プロローグ
バスの到着時間は10分後。微妙にもて余す時間に相田達也は時刻表の看板の前で小さく息をついた。
時刻は秋空に夕闇が煙り始めた午後6時。車の往来や人通りもまばらなオフィス街の外れにあるその停留所には、現在達也の他には若いOLらしい二人組が達也と同じくバスを待ってベンチに座っているだけだった。
若い女か……。ジャンパーのポケットに手を入れた達也はOL二人を見て眉を潜める。二人とも見ず知らずの他人だが、シックなビジネススーツをきっちりと着こなし、薄化粧を施した小綺麗な容貌からはなんとなく危険な予感がした。
やめておくか? ……いや、もう一時間も吸っていない。我慢出来るか!
しばしの逡巡の後、達也は談笑するOL達から少し離れた位置で、ポケットから煙草を取りだし火をつけた。灰皿はOL達が座るベンチのすぐ目の前に設置してあるが、それは念のため使わない。零れそうな灰は手持ちの携帯灰皿に落とす。
苦い煙を胸いっぱいに吸って吹かしていると、OL達の話し声が否応なく聞こえてきた。
「やだ、ちょっと見てよアレ! こんなとこで煙草吸ってるよ! サイテー!」
「え、別に良くない? ここは禁煙区域じゃないし、ちゃんと灰皿も使ってるよ」
「区域じゃなくても周りに人がいるときは吸わないのがマナーでしょ!! 全く配慮が無いっていうか、これだから煙草吸う奴って常識が無くて嫌い!! 頭の中までヤニで汚染されてるんじゃない!?」
「ちょ、ちょっと止めなよ! 聞こえるよ!」
……ばっちり聞こえている。一人はともかくもう一人は随分な嫌煙家だったらしい。そんな気がしたんだ。
一応彼女達に煙が流れないよう風向きにも配慮して吸っていたのだが、関係なかった。
敵意たっぷりに喚き散らす女の声を聞き流しながら達也は煙草を吹かす。片方がいうとおり、別にこちらだって悪いことをしているわけではないんだ。従ってここは遠慮することもない。
そんな達也の態度が気に入らないのか、女はさらに声音を強くして喚いていた。
この手の罵倒はもはや聞き飽きていた。
達也は愛煙家である。
喫煙の嗜好に目覚めたのは二十歳を過ぎて幾日か後。悪い仲間にはそれより前から嗜んでいた者もいたが、比較的真面目だった達也が煙草に手を出したのはきちんと成人してからだった。
それからのめり込むまでは早かった。初めの頃はタール1ミリの軽いものを日に数本吸うだけだったが、段階を踏むように少しずつ強い銘柄に変えていき、齢23歳を迎えた今は、七つ星の名を冠した度数の強い銘柄を一日に最低でも一箱。多ければ二、三箱開けるようになった。もっと収入が多ければ、その倍は増やしただろう。
食事や衣類、他の娯楽に充てる金は惜しんでも、煙草代だけは毎月減らしたことがない。それほど達也の生活には煙草が密接していた。
しかし、そんな達也の嗜好に反して、世間は喫煙者に冷たかった。
特に達也の住むこの町は、去年市長が変わってから煙草に対する規制が厳しくなった。かつてはほんの一部だった禁煙区域が大幅に拡大され、町の至るところで喫煙が制限された。公共施設はほとんど全滅。人通りの多い道路や公園なども多くが禁止区域に指定された。区域内で喫煙した場合は高い罰金が課せられる。これは市長夫婦が大層な嫌煙家であり、断固たる喫煙規制の理念を掲げて市長選挙を勝ち抜いたことで、満を持して定められた条例だった。制定時、新市長を主に支持した嫌煙団体や主婦層がこれを大いに喜び、達也含む愛煙家達が苦虫を噛み潰す思いをしたのは記憶に新しい。
そうやって愛煙家達の肩身が狭くなっていく一方で、嫌煙家達が気を大きくしていった。
ルールを破った喫煙者を見れば徹底的に糾弾。過激なものであれば今のOLのようにもはやルールを守って喫煙していても批判してくる。マナーがなんだ、常識がどうだと様々な言い分を持ち出して、自分の主張を無理矢理にでも正当化してくるのだ。まっとうな意見を返しても話が通じないので、相手にするだけでごっそり気力を奪われる。
そんな環境故、最近ではどこか遠くへ引っ越そうかとさえ考えるようになった。
ルールを守っても破っても損な思いをするのなら、いっそこの町を離れて気兼ねなく煙草を吹かせるところで暮らしたい。そんな願望が本気で胸に芽吹きつつある。現実的に考えると予算や時間の都合やらで実行は難しいのだが……。
やがて停留所にバスがやってきた。
開いた扉にOL達が先に入っていく。達也も吸っていた煙草の火を灰皿で揉み消して後に続いた。ステップを踏んで車内に上がる。一段、二段と上ったその時、やたら喫煙を批判していた方のOLが不意に振り返った。
そして凄まじい形相で達也を睨んだ。
「やだ! 近寄らないでよ! ニコチン臭い!!!」
「ぐふっ!!」
ヒステリックな叫びと共に顎に走る衝撃。鈍痛と共に跳ね上がった視界で、OLがバッグを振り上げているのが見えた。
殴られたらしい。
顎をかち上げられ、ぐらつく視界の中で達也は何故か冷静だった。達也を殴ったOLは興奮したように息を荒くしている。一緒にいた同僚らしいOLが慌てた顔をしている。そんな二人の姿がなぜかゆっくりと見えていた。
奇妙な浮遊感があった。
(ああ、落ちてんのか、俺……)
達也の身体は殴られた勢いで後ろに倒れ、開いたままのバスの扉から飛び出していた。手すりに掴まる暇すらなかった。そのまま落下し、達也は固いアスファルトの地面に頭から叩き付けられる。
ゴッ、と鈍い音が聞こえた。
「……お、おい! 人が落ちたぞ!!」
「あの女が突き落としたんだ!!」
「なんかヤバイ音がしたぞ!?」
「明美! あなたなんてことを!!」
「私は悪くない!! 煙草臭いあいつが悪いのよ!!!」
一瞬全て音が消えた後、バスに乗っていた乗客達が騒ぎだす声が聞こえてくる。
まずい、これではパニックになってしまう。達也は身を起こして大丈夫だとアピールしようとするが、身体が動かなかった。それどころか霧がかかったみたいに視界が段々ぼやけていく。
首筋に生暖かいものが流れる感触がした。どうやら強い衝撃が走った後頭部は、歩道の段差の角にぶつかっていたらしい。ぶつけた箇所がやたら熱いと感じていたが、どうやら許容を越えた痛みで痛覚が麻痺しているようだ。急激に冷え込んでいく身体と背中に感じる生暖かい液体の正体に気付いたとき、達也は自分の運命を悟った。
バスから降りてきて必死に呼び掛けてくる人々に、達也は力を振り絞って声を出す。
「死……ぬまえ……に……一服…………」
この言葉を最後に、達也の意識は途絶えた。