待ち人は
昼前にもなると、書類の整理も清掃もすっかり終わっていた。
一段落したカインが、腕で額の汗を拭う。玉のような汗だ。
「お疲れ様―」
アベルが入ってくる。部屋をぐるっと見て、思わず溜め息をついた。
「……綺麗になったもんだねぇ……」
しみじみとそう言うと、椅子に腰掛けてテーブルを撫でる。
「べとべとしてない!」
「綺麗にしましたから」
今までの汚れ方が異常だったのだ。
「それで、まだあいつは来ませんか」
「うん。まだ来てないみたいだね」
アベルはお茶を啜りながら一息つく。お茶は、カインが汚れた湯飲みを洗い、淹れたものだ。
「代わりと言ってはなんだけど、さっきあの冒険者が通ったよ。青熊殺し」
「あいつが、ですか」
カインの声のトーンが一段落ちる。そういえばさっき、何人かの騒がしいグループが通ったような声がした。
「こちらを通ったってことは、ゴブリン狩りでしょうか」
「かなぁ? 仕事内容は聞いてないんだけどね。そもそも話してないし」
アベルが横を向いてふてくされた顔をする。あまり見ない顔だった。
「まったく、やっぱり強い奴がモテるのかねぇ。俺あいつ嫌いだわ」
「モテるって? 誰か連れてたんですか?」
「ああ、治療院の聖女様に、同じ冒険者っぽい女の子、あと鎧でがっちり固めた女性騎士かなぁ。仲良さそうに歩いてたよ」
もしかして、ミレニアがいたのだろうか。そう思い尋ねるが、狼牙族の女の子は、出てこなかった。
彼女は今何をしているのだろう。元気だといいのだが。気になりはするものの、確認する勇気が無かった。
そしてもう一人、いてもいいはずの者が一人いないことに気付く。
「あれ、これくらいの女の子いませんでしたか?」
カインは、自分の肩ほどの身長を示す。
「多分黒髪のおかっぱだと思うんですが」
アベルは少し考えて、首を横に振った。
「いなかった、と思う。誰? 知り合い?」
「知り合いというほどの者でも無いんですが、……青熊殺しに、買われていった奴隷です」
カインは思い出す。彼女は、ダンジョンでの前衛という名目で買われていったはずだ。やはり、青熊殺しは彼女らを積極的に戦いに出す気が無いのか。
「はー、宿屋暮らしの英雄様が、奴隷をねえ……。家事の必要も無いだろうに」
「あいつは、ダンジョンで戦うために彼女を買ったらしいです」
「それも別にいらない気がするけど。あの仲間達だってすごく豪華なメンバーだし」
「……そう、ですよね」
両手を挙げ、上半身を机に預けながらアベルはぼやく。
「女の子集めかー。俺、やっぱあいつ嫌いだわ」
「僕もです」
カインも、心底そう思った。
詰め所の中で、ただ時間は過ぎてゆく。
奴隷商人の追っ手は、昼を過ぎても帰ってこない。
もう、少なくとも隣町には着いたはずだ。それから門にいる衛兵にカインのことを聞いて、まだ来ていないと知り、付近の捜索を行う。それだけやったとしても、もう何時間も経っている。既に帰ってきていてもおかしくない。
しかし、帰ってこない。カインにとって、追っ手が近くに居ないのは良いことでもあるが、しかし、それは追っ手がどこにいるかわからないということだ。下手に動くわけにはいかない。
盗賊への警戒をしながら、別の方向に逃げようか。森の中ならば、歩き慣れている。そう浮かぶも、アベルに迷惑をかけた以上、その折角の気遣いを無駄にもしたくない。
どうしたものか。
早く、追っ手が諦めて帰ってきてくれればどうにでもなるのだ。奴隷商人はどれだけ自分の邪魔をするのだろう、とカインは煩わしく思う。
悩んでも状況は変わらない。それから夕方になっても、追っ手は帰ってこなかった。
一度、門が騒がしくなったときには「来たか」と思ったが、それは青熊殺しで、何人かの女子と大きな声で楽しそうに話しているだけだった。
仕事に行ったらしいとは聞いたが、荷物が軽装なので不思議に思ったカインだった。しかし、その顔をあまり見ていたくない。すぐに窓を閉めて、その光景を忘れるように努めるのだった。
「なあ、気晴らしに飯でも食ってきなよ」
というのは、アベルの提案だった。
駄目だろう、とカインは反論する。追っ手はいつ帰ってくるかわからないのだ。
それに、追っ手の言っていた言葉も気になる。「冒険者のガキ」からの情報で追っ手はこの門を特定したのだ。つまり、カインの発見は金になる。治療院にいた冒険者に見つかった時点で、また奴隷商館に情報が行く可能性すらあるのだ。
――カインは知らないことだったが、奴隷商館がカインを追うのは、ただ面子のためだった。子供の奴隷一人に、怪我人を出されさらに脱走されたのだ。奴隷商館は、カインの存在が目障りなのだ。
もしもカインが他の街で、「あの奴隷商館から逃げてきた」などと話してしまえば、自分たちの管理能力の低さが露呈する。そう大きな問題でもないが、それでも小さな芽は潰しておきたかった。
そのために捕獲のため追っ手を出したのだが、取り逃してしまう。失態だ。
もう、失敗は出来ない。故に、奴隷商館は昨日、カインを取り逃した時点で方針を変更していた。つまり、次に遭遇したのならば捕獲するのではなく、殺してしまうと決定したのだ――
「いえ、折角ですけど……」
「まあ、ずっとここにいても良いんだけど、何かちゃんとした食事食べた方がいいでしょ?」
カインはここに来てなお、果実と焼き菓子しか食べていなかった。お腹は満たされたと思うが、それではやはり身体は損なわれる。
「大丈夫。すぐそこの商店街の露店で食べてくればいいんだし、そもそももうすぐ門が閉まる時間だしね」
夜間、門は閉められる。緊急の用事がある者はここを通ることが出来るが、そうでなければ門の外で夜明けを待つしか無い。
「あいつが来ても、もう通さない。大丈夫、それぐらいの融通は利かせるよ」
アベルはトンと自分の胸を叩く。
「でも、多分……」
カインは、自分の考えをアベルに話す。食い詰めた冒険者達も、自分を探しているかもしれないのだ。
「ああ、あー……、そういえばそんなこと言ってたよなぁ……」
しまった、という顔でアベルは悩む。少し悩んだ後、また後ろの戸棚を漁ると、今度は帽子と眼鏡を差し出した。
「じゃあ、これ。変装してけばいいんじゃないかな」
「それぐらいで何とかなりますかねぇ」
「大丈夫だと思うよ。だって、その治療院にいた冒険者の子らは、初対面だったんでしょ?」
カインは頷く。
「じゃあさ、服も違う、髪の毛はよく見えない、アクセサリーも足されたキミを、見つけることなんか出来ないよ」
大丈夫。そう断言するアベルの言葉に、カインも信じてみようという気になった。
「それにしてもその戸棚、何でも出てきますね」
「ハハハッ、そうだね!」
カインも、アベルも笑った。
露店は門の近く、商店が多い通りに並んでいる。他にも商店の多いブロックはいくつもある。どこもご飯時になれば露店が並び、そこで食事を取る人で溢れていた。
カインが着いたとき、まだ夕飯時にはすこし早く、露店は空いていた。
いくつもの露店に、カインは目移りする。考えてみれば、久しぶりの外食なのだ。しかも、銅貨が何枚もあり資金は潤沢。今までの人生で、一番選択肢の多い食事かもしれなかった。
銅貨1枚で普通の定食が食べられる。カインの痛んだ胃にはそれでも多いが、それを気にすることもなかった。露店を見て、食べたいものをピックアップしてゆく。
肉汁滴るクレープや、ニシンのタレ漬け丸焼き、溶かしたチーズをジャガイモにかけたもの、どれも美味しそうで、選べない。
こうした時間が幸せなのだと、カインは気付かない。これからは、いくらでもこんな時間が訪れる。そう信じて、ただただ、この時間を楽しんでいた。