少女と謎の部屋
目を覚ますと達也は見知らぬ部屋の中にいた。
室内は壁に備えられた小さなランプの灯で淡く照らされている。板張りの床と板張りの壁に囲まれた、飾り気の無い狭い部屋だ。壁の一部に四角い窓があったが、今は夜らしく外の景色は薄暗くてよく見えなかった。
そんな部屋の中で達也は、木箱のような簡素なベッドの上で、薄い毛布をかけられて横になっていた。
「……どこだ、ここは?」
覚醒したばかりの意識はまだぼんやりとして頭が回らない。
動こうとすると鈍い痛みが頭を襲った。それでも自身が置かれた状況を確認しようと身を起こしたら、額からぽとりと湿った布が落ちた。
人肌に温められたそれを手に取って考える。
誰がが俺を看病していたのか? 一体誰が? そもそも何故俺は看病される立場にある? しかもこんな見たこともない部屋の中で――
「そうだ! 確かバスから突き落とされて……」
不意に意識を失う直前の出来事を思い出して、達也は思わず声を上げた。
見ず知らずのOLに理不尽な因縁をつけられ、あまつさえ暴力を振るわれて大怪我させられた不幸な事故。いや、ああも明らかな敵意と害意に晒されては傷害事件といって差し支えない。
脳裏に浮かんだ記憶は、意識し出したら鮮明にリプレイできた。バスのステップから落ちてゆくときの流れるような景色。そのまま地面に激突した衝撃。頭が割れた生々しい感触も、血を失った身体が急激に冷えていく感覚も鳥肌が立つほどはっきりと覚えている。
あの痛々しい感触が蘇ると同時に、ハッとして自分の後頭部を触った。
そこに傷は……なかった。触れた手のひらを見ても、血の一滴もついていない。そもそも今感じている鈍痛は寝起きの低血圧から来るもので、頭を割られた焼けるような痛みとは明らかに違った。
重症を負っていたはずの頭は、何事もなかったかのように完治していた。
あれは夢だったのか? それとも今、ここにいるのが夢? いやしかし……
「あー、分からん。なにがどうなってるんだ!?」
達也はこんがらがる頭を掻きむしった。
一先ず気持ちを落ち着かせようと、寝起きの一服を決める。
「って無い! 俺の煙草はどこだ!?」
そこで煙草が無いことに気付いた。今までで一番焦った声が出た。
今更になって気付いたが、達也は上着を身に付けていない。下のジーンズは履いたままだが、上半身は裸だった。
Tシャツはいいとして、ジャンパーが無いのは困る。ジャンパーのポケットに煙草もライターも全て入れているのだから。
部屋の中を見渡し、毛布の下も見てみたが、服はどこにも無かった。
手元に煙草がない。ただそれだけでこの世の終わりの如く青ざめる達也。そこへバタバタとなにかが駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
扉がバタンと開き、小柄な人影が部屋に入ってくる。
「目を覚ましたんですね? お兄さん、具合はどうですか? 意識ははっきりしていますか?」
歩みよりながら心配そうに声をかけてきたのは、年若い少女だった。
年頃は十代の半ばほどだろうか。ランプの明かりに照らされて浮かぶその顔はまだ幼さを残し、肩まで伸びた長い髪は朱色に染まっているもののどこか純朴で田舎臭い。柿の葉色の質素なワンピースを纏った人のよさそうな印象の女の子だ。
ここに現れたということは、恐らくこの子が達也をここに連れてきて、看病していた張本人であろう。
達也は少女に尋ね返す。
「俺の煙草をどこにやった!?」
必死の形相で叫ぶ達也に、少女は目を丸くした。
少女が慌てて持ってきた荷物の中に煙草があることを確認して、達也はようやく安堵した。
左右のポケットに二箱ずつ入れていたから合計四箱。いや、一箱は半分吸いかけなので三箱半が手元に帰ってきてホッと息をつく。財布の中身や携帯は二の次だった。
「盗もうなんて考えていませんでした……。ただ、上着が汚れていたから、洗っておこうと脱がせただけで……本当です……信じてください……」
そんな達也の横に立って、少女はしゅんとしていた。
その姿を見て達也はきまりが悪くなる。
色々と混乱していた上に煙草の所在が気になって気が立っていたとはいえ、年下の女の子を怒鳴りつけたことは恥ずべき失態だ。しかも上裸で詰め寄るなんて、通報されてもおかしくない案件だ。
「あーその、悪かった。いきなり怒鳴り付けたりしてすまん」
「信じてくれますか?」
「ああ。これ、君がやってくれてたんだろ?」
そういって額に乗せられていた布を手にとって見せると、少女は嬉しそうに笑って「はいっ」と頷いた。
少女がどんなつもりで、なんの目的があって達也を看病しているのか。判らないことはたくさんあるが、人懐こいその笑顔を見たら警戒する気は湧いてこなかった。
むしろ達也のほうが警戒されるべきだ。いつまで裸族のままなんだ、俺は。
さすがに女の子の前でずっと上裸でいるは世間的にアレなので、手元の毛布を外套のように肩からかけて巻いておく。裸マントだ。余計変態っぽくなった気がするが、気にしないでおく。
「そんでだ、俺まだ起きたばっかで状況が全然掴めてないんだけど、説明して貰えるか? ここはどこで、なんで俺は君に看病されてるんだ?」
達也が訊ねると、少女は頷いて語り始めた。
「先に自己紹介しますね。私はこの村に住んでいる薬師で、名をリトスといいます」
「村? 薬師?」
普段使い慣れない単語に達也は早速首を傾げた。
「はい。それで今日の昼間、薬の素材を採るために、村の西ある山に入りました。そしたらそこで倒れていたあなたを発見したんです。息はありましたがひどく衰弱してので、こうして家に連れてきて看病を始めました。それからお兄さんが目を覚まして、今に至る――ということです」
「……」
それを訊いた達也の心中は混乱がさらに増してしまった。
眉根を潜める達也を見て、リトスは不安げに訊ねてくる。
「あの、なにか気になる点でも?」
「ああ、えっと……俺、山で倒れてたのか?」
「はい。山中の雑木林で、木の根元に横たわって意識を失っていました」
「……」
色々とおかしい。達也が意識を失ったのは職場近くのバス停だ。あの近くには山なんて無いし、仮にあったとしても、あの状況下は達也を連れ出すのはほとんど不可能だろう。勢い余って殺してしまった相手を樹海に棄てて証拠隠滅を図る、というのはサスペンスドラマなら定番の展開だ。現実でやられるとたまったものじゃないが。
しかし、あの時バスの中には他の乗客も何人かいた。勝手に連れ去ろうとしたら誰か一人くらいは黙っていないだろう。日本人はそこまで他人に冷たくないと信じたい。
なら自分は意識を失っている間に、どんな道を辿ってここに来たんだ? そもそもここはどこなんだ?
「リトス……だったか。ここはなんていう村なんだ?」
「トーガ村といいます。山麓の農村です」
「関東? 関西?」
「はい?」
達也の質問に、リトスは意味が判らないといった風に首を傾げた。その仕草を見て、ここはもしや日本ではないのかという疑惑が浮かんできた。リトスの顔立ちは西洋っぽいが、日本語を話しているからここは日本だと思い込んでいた。もしかしたらここは日本どころか――
「もう少し質問していいか?」
「はい。いくらでもどうぞ」
「ここは日本ではないのか」
「ニホン……どこかの町の名前ですか? 違いますよ」
「町じゃなくて国なんだけどな……じゃあもうひとつ。アメリカ合衆国、ロシア連邦、イギリス、フランス、中国。これらの国の名前に聞き覚えは?」
「す、すみません……どれも初めて訊く名前ばかりです」
達也の質問に答えられないリトスは申し訳なさそうに眉を下げる。それだけ訊ければ充分だった。現代に生きていて、今挙げた国名を全部知らないなんてほぼあり得ない。
そもそも最初から不可解な点はいくつもあった。頭の怪我のこともそうだし、日本を知らないのに日本語で会話が通じているというのも、異常な事態だといえる。いや、日本語で話していると思っているのはタツヤのほうだけで、もしかしたら彼女は本当は違う言葉を喋っているのかもしれない。
達也の疑惑は確信へとより近付いた。しかし、それは人目のあるバス停から連れ去られることよりも荒唐無稽な話で、にわかには認められない。だけどこの状況がすでに常軌を逸しているわけで――
ああもう、全くどうなってるんだ。頭がパンクしそうだ。そろそろヤニも切れてきたし……やばい、煙草が吸いたい。吸いたい吸いたい吹かしたい吸いたい煙草煙草煙草煙草たばこタバコたばこ煙草タバコヤニヤニニコチンヤニタールヤニヤニヤニ――
「あ、あの、お兄さん? どうしたんですか?」
「はっ!」
リトスに目の前でヒラヒラと手を振られて、達也は正気を取り戻す。
「すまん。ちょっとヤニが切れてな」
タツヤが頭を振りながらいうと、リトスは「やに?」と首を傾げた。
「ちょっと一服してくる」
達也は煙草とライターを手に立ち上がった。灰皿は……なさそうだから携帯灰皿も忘れずに。
それをリトスが制してきた。
「もう外は暗いですよ。出ない方がいいです」
「少しの間だけだ。部屋の中で吸われたら嫌だろ」
「よく分からないですけど、なにかしたいのなら気にせずここでどうぞ。というか病み上がりなんですから、あまり動かないでください」
「え、いいのか。じゃあお言葉に甘えるぞ」
壁際に移動し、窓を開けて煙草に火をつける。気にするなとは言ってくれたが、見た目10代の女の子の真ん前で堂々と吸う気にはなれない。その程度の分別は持っている。
吹かした煙を外に向けて吐き出しながら、達也は外の景色を眺めた。リトスのいう通り、ここはどこかの田舎村で間違いないようだ。畑らしき平地の間に平屋建ての民家がぽつぽつと点在していて、外灯は無いが淡い月明かりに照らされぼんやりと輪郭が浮かんでいる。
そのまま何気なく空を見上げて、
「あ」
達也は確信した。ここは自分の生きていた世界とはまるで異なる世界なのだと。
「まさかとは思ったけど、これはもう間違いないな……」
空を見上げながら達也は呟く。
生まれてこの方、あんなに大きく蒼く輝く月を見たことはない。
それが二つ並んでいたとしたら、もはや疑いようがなかった。