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若すぎる執事、自傷

 案内された教会の一室で、私はいつのまにか眠ってしまっていた。

同じベッドに悠馬君も眠っている。


「…………」


私はいけないと思いつつも、そっと悠馬君の手首を確認してしまう。


「…………」


悠馬君の左手首。

そこには痛々しい傷跡が。

彼はそこに感じる痛みと、そこから流れる血液を見る事で……その体が自分の物だと再確認する。


その行為の動機の意味も……私には理解できない。

自分の体が自分の物でなくて……一体誰のものだ。


「…………」


 時計の秒針の音と共に聞こえてくる波のせせらぎ。

私は悠馬君へ布団を掛けなおし、そっと部屋を出た。

少し混乱しているかもしれない。

ここは本当に日本なのかと……再確認したかったのかもしれない。


もしかしたら悠馬君も……こんな気分だったんだろうか。

ここが日本なのは当然分かっている。

飛行機が降り立ったのは福岡。

そこから車でここまで来たのだ。猫型ロボットがポケットから出す道具でも使ってない限り、ここが海外なんて事はあり得ない。


それでも実感がわかない。

ここが日本だという……実感が。


 教会の外へと出て、その裏手へ回り込むと海が見えた。

断崖絶壁から眺める海は静かで、思わず吸い込まれてしまいそうな感覚に襲われる。


「危ないですヨ。あまりそちらに行くト」


「ぁっ、クリスさん……」


夜の静かな海を眺めていると、教会のシスターがいつのまにかそこに居た。

怖いくらいに綺麗な女性は、一緒に海を眺めるように私の隣へと立つ。


「マサヒコから聞きましタ。悠馬と仲良くしてくれているそうですネ」


「い、いえ……私が悠馬君に色々と教えてもらって……色々と……」


シスターさんは微笑みつつ、そっと空を指さした。

そこには無限の星空が広がっている。


「貴方にとって……どちらが海ですカ?」


突然そんな事を言い出すシスター。

どちらが海……とな?

何かの謎かけだろうか。


「海は……下だと思いますけど……」


「フフ、正解でス。上に広がるのは空でス。しかし私の友人は可笑しな事を言いましタ。出来る事なら、あの空という海を自由に泳ぎたいト……」


空が海……。


「可笑しいですよネ。空は泳ぐモノではありませン。しかし友人は確かに空は泳げると感じていたんでス。何をどう感じるのかは人それぞれでス。共感できる物もあれば、あまりに突飛すぎて理解不能な事もあるでしょウ。それを無理やりに理解する必要など何処にもありませン。お互いに共感できる物を探し直せばいいだけの話でス」


「…………」


「オット、すみませン。わけの分からない話をするのが私の趣味でしテ。さあ、そろそろ戻りましょウ。体が冷えてしまいまス。温かいミルクでも如何ですカ?」


 そのままシスターさんは私の背中を抱くように、その温かい手で包んでくれる。

この人は……この人が悠馬君の母親代わりだったんだろうか。


ひたすら優しい手。

暖かい。ただただ暖かい。


悠馬君は……この人の元に帰りたかったのか……。


やっぱり私なんかじゃ……ダメなのか……。




 ※




 教会の一室に戻ると、悠馬君は気持ちよさそうに眠り続けていた。

私は今一度、悠馬君の可愛い寝顔を確認する。


「良かったね、悠馬君……帰ってきたよ……」


再び悠馬君の布団を掛けなおした所で、シスターさんがマグカップを二つ持って部屋へと入ってきた。

暖炉らしき前のテーブルへとマグカップを置き、椅子のホコリを手で払うシスターさん。

ちなみに暖炉に火は入っていない。まだそこまで寒くはない。


「すみませン。何もかもが時代遅れの建物デ……どうゾ」


「ありがとうございます……」


シスターさんと対面するように座り、マグカップに手を伸ばす。

暖かいミルク。白い膜が浮いている。この膜に栄養があるんだっけ……。


 静かに……会話も無くミルクを飲む。

ひたすら時計の秒針の音と波のせせらぎ、そして悠馬君の可愛い寝息が聞こえる。

なんだか……幸せだ。

何故か安心してしまう。ここに居れば……悠馬君は……


「椛さん、悠馬の……手首は見ましたカ?」


いきなりのシスターさんの言葉。

私はマグカップを置き、ゆっくりと頷いた。

あの……痛々しい傷跡を見てしまった、と。


「貴方は……悠馬が弱い子だと思いますカ?」


「……そんな事……ありません」


もし私が悠馬君と同じ境遇だったら……と考えると背筋が凍る。

生きていける自信がない。

でも悠馬君は……兄弟達のために料理を習ったり、必死になって大人になろうとした。

事実、あの子の態度や様々な知識は大人顔負けだ。

その辺りの大学生よりよほど……


「実は私も……若い頃、自殺を考えましタ。もう毎日が絶望的で……。そんな私を救ってくれたのは、実の母でス。彼女はとある理由から、私に産みの母だと名乗る事を自ら禁じていましタ」


「……え、なんで……ですか?」


「母が子供の頃、奴隷だったからでス。彼女は私が奴隷の子供だと……周りから隠しておきたかったようで……」


奴隷……?

今の時代に……まだそんな風習があるのか?


「そんな母は奴隷時代、私以上に苦しい思いをしていましタ。しかしある日、私を妊娠し……更に母は苦しむ事になりましタ。しかし母は自殺など考えませんでしタ。それどころか、私を守ろうと見守っていてくれたのでス。私はその話を成人してから別の人間に聞かされ……自分はなんて弱い人間なんだと思いましタ。しかし悠馬は死にたくて手首を切ったわけではありませン。あの子のあのクセは……実は孤児院に居る時からなんでス」


孤児院に居る時から?

別の施設に移された時からじゃないのか?


「ハイ。悠馬はこう思っているんでス。父と母が理不尽に死んだ世界で、自分に幸福な人生などありえない、ト」


「なんで……そんな事……」


「貴方の言いたい事は分かりまス。しかし悠馬は更にこう考えるんでス。もしかしてこの世界は夢で、実は自分は死んでいるのでは無いかと。だから彼は自分が生きている人間なのかを手首を切って確認するんデス。夢ならば痛くない。赤い血が流れていれば生きている。血が流れれば、少なくとも自分は死体じゃないト」


この世界が夢かどうかを確認する為に……?

あぁ、なんか昔映画であったな……実はこの現実は機械が作り出した物なんだって……。


でも、あれはフィクションだ。

現実はここにある。今この世界は、少なくとも私にとって現実だ。


「どうすれば……悠馬君を助けれますか……?」


私は救いを求めるように……シスターさんに尋ねる。

シスターさん……クリスさんはホットミルクを一口含みつつ、私の目を見て……


「先程、私も自殺を考えた……と言いましたよネ。私は自分を想ってくれる人が居る、と気付いた事で救われましタ。しかし悠馬は死にたいわけではありませン。自分が生きているという実感を……確かめたいだけなのでス」


「でも……手首を切るなんて方法じゃ……いつか取返しの付かない事に……」


「ハイ……なので私は悠馬に色々な事を教えましタ。料理などの家事もその一環でス。何か夢中になれる物があれば、悠馬を守れると思いましタ。それで一時は収まりましたが……」


そうか、それで……彼は私の“執事”として……。

私の世話をする事で悠馬君は自分を守っていたんだ。

なんだ、私が悠馬君から仕事を取り上げようとしていたのは……まるで逆効果だったんだな……。


「何か決定的な……彼が自分自身、生きていると実感できる事があればいいのですガ……」


なんだ、それは……。

一体それは何処にあるんだ。

教えてくれ……どうか……誰か、教えてくれ……




 ※




 薄暗い空間に居る。

ここは現実じゃない。夢の中だ。

その証拠に、私の目の前には……


「よう、また会ったな」


人語を話すワンコ、柴犬マリアが佇んでいた。


「……どこだ、ここ……」


「この間の夢の続きだろう。見覚えないか」


辺りを見回してみる。

コンクリートに囲まれた四角い部屋。

いや、窓も扉もない。部屋というより箱の中だ。


「ここって……」


「恐らく悠馬の夢の中だ。お前、また悠馬を抱いて寝てるんだな。このショタコンが!」


悪いか!

可愛い物を愛でて何が悪い!


「まあ、それはさておき……これが悠馬の夢……というより……傷だな、これは」


「ああん? 何を……」


 その時、私が足元が水たまりになっている事に気が付く。

いや、これは水じゃない……血だ。

その血は……部屋の隅に横たわる女性から流れている。


「……なにこれ……」


 柴犬マリアは女性に近づき、顔を拝見する。

私にもその顔がどんな顔をしているのか、見てなくても分かってしまう。

あの女性は……悠馬君のお母さんだ。

悠馬君が肌身離さず持っていたロケットペンダント。

そこに写っていた女性が血を流して横たわっている。


「どういう事……」


「悠馬の両親は飛行機事故で死んだ。その時、悠馬はまだ三歳だ。憶えている筈も無いが、恐らく無意識に刻まれているんだろう」


刻まれているって……いや、良く分からん。


「悠馬を見てみろ」


あ? 悠馬君って……何処に居るの?

この四角い箱の中の何処に……


 と、足元から何かを啜るような音が聞こえてくる。

ふと下を見ると、そこには地面に流れる血に口を付けて飲んでいる悠馬君が。


え……?

悠馬くん?


「これが悠馬自身、憶えていない傷だ。飛行機が墜落した時、奇跡的に悠馬は助かった。だが救助が来るまでの間……悠馬は母親の血を啜って生き延びたんだ」


なんだ、なんだ、その話。

ちょっと突飛すぎるだろ。なんでいきなりそんな話になる?

なんで悠馬君が……そんな……


「ちょっと待って……待って! やめてよ……話についていけないよ……」


淡々と……地面の血を飲み続ける悠馬君。

なんでこうなる。

なんでこの子がこんな目に遭うんだ。


「これが悠馬にとっての生きている証だ。両親が死んだこの世界で、唯一悠馬がここを現実だと理解する為のファクターが……この光景、つまりは……血だ。悠馬を生かしたのは母親の血液。それを本人は覚えていないが、本能的な所に刻まれているんだろう」


じゃあ……悠馬君が手首を切るのは……


「自分の体に血が流れているのかを確認してるんじゃない。血そのものが悠馬にとっての生きている証なんだ。まあ間違っちゃいない。血が無ければ生きていけんしな」


そういう話じゃないだろ、これは……


私はどうすればいい……こんな……こんなのを見せられて……

どうしろっていうんだ……


「悠馬の自傷クセは治らないかもしれない。だが緩和はされてるんだろう? この調子で一生付き合うしかない」


一生……悠馬君は自分の体を傷つけ続ける……。


 地面に広がる赤い血。

悠馬君はこれをどう感じているんだろう。


『あまりに突飛すぎて理解不能な事もあるでしょウ。それを無理やりに理解する必要など何処にもありませン』


シスターさんの言葉が再生される。

これは……私は理解できないだろう。


でも……


「悠馬君……」


地面の血を啜る悠馬君を起こし、目を見つめる。

口の周りは血まみれだ。それを服で拭いつつ、私は悠馬君へと尋ねる。


「この部屋……どう思う……?」


なんだ、この質問は。

でもこの程度しか思い浮かばない。

もう、私は何も……


「おかあさん……きれい……」


悠馬君から発せられた言葉。

それは……綺麗。


「もっと……綺麗な物なんていくらでもあるのに……」


何もこんな……残酷な場面でなくてもいいじゃないか。

もっと普通の……違う物を……



初めてここに来た時の、私の中のガラス玉を破壊したような衝撃を……


悠馬君にも……





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