人は区別する
もう何日も、悲しみの痛みを全身に感じながら、カインは五体を投げ出している。
ああ、もういいのだ。自分を見てくれる者などもうなく、唯一の友――といえるのかもわからない少女は牢を去って行った。自分はこれからどうなるのだろう。どうなってもいいという諦観が胸の中に満ちる。絶望には人形の首輪は反応しない。物沈んだ人形であろう、そうなれば、楽だ。自分は頑張った。あまり良い両親ではなかったが、それでも自分の人生を諦めずに懸命だったのだ。同じ歳の子供に比べても、休まずに、手を抜かず、懸命に働いたのだ。それでも運命はやってくる。ならば、抗うのも馬鹿らしい。
鉛のような無気力感に襲われたカインは、ふとこの奴隷商館に来た日のことを思い出していた。
その日もいつものように、彼は枯れ木のような両手で皿を洗っている。水は冷たく、手は紫色に変色して腫れていた。
朝飯の時間帯で客は多い。洗った端から積まれていく皿、それを見て挫けそうになるが、この小料理屋に頼み込んでようやく得た仕事だ。手を抜くわけにはいかない。
何時間か手を水にさらし続け、客は皆自らの仕事場へ散っていった。そうなってから、ようやくカインにも休憩が与えられた。
小料理屋の手伝いは、賄いが出るのが嬉しい。その日に余った材料や、客の残した料理が従業員の腹に収められるのだ。この手伝いを始めてから、カインの食糧事情も幾分か改善していた。
「お疲れさん。今日も疲れるわー」
何人かいる料理人たちも、肩を叩いたり手首をひねりながら厨房に作った食卓につく。
「お疲れ様です。あ、お茶持ってきますね」
「頼む。全員ぶんな」
「はい! ただいま!」
料理人たちとの食事の時間も楽しかった。身体的にきつい仕事ではあったが、心は救われる仕事だった。
そんな、安息の時間も、この日で終わってしまった。
厨房のドアを叩いて、客が訪れる。
「カインという子供はいるか」
2人の屈強な男を連れ、髪の毛を七三分けにし撫でつけてある男が、カインを訪ねてきたのだ。
そうしてたちまち、カインは捕まった。突然の出来事に、料理人たちはあっけにとられ、何も出来なかった。
「キミか。なるほど、まあ、少々頼りない見た目ではあるが、それなりに健康そうだ。うん、代金には足りるな」
「あ、ありがとうございます!」
いつの間にか、そこにはカインの父親もいた。
「聞いた通りだ、カイン。これからはこの人のところで頑張るんだぞ」
父親に売られた。カインにとって、それは、とてもすぐには受け入れがたい話だった。
いつも通り、この日も父親は賭博場で遊んでいた。しかし、いつもと違うこともあった。
サイコロの目が、良かった。
その日、席に着いた父親は、はじめ調子よく勝っていた。今朝カインから受け取った資金は倍々に増えていき、チップは山となっていく。今日はいつもより旨い酒が買える。上機嫌だった。
しかし、いつまでも幸運は続かない。上機嫌になった父親は、負けることなど考えもつかなかった。
幸運が続けば、ついつい欲が出る。人間というものはみなそうしたものだ。次も勝てる、次も勝てると上機嫌の父親は勝負に出た。チップを全て掛けた大勝負をしたのだ。
勝てば良い。勝てば、また資金が出来る。いつもと同じく、問題無く、酒を買って帰る資金が出来る。
しかし、いつまでも幸運は続かない。大勝負に、父親は負けた。
そして続いた幸運というものには、麻薬のような中毒性がある。
信じてしまうのだ。先程は勝っていた、今の負けは何かの間違いだ。次は勝てる、と。
しかし、根拠の無い自信に、資金は追いつかない。手持ちを全て賭け、負けた直後だ。資金など当然、あるはずが無い。
仕方が無く、借金をする。
そして、この日の借金相手がまずかった。奴隷商だ。まだ信用が無いので、少額しか貸せないし、そして担保も必要だと奴隷商は言う。自分は奴隷商だから、もちろん担保は人間が良い。担保が無ければ貸すことは出来ないという。その言葉に、父親は迷いなく息子を差し出した。
息子なら、許してくれる。今までも、資金面で支えてくれたのだ。今回も許してくれるに違いない。そもそも、負けなければ良いのだ。今日の流れならば、勝てる。勝って、その場で借金を返してしまえば良いのだ。だから、誰であっても良い。
そう身勝手に考えた父親の考えは、すぐに否定される。続く負け。無くなっていくチップ。すぐに資金が底をついた。
支払いを猶予して貰うことも考えた。しかし、友人や家族相手にならば通じる土下座も、そのときばかりは通用しなかった。
奴隷商は、すぐに子供を、カインを連れて行くという。
そこでようやく、父親は事態の深刻さに気付いた。今まで自分を支えてくれていた、たった一人の息子を自分は売ってしまったのだ。
これから、自分は賭け事の資金をどこから調達すれば良いのだろう。最近、妻の金払いは悪い。友人には、もう金を目一杯借りて踏み倒している。
しかし、すぐに父親の悩みは雲散してしまう。考えた父親は、思いつく。そうだ、次は妻を抵当に入れればいいのだ。そうしたらまた酒が買える。
そうして息子を売りに出すことへの躊躇が無くなった父親は、カインの下へ奴隷商を案内したのだった。
その日父親が借りた金は、たった銀貨10枚だった。
奴隷商館についた当初、カインの待遇はカインの想像よりずっと良かった。
売られた先で失礼の無いよう、最低限の言葉遣いや立ち振る舞いの教育を受ける日々。従業員もまだ優しかった。体調が悪ければベッドに毛布が追加され、食べ物もそれなりの物に変わる。そんなこと、両親にはして貰ったことが無かった。同年代の子供と話す機会も増えた。今まで職場などで、先輩後輩のつきあいのようなものしか経験したことがないカインは戸惑うこともあるが、楽しかった。同格の相手など、今までほとんど居なかったのだ。
ミレニアと初めて会ったのもその頃だ。
初めてふれあう同年代の女の子をどう扱って良いかわからずに、しどろもどろになって笑われた。奴隷商館内での軽作業で、水汲みの競争をした。力仕事では敵わなかったカインが、裁縫や賄いをミレニアよりずっと上手にやったもので、ミレニアがしばらく不機嫌になってしまったこともあった。そのときは、必死に機嫌を取って謝って、ようやく許してくれた。
思い返せば、楽しい日々だった。外の生活よりも、ずっと。
ミレニアが売られていったときは、カインの胸中は複雑だった。
毎日のように話していた彼女が売られていく。奴隷である以上、仕方の無いことではある。カインにも、それはわかっている。しかし、カインにとっての初めての異性の友達だ。複雑な感情が沸き起こる。それが友情からなのか、それとも別な何かなのか、まだ未成熟なカインにはわからない。しかしはっきりと言えるのは、彼女が居なくなっていくのが寂しかった。
しばらくして、カインは最低の奴隷に転落する。そしてすぐに、ミレニアもまたこの牢獄に来たのだ。
思ってはいけないことだが、カインは少しだけ、ほんの少しだけ嬉しかった。ミレニアとまた一緒に居られるのだ。
もう酷い咳を繰り返すようになっていたミレニアを見て、嬉しさを感じた。そのときカインの胸にわずかな痛みが走ったのは、首輪のせいではないだろう。
静かな牢内を見回し、売れ残りの商品たちを眺める。
ミレニアはまた売られていった。
何故、ミレニアなのだろう。時間が経ち、多少落ち着いた頭でカインは考える。
何でもいい、ミレニアが居なくなっていった理由が欲しかった。カインは、ミレニアと一緒にいれなくなった理由が欲しかった。
前回の買主は商人だった。彼は、燃料を運ぶ仕事に適任であろう獣人を買っていった。それは良いだろう。獣人は、例え女性であっても、人族の鍛えた男性を凌駕する膂力を持つ。まだ成熟していないミレニアでも、成人男性ほどの力はある。今後の成長も見込んで、買っていくのもいいだろう。しかし、あの青年の、目的は何だ。ミレニアを買っていったときは何も言わなかったが、二回目に来たときは戦闘での前衛が欲しいと言っていた。ならばミレニアも戦わせられるのか。そういえば、あの青年は傷や病気を治せると言っていた。あの青年は魔術師か。それとも聖職者か。いや、しかし、そんな治療を行えるのは高位の術者に限られると聞いたことがある。ではあの青年はどういう存在なのだ。ダンジョンを攻略するのであれば、職業は冒険者だろうか。しかし、そんな高位の術者が何故今まで一人で活動していたんだ。金欠、とも言っていた。冒険者になりたてなのか。だったら何故。
そう思考して、気付いていなかった最大の疑問が、カインの頭の中に首をもたげた。
「……じゃあ何で、あの剣闘士さんを買っていかなかったんだ?」
それは、意識しないで出た一人言だった。しかし、それは静かな牢内によく響き、元剣闘士にも聞こえてしまった。
「あぁ……?」
剣闘士が虚ろな目でカインを見る。
見つめられたカインは驚いて、言葉に詰まった。彼を侮辱する意図は微塵も無かったが、それでもこの発言は捉え方によっては相手を煽る発言になってしまう。
「あ、すいません」
見つめられて咄嗟に謝ってしまうが、剣闘士は気にしていないようだった。潰された喉から、剣闘士は声を絞り出す。
「ははっ…………そりゃあ、あれだろ。あー、なんていうかさー……」
言葉を発しながら、両手でボサボサの頭を掻きむしる。初めは短く揃えられていたであろう短髪は、長い牢での生活でだらしなく伸びていた。
「……買っていった奴ら見りゃあ、わかんだろ? 俺みたいな……不細工な、男は、お呼びじゃねえんだよ……」
「……それって」
カインの体がズキズキと痛む。
「……お前、本当に……奴が、戦える奴隷を欲しがってると思うか…………?」
その言葉を聞いて、カインの全身に鋭利な痛みが走る。思わず、身を丸めて叫んでしまう。
「うわああああ!」
感じた感情は、怒りだった。石畳の上でのたうち回る。痛い。痛い。
痛みの中でも、思考は続く。痛みが全身に噛みついている。しかし、気付いてしまった。カインには、痛みよりも重要なことだった。
それは、無意識に考えないようにしていた。あの青年が、ミレニアともう一人の少女を買っていった理由。
そうだ、剣闘士を買わなかったことで、明白じゃないか。戦える奴隷が欲しいのに、手足の無い少女を買っていったんだ、わかるだろう。そう、もう一人の自分が、心の中で囁く。不治の病を癒やし、失われた四肢を再生させることの出来る、高位の術士なのだ。仲間などすぐ出来る。その能力があれば、どんなところでも引く手数多だ。あの青年は、本当に人手が欲しいわけじゃ無い。奴隷が欲しいんだ。何でも命令できる奴隷が。そもそも、女性が買われていくのだ。『そういう用途』があって当たり前だ。自分が買われなかったのは、能力が無いからじゃ無い。剣闘士が買われなかったのは、弱いからじゃ無い。男だったから。ただそれだけだ。だとするとミレニアは。
「大丈夫か? ……あんまり余計なことは考えるなよ」
「ぅ、でも、ぁぐ、あいつは……!」
よく調教され、そして少女たちと親交の無かった剣闘士は無感情に諭す。ここにいる奴隷にはもう、感情など不要なのだ。人形であれ、人形であれ、首輪はそう強要する。
「……悪いことばっか考えるな。あいつらは病気が治った……。手足も治るんだろう……。………ここに居るよりはだいぶマシだ………」
カインは痛みに喘ぎながら、剣闘士の言葉を聞いていた。
痛みが治まってくると、また思考が明瞭になる。
明瞭になった思考でミレニアのこと、あの青年のことを考えるとまた痛みで思考が邪魔される。
その繰り返しを、カインは4日間繰り返した。何度も、何度も意識を失うような痛みに喘ぎながらカインは考え続けた。
何も考えなければ痛くない。カインは思う。ミレニアのことを忘れれば、あの青年のことを忘れれば痛みは消えるのだろう。しかし、それでいいのだろうか。
ミレニアのことを考えなければ、楽になれる。仲の良かった女の子の心配をしなくなれば、楽になれる。けれどもそれは、どういうことだ。
友人のことを、忘れろというのか。楽しかったあの日々を、忘れろというのか。
もはやこの身は奴隷の身だ。身体はもはや自分のものでは無いのかもしれない。命じられればどんな仕事だってしよう。汗と泥に塗れて土を掘り起こす仕事だってしよう。襤褸を纏い、石を積み上げて塚を作れと言われれば、そうしよう。どんな辛い仕事だってやってみせる。
けれども心まで売り渡すことなどあるものか。この心は僕のものだ。忌々しい首輪をひっかく。何が人形の首輪だ。何が、人形なのだ。僕は人間だ。この心は僕のものだ。いや、身体だって僕のものだ。今は、たかだかコインのために自由を奪われているけれど、それでも僕のものだ。
ふつふつと沸く怒りで、全身に痛みが走る。
そう繰り返しているうちに、カインは痛みに慣れてきていた。
そうだ、痛いのだ。僕の心はちゃんと反抗できている。自分の意思を持っている。まだ僕は人間だ。首輪が仕事をしているのならば、痛みが全身に走っているのならば、僕は人間だ。
ふと、顔に笑みが浮かぶ。
そう、この痛みは人間だからなのだ。人形の首輪だなんてとんでもない。この痛みは、僕が人間であることを証明してくれているのだ。この心が、確かにまだ働いていることを示してくれているのだ。
そう考えると、この首輪はありがたい。とても良いものだ。愛おしさに首輪を撫でる。
「ハハハハハッ!」
突然牢内に響き渡る笑い声に、奴隷たちの注目が集まった。
あぐらをかいて、俯いていたカインが突然笑い出したのだ。奇妙に思うのも仕方が無い。それでも、この牢獄ではたまにあることだ。カインはもう正気を無くしたのだろうと皆が思った。剣闘士も、笑い声がカインからだと確認すると、少し残念そうに目を伏せた。
カインは、笑いながらもじっと動かない。ただ、両手で鎖をいじりながら笑い続ける。その身には、当然鋭い痛みが走り続けた。けれども、カインの笑い声は止まらなかった。
思う存分笑い終わった後、カインの気分は晴れていた。奴隷の身ではあるが、人間なのだ。それが今まさに証明できている。全身の痛みは、もはや問題では無かった。
もう、今までの無気力さは失せていた。心の回復に合わせて、身体も幾分か回復したのだろう。萎えた四肢に、活力が少しばかり戻ってきた。
カインはじっと鉄格子の外を見つめる。ミレニアは、外に出て行った。奴隷の身分ではあるが、出て行った。
ならば、この外に自分も出て行けるはずだ。自分も同じ奴隷だ。そして、人間だ。入ってきたときは、僕の意思では無い。しかし僕は、僕の意思でここから出て行く。そう決意して拳を握る。
自分が奴隷で、誰かに買われなければここから出られないということなど頭に無かった。
思い返せば奴隷商も、あの青年も、両親も、自分を人間として扱ってはいなかった。自分は脅せば金を出す財布で、命令を何でも聞く道具で、そして牢内にあるその他大勢の調度品だったのだ。
あいつらに、人間の力を教えてやりたい。先程までの自分は、少し疲れていたのだ。仕事に、生活に、そして人生に。この人形の首輪のおかげで目が覚めた。奴隷商に感謝する。この素敵な贈り物は、自分を人間にしてくれた。尽くしてきた両親に、仕えていた奴隷商に、そして友人を奪っていった青年に殺された、僕の心を目覚めさせてくれた。
奴隷商に感謝する。少しの間だけだったが、楽しい日々をくれた。こんな素敵な首輪もくれたんだ。劣悪な牢に放り込み、無味乾燥した毎日をおくらせたことは許してやる。
人間らしく、自由になってやる。
そう決意したその両目は、爛々と輝いていた。