第二話 最後に願うこと
蛍光灯が、怪しく光る学校の廊下。窓の外は暗く何も映し出さない。
廊下に終わりが無く、ある一点まで行くと、ループするようになっていた。教室の扉を開けても、廊下、窓を開けても廊下・・・・・・。何処までも続く廊下の迷宮。
この何処までも続く廊下から騒がしい音が聞こえてくる。
音の一つは、廊下を走る男子高校生、加賀恭弥。
もう一つが体長三メートルはありそうな大蜘蛛。
必死の形相で、逃げる恭弥を大蜘蛛は、つかず離れずの距離で追いかけていた。
大蜘蛛が、走る度に鋭い前足が、床を削っていき、徐々に足場を悪くしていく。
「ど、どうなってるんだぁぁ!!」
キョウヤの記憶の中では、たしかに今走っている廊下は、自分が通っている高校に似ている。壁に貼られた、部活動のポスター、教室のプレートが壊れているのだって見覚えがある。違う点は、廊下がループしているのと、廊下の幅が広がっている事だった。
こんな三メートルもある、大蜘蛛が自由に走れるほど、廊下は広くなかったはずだけれど、まるで、誰かが調節したかのように、ピッタリ収まっている。
何故こんな事になっているのか、キョウヤには心当たりが無かった。自室で学校から渡されたプリントをどう書けば良いかと悩んでいて、気がついたらこのような状態になっていた。
最初は、夢でも見ているのかと思ってはいたが、それにしては現実感がありすぎる。
走る度に、口の中に広がる血の味も、汗でべっとりとくっついたシャツの感触も、息切れして苦しい事すべて、現実だとしか思えないぐらい、はっきりとした感覚だった。
だからこそ、大蜘蛛の前足に巻き込まれたら、死ぬと言うのも理解できた。
逃げれるギリギリの速度で追ってくる大蜘蛛の性格は、醜悪さがにじみ出ている。
キョウヤは左手に見える教室の扉を勢いよく開けて、そのまま飛び込むと大蜘蛛は、教室の扉を横切って走り抜けていく、だが、すぐに引き返してくるのを知っている。先程から、それを繰り返しているからだ。
廊下には、大蜘蛛の足跡が無いところから、新しい廊下だという事が分かる。前の廊下は、もう床は穴だらけになっているからだ。
今は少しでも休息を取って、再び走る力を蓄えないといけない、ただ、この追いかけっこは何時まで続くのか、分からない状況が、恭弥の精神を確実に追い詰めていた。
走りすぎて熱された体の穴という穴から汗が噴き出て、胃液が口から溢れ出る。
「はぁはぁ……うぐあぐぉええぇ」
廊下の隅に吐瀉物を撒き散らし、呼吸しようにも吐いている為、上手く出来ない。脳は既に酸欠状態になっていて、意識はふらついていた。
「最悪だ・・・・・・何もかも最悪だ」
キョウヤの両膝は床に崩れ落ち、弱音を吐き出していた。すでに精神的にも肉体的にも、限界を迎えているが、死にたくないという意思が、必死に足を奮い立たせようと頑張っている。
キョウヤは背後に視線を感じて振り向くと、大蜘蛛が、キョウヤが出てきた窓の隙間からのぞいていた。三メートルもある巨体だと、どう考えても通り抜けれないが、この空間ではそんな常識は通用しない。現に教室の扉をくぐったキョウヤだが、窓からこの廊下に出て来ているので、出入り口の大きさは、見た目通りでは無いのかも知れない。
だからこそ、大蜘蛛は、キョウヤに向けて速く逃げないと、殺してしまうよと言いたげに覗いているのだ。
「にぃ、嫌だあああぁぁぁ!!」
キョウヤは情けない声を上げて、必死に足を動かし始める。だが、その走りは先程と比べて確実に、遅くなっていた。
大蜘蛛は、その無様なキョウヤの様子を、喜んで見ているようだ。
そして、どうやっても通り抜けられないと思われた窓が、大蜘蛛の体長に合わせて広がり、難なくキョウヤの居る廊下に、やってきた。
先程よりも遅いキョウヤに追いつくことは、大蜘蛛にとっては簡単な事であり、急かすようにまた後ろをつかず離れずの距離を、保っている。
一歩一歩後ろから追いかけてくる、恐怖の足音に、恭弥は涙を流していた。鼻の穴なんてもう鼻水で塞がって、息すらうまく出来ない状態だ。
キョウヤは無意識のなかで、諦めたのか、それとも肉体的限界から来たのか、足が急激に遅くなっていく。
大蜘蛛は、その様子を見て先程までは、つかず離れずの距離感だったが、走る勢いをあげて前足で、キョウヤの体を前に突き飛ばす。
突き飛ばされたキョウヤの体は、天井まで跳ね上げられ勢いよくぶつかると、そのまま床に叩き付けられる。その衝撃で、両腕の骨と腰の骨が折れてしまい、内臓もあばら骨が刺さっているみたいで、口から血が溢れ出す。なお運が良いのか悪いのか、その状況でも即死出来ずに、痛みと恐怖を感じながら生きている。
「イギィイイイイアア!!」
痛みで出る叫びは、すでに言葉をなしていない。
大蜘蛛は、動けないキョウヤの左肩に、自身の鋭い前足をゆっくと突き刺していく。
「イガァアアアア・・・・・・アア」
大蜘蛛はキョウヤの悲鳴を聞いて満足そうに、左肩の肉を抉り取るように前足を抜いた。
キョウヤの左肩からは、普段見えるはずの無い白い骨がむき出しで見えていて、今にもとれてしまいそうだった。
だが、大量の出血により、痛みを感じなくなっていた。それどころか、意識すら無くなっていこうとしている。
キョウヤの瞳から、光が無くなろうとしている時に、異変が起きた。
キョウヤと大蜘蛛の間の空間が、ねじれ始め徐々に亀裂が走っていく。
流石の大蜘蛛も、目の前の現象が理解できないのか、後ろに下がり距離を空けていく。
亀裂の入った空間から、黒い煙が大量に漏れ出し、出し終わると空間は元の姿に戻っていった。残された煙は、徐々に形をなしていき、それは人の姿へと変わっていく。
そして、十四、五歳ぐらいの女の子になっていた。右サイドを編み込んだセミロングで白髪、黒いローブを羽織っていて、インナーの白いペアトップの右側には、黒い糸で幾何学模様の刺繍がされている。無表情と言うぐらい表情の変化は無く、赤い瞳が大蜘蛛を見つめていた。
女の子は天使と間違えるぐらい、美しい姿であるが、衣装からすると死神かもしれない雰囲気をまとっていた。
女の子が、完全に姿をなした時、キョウヤの瞳からは光が無くなっていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『心象領域に侵入成功』
アムリタの言葉と同時に、今まで闇の中にあった意識が、はっきりとしていく。
僕はどうやら、学校の廊下に居るみたいだ。
心象領域とは、心の世界の事だ。この魔導書の契約者は、学校に思い入れがあるということになる。目の前に見える大蜘蛛が、魔導書に歪められた契約者の姿だ。
後ろで倒れてる男子高校生は、被害者と言ったところだろう。
この凄惨たる光景を目の当たりにした僕の感想は、狭い通路での戦闘は、やりづらいという感想ぐらいしか無い。
「ここは、学校だよね?」
僕の心の中に居るアムリタに話しかけると、アムリタの声が頭に響いてくる。
『どうやら、この欲望の持ち主は、学校とやらに思い入れがあるようだ。ムヨクは、学校に思い出とかはないのか?』
思い出はないのかと聞かれ、数秒考えるが特に思いに残った物は無かった。
「・・・・・・無いと思う」
『だろうな』
予想通りの答えに、つまらないと言う感じでアムリタは短く答えた。
そんな会話のさなか、目の前に見える大蜘蛛は、僕を視認すると何者なのかと、観察するように八つの瞳で見つめている。だが、そんなことは僕にはどうでも良かった。
「あれが今回の獲物で良いんだよね?」
『うむ。あの大蜘蛛が今回の獲物で間違いは無い・・・・・・。して、後ろの者はどうする? 助けられるのに助けないのは、迷惑をかける事になるかもしれんな』
確かに魔法を使えば、虫の息であっても脳が生きているなら助ける事は可能だけど、アムリタがそう言うのは、珍しい。
「まずは、後ろの人の治療からするよ」
『・・・・・・難儀な呪いだ。だが、良いのか? 後ろの人間を助けた場合、この心象世界の主に迷惑がかかるのではないか?』
意地の悪そうな声で、僕に質問してくるが、僕の答えは決まっていた。
「人の形をしていないから、人じゃないよ」
シンプルな答えだけど、人が人と認識するのは、人の形をしているからだと僕は思う。
仮に目の前の蜘蛛が、人の形をしていたら、アムリタの質問に悩んだかも知れない。
だから僕は、良心で助けようと思ったわけではないのだ。
『なるほど、人の形でないものは人非ずということか……そうかもしれないな』
「その方が、わかりやすいでしょ? どうやらお喋りしている暇は無いみたい」
彼に近づこうとすると、今まで僕を観察していた大蜘蛛が、ゆっくりとした動きで前進し始める。今まで青色だった目も赤く光り、僕を敵として認識したのは間違いないようだ。
大蜘蛛が動く度に、床に穴が開いていく。それは、前足の鋭さを物語っていた。
大蜘蛛の前足が、僕に突き刺さろうとした時、僕は右手を大蜘蛛に向けてかざす。「集え我が外敵を拒む鎖。黒い束縛」と短い言葉を唱える。すると黒い鎖が、何も無い空間から現れて大蜘蛛の体を雁字搦めに固定していく。
喉元数センチにある大蜘蛛の前足を見ると、後コンマ数秒呪文が遅れていたら、僕の体は大蜘蛛の前足に串刺しになっていただろう。
僕が今使った力は、魔法というらしい。魔法は、核となる言葉と、小節という命令文で構成されている。
今回唱えた【黒い束縛】が核となる言葉になる。これ単体だと、鎖をだすと言う効果しか無い。その為に、どう使うのか命令が必要になってくる。その命令が呪文の前に付け足される小節となっている。
魔法を使うには、発動のための魔力と呼ばれる、精神エネルギーが必要になるが、この消費量は、使う呪文と小節の長さによって変わってくる。一小節、二小節、三小節と長ければ長いほど複雑な魔法を行使する事が出来るが、その分魔力の消費量と、詠唱中は隙だらけになるという弱点もある。
この小節と核となる言葉を発する行為を、詠唱というらしい。
魔法をどう使いたいかイメージすると、アムリアが小節を教えてくれるので、僕はそれを言葉にするだけだ。今は大蜘蛛の動きを止めたいと思っただけなので、一小節で済んだけど、魔法戦では、なるべく魔力消費を抑えないといけないので、戦闘では長くても三小節までしか使えない。勿論、僕のように自ら魔力が生成出来ないからこの様な厳しい条件があるけど、敵は無尽蔵に魔力が生成出来るうえ、化け物化しているのだから、戦闘に置いて絶望的なほど、戦力差があることになる。
だけど、そんな不利な状況は、今に始まったことでは無い。
身動きのとれなくたった大蜘蛛は、鎖を引き千切ろうと力任せに体を動かすが、今のところ鎖が引き千切られる様子は無い。
『一小節の魔力しか込めてないから、長くは持たないぞ』
「治療をする時間が稼げれば大丈夫」
アムリタの忠告を聞きながら、血塗れの彼の体をまさぐるように調べていく。心臓の鼓動を確認してみると、すでに心配は停止しているみたいだ。でも、心肺停止してから三分ぐらいなら、大量の魔力と引き換えに、十分蘇生できる範囲ではあった。
彼の胸に左手を当て、僕は再度詠唱をはじめる。
一小節目のイメージは、流れ出てしまった血液が戻る様子。
二小節目のイメージは、千切れてしまった肩が戻る様子。
三小節目のイメージは、止まってしまった鼓動が再び戻る様子。
四小節目のイメージは、息を吹き返す様子。
五小節目のイメージは、目を覚ます様子。
全部で五小節は必要になる言葉を、アムリタが僕の意志に伝えてくる。僕はそれを言葉に変え世界に伝える。
「流れ、流れ、流れ、万物の棺から流れ出る雫。死に向かう橋の途上、血肉は踊る生を求めて。我は拒む死を拒む者。ならば死は生、無は有に流転を求める。我が祈り、この者に生命の形を与えたまえ。生命の再起」
詠唱を終え魔法を唱えると、アムリタに保存してあるであろう大量の魔力が消費されたらしく『もう、予備に使える魔力は無いぞ』と余裕が無い事を僕に伝える。
彼の体から流れ出ていた血液は、時間が巻き戻るかの様に、本来あるべき場所に戻っていく。血が戻ると抉れていた左肩は、傷口など無かったかの様に、くっついていた。止まっていた鼓動も再び動き出し、息を吹き返す。失われた意識もゆっくりと覚醒していく。
「痛! ……たくねぇ?」
まるで狐に唾まれた顔をして、彼は自分の左肩を見ながらさすっていた。
この様子をみると、精神的にも問題は無さそうだった。
それと同時に、大蜘蛛を拘束していた鎖は、バギバキと音を立てて砕けていく。
『限界だ……くるぞ』
開放された大蜘蛛は、その勢いを殺さずに襲い掛かってくる。
ガシュン ガシュン ガシュン とたぶん恐ろしい音なんだなんだろう。僕の後ろにいる男子高校生は「う、うわあああああ」と悲鳴を上げて後ずさっているのが見えるから。
僕は何も感じない。ただいつも通り狩るだけだから。
「黒鎌」と魔法だけを言葉にした。
小節を唱えない場合、その魔法が持っている本来の効果が発揮される。
この方法は、魔力消費が一番少なくて済むが、その分効果時間は短く、威力も低い。
黒鎌と聞くと、死神の大鎌を想像するけど、それはイメージが繁栄された姿であって、この魔法本来の姿ではない。
この魔法本来の姿は、不形の黒い霧……まとわり付くように粘着質のある足止めの魔法になる。
蜘蛛は体中を黒い霧に包まれて、先程まであった勢いが殺されていく。
だけどこの魔法は、拘束ではなく相手の動きを遅くするだけ、しかも小節破棄しているので、効果はほんの数秒しかもたない。でも、それだけあったら十分だと思った。
「今の魔力だと、何が出来る?」
『三小節までの魔法なら、使えるはずだ。ただその後は何もできなくなるな』
後ろの彼は、怯えていて、このまま放置してて良いのかわからなかった。普通の人ならどうするんだろう。このまま大蜘蛛を倒すべきなのが、それとも逃げるべきなのかな。
「撤退は?」
『根本的な解決にならんな』
確かにここで逃げてもアムリタの魔力を回復できない以上、使った分損する形になるから撤退は出来ない。状況的にも逃げて体制を立て直すには、後ろの男子生徒が邪魔でしか無い、消去法的に、戦うしかない。
「二小節まで使うね」
『了承した』
今の状態で長期戦は出来ないので、速度低下している今のうちに仕留めてしまうしか無い。幸いにも、大蜘蛛の知性は高くないと判断出来る。まだ、契約者の心を完全に掌握出来ていないためだろうけど、完全体なら殺されていたかも知れない。
詠唱を始めようと意識を集中させると、怯えていた男子生徒が、僕の足に纏わり付いて大声で叫んだ。その表情からは、この状況から解放されたいという思いを強く感じさせる。
「あ、あんたが、この意味の分からない状況の元凶か! こ、こっちは迷惑してんだ・・・・・・頼むから・・・・・・家に帰してくれ・・・・・・」
縋り付く彼は、僕がこの状況を作ったと考えたみたいで、懇願していた。その表情は、大の男が見せるものではなく、幼子が見せる感情そのものだった。
勘違いにしろ僕は彼に、迷惑をかけてしまったみたいだ。彼を生き返らせたこと事態、彼にとっては恐怖を再び与えただけなのかも知れない。生き返らせてしまった場合、優先するのは、大蜘蛛を倒すことでは無く、彼を元の座標に戻すことだったのか・・・・・・。
また失敗しちゃった。僕は失敗を繰り返し続ける。母さんが死んでから、その繰り返しだ。
「今・・・・・・戻しますね」
僕は攻撃魔法を中断し彼の願い通り、帰還魔法を唱え始める。
『何をしている、魔法が切れるぞ!!』
アムリタの警告は聞こえているけど、人に迷惑をかけるわけにはいかない・・・・・・。
僕は彼に左手を向ける。
急に手を向けられた彼は、体を小さく震わせた。
「現世に楔を・・・・・・」
静かな廊下に、淡々とした口調で僕の声が響き渡る。聞く者が聞けば眠気を誘うような落差の無い平坦な音程。雑音の混ざりようのない一定のリズム。だけど、その途中混ざるはずの無い雑音が僕の中から聞こえてくる。
初めての音に、僕はどう表現して良いか分からない。端的に答えるとしたらその音は、僕の肉と骨を貫いた音だ。
最初は何が起きたのか分からなかった。ただ、治療した彼の顔が、急に真っ赤な血に染まった事が、最初の不思議だった。すると、先程の聞き慣れない音が聞こえ、次第に水滴の音が聞こえてくる。
腹部がじんわりと熱くなった時、下に目線を向けると大蜘蛛の足が僕の腹部から生えていた。正確に言うなら、大蜘蛛の足が僕の背中に突き刺さって突き抜けたということだ。
脳を直撃するような激しい痛みが、僕に襲いかかるけど、あまり気にならなかった。ただ、困ったことに詠唱を続けようにも、言葉が上手く出せないので手こずりそうだと言うことだ。
「あ、あんた・・・・・・」
僕のことを見ていた彼は、動揺した表情を僕に向けていた。何故その様な顔をしているのか、少し考えたけど分からないので、詠唱を続ける。
「トラ・・・・・・ポ・・・・・・」
ゆっくりと魔法を口にする。その間に、僕の右手が大蜘蛛の残っていた前足で引き千切られる。
かすれる声で、魔法を発動させると、彼の体は光に包まれていく。
突然の状況に、彼は訳の分からないという感じだったが、その表情も光と共に徐々に姿を消していく。
光が完全に消えた時、この廊下に残されたのは、大蜘蛛と僕だけになった。
これで、誰にも迷惑をかけなくて済む事に、僕は心の底から安心した。
『ミイラ取りがミイラとは、理解に苦しむが、呪いとは抗えぬものなのかもしれんな』
いつもと違うアムリタの口調に、僕は答えたいけど声が出ない。体も力が入らず突き刺された大蜘蛛の前足に寄りかかっていた。
たかが血が体から抜けただけで、動かなくなるなんて、人の体とは脆いものなんだと思った時、母さんが死んだ時の事を思い出していた。
あの時も人は脆いと感じていた。
今の僕もあの時の母さんと同じように、死ぬんだと理解した。
死ぬ事に恐怖はない、生きる事に執着すら無い。ただ、このままアムリタと別れて良いのかという思いが、脳裏によぎる。
「・・・・・・ア・・・・・・アア」
何かを喋ろうとすると、口から息が漏れるだけで、言葉をなしてはいなかった。だけど、僕と繋がっているアムリタには、それだけで伝わると確信があった。
その様子を大蜘蛛が、黙って見ている訳はなく、彼を逃がした怒りを僕の体にぶつけてくる。
右足を抉られ普段は、見えないはずの骨が見えていた。
その都度僕の反応を伺うが、僕が叫びも痛がりもしない様子に、大蜘蛛の怒りが収まらない様子だった。
壁に体を叩き付けられ、次第に意識が遠のいていく。
『では、どうする?』
途切れゆく意識の中で、アムリタの声だけがはっきりと聞こえてくる。
目も見えず、息を吸う事も出来ず、意識すら暗闇に飲まれようとしている中、僕はアムリタに答える。
「・・・・・・・・・・・・」
言葉は出ない、だけど答えは出した。
大蜘蛛は、突き刺していた足で、僕の体を上半身と下半身の二つに分けた。
臓物がだらしなく床にぶちまけられ、その中に僕の上半身は沈み込んだ。
意識がなくなる前に、アムリタの答えが聞きたかった。
『実に不本意だが、ムヨクの願いを叶えよう』
僕はその言葉を聞き安心する。
そして、僕は死んだ。
後に残されたのは、僕の体を貪り食らう大蜘蛛の姿と、血に染まった廊下。
噎せ返る血の臭いに、大蜘蛛の目の色は狂気に染まっていた。
もう戻れない一歩を、この心象世界の主は、踏み越えたと言う合図だった。
それを知る者は、誰も居ない。
ここまでがプロローグになります。次話から主人公が変わります。