若すぎる執事、危慮
頭の中が真っ白な霧に包まれている。
何も聞こえない。
目の前はひたすら真っ白で、自分が何処に居るのかすら分からない。
次第に聴力が回復してくる。
まず聞こえたのは自分の心臓の音。
それから呼吸、周囲の喧騒と、だんだんと耳に届いてくる。
そして……彼の声も。
「お嬢様! お嬢様!」
あぁ、悠馬君の声だ。
悠馬君……悠馬君……
怖かったんだよ……もう、会えなくなるんじゃないかって……
とても……怖かった……
「お嬢様!」
体が一瞬大きく震え、一気に覚醒する。
目に飛び込んできたのは泣き顔の悠馬君。
そして床に座り込む私の隣には、腕から血を流した……あの母親が。
その母親も泣きながら私の肩を揺すっていて、その子供も大声で泣いていた。
一体何が……なんだっけ。
どうしてこんな事になってる……
「って―! あの男は?! 奴は何処だ! ぶちのめしてくれる!」
「な、何言ってるんですか……」
いきり立つ私へと溜息を吐きながら、そっと前方を指さす悠馬君。
そこには、先ほどの包丁を持った男が倒れていた。あれ、なんか勝手にノックダウンしてる。
「勝手に……って……お嬢様が投げ飛ばしたんですよ。凄い綺麗に……」
「……え?」
私が……投げ飛ばした?
そんな馬鹿な。全くこれっぽっちも覚えてない……
「どいてどいて! 道開けて!」
するとそこに警察官が駆けつけてきた。
制服の警察官二名は男へと手錠を掛けつつ、一人が私の方へとやってくる。
「……やったの……君?」
いや、殺ってないよね?!
死んでないよね?! あの男!
「大丈夫、生きてる生きてる。ちょっと……大丈夫? 今救急車呼んだから……」
「いや、大丈夫ッス……私は怪我とかしてないんで……それよりコチラのお母様を……」
腕から血を流した母親と、その子供を先に救急車で運んでもらうように要請する私。
それからしばらくして、私もパトカーで病院へと向かう事になった。
※
病院で簡単な検査と問診を受け、引き続き警察官の方へと事情を説明……は悠馬君が大体してくれたらしい。警察官二名は非常に関心している。賢い子だと。
「お嬢様……大丈夫ですか?」
「あぁ、うん……まだちょっと混乱してるけど……はぁー……なんか疲れた……」
病院のベンチへと座りつつ休憩。
警察官はまた後日、家に赴くと言って帰っていった。
帰りは送ってくれないのか。
「ぁ、お嬢様のお父様が来るって……言ってましたよ」
「……え?! お、親父殿が……?」
あからさまに怯える私に首を傾げる悠馬君。
不味い……親父殿はマジで不味い。
逃げよう、そうしよう……と、その時……病院の廊下の向こうから見覚えのあるスーツ姿のゴツイ男が。
ヤバい、親父殿来た……。
「あの方がお父様ですか? って、なんでそんな震えてるんですか」
「いや、悠馬君……離れてた方がいいぞ……」
「はい?」
カツ、カツ、カツ、と革靴の小気味いい音を鳴らしながら近づいてくる親父殿。
私の前で立ち止まる。
「ぁ、あの、僕は日下部 悠馬といいます、正彦さんの代わりに執事を……」
「顔上げろ」
悠馬君の自己紹介を無視し、俯いている私へと言い放つ親父殿。
私はそっと、ベンチに座りながら親父殿を見上げる。
するとその瞬間、私の頬へ平手打ちが炸裂した。
「……っ……」
悠馬君は驚きながら固まる。
まあ当然だ。親父殿を初めて見た人は……大体こんな反応……
っていうか痛い……ものすごく痛い……
「何で殴るか分かるか」
「…………はい」
親父殿の質問に頷きながら、目から涙がこぼれる。
痛みで泣いているのではない。
親父殿に……叱られるのが怖いから……
「言ってみろ」
「…………自分の命を……粗末にしました……」
何か言いたそうな悠馬君を手で制しつつ、私は親父殿お叱りを受け続ける。
そうだ、あともう一発……平手打ちが炸裂する筈だ。
私がバカをやった時は、大抵二発で……
しかし次の瞬間、親父殿の平手打ちは炸裂しなかった。
床へと膝を着き、私を抱きしめてくる親父殿。
親父殿は泣いていた。
鼻をすすっている。
私も私で今更ながら体が震える。
あの時の記憶が蘇ってくる。包丁を持った男が私に突っ込んでくる時の光景が。
「……ごめん……なさい……ごめんなさい……」
自然と謝罪の言葉が出た。
それを言った瞬間、私も親父殿に抱き着きながら泣いてしまった。
親父殿は泣きながら無言でひたすら私を抱きしめ、震える体を摩ってくれる。
私達は小一時間……そうして抱き合っていた。
※
親父殿と共に家へと帰還する私達。
ちなみにカレーの材料は全てスーパーにおきっぱだ。
とはいえ食欲など無い。
私と悠馬君、そして親父殿はリビングへと赴き、事の顛末を説明。
またしても悠馬君が詳細に、そして私のフォローを最大限に説明してくれる。
親父殿も悠馬君の説明が分かりやすかったのか、感心しながら頷いていた。
あぁ、なんかちょっと……一安心。
むむ、なんだか安心したら……お腹が空いてきた!
グゥー……と盛大に鳴る私の腹。
「出前でも取るか、何がいい」
私の腹の音を聞いて、親父殿は提案してくれる。
なんでもいいんだな?!
よし! 寿司食おう! 今日は悠馬君の歓迎パーティーだぜ!
【注意:既に六話目ですが、まだ悠馬君が来て一日目です】
「お嬢様……良くそんな気分になれますね……あんなことがあったのに……」
「いやぁ、腹が減っては戦は出来んだろうに。というか何か言いたそうだな、悠馬君」
「いえ……僕が言いたい事はお父様がもう既に……ビンタで……」
あぁ、はい……ごめんなさい……
「松でいいか」
ってー! 親父殿は既に電話片手に寿司頼もうとしてる!
仕事の早い奴は好きだぜ!
「あー……もしもし。松五人前……はい、はい……おねがいします」
ん? 五人前?
ここには三人しか居なくてよ。
「俺が三人前食うから」
相変わらずメッチャ食うな! この人!
まあそれはさておき……寿司来るまでに風呂でも入るか。
「悠馬君、お風呂入ろう」
「え、えぇ……また一緒にですか? 一人で入ってくださいよ……」
「そんな寂しい事言うなよ。たださえ私、今メンタルヤバイ……」
って、なんか親父殿が凄い寂しそうな顔で見てくる。
どうした、親父殿。
「俺が一緒に……」
「いや、ごめん、間に合ってる」
そのまま悠馬君を無理やり拉致って風呂に入る私。
あぁ、しかし……今日は色々あったな……疲れた……。
※
それから風呂上りに寿司を食い、腹いっぱいになって自室に戻る私と悠馬君。
ベッドで寝ころび、相も変わらずゴロゴロ……っていうか疲れた……すぐにでも寝てしまいそう……。
「お嬢様……今日は本当にビックリしたんですから」
「そうだなぁ……」
まさか……モンブランの飼い主がヤンキーだったなんて……
「それ?! それじゃなくて!」
むむ、違うのか。
じゃああれか? 私が風呂場で換気せずに掃除してた奴?
「それも違います! 確かにビックリしましたけども!」
むむぅ、なんだね一体。
本日一番びっくりしたのって……ぁ、分かった。
「やっとですか……っていうかあれ以上にビックリする事ってないですよ」
「そうだよな……まさかこの私が……包丁で指切るなんて……」
「ちっがーう! 違う! 確かにそれもビックリしましたけども! スーパーで包丁持った男が襲ってきた事ですよ!」
あぁ、そっちか。
まあ……なんだ。そういえば悠馬君に謝って無かったな。
ベッドの上で正座し、悠馬君に対して土下座する私。
すんませんでしたっ!
「何で僕に謝るんですか……っていうか、もうお父様にあれだけ叱られたんですから。もういいですよ。それにお嬢様……あの親子を守ったんですから……」
「そんな事は関係ない!」
「ええ!?」
悠馬君は私の事を心配しまくっただろう!
それに対して謝ってるんだ!
「で、でも仕方ないじゃないですか……お嬢様があの男を投げ飛ばさなかったら……あの親子どうなってたか……」
「悠馬君……そんなの言い訳にしかならないんだ。結果として無事に済んだだけで……一歩間違えば私は死んでたかもしれないんだから……」
「で、でも……」
君は優しい子だ!
というわけで私と一緒にベッドインしよう!
そのまま悠馬君をベッドに引きずり込み、抱き枕にする。
むふふ、今日はこのまま……おねむだぜ!
ちなみに悠馬君もパジャマ姿。
小さくて柔らかい男の子の体を堪能しつつ、ゆっくり目を閉じる。
今夜は……いい夢が見れそうだ……