衝撃の事実
現代に生きていた人間が不慮の事故で他界し、異なる世界に転生して蘇る。あるいは記憶や姿もそのままに転移する。そんな内容の小説を、以前ネットで読んだことがあった。達也の場合は後者になる。
ネット小説ばかりじゃなく、その手のファンタジー作品は昔からいくらでもあるし、物語として面白いことは認めよう。
だけどそれが我が身に起きたとなれば話は別だ。なんというかもう、どう反応していいか判らない。どうなってんだ、これ。
いっそこれは夢なんじゃないかと疑いたかったが、頬を撫でる夜風の冷たさやそれに運ばれてくる草木の匂い。そして疑いようのない、慣れ親しんだ煙草の深い味わい。リアルに感じるそれらが、これが現実だと物語っていた。
「どうすんだこれから……」
「ふえ?」
ため息混じりに呟き、咥え煙草のまま壁にもたれると、赤毛の少女、リトスと目があった。いつの間にか隣にいて、達也の顔を見上げていた。
「お兄さん、なにか嫌なことでも思い出したんですか? さっきより暗い顔してます」
「ん、ああ、いや……」
心配そうに訊ねてくるリトスに、達也はどう答えたらいいか迷った。
自分はこことは違う世界から来たらしい、なんて話して素直に信じて貰えるだろうか? 俺だったら相手の正気を疑うな……。
「……なんでもない。元々こんな顔だ」
「そうなんですか?」
しかめっ面のまま煙草を吹かす達也に、リトスはきょとんとしていた。
「あの……私からもお兄さんに訊ねていいですか?」
「ん、なんだ?」
「まずはえっと……お兄さんのお名前を訊かせてください」
話題を切り替えるようにリトスが質問してくる。あまり触れて欲しくないことを察してくれたようだ。空気の読める子だ。
「相田達也だ。タツヤでいい」
「タツヤさんですね。タツヤさん」
「おう」
「タツヤさん」
「何故二回呼ぶ?」
不機嫌っぽく返すタツヤだが、無邪気な笑顔を向けてくるリトスのことは不快に感じない。
小柄な体格も相俟って、小動物みたいで和む。
リトスはさらに質問を続ける。
「タツヤさんはどこから来たんですか?」
「異世界」
「へ?」
タツヤの答えにリトスは目を丸くした。やっぱりそうなるよな。
「冗談だ。詳しくは話せないっていうか、話しても分からないだろうけど、すごく遠い国から来たんだ。多分、国の名前を言ってもお前は知らない」
事実は話せず、嘘をつこうにもこの世界のことをなにも知らないから嘘のつきようがない。よってこんな言い方しか出来なかった。
自分でいっててかなり胡散臭いが……。
「遠い国からって、じゃあどうしてこの国に? タツヤさんは旅人さんなんですか?」
「まあそんなところだな」
風の吹くまま気の向くまま、世界中を自由に旅する風来坊。旅の途中、道に迷って行き倒れたところをリトスに拾われた。若干無理は感じるが、こんな設定で通すことにした。
「旅人さんが、どうしてあんなところで倒れてたんですか?」
「それは知らない。俺のほうが知りたいくらいだ」
「そうですか……」
若干諦めたような呟きがリトスの口から漏れた。
結局名前以外はろくに明かしていないのだが、リトスはそれ以上踏み込んだことは訊いてこなかった。まあ、訊かれても大半は答えられないのだが。
「倒れた影響で、記憶が飛んでるのかもしれませんね」
と、勝手に納得してくれた。助かる。
「それじゃあえっと、最後に一番気になっていたことを訊いてもいいですか?」
「おう、なんだ?」
「その、煙が出てる……棒? それってなんです?」
リトスはタツヤが咥えている煙草を指差した。
「これ? 普通の煙草だけど」
「たばこ……ちょっと見せてくれませんか」
「ああいいけど、先っぽに触るなよ。火ぃ点いてるから危ないぞ」
タツヤは半分ほどになった煙草をリトスに差し出して見せる。
リトスは真剣な眼差しで細い煙を立ち上らせる煙草をまじまじと見つめた。今までの無邪気な笑顔から一転して、オレンジ色に燃える火を探るように覗いている。
そんなに煙草が珍しいのだろうか? 見た感じリトスはまだ未成年だろうが、まさか煙草を見たことがないなんてことは――
「……ってちょっと待て。なあリトス、も、もしかして……この世界に煙草って……無いのか?」
「ふえ?」
ふと浮かんだ恐ろしい疑惑に声を震わせるタツヤ。うっかり『この世界』なんてアウトゾーンギリギリな言い方をしたのに取り繕いすらしない。
リトスはきょとんと目をしばたかせた。
「たばこっていうのは、この棒のことですよね。そうですね。見たことがありません。でも……」
「なっ!?」
それを訊いた瞬間、タツヤは膝からがくんと崩れ落ちた。
それを見てリトスがビクッと身を竦める。
リトスの服装や部屋の造りから、この世界の文明は地球でいうと中世ほどだろうと睨んでいた。地球ならすでに煙草はコロンブスによって欧州に伝えられ、世界に広まっていた年代だ。しかしながら異世界の文化が地球と同じ道を辿っていたとは限らない。作物や工芸品など、同じくらいの時代で照らし合わせても、地球にあってこの世界にないものも少なからず存在するはずだ。逆も然り。それは当然判る。判るけれど、煙草がそのうちのひとつだなんて――
「お、終わった……世界の終わりだ……!」
「き、急にどうしたんですか!? また具合が悪くなったんですか!?」
膝をついて項垂れるタツヤ。リトスが懸命に呼び掛けてくるが、心はうわの空だった。
タツヤが持っている煙草の残りは三箱半。正確にいえば69本だ。必死で節約して喫煙回数を一日一本に抑えたとしても、二ヶ月ちょっとで尽きる。いやどう足掻いても一日一本に抑える自信は無いから、ひと月も持たないだろう。この煙草が尽きればもう手に入らない。そうしたら俺は、なにを楽しみに生きていけばいいんだ……いや、生きていく意味なんてあるのか――
「さよなら人生……グッバイマイライフ……」
「し、しっかりしてくださいタツヤさん! もしかして、このたばこっていうのが無いっていったからショックを受けてるんですか? だとしたらごめんなさい! 言い方が悪かったです。誤解させてしまいました」
リトスは虚ろな目をするタツヤの肩を掴み、必死に呼び掛けてくる。
その声にタツヤはギギギ、と壊れた人形のような動きで顔を上げる。
「誤……解……?」
「はい。ちょっと待っててください。すぐ戻って来ますから」
リトスは部屋を出ていく。何事だろうと首を捻りながら、タツヤはフィルターまで吸いきった煙草を携帯灰皿で揉み消した。
それからしばらくして、陶器の皿に茶色い粉のようなものを盛って戻ってきた。
「それは……!?」
「見たことがないっていったのは、その形なんです。似たものは知っていました」
リトスが持ってきたそれは茶色く乾燥した葉が細かく刻まれたものだ。見た目はもちろん、色や匂いも殆どタツヤの持っている煙草の中身と同じといえた。
「ちょっと火を点けてもいいか?」
「どうぞ」
タツヤがライターを出すより早く、リトスが粉末に人指し指を立てて近付ける。その指先にぽうっと小さな火が点った。
さらっと魔法らしきものを使っているが、今はそんなことはどうでもいい。この粉末が煙草かなのかどうなのか。タツヤの頭はそのことでいっぱいだ。
粉末に火が点り、チリチリと燃焼を始めると共にゆらゆら白い煙が立ち上る。見た目は煙草というよりお灸や線香に近い。だけどその匂いは紛れもなく――
「煙草だ……これ煙草だ!」
今吸っている手持ちの煙草と比べても遜色ない。むしろ香りの重さがガツンとくるタツヤ好みの上質な煙草だった。
「やっぱり同じものなんですね。良かった」
歓喜に身を震わせながるタツヤに、リトスはホッとした笑みを向けてくる。
煙草があるなら大丈夫だ。金も仕事も、先立つものはなにも持たないが、明日の希望は見える。この世界にどんな困難が待ち受けようと、強く逞しく生きていけると根拠のない自信が胸に満ちてきた。
「ありがとうリトス。君のおかげで明日からも生きていけそうだ」
「そ、そんなに大事なものだったんですか!? 先生から大人になるまで興味を持つなって言われてたから、私はどんなものなのかよく知らなかったんですけど……」
リトスがいうには、この煙草は身寄りのないリトスの育ての親で、薬のいろはを教えてくれた先生の持ち物だったらしい。リトスは孤児だったそうだ。
先生は仕事の合間や気が揉んだときに、これに火を点けて匂いを嗅いでいたらしい。タツヤの煙草のように紙で巻いたりパイプに入れたりして直接吸うといった行為はしていなかったため、直に咥えて吸い込む形のタツヤの煙草が珍しく感じたのだ。
「よかったらその先生って人に会わせてくれないか。この家に一緒に住んでるのか?」
この煙草がどこで手に入れられるのか訊きたい。そしてあわよくば少し譲ってほしい。
期待しながら訪ねると、リトスは表情を暗くして目を伏せた。
「すみません……先生は去年、流行り病で亡くなって……」
今までにこにこ明るかったリトスの暗く沈んだ声に、タツヤは言葉を飲んだ。
「……悪かった。いやなこと訊いて」
「いえ、ちゃんと話してなかった私が悪いんですから。タツヤさんが謝ることないです」
リトスは気持ちを切り換えるように笑う。
人懐こくて明るい子だと思っていたけれど、同時に強い子だ。
思えばいくら行き倒れを見つけたからといって、見ず知らずの男を家に連れ帰って看病しようなんて、生半可な気持ちでは行えない。そういった気概からもその片鱗は見えていた。
「タツヤさんはそのえっと……煙草のことが知りたいんですよね。それは先生が自分で作っていたものなんですよ」
「マジか。じゃあリトスもこれ作れるのか?」
「いえ……ごめんなさい。私はその材料や製法を教わってないので……。私が成人したら教えてくれるといってたんですが、その前に……」
今のは先生の遺品の中から持ってきたが、残りは一握り分も無かったらしい。
それを訊いたらさすがのタツヤも「残りを譲ってくれ」とはとても言えなかった。
もしかして今の俺って、リトスにとってすごく大事なものを使わせてしまったんじゃないか……? なんて内心青ざめたりもした。
「そうか……どこか都会のほうに行けば、同じものが買えるかな?」
「多分無理でしょう。先生以外に持っている人をみたことがありませんし。先生はあくまで個人的に楽しむために作ったもので、広めるつもりはないし売り物にもしないといってました。少なくともこの近辺では売られてはいないはずです」
「そっか……そいつは困ったな……」
つまりこの世界に煙草の原料は存在するものの、商品として流通はしていない。手に入れるのは非常に困難だということだ。
希望は見えたが、それは果てしなく遠い。手に入れられるまでタツヤの精神が持つかどうか……
「あ、あの……タツヤさん。よかったら私が作りましょうか?」
「え?」
黙りこんだタツヤにリトスが呼び掛けてくる。目を上げると真剣な眼差しでタツヤを見つめていた。
「その煙草っていう薬、私が作ります」
「いや、でもお前、作り方知らないんだろう? 作れるのか?」
そもそも煙草は薬じゃないぞ、という野暮な指摘はしないでおく。
煙草を作ってくれる。そこが重要なのだ。
「確かに教わってはいませんけど、先生が作っていたものなら、私にだって作れないことはないはずです。いえ、きっと作ってみせます! だからその……元気出してください!」
胸の前でぐっと拳を握り、励ましてくる。
そんなリトスの瞳には強い決意の色が浮かんでいた。