第53章.淡く、薄く、儚きモノ
「___で、あるからして。この問題はこうなるわけで……」
「んが…?」
聞こえてきた淡白な声で意識が覚醒する。
どうやら知らないうちに眠っていたらしい。寝ぼけ眼で見た淡白な声の主は数学の教師だった。
今は授業の真っ最中でカリカリと黒板にミミズが這っているような何だかわからない数式の数字が綴られていく…
周りの生徒は書かれた文字を見ては手元のノートに記し、また見ては記すを時間が許すかぎり飽きもせずに繰り返す。
よだれの垂れた口元を腕で拭うも、まだまだ眠り足りないのか。授業中にも関わらず、大きな欠伸が出てきた。
(寝みぃし……だりぃ…)
寝ていた筈なのに体は全く寝足りておらず、妙な気だるさに今さら周りのように授業を聞く気になれなかった。
億劫な気持ちでいっぱいになり、そんな彼らの勤勉な姿を尻目にふと見た窓の外は辟易するほど平穏が広がっていた。
「……ふぁぁ~…ふぅ…」
窓から入るそよ風に思わず眠気に誘われ、再び大きなあくびを溢す。
自分でも呆れる程ではあるが気に止めている者はおらず、皆黙々とノートにペンを走らせるばかりである
(退屈だな…)
流れる雲を見つめるのも飽きてそう、心でぼやくと隣の席に座る生徒がノートを写していた手を止め、チラリと視線を向けてきた。
「あ……わり…」
どうやら、心でぼやいた筈なのに口に出てしまっていたらしい。
手振りと小声で謝ろうとしたがそれより早く隣の生徒はさっさとノートに視線を戻してしまった。
(……帰るか)
なんとなく、自分がこの場にいるのは場違いな気がして、授業の真っ只中だが席から立ち教室を後にする。
だが、その時も、不思議と誰一人として自分を見つめる者はいなかった。
〉〉〉
廊下を歩いていると目の前から次の授業の準備をする教師がやってきたが、授業中に出歩く自分を注意しようともせずそそくさと通りすぎて行った。
(あれ…)
立ち去っていく教師の背中を見ていたその時、ふと妙な違和感を感じたのだ。
「なんで、今………」
違和感を口にしようとしたが、遮るようにして授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
ざわざわと騒がしくなる教室。ようやく終わった授業から解放された生徒たちが教室から出てきて廊下は瞬く間に騒々しくなっていく。
「…なんだったっけ?」
自由に行き交う生徒たちに気を取られたせいか。なんと言おうとしたのか忘れてしまった。
「……ま、いっか…」
思い出そうと数秒間程思い返すも、やはり思い出せず、首の後ろを掻きながら早々と足を進めていく。
その時だった。
「い、行かないって、言ってる…だろ!」
「良いじゃないのよ、話題沸騰中の蕪木一座の白雪嬢よ?芸能人なんて東京行かないと見れないんだから少しくらい付き合いなさいよ!物凄い美人なんだから行かなきゃ損よ損!」
「じ、自分…が見たい、だけ……だろ?!ミーハーのくせに!」
立ち去ろうとした自分の耳に、二人の会話が聞こえてきたのだ。
「ぇ…」
廊下はたくさんの生徒の声が入り交じり、誰がどんな会話をしているのかなど到底聞き取れない筈である。
なのに、今すれ違っていった二人の声は、会話は脳に直接響いたと感じる程ハッキリと聞こえてきたのだ。
思わず立ち止まり振り返るも、生徒の波で誰が話していたのか分からなくなっていた。
「今の……は……」
他愛のない会話。それも微塵の興味もわかない内容だった……しかし、帰ろうとしていた足はその場から動かず、目はもう見える筈のない二人の姿を必死に探している。
気づけば心臓の鼓動が早く、額から冷や汗が流れ落ち呼吸は絶え絶えになりそうなくらい荒くなっていた。
______追いかけないと。
そう思った瞬間、体は生徒の間を掻き分け見えない二人を追いかけていた。
「はぁ、はぁ、はぁっ……!!」
生徒たちを押し退け廊下を駆けるも二人の姿はどこにもない。
立ち止まるとほぼ同時にチャイムが鳴り、生徒たちは自分たちの教室へとそれぞれ戻っていき、次第に廊下には自分だけが一人取り残されてしまった。
見失ってしまった。焦りと苛立ちに舌打ち、授業が始まろうと知ったことかと再び駆け出そうとした瞬間。
「どこに行く気でござる。学生たるもの勉学を怠ってはいかんでござるよ」
「うおっ…!?」
突然背後から女性の声が聞こえ、驚いて飛び退く。
そこにいたのは柔らかに目元や口元を微笑ませた、声を聞いていなければ一瞬男か分からない程綺麗に整った顔立ちをした女性だった。
突然現れた綺麗な女性に言葉を詰まらせていると目の前の女性は大きくあくびをした。
「ふぅ……あぁ、失礼した……はて、何の話でござったかな?」
「あ……?い、いや、話って程じゃ……あんたが授業が始まるぞって……」
「おお、そうでござったそうでござった……いやはや、失敬した。拙者何かと物忘れが激しくてな……何でもかんでもすぐに忘れてしまうのでござるよ」
「そ、それは……大変…すね」
「はは、なに。忘れたことも忘れる故、気楽なものでござる」
「……笑うとこなんすか…」
のんきにあっけらかんと笑う女性に変な奴だと呆れの目を向けるも、女性は全く気にした様子もない。
「して、お主此処で何をしているでござる?」
「いや…別に眠っちまいそうなくらい暇だったから帰ろうと思ってただけすよ…」
「ほー、それは結構。寝るほど暇なら日の下で寝る方が格段に心地よいものでござろうからなぁ……よし、拙者も付き添わせてもらうとしよう」
「…あんたさっき学生たるもの勉学がどうとか言ってなかったっすか?」
「その様なことを言った覚えはないでござる」
どこまでが冗談なのか全く真意が読み取れない女性はそう言って、校舎へと向かって歩き始めた。
突然現れ早々と去っていく風のように自由気ままな彼女に着いていくか迷ったが、来ないのかと言わんばかりの目で見つめてくる女性に急かされ、渋々後を追いかけた。
〉〉〉
「うむうむ、善きかな善きかな。やはり昼寝は木々の下で程よいこぼれ日を浴びるに限るでござる」
学校を抜け出し、女性に誘われるまま歩き続けてしばらくして、ようやく目当ての場所まで来た自然公園に入るや否や。
呑気に背伸びをしながら木々の下へと寝そべったのだった。
「………」
「どうしたでござるかな。せっかくのお天気だ、昼寝せねば損というのもでござるよ」
「あ……あぁ…」
「ふむ、風が心地よいてござるなぁ。教師だったことなど忘れてしまいそうでござる…」
「んー……ん?はあ?!あんた教師なのかよ!?良いのかよ学校抜け出した挙げ句寝てて!?」
「ん~、何のことでござる?」
「何のって…!!あ”ぁー!あんたと喋ってると頭が変になりそうだよ!」
「はは、そう苛立つでない…考えるまでもない些事な事でござるよ」
「笑い事じゃねぇよ、ったく……あ、そう言えばっすけど…」
今さらながら抱いた疑問にもだが、人語を話す猫と会話しているような感覚と陽気さに苛立ち髪を掻きむしっていたその時、ふともう一つ疑問を抱いた。
「オレ、あんたの名前知らねぇっすけど…なんて名前なんすか?」
それは、公園まで来ていながら遅すぎるぐらい素朴な疑問だった。
顔の知らない教師。自分で口にしていながら不思議に思えるくらい今さらな疑問に寝そべったままの彼女は少し驚いた表情をした。
「あ、いや。オレあんま教室とかにいねぇから知らねぇっうか……その……」
「………いやいや、こちらこそは失敬した。そう言えば名乗っておらなんだでござるな」
ばつが悪く、頬を指で掻いているほんの数秒の沈黙の後、彼女はゆっくりと体を起こすとそう言って、小さく微笑んだ。
「拙者の名は長船。そう呼ぶとよい」
「長船……」
「今変な名だと思ったでござろう」
「うっ…ま、まあ……あんま聞かねぇ名だとは思った…」
「はは、素直で良い良い。名の珍妙さなど、それもまた些細なものでござるよ。ははは」
「ぐっ、笑うことねぇだろ…」
長船と名乗った彼女はそう言って、再びケラケラと陽気に笑う。
笑われたことに少し腹を立ったが、大人の余裕か。はたまた彼女の気質か。彼女の笑みを見ていると怒る気持ちは自然と無くなっていく。
「はは……それで。お主はなんというでござるか?」
「あ?」
「名は、なんという?」
一瞬、何を聞かれたのか分からず思考が止まった。
「どうしたでござる?」
「え、あ……い、いや…お、オレは…」
待つ長船の言葉にハッとなり慌てて名乗ろうとしたが、簡単な筈の言葉をうまく紡げない。
言葉にしようとすればする程気持ちが焦り、喉から先へ声が出てこなくなり思わず口に溜まった唾を飲んだ。
「オレ…は…」
何故か出てこない。何故か声にならない。何故か言葉に出来ない。
______何故か……
「オレ……は…」
______……!!
「っ!?」
「む……急にどうしたでござる?」
突如ズキリ、と頭の奥が激しく痛んだ。
異変に気づいた長船が手を伸ばすも平気だと断り、こめかみに手を当てながら痛みを振り払うように頭を振るが、激痛はもうすでに無くなっていた。
(なんだったんだ…今の……?)
痛みと共に何かが聞こえた。閃光のように瞬く間に消えたそれは叫び声のように聞こえたが、誰の声だったのかは分からない。
「……大丈夫でござるか?顔色が悪いでござるよ」
「いや…平気、っす……ちょっと頭が…」
見つめてくる長船に大丈夫だと手を軽く上げた手に汗が滲んでいた。
汗ばんだ手のひらを見つめ、先の声を思い返すもやはり、誰の声なのか分からない。だが不思議と毎日聞いていたかのような程、聞き馴染んだ声だった気がした。
「…ふむ、無理は良くない。暫しここで待っているでござる。水か何かもってこよう」
「え、あ…平気だっ…て……?」
引き止めようとした手が無意識に空中で止まった。
一人困惑していると異変に気がついた長船が振り返るが、何故か慌てて顔を反らしてしまった。
その態度に長船は怪訝そうな表情を浮かべていたが、すぐに背を向けその場から去っていった。
「……なんだったんだ…?」
自分の意思とは違い、手はまるで体が彼女に触れるのを拒んだかのように汗で濡れていた。
「…どうなってんだよ」
「あの……!!」
「あ…?」
何が何なのか、顔に手を当てながら項垂れまた一人困惑していると突然、頭上から声が聞こえてきた。
一体誰なのか。顔を上げると、そこには驚きと興奮、喜びが入り交じった複雑な表情をした他校の制服を着た少女が立っていたのだった。
「やっぱり…頭のとんがりさんを見てもしかしてと思いました!!お久しぶりです!こんなところで会えるなんて奇遇で……!」
「誰だテメェ?」
「え、えー…!?私ですよ!えっと、前に助けていただいた…!」
「あーーん…?前に助けた……?」
「ほ、ほら!大きな目をしたオバケから私を助けてくれたじゃないですか!」
目の前でわたわたと鞄を持ったまま手振りする少女。その必死に説明する嘘一つ吐いていない真面目な顔をじっと見つめ記憶を思い返してみるも、やっぱり思い出せない。
_____オバケ?なんの事だか、自分にはさっぱりわからない。
「テメェの言うオバケを見たこともテメェみてぇーな女も助けた覚えなんかこれっぽっちもねぇーよ。誰かと勘違いしてんじゃねぇのか?」
「いーえ!間違いありません!その頭のとんがりをハッキリこの目で見てました!覚えています!!そりゃ…私がオバケに狙われたせいで巻き込んでしまったから助けたつもりなんてなかったでしょうけど……轟さんがオバケを退治してくれたのは事実じゃないですか!!」
「お、おぉぉぅ…!?ち…ちけぇんだよテメェ……って、轟さん…?」
覚えがないと邪険にしようと目の前の少女は頑なに食い下がらないどころか妙な圧すら感じさせる勢いで逆に、目と鼻先近くまで押し迫ってきた。
慌てて離れようとしたが、少女が口にした言葉に引っ掛かった。
「轟さんって……オレのことか?」
「え?はい…轟さんのことですけど……お名前、轟カガリさんで合っていますよね?」
「轟、カガリ……???」
口に出し音にして聞く轟カガリと言う名前。
頭の中で何度も繰り返すその名に、モヤがかかっていた頭が冴え渡っていくかのような感覚に襲われる。そして、ようやく思い出す。自身の名前を、轟カガリと言う名前は自身の名前だと。
「そうだ、なんで…忘れてたんだ……オレは……」
「轟さん…?」
「ん?あ…バカ女」
「巫女です!!」
脳裏に甦った少女の記憶。それは隣町にある東海学園に通う、保立巫女であった。
ぷんすこ!と聞こえてきた巫女の子供っぽい怒り方に相変わらずだなと呆れるも、それよりも重大な事である。何故か忘れていた自身の名前にカガリは首を傾げた。
(なんで思い出せなかったんだ?)
今の今まで名前を忘れていた自分はまるで疑問すら抱かず誰か分からなかった。あったのは、自分は何者でもない『自分』と言う概念だけで動いていたような感覚であった。
自分でも何を言っているかわからない上に頭が痛くなるくらい理解できないがが、そんな薄気味悪い状態だった。
(何なんだ。この感覚…?)
考えても考えてもわからない。それなのに何かが頭に引っ掛かる。何故だかほかにも思い出せない何かがあるような……首を限界まで傾げさせていると、真似をするかのように首を傾げさせながらこちらを心配げに見つめている巫女と目が合った。
「……んだよ。なに見てんだ」
「あ…い、いえ!その……どうされたのかなって…何か悩み事でもあったんですか?」
「はん!ねぇーよ、んなもん。あってもテメェにだけは言わねぇ、さっさと帰んな」
心配してくれている巫女を追い払うように手を振る。そんな彼女の露骨な態度に巫女は悲しげに眉を下げた。
「お久しぶりにあったのに、そんな邪険にしないでください…ずっとお会いしたかったんですよ?」
「なぁにが会いたかった、だよ。オレは別に会いたかなかったっうの。っか、テメェなんでここにいんだよ。学校はどうした学校は?お嬢様のくせにサボりか?」
「ち、違いますよ!今日は夏季前のテストで午前中までだったんです!抜け出したりなんかしてません!こ、ここに来たのはその……轟さんに会えるかなって…」
「……ふん、相変わらずお花畑な頭をした奴だなテメェは。そのうじうじした態度は止めろ、鬱陶しいったらありゃしねぇーよ」
出会った頃と変わらないいじらしい態度に悪態を吐きながら辟易する。
ほんの少し強く言われ、顔をうつ向かせ分かりやすく落ち込んでしまう巫女。そんな姿に妙な罪悪感にかられるがそれにもまた苛立ち、がしがしと乱暴に髪を掻きむしってしまう。
「チッ、めんどくせぇ…」
「おや、お邪魔でござったかな」
「……ハァ」
どうしたものと悩んでいたその時、自販機で買いに行っていた長船が、ようやくカガリの元へと帰ってきたのだった。
しかし。その顔はまるで逢い引きした瞬間を目撃したかのようにニヤニヤと笑っており、面倒な気配を察したカガリは深く嘆息した。
「邪魔ってなんすか…こいつとは初対面っす。なんの関係もねぇっす」
「しょた…!?もぅ…ひどいですよぉ…!」
「ははは、初対面であれなんにせよ。仲睦まじきことは善いことでござる」
「だから、ちげぇって…オレぁ別に、こいつと仲良くなんざして……」
「拙者は長船と申す。そなたの名はなんでござるか」
「ほ、保田巫女と申します!」
イタズラじみた笑みを浮かべた長船に否定しようするも、すでに興味が巫女に移っており、何を言っても無駄だとわかったカガリは肩を落とした。
何もしていないのに心労を感じていると、空に二発、三発と花火が上がり始めた。
「なんだ?」
「………おー、そう言えば先ほど何やら催し物があると耳にしたのでござった。確か……」
「蕪木一座の花魁劇場って名前だった筈ですよ。有名な劇団って学校の人に聞いたんですけど……私、ニュースしかあまりテレビを観ないのでよく……」
「オレもテレビとか観ねぇし知らねぇ」
「ふむ。では教養を培う為に観に行くとするでござるか」
「あ?オレ興味ねぇんっすけど…」
「花形の白雪嬢はそれはそれは美しいおなごでござるよ~」
こちらの話などもはや聞いておらず、自分が言いたいことだけ残して長船は二人を待たずにさっさと賑わっている声が聞こえる方へ向かっていった。
「やろぅ…!全然話通じやがらねぇ…会話する気あんのか?」
「え、えっと…どうしましょうか?轟さん…」
「……」
「と、轟さん?」
「あ?…ケッ、そう言やぁ。水も貰ってねぇし、このままテメェと二人っきりでいるのも御免だな……おら。とっとと行くぞ、バカ女」
「え、あ……は、はい!」
しばし考えた後、歩く背中が見えなくなりそうな長船の後を渋々追いかけることに決め、カガリは巫女を連れて追いかけていく。
その後、人混みに紛れる前に長船に追い付き、三人は普段は静かな筈の賑わう商店街へとやって来たのだった。
「わぁ…!!」
「あが……」
商店街に着くとまず最初に感嘆の声を上げたのは巫女であった。
いつもは寂しさすらある商店街の道の真ん中には今日ばかりは夏祭りのように、きらびやかで華々しい舞台がそこにあった。
散りばむ花びらや金粉。どこからか聞こえてくる笛や鈴の音の音頭。驚きや感嘆飛び交う人々の笑い声。豪華絢爛な宴の世界に迷い込んでしまったかのごとし賑わいに様変わりした商店街に一つ回って悪趣味すら感じた。
「すごい…派手でですねぇ!」
「派手っうか…こんなもんただのバカ騒ぎだろ…!やかましいだけじゃねぇか!」
「何を申すか、宴とは町総出の催し…祭りの最中にあるのは華と粋と雅のみ。まあ何事も呵呵大笑になれば全て善しでござるよ」
「ケッ…なぁにが全て善しだ!んなもん言ったもん勝ちじゃねぇか。どっかのバカが騒ぎゃどいつかが損すんだよ」
「ほう、最悪最低の鬼女と呼ばれた悪童とは思えぬ言葉でござるなぁ」
「あ?」
「いやなに、お主の噂は聞いていたものでな。力を振るい、法も守らず、触れるモノ全て傷つけんばかりの刃のような女と……だが話して蓋を開けてみれば愉快愉快……牙を剥けて怯える子猫でござった」
「んだと……?!」
一瞬にして全身に不快感が巡る。長船の言葉は紛れもなく侮辱であった。
沸き上がる怒りに毛が逆立ちそうな感覚に襲われ、和やかな表情なのに見下ろすかのような目で見つめてくる長船をこれでもかと睨み付ける。
「テメェ……何が言いてぇんだよ…?」
「おっと、気を悪くさせたみたいでござるか?だが事実でござろう。悪にも善にも成りきれぬのは」
「言葉にゃぁ気をつけろ……センコーだろうとオレぁ容赦しねぇぞ…」
先ほどまで普通に会話していた筈だったのに、見つめ合う二人の周りは誰彼の声も騒がしい音も聞こえぬほど恐ろしい静寂な空気へと一変していた。
一触即発。隣にいた一人祭り騒ぎに受かれていた巫女も流石に気付き押し黙る程の張り付いた空気が漂う…だが_____
「半端者に容赦する気遣いなど、一体どこにあるのでござろうか?」
長船は、まるでお前など微塵も恐れてなどいない、と言わんばかりに笑って見せたのだった。
「殺す!!」
怒りが有頂天に達するのに長船の挑発は十分であった。
怒声と共に拳を握り長船へと飛びかかる。後ろで巫女が静止するような悲鳴が聞こえたがどうでもいい。今は不敵な笑みを浮かべたまま動かない長船を殴る方が先決だった。
拳を振り下ろす。だが長船は半身を反らすだけで拳をかわす。その一瞬の間の間にちりんと、何かの音が耳に響いてきた気がした。
「ちっ!!」
避けられたならと素早く振り向き様に蹴りを放つが、長船もまた素早くしゃがみ再びかわす。するとまた。今度はハッキリとちりん、と騒がしい雑踏の中で鈴虫のような鈴の音が鳴った。
(なんだ?何をしてきてんだ?!)
「動きはそれなりに鋭いがまだまだ青い。所詮童の喧嘩の域でござるな」
「ッ…!!避けてばっかのくせに偉そうに言ってんじゃねぇよ!!!」
腕を薙ぐように振るったり、踏みつけるように飛び掛かったりと幾度と長船に攻撃を仕掛けるもそのどれもが紙一重でかわされていく。
騒いでいた周りも異変に気付き始め、金切り声の悲鳴や警察を呼べと今度は別の意味で騒ぎ始めた野次馬の声で埋め尽くされていく。
「っぅぅぅ!うるせぇんだよ!!!見せもんじゃねぇぞ!!」
攻撃が当たらないだけでなく、いつの間にかリングのように二人を中心に周りを囲み、携帯で動画を取ったり煽るような野次や意味なく騒ぎ立てる人々に苛立ちが募り怒声を散らすも、熱に浮かされた人々に効果はない。
「うるせぇってんだろうが……!!!」
「と、轟さん…!きゃっ!?」
「おっと…危なかったでござるなぁ」
何も出来ずに狼狽していた巫女も人の波に揉まれ、挙げ句背中を押されて勢いよく転びそうになるも…気がついた長船に手を取られ転ばずに済んだ。
「やれやれ、確かに少々騒がしくなりすぎているでござるな…目立つのは好かぬのでござるが……」
「テメェが先に仕掛けたのが悪ぃんだろうが!!」
「ふむ…そうでござったかな?まあ善い…すぐに忘れるのだからな」
「あ?!何訳わかんねぇことを…!!」
長船はそう言って、体を中段にまで屈めて右手を腰に添え構えるような仕草を始めたのだった。
あまりに唐突な動きに訝しみ警戒していると人混みの中を掻き分けて巡回していたのだろう二人の警察官がやって来た。
やってきた警察官が構える長船に声を掛けようとした…次の瞬間_____
「では、御免なすって」
どこかで聞いたような言葉の後、中段の構えから一転。勢いよく振り抜いた右手から白い閃光が弧を描きながら触れようとした警察官。囲っていた人々。咄嗟にかわしたカガリと背後にいた巫女以外の全員の胴をすり抜けて行った。
「ッ…!!?」
そして、流れるような動作の後に遅れて、ちりんと鈴の音が鳴り、そこでようやく気がついた長船の手に握られていた物を見て、カガリは背筋を凍りつかせた。
それは、白く鋭く光輝く柄に鈴の付いた『刀』であった。
「さぁて。お主をどこまで覚えていられるでござるかな」
刀を手に携えながら何でもないかのように話す長船の姿は、まるで人であることを忘れてしまう程に、命短い淡く儚い蜉蝣のように見えたのだった。




