女子は爽やかに校則を読み上げていた。彼女の正体は、どうやら生徒会の副会長らしい。

わたしたちの高校は公立では偏差値が上の方で、生徒の自主自律を重んじている。だから校則が緩く、勉強さえしていれば何をしていても注意されることはない。茶髪でピアスをしていても副会長を務められるなら、かなり教師から信頼を得ているのだろう。

おそらくだけど、性格に裏表のある、近づきたくないタイプだ。


突然唇に不快感が蘇り、毛細血管を通って全身の隅々へと広がっていくようだった。

そして次の瞬間視界が真っ暗になった。


目を覚ますと柔らかくてきれいな香りのする白のなか。

保健室のカーテンに覆われたベッドのなかにいた。わたしは、この、全身を包みこんでくれるベッドが家のものよりも好きだったりする。

17歳にもなってちょっと病弱なので半年に1度くらい貧血で倒れてしまう。小学6年生のときに”病気”で瀕死になるまで、週に一度は病院に通っていたから、だいぶましになったのだけど。


カーテンの向こうから微かに人間の話し声が聴こえてくる。ひとりは中年の養護教諭。面倒見のいいタイプで、真面目な生徒からも不良からも好かれている。かくいうわたしも嫌いではない。


「望未さん、また増えてない?」

「あ。バレました?」


もうひとり、女子の声にもなんとなく聞き覚えがあった。


「ついついやっちゃうんですよね。全然覚えてなくて。眠剤飲んで寝た日に限って、朝起きたら増えてるんです」

「嫁入り前の女の子が、傷をつけちゃいけないんだから」

「はーい」


最小限咎めるような養護教諭のため息。

聞いてはいけない会話だと気づき、わたしは、そっと瞳を閉じた。



「この前のダサ子じゃん」


地下鉄で電車を待っていると、煙草女が近づいてきた。


「なんですか、チャラ子さん」


そして、保健室で耳にした会話の主だと、一致して……しまった。


「初めて言われた。うちの高校通ってたらあたしくらいの見た目はふつうでしょう」

「そうですね」

「じゃなくてさ、会話を終わらせようとすんなって。ねぇ、また会えたら訊こうと思ってたんだけど、なんで煙草喫おうとしてたの? あんたみたいな真面目そうな奴が」

「答える義務はありません」

「質問する権利はあるから」

「見ず知らずの相手から権利を主張されるいわれはありません」

「あんた面白いね。残念でした、あたしはあんたと同じ小学校の、倉橋望未。見ず知らずではないんだな」


えっ、と声の出る代わりに、わたしは思いきり彼女を見つめた。

黒縁の大きな眼鏡で、真面目で、大人しくて、紺色のランドセルを背負っていた同級生の姿と、目の前の女子高生が一致しない。


「く、倉橋、さん?まさか」

「まぁ覚えてないのもしかたないけどさ。でも、これで理解してくれたでしょう? あんたに興味がある理由。斉藤、ううん、小川律花さん」


倉橋望未の父親は祖父の経営する倉橋内科クリニックに勤める内科小児科医だ。

そしてわたしは、倉橋内科クリニックが、かかりつけ医だったのだ。


「殺されかけたことがトラウマにでもなってるの?」

「……覚えてない」


ちがう。

正しくは、思い出したくない、だ。


タイミングよくホームに滑り込んできた満員電車に乗り、倉橋さんも乗ってきたけれど会話は強制中断。わたしは人混みをかき分けて、逃げた。

逃げた。



"クラムボンはかぷかぷわらったよ。"



「ーー!」


大きな音を立ててわたしはベッドから床に落ちた。ひんやりとした硬い床。勢いよく扉が開いた。


「どうした!?」


父親が真っ青な顔をして飛び込んでくる。しゃがみ込んで床に落ちたままのわたしを覗き込んだ。


「大丈夫。久しぶりに、怖い夢を見たような気がするだけ……」

「汗をびっしょりかいて大丈夫だって言われても安心できない。温かいものでも飲むか」


いつしかやせ細って骨と皮だけみたいな風貌になってしまった父親は、よろよろと立ち上がる。


「……お父さん」

「ん?」

「ごめんなさい」

「律花が悪いことなんてひとつもないさ。悪いのは全部、お父さんなんだから」


何も言えなかった。

父親が部屋から出て行くのを確認して、わたしはごみ箱に手を伸ばす。くしゃっと丸めた進路希望調査は、まだ相談していない。

進学校だから第一希望から第三希望まで、末尾には『大学』と書かれてある。そこにわたしは二重線を引いて、『就職』と殴り書きした。書いて、丸めて、捨てた。


悪いのはわたしで、わたしが生きていることが悪い。

父親にこれ以上迷惑はかけられない。


どんな夢、だったっけ。


薄くて硬いベッドに仰向けになって、真っ暗な天井を見つめる。


『では、クラムボンとは一体、何だったのでしょうか?』


小学6年生のときの授業参観だ。

宮沢賢治の『やまなし』だ。

4人1組でグループを作って、机をくっつけて話し合っていた。

そこに、いた。

倉橋望未が。


『かぷかぷ、だから、泡っぽくないかな』

『泡ならぶくぶくだろう』

『きっとこれは魚の餌で、プランクトンだ』

『もしくは魚かな』

『魚は笑わないよ。笑うのは、人間だよ』


中高一貫校を受験するのはクラスでも倉橋望未だけだった。だからひときわ真面目で、考え方が大人びているようにも見えた。


『殺されたって、どういうことかな』


『ただいま。お母さん、今日の授業参観、どうだった?』

『律花ちゃん、行きましょうか。律花ちゃんの悪いところ、先生に診てもらわなくっちゃ』

『え……』


通院の日は家に帰ると母親が丁寧にメイクをして、きちんとした服を着ていた。

明るい診察室とは対照的に母親は神妙そうな面持ちで問いかける。


『いただいたお薬を飲んでも一向によくならないんです』

『そうでしたか。今回も、原因が分からないままでしたね。しかしこちらとしても検査で異常が見られないからには他に方法もなく』

『先生はうちの律花がどうなってもいいとおっしゃるんですか? もしかしたら何百万人にひとりの難病かもしれないんですよ。どうか、大学病院への紹介状を書いていただけませんでしょうか』


母親がわたしの両肩に手を置く。何故だか分からないけれど、背筋が粟立つ。

倉橋先生が困ったように口元に手をやる。


『血尿や発熱の頻度が上がっています。もうどうしていいのやら』

『そうですね。紹介状を書かせていただきます。一度しっかりと検査してもらいましょうか』


採血検査をしてもらうときは、針が苦手なのでわたしはしっかりと目を瞑る。

採血をしてくれる看護師さんが言う。


『お母さんはいつも付き添ってくれていて、ほんとに律花ちゃん想いね』

『ほんとうに、この子は何もできないですから』


わたしの代わりに母親が答えて微笑んだ。


『早く原因が分かるといいんですけれど』


帰り道、クリニックが見えなくなるくらいまでの距離を歩くと、ぱっと母親はわたしから手を離した。

まるでわたしがいないかのようにすたすたと歩いて行く。

待って、待って、お母さん。

待って。


――殺されかけた、って言った?

倉橋望未は?

彼女は、何を知っているというの?



"クラムボンは死んだよ。"



公園の隅っこで、煙草の箱に火をつける。

中央の遊具では小さな子どもたちが遊んでいる。近くでは母親が見守っている。わたしは、それをぼんやりと眺めていた。


「訊きたいことがあるんだけど」


人間の気配を感じて振り向かずに声を出した。


「あなたはどうやって世の中に反抗しているの」

「ずっと考えている」


倉橋さんが燃えている煙草の箱をじっと見る。


「どうやったら世界と心中できるのか。だから、あんたみたいな分かりやすくてぬるいのは、見てらんない」


ブレザーの裾から覗く右腕には包帯が巻かれていた。


「反抗期じゃなくて、世界と一緒に死にたいの。あたしは。ねぇ、一緒に世界と心中しない?」

「やだ。死ぬならひとりで死ねば。その包帯、自殺しようとした痕なんでしょう?」


にやり、と彼女が口角をあげた。

よくぞ気づいてくれました、と。

しまった。


「残念でした。これは、わたしが生きてることの証明」


待ってましたと言わんばかりに倉橋さんはブレザーを脱いで、白シャツの裾を捲った。

包帯をするすると外すと、隠れていたのは無数の赤い線。

反射的にわたしは目を逸らした。


「死ぬんだったら動脈をざっくりやらなきゃ。あたしは、ただ自分を確かめたいだけ」

「……意味分かんない」

「どうしようもなくなったらやってみるといいよ。そしたら、きっと分かる」

「分かんないよ、きっと」


わたしがどんな気持ちでここに立っているか、呼吸をしているか。

当の本人ですらよく分かっていないというのに。


「世の中に反抗したいとも死にたいと思ったこともない。ただ、申し訳ないと思って、生きてる」

「誰に」

「両親に。わたしの所為で母親はいなくなって、父親は、いつも自分を責めている。殺されかけた、ってあなたは言ったけれど、あなたはわたしのことをどこまで知っているの」

「質問が多い。だったら、連絡先教えて」



"それならなぜクラムボンはわらったの。"


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