第五話 一方的な殺し合い
『その願いの対価に、貴様は何を捧げる?』
その声は俺に願いの対価を求める。まるで悪魔に取引を申し込まれているみたいだ。いや、みたいではなく、まさに悪魔の取引を、申し込まれているのだ。
だが、どんな取引を申し込まれようと、今の俺には関係ない。
「なんでもくれてやる! だから、あのクソ蜘蛛を殺してくれ」
ぐちゃぐちゃになっていた心は、激しい憎悪の感情に塗り替えられ、今はただ復讐を望むだけ。何もかも壊してしまいたい。
『ならば、我が名を呼び我を求めよ。さすれば汝の願いを叶えよう。我が名は、アムリタ……白き魔人、無欲のアムリタだ』
俺はアレを殺せるならどんな者にでも、すがる思いで強く求めた。この身を焼き尽くしてしまいそうな、心に広がる痛み赤く燃える憎しみを形にするかのように、力ある者の名を叫ぶ。
軽率な判断だと言われれば、その通りだと思う。
だけど確信があった。
呼べば彼女が全てを解決してくれるという確信が・・・・・・。
「来い! アムリタアアア」
その叫びと共に、俺の何かが吸われていく感触、これが何なのかわからないが、確実に何かを奪われたという事だけは、理解できた。
俺の体から、黒い煙が吹き出し、徐々に人の形をなしていく。
そして俺の目の前には、あの時見た少女の姿がそこにはあった。
右サイドを編み込んだセミロングの白髪。黒いローブを羽織っていて、インナーの白いベアトップの右側には、黒い糸で幾何学模様の刺繍がされている。無表情と言うぐらい、変化がなく、赤い瞳であたりを見渡していた。
「召喚者の呼びかけに応じ、白き魔人、無欲のアムリタが、目の前の絶望を打ち払おう」
召喚されたアムリタに反応するように、子蜘蛛達は食事をやめて、アムリタに敵意を向けて襲いかかってくる。
「悪意の獣か、今の我でも造作も無い相手だな」
無表情だったアムリタの顔が、初めて敵を認識した時に、不適に微笑んだ。
「アムリタ! アイツらを殺してくれ」
俺は叫んだ、心はすでに憎悪に汚染されていて、もう敵を殺す事しか考えられなかった。アムリタは、その言葉を聞き、俺の願いを実行に移すためゆっくりと歩き始める。
「揺蕩う者は小さき器を得る。変換」
アムリタが、そう言葉にすると、子蜘蛛の目の前に小さな空気の玉が現れて破裂した。その衝撃で子蜘蛛は後ろに大きく吹き飛ばされて、壁に激突するが、何事も無かったかのように、牙を打ち鳴らし再び襲いかかってくる。
「ふむ、耐久力はそれなりか・・・・・・では、これならどうかな? 事象は理を得て流転する。変換」
今度は何も無いところで、右から左に向けて右腕を大きく振ると、こちらに向かってきていた子蜘蛛達は、後ろから何かに吹き飛ばされる形でこちらに飛ばされてくる。それと同時に、地面に落ちている小石を拾い上げて、子蜘蛛に向けて放り投げる。
「揺蕩う者は無機物を押し出す。変換」
アムリタが言葉を言い終わると、放り投げた小石は、まるで散弾銃の弾であるかのように、勢いを付けて子蜘蛛達の体に無数の穴を開けていく。子蜘蛛は緑色の体液をまき散らしながら、まだこちらに向かって吹き飛ばされている。
吹き飛ばれていた七匹の子蜘蛛の一匹が、アムリタと俺に衝突しそうになった時、アムリタは拳で子蜘蛛を払いのけると、子蜘蛛の体はバラバラに飛散していった。他の子蜘蛛達も、壁に衝突した後は、動く気配が無く絶命したんだと理解できた。
一体何をしたのか、分からぬまま、あの絶望とも思えた戦いは、終わりを告げていた。圧倒的な力で、アムリタが終わらせてしまった。
「終わった・・・・・・のか」
俺の中で渦巻いていた黒い感情が、理解できない力を目の当たりにして、抜けてしまったのだろうか、身を焦がすような怒りが今では、平坦な心になり始めていた。いや、アムリタがあの奇妙な力を使う度に、俺の心から感情が、抜き取られているような感じがしていた。
「ああ、もう存在する悪意の獣は、居ないみたいだ。時期に絶界もとけるだろう」
子蜘蛛に拘束されていた腕も、子蜘蛛が死んだことで、糸が消えて無くなっていた。
様々な疑問が頭の隅に残るけど、今は殺されてしまったアンリのもとに近づくが、残されているのは食い残された肉片だけだった。
「何でこんな事になるんだ」
呼んでもいないのに、目からは涙が出て止まらない。立っていることも出来ずに、膝を崩すしか出来ない。何故こんな理不尽な目に遭わなければいけないのか、誰かに教えて欲しかった。
俺の様子を、後ろで見ていたアムリタが俺に尋ねる。
「その娘を、助けたいのか?」
思いがけない言葉だった。もう無理なんだと諦めた時に、アムリタは助けたいのか? と聞いてきたのだ、それは、助けられると言う事なのだろうか? 俺は期待のまなざしを向けてアムリタを訪ねる。
「助け・・・・・・られるのか?」
俺の問いかけに、アムリタは悪魔じみた笑みを浮かべた。
「方法は無くは無い、だが、今すぐどうにか出来るものでも無い」
「どういう事だ?」
「ふむ、説明しても良いが、絶界が終わる。まずは貴様の中で、休眠するとしよう。家に着いたら我を起こすが良い」
そう告げると、アムリタの体は、黒い霧に変化して俺の体に吸い込まれていった。気分が悪いという感じも無く、特に異常はなさそうだった。
すると、先程まで青い世界に包まれていた空間にヒビが入り、崩れていく。そして、普段の世界に戻ってきた。
戻ってきた世界は、夕暮れ色に染まり。戦いで出来た傷跡は何処にも残っていない。アンリの無残な遺体すら目の前から消えていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
絶界が崩壊するほんの少し前、キョウヤとアムリタを観察する、二人の人影が少し離れたマンションの屋上にあった。
「嘘! あいつ魔導書を召喚したのか?」
「落ち着けクレメンテス。裏返りし者ではなさそうだが・・・・・・、これはどうしたものか」
傍観者の二人にとっては想定外の事態だった。まずはキョウヤが、この絶界と言われている空間で自由に動いている事が、あり得ない出来事だったからだ。
絶界とは、世界に拒絶された空間であり、普通の生物は動くことも、意識を働かせることも出来ない空間である。つまりこの中で動いてる生物は、人知を超えた何かを、身に宿していると言うことになる。
またこの空間で生物が死んだ場合、普通の死とは違う現象が発生する。通常死という事象があった場合、その原因があるわけだが、この絶界の死は、元の世界では死の原因にならない。その為、その生物は現実には居なかったという認識で、世界は書き換わることになる。勿論これにも例外があるわけだが、その例外も人知を超えた存在にしか起こりえない。
後の違いは、元の世界とこの絶界の空間では、時間の流れが違うと言うことだ。この絶界の空間での何日何ヶ月過ごしても、外の世界では一秒も経過していない。
だからこそキョウヤを驚異として、観察していたのだが、更に驚くべき事に、魔導書を召喚していたのだから、二人にとっては、何者なのかと言う疑惑が頭から離れない。
絶界を生み出すのは、魔導書とその眷属だけである。つまり、二人はキョウヤが、この空間を生み出したのではと、最初は考えていたが、子蜘蛛を見て、別な魔導書が原因だと、認識した。だが、キョウヤも魔導書を、所持してると考えると、驚異が二倍に増えただけと思えてならない。
「ルザール考えるまでも無い事だろ。敵なら殺せば良いんだから」
「クレメンテス、お前の短絡的すぎる。だが、確かにあの力は脅威ではある。それに我々と同じ魔術師ではないとしたら・・・・・・魔法使いなのか? どちらにしても、敵だと認識した方がよさそうだな」
クレメンテスは十二歳ぐらいで、赤いローブを羽織った金髪碧眼の少年だった。赤いローブの背中には、セフィロトの樹が刺繍されている。
ルザールは十九歳ぐらいで、こちらは黒いローブを羽織った、眼鏡をかけた裏葉色の髪をした青年で、ローブの後ろには同じようにセフィロトの樹の刺繍がされている。
どちらも一般人とは思えない、雰囲気を持ち合わせていて、異質な存在であった。
「で、どうすんだ? ここでやっちまう?」
「いや、絶界は奴らの世界、態々不利な状況で戦う必要はない。それに、あの姿を見るからに学生に成りすましているようだ。なら罠を仕掛けて仕掛けるのが定石というものだ」
「魔法使いが、学校なんて行くのか?」
クレメンテスの疑問は最もだった。
魔法使いと呼ばれる存在は、この世界で表だって活動することはあり得ないと言うのが常識だからだ。
その存在は、神と呼ばれて信仰の対象になっている。
魔術師達にとっては、忌むべき存在。真実を知らない人達は何をありたがって信仰しているのか理解すらできない。
そんな存在が、学校に通うというのは、ありえないことだからだ。
「わからんが、何か行く理由があるのかもしれんな」
「俺は狩れれば良いから、面倒な事はルザールがやってくれよ」
魔術師と名乗る二人は、絶界の崩壊を見届けた後、静かに息を潜めて夕暮れの彼方に消えていった。その事をキョウヤは、気付かずにいるのであった。