第43章.悪足掻きの『命令』
「か、は…っ!!うぅ…う、ッ…!!」
(な、何が遊ぼ…よ…!!洒落に、なんない…わよ…!!)
小柄な身体から繰り出される一撃の重さ。そして躊躇なく急所を狙う残忍さ…
呼吸をするだけでも肺が潰れたかのような激しい痛みと吐き気に、令奈は目に涙を溜め、苦悶の表情を浮かべたまま、身体を起こすことすら出来ずに身体をうずくまらせた。
「イーハ、イーハー!!」
「ゴホッ…!!ッッ……平気、よ。これくらい…ッ!!だから…ゆ、揺すんじゃないわよ…!」
「ふふ…強がりは良くないよ、お姉さん。やせ我慢出来る程、ハルの蹴りは弱くないよ」
「ふ、ふん…!アンタみたいな…ガキんちょの蹴りなんかね!!アイツの……轟カガリの蹴りに比べたら、屁でもないっうの…!!ふぎぎぎ…!!!」
心配そうに肩を揺さぶってくるトットを肩に乗せ、歯を擦りきれんばかりに強く噛み締めると…
痛みに震える身体に鞭を打ち、無理矢理に立ち上がるや令奈は再び、光の鞭を手元に出現させた。
「ぜぇ…ぜぇ……ほ、ほらね…!アンタの攻撃なんか、痛くもないわよ…!!」
「……心外だなぁ」
息も苦しげで、痛みに耐え兼ね苦痛に表現を歪ませているが、無理やりにでも気丈に令奈は笑みを見せつけた。
やせ我慢なのは明白なのに効かないと言い張るその令奈の強情さに…小春はやや冷めた目付きで嘆息をし、苛立ったように片手斧を令奈に向けてきた。
「お姉さんのその言い方だと…まるであのニワトリお姉さんの方がハルより強いって言ってるみたい…」
「あら、聞こえなかったぁ?アンタの方が弱い、って言ったのよ…!気を悪くさせちゃったのなら謝るわよ?ガキんちょ…!」
「……ううん、別にいいよ♪」
挑発する令奈の言葉に、何かに気づいたかのように一瞬黙った後、不機嫌であった表情を引っ込め、小春は微笑むだけで令奈の言葉をばっさりと切り捨てた。
(チッ…やっぱり、そう簡単には引っ掛からないか…)
少女相応の感情豊かな表情の裏に潜む、冷徹にして冷静さを兼ね備えた小春の2つの顔に、令奈は苦々しく、胸の内で舌打った。
挑発は小春には効果が薄い…ならば、と令奈は鞭を振るい、小春の周りと近くにある家具を破壊しながら、逃げ道を塞ぐように縦横無尽にしならせる。
「…?何をするのか知らないけど…当てなきゃ意味無いよ?」
「ご忠告どうもッ!!」
言い切ると同時に縦横無尽に飛び回る鞭を器用に操り、割れて宙に跳び散る椅子の破片を絡めとるや、そのまま鈍器のようにして小春に向かって凪ぎ払う。
(食らえ…!!)
熟練者に振るわれた鞭は音速の速度を誇る。加えて、砕けて尖った椅子の破片はそれこそ、凶器となる。当たりさえすれば如何に格上の願望者いえど、ただでは済まない…
____そう、当たりさえすれば…
「よ、っと♪」
「ッ…!!」
令奈渾身の音速の速度で振るわれた鞭の鈍器を、小春は棚下に閉まった物を取り出すかのように、意図も簡単に、軽々と屈んで避けてしまった。
「ふふ、これで終わりじゃないよね…?♪」
「その通りよ…!!」
目に見えない速度の攻撃をさも当たり前のように避ける小春に、令奈はきつく睨み付け、再び小春に向かって鞭を凪ぎ払う。
だが、鞭を変則的に、または死角から攻めようと、いくら振り回そうと小春はそれが見えているかの如く見切り、全て的確に回避しまう。
「このっ…!このっ…!!」
「もぅ、子どものケンカじゃないんだよ?お姉さん。振り回すだけの攻撃なんかハルには絶対、当たらない…よっ!!」
縦横無尽に軌道を描く鞭を見つめながら小春が退屈そうにそう言い捨ると、迫る鞭を寸で回避し、それと同時に片手斧を振るい鞭を弾き返されてしまった。
「しまっ…!!」
「今度はハルの番ね♪」
そして、衝撃で椅子の木片は音を立てて粉々に砕け、砕けた破片が辺りに弾け散っていく中、小春は驚愕し目を見開き驚く令奈にニヤリと酷薄に笑い、再び空中に残された鞭を掴み掛かる…
「…ふふ!」
だが、小春の手が鞭を掴むほんの一瞬…額に冷や汗を流していた令奈は不意に、口元に不敵な笑みを浮かべたのだった。
「掛かったわね…!!」
「へっ?イッ…!!?」
令奈が言い終えたのと、それはほぼ同時であった。
鞭の先端を握り締めたその瞬間、手のひらの中で鋭い刺すような痛みが小春の手のひらに起きた。
余りにも突然、起きた痛みに小春は驚き、小さな悲鳴を上げると握り締めた鞭を手放し、手のひらを開いた。
「…怪我しちゃった」
手のひらを開くと、小春の小さな手からポタポタと血が滴り落ちていく。
いくつかの刺したような刺傷から真っ赤な血が溢れる手を、まじまじと見つめていた小春であったが、ゆっくりと令奈の方へ顔を向けるとやんわりと微笑んだ。
「器用な人だね、お姉さん…ハル、まんまと引っ掛かっちゃった」
「ふ、ふふん…言ったでしょ?虫けらを舐めてると痛い目みるって…!!」
「だね、舐めてた♪お姉さんの評価を見直さなきゃ…♪でもまさか、こんなことで傷つくだなんて…ハル、思いもしなかったなぁ…♪こんなに怒りたくなる気持ちは久しぶりだよ…♡」
手を傷つけた令奈本人に感謝するかのように、にこやかに笑う小春はそう言って、片手斧を床に突き刺し手放す。
そして、花が咲くようにニコッと、愛らしさの詰まったとびきりの笑顔を向けながら、手を令奈の前に差し出したのだった。
「ぐちゃぐちゃになっちゃえ♡」
____パチン…!
(今度はなにする気よ…?!)
純真無垢な口から発せられた不吉な言葉と共に差し出した指が鳴らされる。
何をしたのか。小春の行動にたじろぐ令奈は肩に乗せたトットと一緒に辺りを警戒する。
____べちゃっ…
その時、粘膜性のある水が滴り落ちるかのような不気味な音が耳に届き出した。
瞬間、令奈の背筋に悪寒が走り、全身がぞわりと総毛立った。その音だけで令奈は小春がナニを呼んだのかを瞬時に理解した。
それは記憶の隅にさえ、残したくもないにも関わらず……脳裏に焼き付いた恐怖の象徴。
長く艶やかな黒髪を持つ女の姿し、強靭な怪魔をも一捻りで潰す異形のバケモノがその姿を現した。
「ヒッ…ヒィィィィ!!」
床を這いずり現れた黒髪の女の髪の間から覗く、血眼のような眼光に畏縮した令奈が腰を抜かすと、それを見ていた小春は気分を高揚させ、体を抱き締めながら身震いを起こした。
「ふふふ!!良い恐怖良い恐怖…!♡うん、うん…!怖いよね?!恐いよね?!!お姉さんのその恐怖から死にたくないって感情がいっぱい伝わってくるよ…!!!♡すっごく、すっごくすっごくすっごくたまらない!♡」
「ッ…!!い、狂れてんじゃないの、アンタ…!!?まともじゃないわよ!!」
「うふふ…♪お姉さんはハルのこと、まともな人間に見えるの?」
常軌を逸する小春の行動に、嫌悪感を抱いた令奈は唾を吐くかのように罵倒するが、小春は平然と笑って見せた。
その笑みが何よりも不気味さを表し、底知れぬ小春の恐怖に令奈は改めて戦慄を起こした。
「じゃ。おしゃべりは終わりにして……死んでくれるかな、お姉さん♡」
「お、お断りよ…!!」
小春が合図すると共に歪な動きで襲い掛かってきた黒髪の女。
令奈は迫ってくる黒髪の女の手をなんとかかわし、一瞬の隙をついてトットと共に部屋から脱出し、廊下を脱兎の如く走り出した。
「……クス♪そんな体で逃げられるの?」
逃げて遠ざかる令奈の背後を見つめ、小春が小さく笑うと、黒髪の女は呪詛のような奇声を上げながら逃げた令奈を追い掛け始める。
「鬼ごっこだ鬼ごっこ~!!♡捕まえたらじわじわ潰すよ!!手から、足から!もうハルから逃げられないようにぐちゃぐちゃに潰しちゃうよ!!♪」
(ふざけんな!クソガキめ!!なぶり潰されるくらいなのも真っ二つにされた方がマシよ!!!と言うか、どうやったって勝てるわけないじゃない!!あぁもう、さっさと逃げれば良かった~!!!)
小春に悪態を呟きながら、必死に手足を動かし廊下を駆ける令奈は自身の行動に早くも後悔した。しかし、今さら後悔したところで背後に迫る黒髪の女に見逃してはもらえない。
「イーハ!!イーハ!!」
「イダダダダ!!?」
どうすれば「カノジョ」から逃げきれるのか、脳をフル活動させていたその時、突然肩にしがみついていたトットが騒ぎ出すといきなり、走る令奈の髪を力強く引っ張り始めてきた。
「痛いっての!!な、何すんのよ危ないじゃ……!!」
いきなりトットと髪を引っ張られ、必死に動かしていた足がもつれ転び掛けた次の瞬間、令奈の顔の横を勢いよく何かが掠めるように振り下ろされた。
驚き振り下ろされた方を向くと…起きた出来事に目を疑った。
「ぎ、ギロチン…!?まさか…アンタ、これに気づいて…?!」
「イーハー!」
そこにあったモノは…床に生々しい傷跡を残しながら鎮座する三日月型の巨大な刃が天井から落下してきており、トットが髪を引っ張ってくれていなければ即死していたと言う事実に…令奈は一瞬にして顔面を青ざめさせた。
「ど、どうなってんのよここ?!なんでこんなモノが急に……!!?」
「つ~~かまえたぁ♪」
「ッ?!しまっ……ギャァ!!!」
「イハー!!」
落ちてきたギロチンに気を取られ、迫る黒髪の女の接近を許してしまい、凪ぎ払われた車体の如し剛腕の一撃が直撃し、令奈は避ける間もなく、トットと共に大きく吹き飛んだ。
その勢いのまま壁に激突し、うつ伏せで倒れ込む令奈を、黒髪の女の後ろから追い付いてきた小春は見下すように微笑んだ。
「アハッ♡まるでボールみたい♪ほんと、お姉さんたら弱いねぇ。小細工ばっかりのズル賢いだけ…♪」
「あぐ……ぅぅ!!」
「でもその頑丈さだけは褒めてあげるね。殺す気でやったのにまだ生きてるなんて…肉体強化だけはさすがだね♪」
「ゲホ…ッ!」
(わ、忘れてた…アイツの魔法のせいで、イメージした恐怖は再現させられるんだったってのに……怖がったらアイツの思うつぼじゃない!!)
小春の余裕とすら言える飄々とした口振りに…令奈は忌々しいとばかりに歯を食い縛り、上半身だけでもと立ち上がろうとするが…たった一振りの一撃で令奈の体は酷い痛みに襲われ、立つことはおろか、肘を付く腕にすら震えて力が入らない。
(くそ…!!これくらいの痛みで震えてんじゃないわよアタシ…!!さっさと立ち上が……!!)
「無駄だよ♡」
「ぐぎゃ!!」
必死に立ち上がろうとしていた令奈の背中に破裂せんばかりの砂袋のように膨らんだ黒髪の女の腕が無慈悲に振り下ろされる。
黒髪の女の振り下ろした剛腕に羽虫のように潰された令奈は口から血を吐き、ピクピクと体を痙攣させた。
「ハルの魔法、“恐怖”が生み出したこの子からは逃げられない♪それに、いくら抵抗した所で全部手遅れだよ。このお家に閉じ込められた時点でみぃ~んな、すやすや悪夢の中…♡だぁれも、心にある傷心や恐怖からは逃げられない♪どんなに強くても…ね♪」
「ぐぅ…ぎゃああぁ!!」
「イハー!イ“ッ!」
地面に擦り付ける勢いで背中を押さえ付ける黒髪の女の剛腕に力が込められ始め、徐々に令奈の体を押し潰していく。
令奈は潰される感覚に苦痛の悲鳴に、地面に突っ伏していたトットは起き上がり小春に飛びかかる…が、小春は手を払う動作のみでトットを弾いた。
「お姉さんを助ける人はいない…ミッドナイトちゃんのオモチャも役に立たない♪あれだけ偉そうに言っておいて、出来たことは逃げ回っただけ…♪」
「ッ…ぽ、ポンコツ…ぁ……!!」
「哀れだねぇ、お姉さん。チャンスを不意にしたばっかりに無駄死にしそうって言うのに…まだあんなオモチャを頼るの?いい加減、諦めないとみっともないだけだよ♪」
押し潰す腕に更に力が加わり、令奈の身体からミシミシと骨が軋む音が響き始める。
呼吸もままならない程の力に内臓が耐え兼ね、口から血を吐き出す令奈だが…その目は痛みに歪みながらも真っ直ぐに小春を睨み見据えていた。
「ぁぐ…ッ……ぅぅぅ!」
「…まだそんな目をするの?お友達に助けてもらうつもりなら無駄だよ?二人は何十時間も前に一緒に眠ってる…あの二人はハルの恐怖に負けたの。悪夢から覚めるなんてことは……」
「……る…の………は…」
「…?今、何か……」
「ま、まだ生き……いるの、…アイツら……は…?」
「…生きてるよ、だけどもうすぐ死んじゃう。それがどうかしたの???」
今にも潰れそうだと言うにも関わらず、二人の状況を確かめるやような令奈の言葉を……小春は真意を読み取れず、理解できないと訝しみ小首を傾げさせた。
「そ、そう……アイツら、まだ……生きてる……のね…」
「…一体、何を企んでいるのか知らないけど。お姉さんのお友達はもう手遅れ。それにもうすぐ潰れるって状況も分かってるの?この状況下で逃げ出す方法がお姉さんに……」
_____パンッ!!
「わっ!!?」
突然、大きな乾いた破裂音が響き渡り、驚いた小春は小さく飛び上がった。
その瞬間、一回二回と同じ破裂音が響くと黒髪の女がいきなり、断末魔のような奇声を上げ、押さえ付けていた令奈から腕を退けてしまうほど大きく体をのけ反らせたのだった。
「ゲホ!!ゲホゲホ…ゴフッ!!お、重いのよ長髪モンスターが……もうちょっとで、死ぬとこだったじゃない……!」
「え…え、え!?なんで?!今、何してたの!?」
「ゲェホッ!ふ、ふっふっ……女の隠し武器は涙以外にもあるのよ、ガキんちょ…!」
身悶え怯んだ黒髪の女と苦痛の表情でゆっくりと立ち上がる令奈を交互に見やり、驚きを隠せずにいる小春。
先ほどの余裕も打ち消され慌てている小春に、令奈は吐血する程瀕死だと言うのにしたり顔をすると、小春に見えるように手に持つある物を見せつけた。
「そ、それって…!?」
それはまだ、令奈が【不可視夜祭】に所属していた頃。
女王蟻として雨が降り頻る夜に轟カガリを奇襲した際に手に入れていた。
_____警察官が持っていた拳銃であった。
「詳しくは14章を読みなさい!!」
「意味わかんない……隠してただなんて…ハルを、また騙したね…!!?」
「ッッ…!あ…あら、人聞き悪いこと言わないでくれるかしら?」
わなわなと拳を握り、度重なる騙し討ちに怒りが爆発寸前の小春はどす黒い殺気と怒気が混ざったオーラを放ち、令奈を睨み上げる。
その強力な威圧感に思わず息を飲んだ令奈であったが、すぐさま挑発的に口角を上げ、ハッキリと小春に言うのであった。
「戦いに卑怯も何も無いのよ!!だから…容赦なく逃げる!!!」
「い、イーハー!?」
「な……っ!また逃げた……!!」
挑戦的に言い切った令奈は言い終えるや鞭を振るい、倒れているトットを回収すると全力疾走で廊下の奥へと走り出した。
大見得を切っておきながら恥も外聞も気にせず逃げ出した令奈に小春は数秒ほど呆気に取られていたが、すぐに我に変えり怯んでしまった黒髪の女に命令を叫んだ
「絶対に逃がさないで!!捕まえたらすぐにぐちゃぐちゃに潰して!!」
小春の沸騰し始めた怒りに呼応するかのように黒髪の女の身体が歪に膨張し、その膨張した箇所からいくつもの腕や頭、足が飛び出し黒髪の女は不気味な咆哮を上げた。
より禍々しい姿へと変貌を遂げた黒髪の女の背に小春が飛び乗るとすぐさま、黒髪の女は全速力で令奈の追跡を開始した。
「イーハー!!!」
「見なくても分かるわよ!!」
恐怖を考えぬように、必死に手足を動かし続ける令奈は振り返ることなく、周囲に魔力を張り巡らせ、あるモノを探して通り掛かる部屋を隅々まで意識を集中させる。
(どこ…!!?一体、どこの部屋で油売ってるってのよ…!!アイツらは……!!)
終わりの見えない廊下を駆け、無数の部屋のどこかから僅かに感じ取れる二人の気配を探る令奈は限界まで感知範囲を拡大させていく。
自分では小春や追い掛けてくる黒髪の女には手傷を負わせることは出来ようと絶対に勝てる見込みはない…
だが、轟カガリの力なら……!!
(アイツの魔法ならガキんちょの魔法だろうと打ち消せる…!アタシが助かる方法はそれしか………)
「“心霊現象”……!♪」
「ッ!!?」
後方から迫る廊下に置かれた台や床を破壊する轟音が鳴り響く中、水滴が水面に落ちたかのような小春の声が響き渡ると、逃げる令奈の前方にあった台や家具。
燭台までもが激しく揺れ動き、見えない糸に吊り上げられたようにひとりでに宙へ浮かぶと一斉に令奈へと向かっていく。
「クッ…やっぱ、自分の意思でこれくらいは出来るわよね…!!」
「イーハー!!」
襲い掛かる家具をかわしながら、改めて厄介な魔法であると苦々しく令奈は舌を打った。
すると、腕の中にいたトットが急に身を乗り出し、令奈に何かを教えるかのように前方を指差し出すと声を上げた。
「扉……あそこにいるのね…!?なら、このまま突っ込むわよ!」
「させないよ!」
トットが指差した先には扉があり、それが何を意味するのかを瞬時に察した令奈は飛び交う家具の中、急いで扉へと向かうが…
そうはさせまいと後方から走る令奈の頭の上を飛び越え、異形と化した黒髪の女が令奈の前に立ち塞がった。
「っ……!!」
「お姉さんに悪夢は必要ない。卑怯で嘘つきなお姉さんには…舌を抜いてぷちっと死なせてあげるよ!!♡」
口が三日月のように裂けたと錯覚してしまうほど、不気味で異質な恐怖を与える笑みを浮かべた小春の合図に、黒髪の女は髪の隙間から血の色をした目をギラつかせ、奇声を上げながら振り上げた大小様々な大きさの手腕が一斉に令奈へと振り下ろされる。
(あとちょっとだったってのに……!!)
避けられない。降り注ぐ雨の如く手腕の数に令奈は歯を食い縛り、ただ呆然と迫りくる手腕を見上げるしか出来なかった…だが。
「イーーーハーーーー!!!」
「え…ぽ、ポンコツ!?」
「なっ、うわぁ!!?」
令奈が立ち尽くしていたその時…突然、トットが眼前に迫る手腕へと令奈の腕の中から飛び出すと、みるみるうちに小さかった体の形が変わり始めた。
そして、トットの体はあっという間に戦車のような形に変形を遂げ、降り注ぐ手腕から令奈を守るように黒髪の女を押し退けた。
「え、えぇぇぇえ…!!?」
「使い手無しで形態変化した…!!?い、一体どうなってるのその子……!?でも、ハルの方だって負けてないよ!」
多数の手腕を押し退け、更には主砲を回し、押し潰さん勢いで黒髪の女にのし掛かる戦車に変形したトット。
だが、黒髪の女も負けじと獣のような叫びを上げながら主砲をねじ曲げ、じわじわと動きを封じるトットを破壊していく。
「潰れちゃえ潰れちゃえ!まずはミッドナイトちゃんのオモチャから潰しちゃえ~~い!!」
「イ”……ッ”!!」
「ッッ…!!な、ナイス…ガードよ…ポンコツ!!」
黒髪の女の強靭な手腕に装甲を剥がされ、見るも無惨に分解されていくトットを尻目に、令奈は目の前の扉へと駆け出す。
____あと少し…!!
鉄を折り曲げるような破壊音に急かされながら、令奈は懸命に手を伸ばし…ドアノブに指が掛かった。
(やった…!!!)
しっかりとドアノブを握りしめ、ついに到達出来た喜びに安堵した令奈は手に力を込め、扉を開けて中に入る…
その、まさに刹那の瞬間であった。
____ドスッ…!!
「……え」
扉を開けたと同時に、背後から何かが左肩にぶつかった。
咄嗟に、何が起きたのか確かめるように令奈は背後に振り返ろうとすると、右胸の位置にも続けざまに似た衝撃が起きた。
そして…令奈が背後に振り返り終わる直前に、先ほどの二つとは違う僅かに強い衝撃が今度は腹部を貫いたように起きた。
「これで終わりだよ……お姉さん…♪」
直後、耳元で囁かれた小春の声に令奈は自分の身に何が起きたのかを理解する。
同時に、理解できず置いてきぼりになった感覚が……じんわりと、足元に広がる血のようにゆっくりと脳に届いていく。
「ぁ……ぁぁ…ごぼ……ゴフッ…!」
気が遠くなるような、全身を焼けつく痛みにも関わらず、脳は異常な程に冴え渡り、今にでも飛び出しそうな悲鳴の変わりに血が溢れ出た。
足に力が入らなくなり、開いていく扉に投げ出されるように部屋の中で倒れた令奈はわなわなと震える瞳で腹部を見ると…そこには鋭利な刃が突き抜けているのが見えた。
「あ”…ぁ”ぁ”……ガハッ!!あ”、あ”あ”…ぁ”ぁ”ぁ”…!!!」
刺されたと分かっている筈なのに焼かれるような激痛に理解が追い付かない。
腹部を貫かれたことで声にならない悲鳴と共に止めどなく胃から溢れ出る血で脳が掻き乱されるような不快感でいっぱいになった。
それだけじゃない。背中に突き刺さる二つのナイフによる痛みで上手く呼吸すらまともに出来ない。
「惜しかったね。お姉さん…♪あと少しでお友だちを助けられたかもしれなかったのにね♡」
痛みに苦しんでいる令奈に近付きながら、小春は残念でしたとからかうようにくすくすと笑いかける。
だが、小春はようやく追い詰めた筈の令奈にすぐには止めを刺そうとはしない。部屋の奥へとそのまま進んでいき、そこに暗がりの中、並べられた二つの椅子らしき家具の上に手を置いたのだった。
「すごいねぇ~、あのお姉さん♪弱くて逃げ回るしか出来ないくせに…お姉さん達を助けにここまで来るなんてハル、思いもしなかったよ♪」
「グ…かは……ゥ…ゥ…!と、…どろき……ね、ねくら……ッ」
血溜まりの中、苦しげに横たわる令奈を満面の笑みで見つめている小春は楽しげに拘束器具の付いた椅子に話し掛ける。
痛みに堪え、目に涙を溜めた令奈は顔を上げ暗闇に目を凝らすと…そこには眠ったようにピクリとも動かずに寄り掛かるカガリと杏の姿があった。
「ッ…!この…バ、カ…!!なに、こ…んなガキんちょに…簡単に捕まって……んの、よ!」
「ふふ♪無駄だよ、さっきも言ったけどこの二人はもうとっくに悪夢の中にいるの…癒えない心の傷、思い出したくない思い出、見たくない過去…自己崩壊しても覚めることはない♪呼んだところで起きたりなんかしないよ♪」
蛇がにたりと嘲笑うかのような妖笑を浮かべ、小春は二人の頬をそっと撫でると二人の体がビクリと跳ね、悪夢にうなされるように呻き、表情を歪ませた。
そんな二人の苦痛に歪んだ表情を見た小春は再び満面の笑みで「ほら、起きないでしょ?♪」、と…令奈へと視線を戻した。
「それなりに時間が掛かったけど、それもあと数分…♪悪夢は心を蝕み、やがて恐怖に堪えきれなくなって壊れちゃう。そして最後には人だったことも忘れて、ハルの魔法の中で怪魔モドキになって暮らすの…♪素敵でしょ?」
「どこが、よ…!!悪趣味にもほどが……ッ!!」
背中に刺さったナイフを抜こうと手を伸ばすが、動かそうとした腕に力が入らず、それどころか。手足から指の先に掛けて麻痺したかのようにまともに動かすことが出来ない。それを見た小春はけらけらとせせら笑う。
「動けないでしょ?♪追い詰められたネズミは怖いってハル、知ってるんだ♪だ・か・ら…ミッドナイトちゃんに使った同じ痺れ薬を使わせてもらったの♪二度と逃がさないように…ね♡」
「ッッ…!!」
痺れて動かない令奈の後ろから金属を引っ掻いたようや音とぬたり、ぬたりと滴るような不気味な音がゆっくりと聞こえてきた。
後ろを振り向くことすら出来ない令奈だが、その音を聞いただけで歯を鳴らし、体を震わせ、目を潤わしながら戦慄した。
それでも、背後に迫る恐怖に令奈は振り向かずにはいられなかった…
「ひ……ッ!!!!!!」
令奈の瞳に映ったのは、半壊し電流をショートさせたトットを握り締めた黒髪の女……否、それはもはや、“女”とは呼べぬ存在へと変質した怪物であった。
その姿は蛆湧く死肉のように爛れて醜く、芋虫のような肉体を支えるいくつもの手足は不揃いの肉同士を繋ぎ合わせたかの如く歪で、幾つかはちぎれたり、骨すら飛び出しているものもあった。
唯一、女性らしさを残していた長く艶やかな黒髪の半分は潰れた頭蓋から剥き出しとなった脳髄で無くなっており、残った黒髪は潰れた頭蓋から滴る血脂で赤黒く乱れていた。
この世の者とは思えぬおぞましい怪物。人を喰らい生きる怪魔の方が幾分、マシに見えるほどに“カノジョ”の姿は見るものを恐怖で畏縮させる醜い者であった。
「ふふふ♪死ぬ覚悟はいい?お姉さん…♡」
「あ……あ…ぁぁ…」
握り締めたトットを令奈の前に放り捨て、ゆっくりと近づき始める怪物と小春。
前後に迫りくる怪物の恐怖に涙を流す。だが、令奈は痺れた体で懸命に目の前に転がるトットを抱き寄せると悔しげに表情を歪ませながら、震える手のひらを怪物に突き付けた。
「お、『“命令”よ…!あ、アタシに従いなさい…!アイツを倒しなさい!』」
手のひらに魔力が集中させ、令奈は怪物に向かって自身の魔法を唱える。
だが、恐怖を纏う怪物の歩みは止まらない。それを見ていた小春はけらけらと嗤う。
「まだ分かんないの?お姉さん♪その子はハルの魔法だよ?お姉さんの恐怖で大きく育ってる。お姉さんの魔法なんか効かないよ♪」
「『アタシに、従え!これは、“命令”よ…!!アイツを倒せ!!倒しなさい…!アタシの“命令”を聞き入れなさい!!』」
悪あがきだと小春に笑われようと、令奈は一心不乱に怪物に向かって魔法を唱え続ける。
しかし、怪物は既に倒れる令奈を見下せる位置にまで近づいており、人の大きさの何倍もの大きさに膨れ上がった手腕が振り上げられようとしている。
「し、『従いなさい…!!アタシに従いなさい!アタシの“命令”に……!!!!』」
天井高々まで振り上げられた手腕に顔をひきつらせようとも、令奈は一切魔法を唱えることを止めず、ありったけの魔力で怪物に放ち続けたが……
「ふふ、お馬鹿なお姉さん…♡」
「『従……!!!!』」
「バイバ~イ…♡」
最後の魔法が言い切られる直前…小春はにっこりと花が咲いたような笑顔で令奈に手を振り別れを告げると、怪物は手腕を勢いよく令奈に振り下ろした。
______潰れて死んだ。小春はそう確信した…
「ッ…!!『さっさと…起きなさいよ……バカカガリ!!!!』」
潰れて死ぬ。令奈がそう思った刹那、それは令奈自身の心からの叫び声だった。
その時だ。令奈に振り下ろされた手腕が当たる直前…丁度、まばたきをしようとした小春の横を…何かが横切った。
「……え?」
異変を感じた小春であったが、確認する頃にはまぶたは閉じられ、慌てて見開いた時には既に、目の前には重く鈍い衝撃と共に地面には亀裂が入る程の怪物の一撃が振り下ろされていた。
(今の…なに?)
今横切っていった影はなんだったのか。小春は辺りを見渡し、最後に後ろへ振り返ると横切っていった正体に絶句した。
「うそ…?なんで、どうやって……ッ!?」
____________ズズッ…
驚愕する小春の背後で手腕を振り下ろしたままの怪物が僅かに揺らいだ音が聞こえた。
慌てて振り返るとそこに映った光景に……小春は瞳を戦慄かせた。
「……よう、アリンコ女。元気かよ?」
目を瞑る令奈の耳に、憎らしい声が響いてきた。
恐る恐る、令奈が目を開くと目の前には肉の天井があり、視線を反らすとそこには……怪物の手腕を受け止めながら悪そうな笑みを浮かべる少女がいた。
「ッ…ね、眠りすぎてボケたのかしら?この状態でよくそんなのんきなこと言えるわ…ブラックローズ…!」
「ヘッ、んだよ。まだまだ元気そうじゃねぇーか……よっ!!!!」
悪態吐く令奈に笑いかける少女、轟カガリはニヤリと口角を上げると勢いよく怪物の手腕を投げ飛ばす。
思わぬ力に怪物は抵抗する暇もなく壁に激突し、地面に落ちると驚愕していた小春は我に返り大声で叫んだ。
「どうやったの!?ハルの魔法は!!悪夢からは誰も目覚められない筈なのにどうして?!!」
「あ?んだ、あのガキ…?」
「まさか、覚えてないの…?アンタ、アイツに捕まってたのよ?」
「ああ…?捕まって……?ははん、そうか。全部テメェの仕業か……どーりで思い出したくもねぇー胸くそ悪いもん見てたわけだぜ」
捕まっていた事を思い出したカガリは小春に向き合うように立つと鋭い目付きで睨み付けた。
そして、思わずたじろぐ仕草を見せた小春にカガリは耳に着けたイヤリングを手に取り、そのまま拳を突きつけた。
「悪夢の礼だ、くそガキ…泣いて謝る覚悟出来てんだろうな……?」
「ッ……ぷぷっ、あははははは!!♪泣いて謝るのはニワトリお姉さんの方だよ、ここはハルの魔法のな……!」
「誰がニワトリ頭だゴラァァァァ!!!!」
「っえあ!!!!?」
馬鹿らしいと嘲笑われたことよりも、自慢の前髪を侮辱されたことにカガリは小春の言葉が言い終わるのも待たずして、小柄な小春に容赦なく強烈な蹴りを叩き込む。
もちろん、カガリは変身などはしていない。だが、繰り出される蹴りの威力に小春は易々と壁際まで吹き飛ばされた。
「ッッ……!魔力纏ってるとは言え生身でその威力とか……やっぱ、怪物級に強いわね。アンタ……イッ!!」
「ケッ…無駄口叩く暇あんなら寝てろ、アリンコ女。もしくはあそこでうなされてる根暗女でも起こしてろ」
「む、無茶言うわね…!アタシ、これでも毒盛られてるんですけど?」
「だったら、寝てろよ。すぐに片付けてやる……っか、いい加減起きろ!くそコウモリ!!」
『ぶごっ!?な、何事である?!!』
「いいからさっさと戻れ!変身出来ねぇーだろ!」
眠っていたディアを無理やり起こすとカガリは蝙蝠の姿に戻ったディアを首筋に当て、部屋中に轟かせる勢いで勇ましく唱える。
「暴れるぜ!!変身!!!!」
その言葉と共に、カガリの姿は青い閃光に包まれたのだった。




