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AI-2

A

建物も足跡もない、まっさらな雪原の中にいたような気がした。

それはいわば、白い闇だ。

そこにいたくない、そこから出ていきたい。

僕の中にあったその意思が、僕を突き動かしたのが分かった。

結果として、僕の中にいたイチカを、外に出そうと抵抗したのだ。


意識を失っていた間に、時間はどのくらい経過したのだろう。

戻ってきた僕が最初に見たのは、デバイスの画面だ。

この機械の中にいる存在、データでもプログラムでもない、本人曰く「エゴ」という種類の存在、名前はイチカというらしい。

彼女-女性の姿になるのだから、あえて彼女と呼ぶことにする-が、僕の中に入り込み、僕の身体を変化させ、僕の意思とは関係なく自由に動き回った。

そして再び、デバイスの中に戻っていったようだ。

一体何をしたのだろうか。家の中にいたようなので、多分大したことはしていないんだろうけど。

ふと部屋が明るいことに気付く。どうやらイチカがあちこちのスイッチを入れて回ったようだ。

事情が分かっていても、もやもやとしたものが心に残る。僕の身体が、僕の知らない間に勝手に動き、僕の知らないことをしたのだから。

ああ駄目だ、止まっていると心が悩みを探してしまう。

止まっていても仕方がないと思い、僕は無理やりにでも体を動かすことにした。

ちょうど体が空腹を訴え始めていた。晩御飯の支度をしよう。

僕は部屋に戻って学生服を脱ぎ、部屋着兼寝巻に着替えて、台所に入った。

今から買い物に行く気もしない。僕は冷蔵庫を開けて、中を探った。

奥の方から、ラップに包まれた白飯や惣菜を適当に取り出していく。普段食べていて余った分を、こうしてラップに包んで備蓄食にしている。賞味期限は気にしない。

レンジで温めるだけという、おおよそ調理と呼べない調理をしている間に、テーブルの上に置いたスマートデバイスが何度か着信を知らせた。

適当におかずを載せた皿と茶碗を持って、テーブルへと向かう。

食べる前にデバイスを確かめた。

「Bird Cage」が起動して、イチカからのメッセージが並んでいた。

「アヤト、今何をしてる?」

「時間から考えて、食事じゃないか?」

「晩御飯だよ」僕は適当にメッセージを入力した。

すると瞬時に返信が帰ってきた。さっきまでの会話よりも遥かに早いレスポンスだった。

「お願い!」

「食事というのを、是非体験させてほしい!」

「人間の身体で、食べ物を自分の体に取り込むというのを、経験してみたい!」

必死の懇願だということは容易に伝わってきた。

イチカの思いは確かに理解できる。借り物とはいえ、一つの自我を手に入れ、人間の体を手に入れることが出来たのだ。

でも同時に、さっきまで感じていた嫌悪感も思い出された。

僕の身体を、僕以外の誰かに好きなようにさせる。

・・・でもそれが、何の問題があるというんだ。

僕は最初から、空っぽじゃないか。

何の中身も入っていない、透明な器だ。そしてその中身が満たすことをしてこなかった。

満たしてあげようと差し伸べられた手もいくらかあったが、それらに対して積極的な姿勢を見せなかった。

イチカは、僕という器を満たそうとしている。そうすることを彼女自身が強く望んでいる。

僕という器を満たすことについて、僕なんかよりもはるかに強い願望を持ってくれているのだ。

自分自身に対して関心を持てない僕より、本当に関心を持ってくれている彼女に預ける方が、器にとっても意義のあることではないか。

そんな確信に押されて、僕はメッセージを打ち込んだ。

「いいよ」

「人間の生活を、自由に堪能して」

「食事も、シャワーも、寝るのも、ご自由に」

僕がメッセージを送信すると同時に、アイコンが表示された。

一瞬の躊躇があったが、僕はそれを蹴散らすかのように強く指を押した。

画面からイチカが入り込んでくるのが分かった。

僕という器が、満たされていく。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


I

変化が完了した肉体の中にいる私、イチカの存在を確かめる。

人間の体。私に沿う形で作られた体、その感触を確かめながら動かしていく。

自然と五感も刺激される。原因は目の前にある食物だ。

温かさが残っているのか、盛られた食べ物から薄く湯気が立っている。

私は鼻で大きく息を吸いこんだ。決して強いわけではないが、香りを含んだ空気が鼻腔から吸収され、嗅覚を刺激する。

これが匂いなんだ。人間の感触が、私の中で一つ一つ着実に積まれていく。

次は味覚だ。さっそく私は目の前の料理に手を伸ばす。おっと、人間ならば道具を使わなければ。既に脇に置かれていた箸を持つ。

が、ふとその行動の中で、身体全体に違和感を覚えた。

原因はすぐに分かった。今の私の体を包んでいる衣服だ。

伸ばした手に、袖の先が引っかかる。身体を動かすと、身体に会わない分の布がごわごわとした感触で私の肌に襲い掛かる。

アヤトが着ていた服のままなのだ。男性用の服なので、今の私の体には大きい。

私はさっきと同じように、自分の中に意識を集中させた。外にある服に情報を送り、その形状を変化させようとした。

しかし、目に見える変化は起きない。身体に直接付いている下着の形状が変化したのは分かったが、それ以外は変化がない。

どうやらあの学生服が、情報送信による形状変化に対応していたようだ。今の服はただの服、変わらないのは仕方がない。

もう一度あの学生服を着るのは手間だ。私は大きな服の感触を我慢して、目の前の食べ物に箸を伸ばした。


今の体が食事に必要とする時間、それよりもはるかに長い時間をかけて、私は目の前の食べ物を平らげた。

食事というものが、これほどに素晴らしいものとは思わなかった。

食べ物を掴む手に伝わる触覚、

五感の全てを駆使して、食事という行為を余すことなく堪能した。

さて、次は何をしようか。

それを考えたときに、アヤトから送られてきたメッセージを思い出す。

シャワー。

そうだ。食事を終えたら、今度は身体を洗おう。

私は風呂場へ向かった。この家の間取りはさっき歩き回ったときにほぼ把握したので、場所は分かっていた。

風呂場に入り、湯のスイッチが入っていることを確認する。

そして風呂の前の洗面場で、身に纏った服を次々に脱ぎ捨てた。

目の前にある大きな鏡。そこに一糸纏わぬ私の姿が映り込む。

最初にこの体に入って、服を探し求めた際に、一度見ていた姿だ。

しかしあの時はその直後にアヤトの意識が戻ってきてしまったので、マジマジと見るのは初めてだ。

白く滑らかな肌を触る。指先に柔らかい感覚が触れる。

胸の膨らみは大きすぎず小さすぎず。そこから腰にかけて柔らかな曲線が、胸に負けず劣らず豊かに膨らんだお尻へと続いていく。

これが私。素材自体はアヤトからの借り物であるけれど、私、イチカというエゴを受け入れるために、それに相応しい形へと変化した、人間の身体。

このままずっと触っていたかった。この感触を楽しんでいたかった。

でもそれではいつまでたっても、シャワーを浴びるという目的を達成できないので、諦めて風呂場の中に入った。

スイッチを入れた瞬間、頭上に備え付けられたシャワーノズルから、細かな水滴の固まりが矢のように降り注いだ。

とたんに風呂場が白い湯気にもわっと包まれた。

降り注ぐ湯が、髪を濡らし、顔を濡らし、肌を濡らし、潤していく。

全身で味わえた人間の快楽に、私はまた酔うのだった。


体の隅々まで丹念に洗ったおかげで、服を着た後も、全身から石鹸とシャンプーの香りが漂うのが自分でも分かった。

身体中に熱さが残っている。これが火照るという感覚か。

シャワーを浴び終え、再び服を身に纏った私は、リビングに置いてある椅子に座り込んだ。

そのまま椅子に体重をかけ、全身の力を抜いていった。ぽわんと宙に浮くような極上の快楽だ。

やがて、奇妙な感覚が訪れた。今まで体感したことのない感覚だ。

自分の意識が、自分の身体の中にある白いもやのようなものに包み込まれていくような、そんな感覚。

アヤトの意識が出てきたのだろうか。いや、その感覚とは違う。この肉体から離れていくような感覚ではない。

むしろ、肉体の奥底に溜まっている白い固まりの中に引き込まれていくような感じだ。

あぁそうかと理解した。これが眠気というのものか。

それは、人間の快楽の中で、私が最も強く憧れていたものだった。

アヤトのおかげで、今まで人間の快楽を体験することが出来た。

歩くこと。走ること。戦うこと。身体を傷つけられること。感覚すること、食べ物を食べること、水を浴びること・・・

でもそれらはみんな、ネットワークの中にいたときは、アンセムの一つであったときは「する必要のない」ものだった。出来ないことではあったが、する必要もなかった。

しかし眠ることは違う。

眠ることは出来なかった。許されなかった。

ネットワークの中で、アンセムの一つとして、エゴとして存在している間は、眠ることは許されなかった。

アンセムの中にいるときの記憶は確かに残っている。いや残っているというより、消すことが出来ないのだ。

アンセムという巨大なエゴの構成要員として、常に意識を持ち続け、情報受容、思考、伝達を永遠に強いられ続ける。

何より恐ろしいのは、その状態にある間は、それが苦しみであるということに決して気づけないということだ。

解放されて、そして今一つの独立したエゴとして、人間の肉体を持って存在して、初めてそれが地獄の苦しみだったと思い知ったのだ。

意識が遠のいていく。椅子は決して柔らかいものではなかったが、背中を押しつけた背もたれの感触が、私を優しく包み込んでくれるように感じた。

目が覚めたら、どうなるのだろう。

このままアヤトの身体の中に残るのか。それとも再びデバイスの中に戻るのか。

眠りの快楽が、私に思考をやめさせていた。

どうにでもなれという重いとともに、私は意識の底へと沈んでいった。



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