第30章.激怒の叫び
___どうしてこうなったのだろう…
目覚めるとそこは生臭い血の臭い、肉の砕ける音、不可解に飛び回る崩れた瓦礫や撒き散る砂ぼこりでいっぱいでだった。
今にも消え失せてしまいそうに呻く、息苦しく息をする少女の呼吸が耳に響く。それらが恐怖を駆り立て、足が竦み上がり、体が別の生き物のように激しく震えた。
___あぁ、どうして…?
何十回、いや何百回と解答者のいない自問を繰り返し行う脳は目の前の事実を拒絶するが、悪夢でしかない現実は決して覆らない。
寧ろ悪夢であった方がまだ救いがあったかもしれない……
___なのに、それなのに…
「テメェはぜってーにぶっ飛ばしてやるよ!!」
全身傷だらけで血を滴らせるその体は満身創痍で今にも死にそうな筈なのに……彼女は決して倒れようとはしなかった。
◆◆◆
___場所は杏宅マンション内…時刻は一時間ほど前に遡る。
「これで……全部、と…」
父に言われ、処分しろと言われてしまった漫画やゲーム雑誌をやむ無く、必要かそうでないかを分別し終えた杏は床に座りながら一息吐いた。
山積みになった重たい雑誌を見つめ、玄関に並べただけで疲労困ぱいで悲鳴をあげる腕を揉みながら、杏は陰鬱にため息を吐いた。
「お腹、減った……な…」
誰に言うわけでもなく囁いた言葉は静まり返る廊下に溶けるように消え、杏は両足の膝を抱え込むように座り膝に顔を埋めた。
足の裏やお尻から伝わってくる床の冷たさの空しさや寂しさ。そして、さらに追い打ちとばかりにグー、と小さく腹が鳴る。
より惨めに空しさが込み上げた…その時だった。
______コンコン…
「ひぃ!?な、なんだ…?」
静まり返った部屋に、静寂を破る小さな音が鳴り響く。
あまりの突然の出来事に、悲鳴を上げ飛び上がった杏は音が聞こえてきた部屋へ行き、ゆっくりと覗き込んだ。
___コンコン…!
「ま…窓……から聞こえる…?」
誰もいない部屋の中で先程よりやや強く、再び鳴り響いた小さな音はカーテンが閉められた窓の向こうから響いてきている。
息を飲み、恐怖でドアの前から動けない体が好奇心に突き動かされ、杏は一歩ずつゆっくりと窓に近づいき、カーテンに手を伸ばし息を飲む。
そして、恐る恐るカーテンを開いていく。
「だ……誰も…いない…?」
しかし、カーテンを開け窓越しに外を確認した杏であったが、奇妙な事にベランダには誰も居なかった。
「き、気のせい……だったのかな?……ヒッ?!」
不思議に首を傾げさせていた杏は窓の鍵を開けようとした次の瞬間、ベランダの片隅に“黒い影”が佇んでいることに気がつき、声をひきつらせた。
杏の悲鳴に影の頭部分がゆらりと杏の方へと動き出し、腰を抜かした杏を見つめるように佇むと、音もなく窓へと近づいてきた。
「あ、あぁあ……ぁ!」
目の前まで移動してきた“黒い影”は、杏の体を更に震え上がらせた。
___光に当たっていて尚、“影”は影のままであったのだ。
まるで存在のみを切り取られ人の形に無理やり押し止められたかのような暗闇が、そこにいた。
そして、黒い影の顔らしき箇所に顔いっぱいの瞳がギョロりと剥き出し、恐怖で青ざめる杏を見下ろしている。
___ペタりと目の前のバケモノが窓に手を触れた。
(に、逃げなきゃ…!!)
頭の中を喧しく鳴り響き続ける脳の警鐘がようやく体に逃げろと指示を送る。
杏は脳の指示に従い、忠実なまでにその場から慌てて玄関に向かって逃げ出した。
それとほぼ同時に、バケモノが音を立てて窓を突き破り、人の形でありながら虫のような不快な声を上げて部屋に入ってきた。
後一歩でも逃げるのに遅れていたらどうなっていたことか、そんな最悪な事態を想像する頭を振り、杏は懸命に玄関のドアノブに手を伸ばす……だが…
「ぇ……」
必死に伸ばした手がわずか数センチの距離を残して…届かない。
それどころか……その手はどんどん、ドアノブの距離が遠くなっていく。
脳に理解が追い付かない。突然記憶を抜き取られたように真っ白になった思考回路で後ろに振り返ると……杏は自身の状況が如何に絶望的な……バケモノに捕まったのだと理解した。
「ウアァアアァァアアァァ!!!!!!」
いつの間にか顔いっぱいの大きな瞳から歯並びの良い大口に変わっていたバケモノの黒い蛇のような舌に巻き取られ、手元に引き寄せられていた事に気づいた杏は叫び、引き剥がそうとするが…
ヌメヌメとした生臭い粘液に手が滑り、上手く掴むことが出来ず逃げ出すことが出来ない。
「い、イヤだ…!!嫌だ!!誰か助け………」
死を予感し、助けを求めて叫ぼうとして……杏は全てを諦めたように言葉を失った。
ここは最上階。それに自分以外にこのマンションは誰も居ないのだ。どんなに叫ぼうと誰も気づかない、誰も助けになど来ないのだ。
___自分は誰にも知られずに死ぬのだ。
そう悟った途端に脳が冴え渡り、現在の危機的状況ですら他人事のように杏は感じた。
恐らく、自分が死んでも短くても3週間は気付かれないだろう…それに自分が死んだ所で誰も悲しまない。寧ろ、父は喜んでこの事態を無かった事にするだろう。
「……なんだ、別に良いのか…」
死ぬ間際は走馬灯を見ると言うが、それも嘘らしい。そもそも見るような思い出があるわけでもないと、すぐ目の前で唾液を垂らし、糸引く程開かれた大口を無感情に、無抵抗で見上げていた杏は自虐的にうすら笑みを浮かべた。
「……ゲームオーバー…か」
大口がゆっくりと杏を飲み込もうと迫ってくる。
(やっぱり、死ぬのは痛いのかな……天国と地獄があるとは思わないけど、逝くなら天国が良いな…ヒヒ、行けるか知らないけど、あんま生きてた頃と変わんないか)
目を閉じ、死を待ちながらあれこれを考えている杏であったが…
(………全然、痛くない…?)
待てども待てども、いつまで経ってもバケモノの凶行はやってこない。せっかく死を受け入れたと言うのに何もしないバケモノに不思議に思った杏はゆっくりとまぶたを開けていく…
「よう、根暗女、機嫌はどうだい?」
開いた目に真っ先に映り込んだ夜のような濃紺色のローブを纏う後ろ姿と目の前に割り込んできた人物に驚愕したように動きが固まったバケモノの姿。
再び言葉を失った杏に目の前の人物は小バカにしたような軽口で首だけを僅かに振り向かせ、歯を見せて笑った。
「ふ、不良女……!?」
「おう、二度と来るつもりは無かったが来てやったぜ。感謝し、な!!!!」
ようやく、言葉を発した杏に魔法少女に変身したカガリ、もといブラックローズは噛み砕こうと動き出した怪魔を蹴り飛ばす。
怪魔は窓を粉砕し、ベランダの塀に強く体をぶつけ、その衝撃で崩れた塀ごと下へ落ちていった。
「一昨日来やがれ、雑魚モンスター!」
「す、スゲー…!その、格好……コスプレ、とかじゃぁないんだよな…?本当に…魔法使い…だった、か…?!」
「自分で言ったくせに疑ってたのかよ。正真正銘、本物だぜ?イカしてるだろ?」
「え、あ、うん……そ、それより…さっきのは?」
「あ?あー…なんったら良いかなぁ…この世に隠れたモンスター?的な奴だな」
『人の欲望から生まれる怪魔と教えたではないか!』
ワイルド(っと思っている)ポーズを決め、高々に嗤うカガリに杏は微妙な反応をしめしながらも、まじまじとカガリの魔法少女衣装を見つめ、払拭出来ない疑問を口にする。
だが、カガリはやや億劫そうに頬を掻き適当に答えるだけで、見かねたイヤリング姿のディアがツッコミを入れてきた。
『珍しく人助けをしたと思えばいい加減な事を言うでない!そもそも、一般人にむやみやたらに正体を明かすな!少しは他の願望者を見習って正体を隠さんか!!』
「ヘッ、んなもん今さらだろ。それに…オレよりテメェの方が気をつけた方が良いんじゃねぇの?不思議生物さんよぉ?」
『なぬ?』
「い、イヤリングが……喋った!?」
喋るイヤリングにこれでもかと驚愕する杏にディアは『しまった…』と己の失態に嘆き、額に手を当て項垂れた…その時!
___“バキバキバキバキ!!!!”
「ぐぁッ!!!!?」
「うわっ!?」
突如、ざまあみろと落ち込むディアを嫌みらしく嘲けていたカガリの足元から鋭くしなる槍のような黒い影が床を突き破ってき、油断していたカガリはそのまま天井に背中を強打させた。
「イッ…テェェェ……!!!!!」
「ふ、不良おん……ヒッ!?」
天井に貼り付けられたまま呻くカガリに安否を心配した杏が声を掛けようとしたその時。
もうもうと立ち込める埃の中に影が引っ込み、突き破られた床下からヒタヒタと不気味な足音を立て、“怪魔”がとかげのように四足歩行で這い出てきた。
「ま、まんまB.◯.W……ゲームの世界もあながち間違って無いってことか!!!?」
「バカなこと言ってねぇで……邪魔だからさっさと逃げろ!!」
「あわわ!!わ、わかっ、うわわ!!わかったぁ!!」
杏を怒鳴り付けるやすぐさま天井から体を引き剥がし、再度舌をしならせる怪魔に向かって落下を利用した踵落としをお見舞いするカガリ。
凄まじい衝撃に杏は後ろに転がるがすぐに起き上がり、半分パニックになりながらも慌てて玄関まで走り出した。
「よっし!!オラ、かかってきやがれ。ひょろガリやろ…う?」
杏が玄関に到達したのを目の端で確認したカガリは怪魔に構えるも、怪魔は先ほどの攻撃以降、腕をだらりとさせ顔いっぱいの大口で舌舐めずりするだけで戦う気力を感じさせなかった。
「……なんだコイツ」
『油断するでないぞ、レディー。予想外な行動に出る前に片付けるぞ!』
「ヘッ、任せな!!」
先手必勝。床を蹴り、怪魔に飛ぶと同時に体を捻り、回転を加えた蹴りを怪魔の首目掛けて右斜め下の角度で鋭く打ち下ろす。
蹴りの威力で怪魔の体は重力を失ったように回転し、衝撃を残したまま壁を跳ねる。
そして、跳ねた怪魔の顔面へカガリ渾身の追撃。壁にめり込む程の前蹴りを叩き込んだ。
「……よぇーな、コイツ…」
『確かに手応えの無い怪魔である……まさか…?レディー!!今すぐあの子を追うである!』
「あ?いきなりなんだよ?」
「うわああぁぁぁぁあぁぁ!!!!!!?」
「っ!?ボサ髪?!」
余りにも手応えの無い相手を不審に思い、カガリは怪訝そうに眉間に皺を寄せていると、突然何かに気づいたディアが叫んだ直後。
逃げた筈の杏の悲鳴が玄関から聞こえ、カガリは急いで杏の元へと玄関に駆け出した。
「ボサ髪女!!」
玄関のドアを蹴破り、廊下に出たカガリは辺りを見渡すが、杏の姿はいくら探そうと見当たらない。
ぶつけようの無い怒りからか、動揺からなのか。カガリは八つ当たりするかのように壁を蹴った。
「クソッ!!!!どこ行きやがったんだ!!?」
『まだそう遠くには行っていない筈だ!急ぐである!』
「わぁーてるよ!!!!」
ディアに荒々しく返事を返し、カガリは勢いよく廊下の塀を飛び降り、落下しながらマンションの至るところに視線を向ける。
(此奴……いつもならなにがなんでも人助けを拒み避けるくせに…何故急に自分から人助けを……?それに……一体、どうしたのだ?これほど余裕の無いレディーは初めて見るである…)
「いた…!!」
別人に見える程、真剣な表情をするカガリに無言のまま見つめていたディアが不思議に思っていると、階段から顔を出し、ぐったりとして動かない杏を咥えた別の怪魔を見つけた。
カガリは宙を蹴り、まさに弦から放たれた矢のごとく空中を駆け抜けていく。
「待ちやがれ…!!クズ野郎!!」
向かってくるカガリの怒号を敏感に察知した怪魔は胸の中心から目玉を剥き出し、殺気立つカガリを見つけるや、蜘蛛のような素早い動きでマンションの屋上へと姿を眩ませた。
『速い…!』
「チッ、逃がすか!」
逃げ出した怪魔を追うべく、空中で勢いよく翻り壁に着地すると同時に、そのまま垂直に壁を駆け上がり、怪魔の後を追いかけるカガリ。
そして、屋上に到着したカガリは警戒するように身構える怪魔と向き合うように拳を構えた。
「ようやく殺る気になったか?来いよ!テメェのその舌、ぶち抜いてやる!!」
カガリの言葉が通じてか、舌を閉まった怪魔は金属を擦り合わせたような奇声を響かせ、不規則な動きで左右を駆け巡り、カガリの死角から細く鋭い爪を光らせながら飛び掛かる。
『多少は知識を持ち合わせているようであるな…だが…』
「オレの“敵”じゃねぇよ!」
翻弄させる怪魔の動きに惑わされることなく、接近してくる怪魔の胴体に合わせ、カガリは体を捻り鞭のようにしねらせた蹴りを怪魔に叩き込む。
さらに、体をくの字に折れ曲がり、呻く変わりに怪魔の口から出た長い舌を掴むとニヤリと悪顔で嗤い、掴んだ腕に力を込めた。
「オオオォォォォラアァァアァァ!!」
怒号の咆哮を吼え、カガリは力任せに怪魔の伸びる舌を豪快に振り回し、屋上が半壊しようとお構いなしに地面へ何度も叩きつけていく。
「トドメだああああ!!」
振り回す舌がちぎれんばかりの力を込め、カガリは腹の底から声を上げ、怪魔を屋上の出入口の屋根へ脳天から打ち下ろした。
轟音と共に破壊され砂塵のように舞う瓦礫。その衝撃はマンション全体を地鳴りのように震わせ、ガラスが一気に割れるけたたましい音が下から盛大に響く。
まるで爆弾でも爆発したのではないかと思えるほど半壊した屋上でカガリは横たわる杏にそっと近づき、怪我が無いかを確認すると安堵した。
「良かった…気を失ってるだけか…」
『…ずいぶん、らしくない行動を取るのだな』
「あ?……どう言う意味だよ…」
『そのままの意味である。ここ数週間貴様を見てきたが…まさか他人を気遣う心を持っていたとは思いもしなかった』
「ケッ、バカにしやがって……!…そんなんじゃねぇよ。ただ…こいつが話した事は理解出来るってなだけだ…」
「そうか。“貴様はそいつの話を聞いた”のだな?」
マンションの屋上に夜風が強風となり吹き抜けたその時、カガリの背後から酷く冷淡な声が聞こえてきた。
全く気配も音もなく現れた人物の声に驚き、弾かれるように振り返るとカガリは表情を険しくさせ驚愕した。
「なっ!!?テメェは……杏の…!」
「これは驚いた…“そいつの名前まで知っている”とは。それも、単なる無能な輩では無く、噂の魔法少女とは思いもしなかった…“由々しき事態”だな。これは……」
警戒する獣のように身構えるカガリに対し、目の前の男は全くの無関心に近い、余裕とも取れる態度で悠々とメガネを上げ、心のそこから落胆するように肩を落とす。
その突如、カガリの体は巨大なダンプカーに激突したかのような衝撃波に勢いよく屋上の外へと吹き飛んだ。
『レディー!?』
「ぁ…!!?」
「潰れろ」
冷徹な声が響いたと同時に、吹き飛んだ衝撃でイヤリングが外れ、変身が解除されて訳もわからず吹き飛んでいたカガリの周りを半壊された屋上の瓦礫が飛び交う。
それらが一斉に収縮、圧縮するようにカガリを無慈悲に押し潰した。
「ぐあああああああああぁぁ!!!!」
「ッ……!!レディー!!!」
一つ一つが巨大な瓦礫の衝突に生身の体に戻ってしまったカガリの骨はマッチのように簡単にへし折られ、瞬く間に破壊されていく。
謎の衝撃波に投げ出されてしまったディアは慌ててカガリの元へ戻ろうとするが、隙間無くカガリを覆い隠す瓦礫に阻まれ、非力なコウモリ姿のディアには為す術が無い。
「レディー!レディー!!!!!」
「使い魔を通さねば変身すら出来ないとは…不出来な存在だな。だが手加減などしない。安い台詞だが…“秘密を知ったからには消えてもらう”」
カガリを押し潰す瓦礫の周りに鉄筋が剥き出しとなった瓦礫が浮かび上がり、男の閉じる手のひらに合わせて一気に収縮される。
「ッ……!!」
絶体絶命…まさにその時であった。
「お、お父さん待って!!!」
突然、叫び声が上がり、瓦礫ごとカガリを貫こうとした鉄筋入りの瓦礫が寸前で止まる。
父と呼ばれた男はゆっくりと背後を振り返るとそこに意識を取り戻した杏の姿があった。
「……そう呼ぶなと何度言えば分かるんだ…?杏。それも部外者の前で呼ぶとは……」
「っ…ど、どうしてあなたが魔法を……!?今までそんな力があるなんて一度も……!!」
「何故、私がお前に話さねばならない?知ってどうする。それこそ無意味だと言うものだ」
杏の父、星司は杏を忌々しげに睨み付け、閉じた手のひらを開くと宙に浮いていた瓦礫が崩れ、中から全身血だらけとなったカガリが無造作に地面に落ちた。
「レディー!」
「ふ、不良女……!!」
「この娘は私がお前の父親である事を知っていた。だとすれば彼女がこうなった原因はお前だ…“お前が喋ったせいでこうなった”。あれほど言い聞かせてきたと言うのに……おかげで彼女の入場を許可したマンションの管理人も始末せねばならなくなった……“お前一人の責任”でな」
「ッ……!!!」
「私の手を煩わせるとは……お前には心底、ガッカリさせられる」
ディアの呼び掛けにも反応無く無惨な姿で横たわるカガリを見つめ、杏はカタカタと体を震わせ、ゆっくりと迫ってくる父星司の威圧感にうまく呼吸が出来なくなっていく。
「どうした?お前が待てと言ったから待てやっているのだぞ。何か私に言いたいことでもあるのだろう?いや、それよりも“やるべきことがあるのではないか”?あの娘を助けたい気持ちがお前の中にあるのなら……その『意』を私に示してくれ…」
「…!!」
目の前に立ち、杏を見下ろす刺すような冷たい視線に杏は息すら出来ないほどの恐怖に体を激しく震わせ、無意識に背後に見える柵を見た。
父星司の無機質な目に見つめられているだけで、心の中すべてを見透かされ、逆らうことは許さないと気持ちを追い立てられ、“脳裏に浮かんだ身の毛も凍る恐ろしい考え”に体が自然と動きだす。
壊れている柵を越え、恐る恐る下を覗き込むと吹き付ける風と目眩がする程の高さに鼓動が早鐘を打ち、呼吸が荒くなる。
___飛ばねば……目を瞑り、足を踏み出しかけたその時…
__ガクン!
「ぇ……?」
「バカなこと……しようとしてんじゃねぇ…ぞ!!ボサ髪女!!!」
落ちる寸前…突然、後ろから服を力強く掴まれたように引っ張られると、直後、怒り混じりの声が杏の耳元で響き渡った。
振り返るとそこには…顔中血まみれで苦痛に堪え歯を食い縛るカガリの顔があった。
「ぁ…ふ、不良……女…なんで…?」
「何でもくそもあるか!テメェ…何、屋上ダイブキメようとしてんだボケ…!!」
飛び降りようとした杏を無理やり柵から引っ張り戻したカガリ。
その体は至るところから血を流しており、全身ボロボロで今にも死にそうな瀕死の重傷なのが一目で分かる程であった。
しかし、杏の胸ぐらを掴むカガリの表情は、先ほどの苦痛など微塵も感じさせない、杏の行動に対する怒りへと変わっていた。
「ふざけた真似しやがって……テメェ、今なにするつもりだったかわかってんのか…?!死ぬとこだったんだぞ!?」
「ッ……あぁ…だって…し、死ぬつもり、だったからな…」
「…テメェ、本気で言ってんのか?」
「ッ…!あぁ、そうだ。全部、あたしが悪いんだ!……あたしが外に出なかったら……あたしがお前に星司さんのこと喋らなきゃ…お前だって、お前だってそんな死にそうな目にだって合わなかったかも…!!!」
「うるせー!!!」
自暴自棄のようにうつむき叫ぶ杏の言葉を声を大にして、カガリはバッサリと切り捨て否定する。
「テメェは何一つ悪くなんかねぇよ…!!外に出たのがなんだ!テメェがクソ親父の事を喋ったからってなんだ!!オレが死にそうになったからなんだ!!!例えどこの誰がテメェが死ななきゃならねぇ理由を押し付けてこようと“お前が死ななきゃならない理由”なんざどこにもねぇんだよ!!!!」
顔をうつ向かせた杏の顔を無理やり上げ、まっすぐに見つめながら反論は許さないとばかりに断言したカガリ。
意味が分からない。乱暴で実に身勝手な言葉だと、杏は言い返そうとしたが……出た言葉は全て嗚咽に変わり、目の奥が熱くなったと思ったら、後から止めどなく涙が流れ落ちた。
「う”わ”あ”あ”あ”あ”…!!」
「おいおい……キレたと思ったら今度は泣くのかよ、忙しねぇ奴だなぁ…お前」
「泣かせたのはレディーではないか…」
「あ?悪いのはオレじゃねぇだろ?」
「うむ、そうだな…悪いのは全部……」
「「テメェだ!!」」
カガリはゆっくりと立ち上がると指の間接を鳴らしながら背後に振り返り、ディアと声を揃えて星司に叫んだ。
「テメェは…ぜってーにぶっ飛ばしてやるよ!!」
「……悪いのは私か。一体どうしてそうなるのか、理解できないな……私はその子の保護者だ。生活に何一つ不十分はさせていない代わりに外に出るなと約束しただけだ……それを承諾し破った彼女だ。私だけが悪者なのは筋違いでは無いかな?」
「こいつは何一つ悪かねぇよ!外に出たいって思うのが何が悪いんだ!!」
「何度も言わせるな。粗暴が悪いだけでなく頭も悪いとは無能にも程がある。それにこれは親子の問題だ…部外者が口を挟むんじゃない」
「自由もへったくれもねぇがんじがらめのクソみてぇな檻に閉じ込めておいて何が親だ!いまさら父親面してんじゃねぇぞ。七三キツネ顔が!!あんま、調子乗ったこと言ってっとそのメガネ、カチ割るぞ!?っうかカチ割らなきゃオレの気がすまねぇからぜってーカチ割る!」
星司が何を言おうとも、不良カガリはすべてを挑発で返し睨み続ける。
星司ももはや、会話は無意味と判断したのか頭を振り、煩わしそうにメガネをかけ直し、カガリを見据えた。
「君との話し合いは無意味のようだ。全く…せっかく私の魔力を使ってまでおびき寄せた怪魔も台無しにするだけじゃなく、娘まで庇うとはどこまで邪魔すれば気が済むのか…」
「あの怪魔も貴様の仕業とは…!!実の娘を何だと思っている!?」
「何も。その子は望んで欲した娘では無いからね…いてくれない方が助か……」
無感情で言う星司の言葉が言い切られる寸前、カガリは変身もせずに殴りかかった。が……
星司は少し、身を反らしただけで軽々と避け、怒りの表情を見せるカガリを呆れ果てたように肩を竦めた。
「……君、話を聞かないね」
「テメェの話なんか聞くかよ!オイ、ディア!!」
「うむ!変身だな!」
「ちげーよ!そいつを安全な場所まで連れて逃げろ!」
「なぬ!?」
こちらに来ようとしたディアを止め、星司を見据えたまま言うカガリのまさかの言葉にディアは驚き目を丸くさせ、同じく聞いていた杏も涙を拭いながら驚いた顔をしている。
「ふ、不良女…?な、なんで……?!」
「生身で勝てる相手では無いぞ!!其奴は間違いなく、探していた“幹部クラスの願望者”だ!!」
「んなもん分かってらぁ!だから、そこのボサ髪女を安全な場所まで逃がしてダッシュで戻ってこい!!それまでオレが……!!」
「“食い止める”とでも言うつもりか?」
星司が右手を払うと同時にカガリの体はまたも突然、強烈な勢いで吹き飛び地面を体を激しく叩きつけ転がった。
「レディー!!ぐっ…!!ぐぬぬぬ……ッ!!!」
「うわ!?なになになんだああ?!」
「すぐに戻る!!」
未知の力を使い迫る星司にディアは息を飲み込み、杏の元へ飛び立つと人に変化したディア。
そして、慌てふためく杏を抱き抱えると同時にディアの体がコウモリの群れとなり分裂すると杏共々その場から姿を消した。
「チッ…まあいい、どうせこの『敷地』からは逃げられやしない…」
取り逃した星司は小さく舌打ちも、すぐに表情を引き締め、拳を構えるカガリへと向き合うと腕にはめていた腕時計を確認し始めた。
「……日を跨いでしまったか。だが、“朝の出勤時間まで”まだ時間はたっぷりとある。あの二人はお前を殺してからゆっくりと探すとしよう」
「やれるもんなら、やってみやがれ!!メガネヤローが!!」
カガリはあらんかぎりの叫びを上げ、拳を振りかざし、まっすぐに見据えたままの星司へと果敢に挑んでいくのであった。




