お風呂と紅茶
すっかり日は落ちて、村は暗い夜の帳に包まれる。農家の人々も仕事を終えて家に帰り、灯りの点いた家からは夕食時の団欒の声が和やかに聞こえていた。
そんな中、タツヤは家の裏手にてひっそりとしゃがみ込み、火の点いた窯に薪をくべている。
頭上にある外開きの小窓からは、室内の灯りと湯気が漏れ出ていた。
「タツヤさん、お湯加減ちょうどいいです」
「ん、そうか」
壁越しに聞こえたリトスの声に、薪をくべる手を止めた。
今、この壁の向こうではリトスがお風呂に入っている。
夕食をとって後片付けをした後、リトスは風呂に入ると言い出した。
他の村人にはあまり入浴の習慣はないらしいのだが、薬師であるリトスは清潔第一ということで、毎日お風呂に入って身体をしっかり洗うよう先生から言い付けられていたらしい。衛生観念のしっかりした人だ。
その為、リトスの家には小さいながらもちゃんとした風呂があった。釜焚きの古式ゆかしい(と現代人のタツヤは感じる)木造風呂だ。
「あふぅ……こんなにゆっくり浸かれるのは久しぶりです。ありがとうございます」
風呂場から呼び掛けてくるリトスの蕩けるような声は、心底幸せそうだった。
先生が亡くなり、一人暮らしを始めてからは苦労していたらしい。湯槽に水を張るのも湯を沸かすのもリトス一人でやるのは大変で、風呂に入ってもろくに休まった気がしなかったそうだ。湯に浸からずに桶に張ったお湯で身体を洗うだけの日も多かったらしい。
しかし今日はタツヤが水がめを抱えて井戸を往復して、あっという間に湯槽を満たし、昼間に割っておいた薪を使って難なく湯を沸かした。あまりの手早さにリトスは唖然としていた。
こういうところでも役に立てて良かったとタツヤは感じている。リトスの厚意に報いるにはまだまだ足りないのだが。
「タツヤさんも後で入ってくださいね。着替え用意しておきますから」
「ああ」
タツヤは短く返事する。
日本人として風呂に入るのに異論は無い。喜んで入ろう。
しかしあれだ……年若い娘さんがすぐそばで風呂に入っていることを意識すると……なんだか気持ちがざわついた。
いや、別に覗きたいとか考えているわけじゃない。そんな不埒な行為は人として許されないし、積み重なる恩義に唾を吐きかけるような真似は絶対にしたくない。なによりリトスに嫌われでもしたら、煙草が作って貰えなくなるのだ。絶対にやるつもりはない。
だけど、なんというか……落ち着かない。薄い板壁を通して悦に浸る声や身体を流す物音が事細かに聞こえてくるこの状況、落ち着いていられようか。
タツヤは今日リトスに魔法を教わらなくても、このまま三十路を迎えれば魔法使いになれる資質を持つ者だったのだ。
なんとか平常心を保つため、火かき棒で薪を弄んだり、その場をうろうろ歩き回ったり、無意味にラジオ体操を踊ったりして、荒ぶる気持ちと戦った。煙草も続けて二本吸った。
しばらくして風呂から上がったリトスが呼びに来たときはもう汗だくになっていて、タツヤを見たリトスは目を丸くした。
「どうしたんですか、そんなに汗をかいて」
「ちょっと魔物と戦ってな……」
「えっ!? 村の中に魔物が出たんですか!?」
「いや……出たのは俺の心の中だ」
煩悩というタチの悪い魔物がな。そしてなんとか追い払った。
どこか陰りある瞳で夜空に浮かぶ二つの月を見つめるタツヤに、リトスはきょとんと首を傾げていた。
タツヤも風呂を頂き、さっぱりした後は居間にあたる部屋で煙草をふかしてくつろいだ。もちろん煙が篭らないよう窓際でだ。
まだ寝るには早い。しかしテレビもなく、ラジオもなく、車もそれほど(というか全く)走っていない村だから、やることがなくなると途端に退屈だった。
そんなタツヤの下に、リトスが本の束を抱えてやってきた。
「なんだそれ?」
「先生が作った薬草の研究ノートです。これを使って、タツヤさんが望む煙草の材料を探し出します」
そういいながらテーブルに本を置いて腰を下ろす。積み重なったノートは二十冊はある。これでもまだ一部だそうだ。
タツヤも煙草の火を消してリトスの向かいに座った。
「悪いな。こんな夜まで時間を取らせて」
「いいんです。こうゆう研究とか勉強は大好きですから」
そういってリトスは笑い、わら半紙を紐で纏めたような手作り感溢れるノートを開いた。開いたページに目を落とし、パラパラと捲って読み進めていく。
タツヤも手伝おうと一冊手に取って開いた。ノートには一ページごとに写実的な植物の絵と、その効能らしき文が事細かに書き記されている。確かにこれで調べれば、煙草の材料となる植物のことが判るかもしれない。
ただ、問題がひとつあった。タツヤにはこの世界の文字が読めなかった。どこを読んでもなんと書かれているのかちんぷんかんぷんだ。
そっとノートを置いたタツヤを見て、リトスは目をしばたたかせる。
「……すまん、字が読めない」
「そうなんですか? タツヤさん話すの上手いから、読み書きも出来るものだと思ってました」
「文字は覚えてこなかったんだ」
そう誤魔化しておく。
言葉は翻訳されるのに文字は翻訳されないなんて、微妙にサービス悪いぞ異世界!
しかしながらこの国の識字率はそう高くないそうで、読めなくても恥じることはないらしい。リトスは仕事で必要だったから勉強したのだそうだ。
手伝いが出来ないとなると、タツヤがここにいても邪魔なだけだろう。
立ち上がり、部屋を移動しようとしたら、リトスが「あっ」と声を漏らした。
「ん、どうした?」
「あ、いえ……どこに行くんですか?」
「どこって、ここにいても邪魔だろうし、寝室に行こうかと……」
「邪魔だなんて、そんなことないですよぅ! ここに居てくれて大丈夫です」
「そ、そうか? じゃあやめるけど」
いきなり大きな声を出したリトスに少し驚きながら、タツヤ再び腰を下ろした。
積み上げた本のページを捲るリトスの隣で、手持ち無沙汰に過ごす。
「……」
居てくれていいとはいわれたものの、やることがなくて暇だった。
リトスはノートを読むのに集中している。やり始めたら没頭するタイプのようだ。生真面目ちゃんだ。
やっぱり寝室に行ってていいかな……? でもリトスはここに居て欲しそうなんだよな……。かといってこのまま黙々と過ごすのもきつい。
「なあリトス」
「ふぇ?」
我慢出来なくなってタツヤはリトスに話し掛けた。目を上げたリトスが気の抜けた声を漏らす。
「ちょっと休まないか?」
「あっ……ごめんなさい。退屈ですよね。私気が回らなくって……」
「いや、いいんだ。てゆうか昨日はああいったけどさ……やっぱりそんなに急がなくていいから。そりゃ早く出来たら嬉しいけど、あんまり根詰めないでくれ」
これは昼間におばあさんの話を訊いたときから、リトスに伝えようと思っていたことだ。
俺の我儘でリトスに負担をかけてはいけない。すでにたくさんかけているが、なるだけ少なくしたい。
「……はい。そうします」
リトスは静かに頷き、ノートを捲る手を休めた。
「待ってろ、お茶淹れてくる」
「あ、私が淹れますよ」
「俺にやらせろ。ていうかやりたい」
立ち上がるリトスを制して炊事場へ。朝昼晩と食事の準備を手伝ったので使い方はもう覚えた。昼間リトスに教わった魔法でかまどに火をつけ、お茶を淹れる。
紅茶のような香りと渋味のあるお茶なので、堅パンにもつけていた木の実のジャムを入れてロシアンティー風にしてみた。
それを飲んだら、リトスはほっと心地よさそうに息をついた。
「温かい……タツヤさん、これ甘くて美味しいです」
「そりゃよかった」
日本人が緑茶に砂糖を入れないように、この村でもお茶を甘くする発想はなかったらしい。だけどリトスはタツヤが淹れたお茶を嬉しそうに飲んでいた。頭を使う作業の後は、甘いものが欲しくなるからな。
ふうふうと冷ましながらお茶を啜るリトスを横目に、タツヤもカップに口をつける。ラズベリーに似たジャムの甘味とほのかな酸味がお茶の渋味と混じりあい、うまく互いを引き立て合っていた。
ロシアンティーは学生時代によく飲んでいた。紅茶は眠気を醒ますし、前述通り糖分は疲れた頭にも優しい。受験勉強や期末試験の追い込みの時などに重宝していたものだ。嗜好が煙草に変わってからはあまり作らなくなったのだが、懐かしい味に思わず頬が弛む。
そんなタツヤを見て、リトスがはっと口を開いた。
「タツヤさん、今笑いました?」
「ん? それがどうした?」
「そんな風に笑ったところ、私初めて見ました」
「そうか? 俺だって普通に笑うぞ」
この世界に煙草が無いと言われたときは渇いた笑い浮かべたし、リトスが先生の煙草持ってきたときは狂喜乱舞した。
……なるほど、異常な笑い方しかしていないな。いらんところでリトスに心配をかけていたのだとしたら反省しよう。
「タツヤさんってぶっきらぼうにみえて、けっこう感情豊かですよね」
「んなことない。俺は常にクール&ドライだ」
キリッと頬肉を引き締めてクールなナイスガイを気取ってみる。むしろ素でクールな方だと思っている。タツヤ自身は。
「それにとっても優しいです」
「……やめてくれ。真顔でいわれるとマジで恥ずい」
クールの仮面はあっという間に剥がされた。リトスが向けてくる屈託のない笑顔から逃げるように、タツヤは赤くなった顔を逸らす。
むしろリトスはどうしてここまで俺に心を許しているんだ? まだ出会って一日ちょっとだっていうのに。
命を助けてくれたのは、薬師としての矜持からだと思う。それにしたって警戒心が無さすぎて、こちらのほうが逆に心配になってくる。
「なあお前、誰に対してもそうなのか?」
「ふえ? そう……とは?」
「誰に対しても、そんな風ににこにこ無防備に近づいていくのかってことだ」
治安のいい日本でもここまで無防備な奴はいないぞ、多分。
「そんなことないですよ。悪い人や怖い人には近寄りません」
「そんなのすぐには判らないだろ。もし俺が本性を隠してて、実はすごく悪くて危ない奴だったらどうするんだよ」
「タツヤさんは悪い人じゃないです。ちゃんと鑑定しましたから、最初から判ってます」
そういって笑いながら、リトスは指差した瞳をぽうっと光らせた。
あれはタツヤの煙草を調べたときに使っていた鑑定眼だ。薬草の成分を調べる魔法だと思っていたけど、人間まで鑑定出来るのか? というかそれで見た俺はどんな判定が出たんだ?
リトスはどこか悪戯っぽい笑顔を貼り付けたままお茶を啜っていた。本当に鑑定眼とやらで、そこまで判るのか?
訝りながらタツヤはふと重大なことに気付いた。
リトスはタツヤのことを悪い人ではないとはいったが、危ないといった部分は否定していない。
他意はないのか、それともわざとなのか、それによってはちょっと話し合いをする必要があるぞ、おい。