若すぎる執事、動揺
悠馬君の手当を終え、私達は食堂や寝室の血の跡を掃除し、昼食の準備を進める。
その間、私はずっと考えていた。血よりも綺麗な……赤い物。
血の代わりになり、尚且つ見惚れてしまう物。そんな物……あるだろうか。
「お嬢様……僕が手首を切ってる事……知ってたんですね……」
「……うん。正彦とシスターさんから……聞いた」
悠馬君はテーブルの上に更を並べつつ……包帯がまかれた手首を握りしめる。
何故手首を切るのか、そういえば……雑談好きな数学の教師が……
『自傷癖は止めさせてはならない』
とかなんとか言ってたな。
自傷行為は心の鎮痛剤だ。無理に止めさせれば……今度は傷どころじゃ済まなくなる。
シスターは止めさせるのではなく、応急処置の仕方を教えていた。
あの人も、私とずっと同じ事を考えて……料理や色々な事を教えて……悠馬君の心の傷を少しでも忘れさせようと……
悠馬君の心の傷……それは……何だ。
両親が飛行機事故で亡くなった事……?
でも悠馬君自身は事故の事さえ憶えていない。
両親の事すら憶えていないのが……傷なのか?
(分からない……私には……遠すぎる……)
無条件で愛してくれる存在が私には居た。
でも悠馬君には……彼が物心つく頃にはもう……
「お嬢様……怒ってますか……?」
「……えっ? 何?」
「いや、怒ってますか?」
……ん? 何で?
「いや、何でって……手首切ったから……」
「……いや、悠馬君……なんか悪い事したの?」
「だって……自分の体に傷を……」
何を言ってるんだ、この子は……。
痛い思いをしているのは自分だろうに……。
怒るとか怒らないとか、そういう次元の問題じゃない……
「悠馬君……例えばだ。正彦が超ドMで、シスターさんが超ドSだったら……何が起こると思う?」
「はい? なんですか、いきなり……」
つまりだ……私はあの二人が、ただならぬ関係ではないかと睨んでいるのだよ!
「なんか話飛んでません?! そんな話してましたっけ?!」
「まあ聞け。夜な夜な正彦は、シスターさんに鞭で打って欲しいとお願いする……で、シスターさんもドSだから要望に答えるだろう」
「答えませんよ! シスターさんの清純なイメージ返してください……!」
例えだ、例え!
「で、正彦は鞭で滅多打ちにされて喜んでて……笑みを浮かべながら……」
途端に私の脳内に再生される……悠馬君の笑み。
自分の血を綺麗だと……頬を緩ませる彼の顔が脳裏に浮かぶ。
違う……悠馬君は痛みが嬉しいわけじゃない。
ただ血が見たいだけなんだ。
正彦のドM話なんて例えにもなってない。
「すまん、忘れてくれ……今の話は……」
「えっ、正彦さん……どうなったんですか? 気になるんですけど……」
君にはまだ早い!
お子様が聞いていい話ではなくてよ!
「えぇぇぇ! 自分から話し出したクセに!」
「大人って勝手なんだ」
いいながら食器の準備を進めていると、シスターさんが食堂へと大きな鍋を持ってきた!
むむ、ビーフシチューの美味しそうな匂いが!
「悠馬、鍋敷きを敷いてくださイ」
「あ、はい……」
鍋敷きを敷く悠馬君。
その時、包帯を巻いた左手首を見て……シスターさんが目を顰める。
悠馬君自身、自傷行為は悪い事だと思っている。いや、まあ良くは無いだろうが……。
「悠馬……あとで私の部屋に来なさイ。いいですネ?」
「はい……」
……?
悠馬君……ビビりまくってないか?
まさかシスターさん……悠馬君が自傷行為をするたびに……怒り狂ってるんじゃ……
「サア、ご飯にしましょウ。悠馬の大好きなビーフシチューですヨ」
※
昼食を済ました後、悠馬君はシスターさんの部屋へと。
大丈夫だろうか。悠馬君はかなりビビってたみたいだったけど……あの優しいシスターさんに……。
今、私の目の前には正彦のみ。
この男なら……シスターさんが実は私の予想どうり超ドSかどうなのか知っている筈だ。
「正彦よ……お前はドMか?」
「いきなり何ですか。そういったプライベートは黙秘します」
貴様! 人が真面目に聞いていると言うのに!
「真面目にドMかどうか聞くってどういう事ですか」
「いや、その……悠馬君がシスターさんに……叱られてるんじゃないかと……」
「あぁ、違いますよ。傷口をちゃんと治療しているんでしょう。で? 私がドM疑惑かけられた事と何か関係が?」
まあ、その……正彦がシスターさんに虐めて欲しいとか懇願してるんじゃないかと……。
そしたらシスターさんドSって事になるし!
「人をそんな目で見ていたんですか。まあ、それはいいとして……お嬢様、これからどうしますか?」
「……どうするって? 何が……」
「このまま……ここに残って悠馬君や他の子供達と……過ごしませんか、という事です」
ん? いや、私結構そのつもりだけども。
「……中々決断力ありますね。辛いと思いますよ……」
「どんな仕事だって辛いだろ……正直私は家でゴロゴロしていたい」
「それはそれで辛いと思ってください」
……むぅ、しかしこのまま……この孤児院で子供達と一緒に……か。
確かに辛いだろうな……悠馬君一人の事で……もう既に私はパンクしそうだ……。
「なあ、正彦……私には向いてないとか思わないの?」
「いいえ、全く」
むむっ……その根拠を聞こうか。
「根拠……ですか。ありません」
無いんかい!
私、子供の世話とか……出来るかしら……
「お嬢様を見ていると……昔の自分を思い出しますよ。私も執事になる前は教師をしていましたが……お嬢様のように毎日悩んでました」
ほほぅ、正彦……教師だったのか。
まあ、私もコイツに結構勉強教えて貰ったしなぁ……。
「なんで教師辞めて……執事になったの?」
「……折れたんです、単純に。先ほどお嬢様が言ってらした通り、自分は教師に向いていないと思いました。でも……今では少し後悔しています……」
むむ、教師辞めた事を?
「そうです。執事になってからも辛い事はいくらでもありました。正直、辞めようと思った事も幾度もあります。でも教師を辞めた時の後悔が残ってるんですよ、未だに……。それを再び味わいたくないと思いながら必死に……ひたすらに働いてきました。そしたらいつのまにか……こんな感じですよ」
「それで……婚期逃したのか」
「人の話聞いてましたか。今は関係ないでしょう……私が結婚できない話は……」
ふむぅ、正彦結構イケメンなのに。
なんなら……シスターさんとか狙ってみては?
あんな美人……他にいないぞ!
「お断りです。尻に敷かれるのが目に見えてますから」
いいじゃん、正彦ドMなんだし……
「いつのまに確定情報に……。それはそうとお嬢様、私の人生相談は参考になりましたか?」
「……うん、まあ……」
そういえば……私も小学生の頃に習ってた剣道……辛くて途中で止めちゃったんだ。
その後柔道を初めて……
「よく考えたら……私も似たような経験あるわ。まあ、頑張ってみようかな……」
ここで、この熊本で……子供達と一緒に……
私は……
※
のどかな農村の空気の中、私はモモルフの牛舎にお邪魔していた。
モモルフは私にも優しく接してくれる。さっきから私の話を黙って聞いてくれているのだ。
まあ、牛が喋るわけもないが。しかし最近、喋る動物を何処かで見た気が……
「でさぁ……モモルフはどう思う。悠馬君は……どうしたら……」
どうしたら……彼は救われるのだろうか。
自傷行為そのものを止めさせるのは……無理かもしれない。
むしろ危険だ。かと言って続けていればエスカートするばかり……。
自傷行為は心の鎮痛剤、当然ながら効き目はだんだんと薄くなる。
今は手首だけだが、次第に傷は体中に増えていくだろう。そしてさらにその先……はもう考えたくもない。
「私は……何も出来ない……」
その時、モモルフが私の顔を舐め上げてきた!
んぷっ! や、やめよ!
「むむ、もしかして慰めてくれてるのか? モモルフよ。お前は良い奴だなぁ……」
モモルフの体を摩ってみる。
なんだか……凄い。
牛の体って初めて触ったけど……かなり生命力にあふれている! 気がする。
「……悠馬君……笑ったんだ。自分の血見て……子供みたいに……いや、子供なんだけどさ……」
まるで、血が……血を見る事で、あの子は何かを感じているんだ。
私が知っている自傷行為とは……違うのかもしれない。
「……血、血か……そういえば……」
私が家の包丁で指を切った時、悠馬君はあんな風に笑ったりしなかった。
適格に応急処置だけを……
「自分の血じゃないとダメって事か……ああもう、分からん。っていうか私が考えて分かるなら……シスターさんなんて……とっくに……」
そうだ、私がいくら頭を捻った所で……分かる筈がない。
でも……でも……
※
見渡す限りの白い世界。
真上には青い空が広がっていて、地面はわたあめのような物で形成されている。
これは……雲か?
えっ、なにここ……天国?
「残念ながらただの夢だ」
って、うほぅ! 柴犬マリア!
あれ? 私いつのまに寝たの?!
「寝た瞬間なんて誰も知らんさ。お前に良い物を見せてやろうと思ってな」
「なんだ、良い物って……」
雲の上で座り込む私。
すると柴犬マリアも隣に鎮座してきた。むむ、君の毛並みはモフモフだな。
「俺は正確には秋田犬とのミックス犬だからな。それより……そろそろだぞ」
あん? 何が……
「……マジか」
目の前の光景に口が閉じれなくなる。
こんな……そうか、これがあったか。
「凄い……」
「そうだろ。ちなみに秋が一番綺麗に見えるって知ってたか?」
しらん!
なんで秋が一番綺麗なの?
「理由はいくつかある。まあ、その中で一番分かりやすいのは……」
柴犬マリアからご教授頂く私。
今、私の目で見た光景を悠馬君にも見てもらいたい。
この夢の世界ではなく、現実で。
「と、いうわけだ。分かったか」
「うん……そういえば柴犬マリア、お前……結局なんだったんだ?」
「お前はちゃんと俺の事を憶えているぞ。婆さんの代わりに俺の散歩をしてくれただろ」
ん?
まさか……お前……
「これで会うのは最後だ。現実に戻ったらすぐに悠馬に見せてやれ。あっちでも……そろそろ時間の筈だ」
じゃあな、と柴犬マリアは背を向け雲の向こうへと歩いて行く。
瞬間、私の意識は下へ落下する。
ただひたすら下へ。
悠馬君へ……あの景色を見せるために。