変化の許容
目移りする中でカインは結局、一番オーソドックスなクレープを選んだ。露店の中で数少ない、食べたことのある品目だった。
いくらでも選べるとしても、この銅貨はアベルから貰ったものである。冒険して、初めてのものを食べ、失敗をしたくなかった。
それに、この街を出たら、いくらでも冒険できるのだ。新しい美味への挑戦は、それからでいい。今は、安定感のあるクレープで腹を満たすことに決めた。
オーソドックスなクレープとは言っても、カインにとっては四ヶ月ぶりのまともな料理である。傷みかけのパンとは違う。何と言っても、肉が入っているのだ。
甘辛いタレで味付けされた肉は、露店の中で今まさに炙られている塊肉から削り出されたものだ、塊から切り出す際にあふれ出した肉汁は、しっかりとタレにも混ざり、その存在を主張している。
肉は、猪のものだろうか。脂分が少し多めではあるが、赤身の繊維はキチンと歯ごたえがあり、噛むと旨味が口の中に零れる。
肉の旨味と脂、それにタレで口の中がしつこくならないように挟まれた野菜は、シャキシャキしていて心地よい歯触りだ。
それら肉と野菜をまとめる生地は、厚く焼かれたクレープ生地だ。しっとりとして柔らかいその生地は、ほのかな甘みで味をさりげなく支えていた。
美味しい。カインは素直にそう思った。久しぶりということもあってか、以前食べたものよりも美味しい気がする。
カインが満足して周りを見れば、夕飯の時間になってきたのだろう、客が増えていた。
残金はまだあるが、もうカインは満腹だ。もうとても入らない。
カインが帰ろうかと席を立つと、商店街の入り口から、聞き覚えのある声がした。
「夕飯も贅沢できるな!」
「ああ、いくら食べても大丈夫そうだ。へへっ、あの奴隷様々だぜ!」
ちらりとそちらを見ると、治療院にいた冒険者だった。入り口にいた若い冒険者が、仲間であろう同年代の少年を連れて歩いている。
そうだ、とカインは手の中の銅貨を見ながら納得した。
アベルと同じように、彼らも奴隷商人から情報料を受け取ったはずだ。今まで治療院からの施しで食い繋いでいた彼らも、金があれば食べに来る。当たり前のことだった。
「しっかし、ありがてえよな! あの糞強い冒険者のおかげで、こんなに安く食えるし」
少年達の一人は、手を合わせて虚空を拝む。
「ありがてえ、ありがてえ」
どっと笑いが起きる。カインには何が面白いのかわからなかったが、仲間内では楽しいのだろう、そう思った。
少年達の言葉に、周囲の店を見る。なるほど、カインは気付いた。自分が奴隷に落ちる前より、金額が安くなっていたのだ。それに気付かなかったことにカインは内心苦笑する。先程まで、本当に値段のことなど気にしてはいなかった。
少年達の言葉によると、あの青熊殺しによって、この低価格が維持できているそうだ。肉屋が儲かっているのと同じように、食肉が大量に出回って値段が下がったのだ。
少年達の手のひら返しにカインは思わず溜め息を吐いた。治療院では、青年への不満をあれだけ言っていたのに。翌日金を得れば、そんなことなど忘れ去って褒め称えている。しかも、その金はカインの情報を売って得た金だ。もしも自分があの治療院に立ち寄らなかったら、彼らはまだ青年への不満を漏らし、壁を背にして蹲っていたはずだ。
言い表せぬ感情に、カインは目を伏せた。
少年達が、カインの方へ歩いてくる。逃げるべきか、カインは考えた。
少年たちが自分に気がつかないか、気が気でない。一人相手ならば逃げられるかもしれないが、相手は複数人だ。情報だけではなく、カインの身柄を直接抑えられる可能性もある。
悩んだ末、やり過ごすことに決めた。
大通りを背にして壁の方を向くと、帽子を目深に被って柱に掴まる。心臓が飛び跳ねる。早く、早く通り過ぎろ。そう思っても、少年達の速度は変わらない。
しかし、アベルの言うとおり、少年達は気がつくことは無かった。談笑しながら、カインの後ろを通り過ぎてゆく。カインには目もくれず、露店と明日からの話をしながら。
おかしな話だ。そうカインは自嘲する。牢獄から出てきたのは、誰も自分のことを見ない世界に憤ったからだった。しかし今は、気がつかれまいと必死に隠れている。日が変われば、人間などかくも変わる。
変わったといえば、この街もそうだ。
出回る食材や薬の原料が増え、商店が儲けている。商品の原価が下がり、利益が上がる。その利益が街のそこかしこに行き渡り、住民の懐が暖まる。商品の価格も下がり、みなが「今日は少し良いものを」といい商品を求める。天下を回る金、それが、この活気に繋がっているのだ。
失業者もいくらか出ていたようなので、いいことばかりでは無いのだろう。潰れた店なども見た。しかし、それもまた変わったことだ。
そして、その全ての変化の原因は、あの青年だろう。
薬草や獲物を確保し、市場に流す。自分の利益率もだんだん下がるだろうに、彼は大量にそれを行った。
青年が、街を変えたのだ。それも、良い方向に。
考えてみれば、カイン自身も青年によって変えられた一人だった。
彼がいなければ、彼があの奴隷商館に現れなければ、カインが脱獄することは無かっただろう。人形の首輪に縛られ、物言わぬ人形のままどこかで死んでいたかもしれない。
彼のことは未だに大嫌いだが、それでも彼によって起こされた変化は、きっと好ましいものだ。
ミレニアもきっと助かってる。そう思うと、あの青年への感謝も少しは沸いた。実際に話したことも無いが、とても強い力を持つあの青年ならば、ミレニアも買われていって良かったかもしれない。
カインは微笑む。満腹の心地よい感触に、気分も良くなった。
帰ろう。小屋に戻って、明日を待つのだ。明日になれば、追っ手もこの街に戻ってくるだろう。その隙に、隣町まで逃げるのだ。いや、隣町までではない。その隣も、その先も、ずっと、ずっと遠くまで行くのだ。
この街のことを忘れて、どこか遠くで暮らそう。
今まで、色々な仕事を経験してきたのだ。自分は、何でも出来る。力仕事だって、これから力をつければいい。小銭を奪い取る両親は、もうどこへ行ったのかもわからないし、興味も無い。ただ、会わないことを祈るだけだ。
カインは歩く。その足取りは軽い。ならば自分は今、気分が良いのだろう。奴隷商館を脱走した時より、身体的にも満足している。前だけ見て歩いていた。
気分は良かった。その視線の先に、あの青年が、ミレニアと共に姿を見せるまでは。
次で終わります