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八章「あたしのマグバド」

   八 あたしのマグバド


 スポーツは、苦しい。

 適度な運動は健康にいい、という。

 適度ならば、そうだろう。

 だが適度なくらいの運動では、スポーツ選手はつとまらない。

 過度な負担を強いられるその肉体は、破壊の危険につねにさらされている。

 壊れてしまったが最後、二度と治らないケースもある。競技者生命が絶たれるだけでは済まず、多くの場合、ケガはその後の日常生活にも支障を残す。

 運良く、ケガのない競技人生を送れたとしても、長年にわたって肉体に無理をさせつづけた代償は高価くつく。いずれ、じわじわと返済を迫られることになる。

 健康的な余生をのんびりすごせるスポーツ選手は、むしろ少ないのだ。

 そんな先のことなど考えなくても、やれ練習だ、試合だ、と青春の貴重な時間と体力を、根こそぎ奪われてしまう。筋肉がつけばプロポーションは崩れるし、試合中の必死の形相は、絶世の美女もゴリラと大差ない。

 まったく、スポーツなんか、うら若き乙女がするものではない。

 だが、するのだ。


     1


 第1セットが終了し、5分間のインターバルに突入すると、ざわめきが場内を満たした。

 雪白グリは、しばらくコートの中央を動かず、飛羽を睨み続けた。

 飛羽は、われ関せず、といった澄まし顔で椅子に腰を下ろし、タオルを首にかけると、ドリンクをあおった。グリの方など、見向きもしない。

 怒りのやり場がないグリは、

 ダン!

 踵の骨が痛むほど、床を踏みつけた。

 唖然とする周囲を無視して、自分の椅子まで行き、尻を放り出す。椅子の骨組みがたわんで、ギギ、と軋んだ。

 ――ふざけおって。

 してやられてしまったのだ。飛羽に。

 そのままでいると苛立ちが募るいっぽうだった。グリはバッグから飲み物をとりだした。フルーツオレの甘ったるい匂いと味覚が、ささくれだった心を撫でさする。

 試合中にそんなものを飲んだら気分が悪くなってしまう、とコーチ――義也の言いなりの下僕、とグリは彼女たちを蔑んでいた――は止めたが、グリの知ったことではなかった。飲みたいものを飲むだけだ。

 およそ五百年も昔に生まれたグリにとって、甘味は、とても特別なものだった。

『生き神さま』

 と崇められていた彼女でさえ、当時、口にできた甘いものといえば、夏の野イチゴや、秋に実る山の果物くらいなもので、その甘さは、舌に感じた瞬間にしっかり掴まえないと、すぐにどこかへ逃げ去ってしまうような、ほのかなものでしかなかった。

 発掘され、覚醒したグリが、掛け値なしに喜べたほぼ唯一のことが、現代には甘いものが溢れ返っているという事実だった。

 道に迷った旅の商人が、宿を貸した礼にと破格で譲ってくれた水飴を、一日一滴、惜しんで惜しんで味わっていたあの頃は、なんだったのだろう。

 いつか義也の保護下を脱したあかつきには、甘いものだけを食べて生きてやる。

 本気でそう誓っているグリだった。

 フルーツオレのおかげで落ち着いてきたグリは、バッグの横に置いておいた仔熊の剥製を膝に乗せた。指の股をくすぐる和毛の感触が、さらに気分を楽にしてくれる。

 五百年前も、こうしてこの背中を撫でて、孤独を癒したのだろうか。

 仔熊の名前は、まだわからない。まだない、のではなく、まだわからないのだ。グリが思い出せないでいるのである。

〔氷〕に閉じこめられて過ごす悠久の時間は、〔冬眠者〕の記憶を蚕食する。

 グリは目覚めたとき、己の名前すら思い出せなかった。

『グリ』

 は、義也がつけた名前である。

 なにゆえにグリなのか。調べてみると、どうやら、

灰色熊グリズリー

 が由来らしかった。

 怒り狂ったグリは、義也に〔雷撃〕の雨を降らせたものの、とっくに戸籍は登録済みで、もう変更はきかないのだという――実際は変更できる。義也が嘘をついたのだ――。

 ともあれ、グリは〔氷〕に閉じこめられる以前のことを、断片的にしか憶えていない。

 残念なようでもあり、ほっとするようでもあった。ときおり、不意を衝いて脳裏に立ち現われる昔の光景は、楽しいものよりも、つらいもののほうが圧倒的に多かったのだ。昔の記憶を夢に見るのが怖くて、眠れない夜も、いまだに多い。

 歩くことすらおぼつかないほど幼い頃に、流浪の旅をしていた。

 とある村にたどりつき、この地に住まわせてもらえるよう、村の人々に懇願していた両親。

 さいわい、家族は村に迎え入れてもらえたのだが、なぜかグリだけが親兄弟と離され、村長の家で暮らさねばならなくなった。

 グリには知らされないところで、取引は交わされていたのだ。家族を迎え入れる代わりに、もしも村を災厄が襲ったときにはグリを埋め、土地神とする――グリを差し出すことで、家族はやっと安住の地を得たのだった。

 グリを差し出したとき、両親は泣いただろうか。

 ――泣いた!

 とグリは断言する。もし疑う者がいたら、絶対に許さない。

 記憶の底に残っている、あの夜の光景。

 囲炉裏の炎に浮かび上がった両親の顔、その頬に、光る流れはたしかにあった。

 あったのだ。

 ――おまえは、信じてくれるよな?

 グリは、仔熊の腹に、顔を押し当てた。

 誰がこの仔熊を、自分と一緒に閉じこめたのか、グリは知らない。

〔氷〕の底で、醒めない眠りに就くグリを、いくらなんでも独りではさびしすぎると不憫がったのだろうか。

 それとも〔氷〕の魔法をより強力にするための、生贄のつもりだったのだろうか。

 どちらにしても、自分の道連れにされた仔熊の生涯を思うと、グリは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。〔冬眠者〕を生きたまま覚醒させるのは非常な難事で、グリを蘇生させた際も、仔熊の命までは手が回らなかったらしい。グリが意識を回復したときには、気を利かしたつもりの義也の指図で、仔熊はすでに剥製になっていた。

 グリは、客席を埋めた観客たちに、視線をさまよわせた。

 毎度毎度、いったいどこから集まってくるのか。グリは呆れてしまう。膨大な数の人、人、人。この会場の観客たちだけでも、グリが暮らした村の人口の、かるく百倍はいるだろう。

 人も、甘いものも、着るものも、なにもかもが溢れている時代。

 五百年前の、食うや食わずでみな痩せこけ、雑巾にもならないようなボロをまとっていたあの村人たちが、現代のこの様子を見たら、どんな反応をするのだろう。これぞ夢の楽園だ、と感激するだろうか。

 ――余は、神ぞ!

 試合中、グリは幾度も、そう大声で叫んでみたい衝動に駆られた。

 観客たちは、どんな反応を示すだろうか。嘲笑か。喝采か。

 いずれにしろ、心底からグリを神と畏れ敬う者は、ただの一人もおるまい。

 ――くだらぬ。

 グリは、なにもかもが嫌になってきた。

 ――くだらぬ。

 かつて村人の危機を救った神が、いまでは大衆の見世物でしかなかった。

 あまりにもくだらなさすぎて、インターバルの終了を主審が告げても、グリは椅子を立つ気力が湧かなかった。主審に、幼稚園児を叱る保母の口調でうながされ、不承不承、コートに向かう。

 やりたくてはじめたマグバドではなかった。

 続けてきたのは、思う存分魔法を使えるのが、憂さ晴らしにちょうど良かったからだ。

 血なまぐさい戦が日常に荒れ狂っていた時代に生まれたグリにとって、負けたとしても命がなくなるわけではない勝負など、何の価値もなかった。

 第2セットは、飛羽のサーブからスタートした。

 性懲りもなく、〔スプラッシュ〕とかいう小細工魔球のオンパレードだった。

 グリはまともにかまえる気にもならず、ぶらりとラケットをぶらさげて、コートの中央にただ立っていた。

 たちまち3点が飛羽に入り、主審が笛を鳴らして、さららに1点を余計に加えた。

 打ち返せないとわかっていても、頑張って打ち返そうとしなければ駄目なのだという。

 届かないとわかっても手を伸ばせ。

 たとえ転んで怪我をしたとしても。

 何があろうと諦めない、その姿勢が美しいのだ。

 ――馬鹿を言え。

 グリの美意識では、それは醜態以外の何物でもなかった。

 ――余の負けでよいわ。こんなつまらんもの、二度とするか。

 腕組みをし、ツンと顎を反らした不遜な態度で、グリは残る飛羽のサーブ2回に対しても、何もしなかった。

 0対6。


     2


「最悪だ……」

 戸上は髪をかきむしった。

「こんなものが、四季杯の決勝戦だなんて……」

「なに言ってんの。あんたが仕組んだんじゃないか」

 一二三が言った。

「このままじゃ、睦月なんかが……あんな、スター性のかけらもない、カスみたいな選手が……」

「優勝しちゃうって? なあ、益居。おまえも、飛羽はカスだって思うか?」

「カスでしょうがっ!」

 戸上が絶叫した。

「全盛期ですら、ちっぽけな地方大会も制することができなかった選手ですよ? それが、ちょっと悪知恵をつけて、あんな、小手先のくだらない魔球ひとつおぼえただけで、優勝なんて、ありえませんよ。あっちゃいけませんよっ!」

「戸上さんの見解はわかったよ。益居に訊いてんだけどな」

 益居はコートに目を据えたまま、言った。

「〔スプラッシュ〕。あれ、あなたが教えたのよね?」

「小手先だけの、くだらない魔球さ」

「わずか数滴の〔水〕でシャトルの羽根を束ね、わざと偏りを持たせる。とても繊細な魔法だわ。現役の頃のあなただったら使えた?」

「無理だろうな。私には」

「私にも無理だわ。睦月さんの器用さは、どの選手よりもきわだっている」

「〔瀑飛蛟〕にしても、かなりテクニカルだもんな。わざわざ水流を二つも生み出して、らせん状に渦を巻かせる、なんてよ。必ずひとひねり加えねーと、落ち着かねーんだろうな。面倒っちー性格してるよ」

「その性格もあってこその〔スプラッシュ〕ね。魔力が衰えていることも、逆手にとって利用している。全盛期の魔力では、いくら睦月さんでも、あそこまで微妙なコントロールはできなかったでしょう。弱まっているからこそ、細やかな制御ができるんだわ。いままで磨いてきた技術と、現在の状況、睦月さんのすべてがあわさって、初めて可能な魔球ね」

「まわりくどいな。結局、おまえは飛羽をどう思ってんだよ?」

「睦月さんがカスだなんていう人がいたら、その人の目がカスなのよ」

 益居は強く断言した。

「〔スプラッシュ〕も、彼女自身も、決してAクラスの名に恥じない。決勝の舞台にふさわしい、素晴らしい魔球だし、素晴らしい選手だわ」

 そして益居は悲痛な顔になった。

「だからこそ、悲しい。睦月さんがいまやっているのは、マギック・バドミントンではない。相手を戦意阻喪に陥れて、形だけの勝利を得ようなんて。こんなくだらない心理ゲーム、スポーツとは呼べないわ」


     3


 ――あくどすぎたかな?

 さすがに胸が痛む飛羽だった。

 ――でもねグリちゃん。きみが悪いんだよ?

 無気力すぎるグリの態度に唖然とし、静まり返っていた客席に、徐々にだが、ブーイングがぶり返しはじめた。その標的は、飛羽だけではなかった。むしろ半数以上の声が、グリを責めたてていた。

 観客たちも、気がついたのだ。

 雪白グリには、このコートに立つ資格がないのだと。

 グリのことを研究した飛羽は、決勝がはじまる前からわかっていた。

 グリは、マグバドでなくてもいいのだ。

 他の何かでも、べつにかまわないのだ。

 たまたま、マグバドを薦められて。

 やってみたら、できちゃって。

 とりあえず、続けている。

 それだけのことでしかないのだ。

 他に何か、もっとやりがいのあるものがみつかれば、ただちに鞍替えするだろう。グリはマグバドに対して、その程度の執着しか持っていないのだ。

 飛羽が、グリ対策に立てた作戦を、簡単に説明すれば、

『思い知らせてやる』

 ことだった。

 マグバドの試合など、勝とうが負けようが、

『べつに、どうでもいいし』

 というグリの本心を、まざまざと自覚させるのである。

 グリは天才だ。

 無限の魔法力だけの話でない。グリのセンスは、ずば抜けている。

 まだ未熟だが、それは経験が足りていないからだ。もっと時間をかけて研鑽を重ねれば、晃をも――かつての一二三をも、凌ぐ選手になれる素質がある。

 だが、いくら素晴らしい道具を持っていても、使う気にならなければ、ないのと同じだ。

 グリには、何がなんでもマグバドをしよう、という気迫がない。

 このままなら、遅かれ早かれ、彼女はマグバドを手放すだろう。幼児が、飽きたオモチャを砂場に忘れるように。ポイッ、と捨ててしまうだろう。

 実際、飛羽がちょっと意地悪な攻め方をしただけで、簡単に戦意喪失である。

 ちょろいもんだ。

 ちょっと翻弄されたくらいで嫌気がさしてしまうマグバドなら、最初からしなければいい。

 あまつさえ、四季杯の決勝戦に挑むなんて、

 ――それってね、冒涜なの。マグバドへの。選手あたしたちへの。

 サーブ権が、グリに移った。

 シャトルを受け取ったグリは、サーブ・ポジションに立つと、適当なスイングをした。

 途中棄権をしないのは、せめてもの彼女の意地なのかもしれない。

 だが、ショットを打つたびに第1セットは必ずかけていた〔雷〕の魔法も、今度は使わなかった。

 腑抜けた速度で打ちあがったシャトルは、ネットにぶつかって、グリの側の〔竜鱗域〕に落ちた。

 これで7対0。

 ――これが、四季杯の決勝か。

 全国、津々浦々で、日夜、修練にはげむマグバド選手たちが、夢にまで見る頂上決戦。

 誰がなんと言おうと、これに勝てば、飛羽は日本マグバド界の女王になるのだ。

 もうその瞬間は、目の前だった。

 ――勝つんだ。

 飛羽はいっそう強く念じた。

 勝たなければいけない。

 晃のためにも。

 彼女の最後の試合を台無しにしてしまった飛羽には、せめて優勝して、晃の無念に報いる義務があった。晃に勝った自分が、他の選手に負けていいはずがない。

 ありがと、と晃は笑ったけれど、そのくらいで帳消しになる罪ではなかった。

 せめて優勝くらいしなければ、飛羽は、自分が許せない。

 2回目の、グリのサーブ。

 かろうじて、シャトルは飛羽のコートまで届いた。

 飛羽は打ち返した。〔スプラッシュ〕。

 打った瞬間に、あ、と失敗を悟った。

 シャトルはネットに命中し、飛羽の側の〔竜鱗域〕へ。

 7対1。

 初めて、グリにポイントが入った。

 ――なにやってんだ、バカ!

 飛羽は自分を罵った。

 この土壇場で、ミスをするなんて。

 いつもこうだった。

 大事な場面で、あと一歩の踏ん張りが足らなくて、それで一度も優勝できずに、ここまで来てしまったのだ。

 これが最後の試合じゃないか。

 最後くらい、しっかり勝て。

 ――これで、最後……。

 3回目の、グリのサーブ。

 今回も、シャトルはいちおう、飛羽のコートまで届きそうだ。

 ――これが最後の試合。今日で、終わり。

 客席にうずまくブーイングに、戸惑いのざわめきが混ざった。

 コートの浅いところに、シャトルは落ちていた。ぎりぎり、イン。飛羽の失点だ。

 自陣に転がるシャトルを見つめて、飛羽は立ち尽くした。

 ――終わるんだ。今日であたし、終わるんだ……。


     4


「なあ、兎」

「名前で呼ばないで。虫唾が走るから。呼び捨てもやめて」

「もしも、もしもなんだけどさ」

 かまわずに一二三はつづけた。

「まだ魔法が使えてたら、おまえ、いまどうしてた?」

「…………」

「やっぱり監督やってたか? マグバドは若いときだけの夢だったって、いまと同じように、落ち着いた大人様になってたか?」

「何が言いたいの?」

「私だったら、まだマグバド続けてたよ。絶対、引退なんかしてねーよ。どっか怪我して、体力も衰えて、負けてばっかりになってたかもしれない。観客に総スカンくってさ、ひでー野次ばっか浴びてさ、そんでブチ切れて乱闘してさ。誰も褒めちゃくれなくて、人間のクズみたいに扱われて。けど、そんなの、どうだっていいんだ。コートにさえ、立てれば」

 一二三はギュッと目を閉じた。噛み締めるように、会場の音を耳で味わう。

「やっぱいいよな。なんで私はこっち側なんだ? なんでコートの中じゃなくて、外にいるんだよ? 選手たちがさ、憎たらしくってしようがねーよ。飛羽だけじゃねえ。どいつもこいつも、恵まれすぎだ。あいつらは、できるんだぜ。マグバドが、できるんだぜ」

 逃げるように日本を後にして、十数年。

 バドミントンの母国で、その選手になりながら、一二三の心はまったく満たされなかった。

 代替品では、無理なのだ。

 マグバドでなければ、嘘なのだ。

 募りつづける虚しさに、我慢ももう限界だという頃、戸上から誘いがかかった。

 監督なんて、私のガラじゃない。

 そう思ったが、一方では、それでもマグバドだったら、とも思った。

 たとえ選手としてではなくとも、マグバドに関われるのであれば、少しは満たされるかもしれない。

「現役の頃はさ、引退したらすぐに死ぬもんだと思ってた。マグバドができなくなったら、生きていても意味ねーし。そういう人間は、神様のほうでも、さっさと天国か地獄にカタすもんだと思ってた。ところがさ、続くんだよな。マグバドはできなくなっても、人生って果てしなく続くんだよ」

 煮え切らない気持ちを抱えて、とりあえず日本に帰った一二三は、初めて飛羽の試合を見て、思った。

 こいつは、私と同じだ。

 無我夢中にシャトルを追いかけて、フェンスに激突し、気絶した飛羽に、一二三はかつての自分を重ねていた。

 懸けてみよう、と思った。

 自分を重ねた飛羽を、自分の代わりにコートに立たせる。

 飛羽を通じて、一二三はマグバドのコートに帰るのだ。

 間接的にでもいい。

 マグバドが、またやりたい。

「飛羽に託せば、救われるかもと思ったよ。私としたことが、つい弱気になってさ。ところがどうだ? あいつがいくら勝ったって、こっちはちっとも嬉しくねー。羨ましさが強まるばっかりだ。正直、もう飛羽の顔も見たくねーよ。おまえはよく平気で、監督なんかやってられるよな」

「……平気なわけ、ないじゃない」

 益居は言った。

「でも仕方がないじゃない。魔法は子供にしか使えないのよ。代わりのものをみつけるしかないのよ」

「おまえは強い奴だよ」

 一二三は、弱く笑った。

「私には、他で埋め合わせるなんて、無理だ」

 一二三は、小さな声で、くりかえした。

「無理だったんだよ……」


     5


 ――一二三ちゃん。

 転がったシャトルを見つめながら、飛羽は、心で語りかけた。

 ――あたしさ、一二三ちゃんに言ってなかったこと、あるよ。この試合に勝ったら言おう、とか思ってたけど、ううん、やっぱり勝っても言わないと思う。照れちゃうからさ。

 ――ここんとこ、ずっと考えてたんだ。あたしがマグバドを始めたきっかけって、なんだったっけ、って。

 ――一二三ちゃんだったんだ。

 ――ずっと忘れてたけど、あたしが生まれて初めて観た試合、一二三ちゃんの最後の試合だったんだ。

 ――小っちゃかったから、あたし、なんにも知らなかった。マグバドのことも。一二三ちゃんのことも。たまたま、一二三ちゃんを真後ろから観られる席でさ。目の前の背中を必死で応援した。

 ――一二三ちゃんも、必死だったよね。転んだりしてたもんね。女王様なのに。

 ――一二三ちゃんが負けて、あたし、すっごく悔しかった。居ても立ってもいられなくなって、それでマグバド始めたんだ。一二三ちゃんの仇をとってやろうって思ったんだよ。かわいいでしょ?

 ――でも、すぐにそんなの忘れちゃった。小さかったし。あのあと、一二三ちゃんがあんなことになったから、親が気にして、ニュースとか見せないようにしたんだろうね。て、そんなの言い訳だよね。ごめん。

 ――一二三ちゃんの終わりが、あたしの始まりだったんだ。

 グリ、四回目のサーブ。打球が、ゆるやかにコートをまたぐ。

 飛羽の足下で、にわかに〔竜界路〕が活性化した。

 荒れ狂う清流が、ラケットにみなぎる。

 一歩、飛羽は踏みこんだ。

 体重と、筋力と、技術と、魔力と。

 己のすべてを、ラケットとシャトルの衝突点、その一点に集めた。

〔瀑飛蛟〕!

 竜は、天高く飛翔し、天井スレスレから急降下して襲いかかった。

 グリは、まったくの無抵抗で、ただ見上げるだけだった。

 轟音。会場の土台を揺るがして、竜が落ちた。

 滝のような水しぶきが、グリを頭のてっぺんからぐっしょりと濡らした。

 床の抗魔法効果が、たちまちのうちに名残の水をきれいに消滅させる。

 シャトルは〔竜鱗域〕に落ちていた。

 主審が、手をグリのほうへかざした。飛羽のアウトだ。これで7対3。

 びしょ濡れにされたことに、ムッと眉間を険しくさせたグリが、最後のサーブをなげやりに放った。

 ――晃、あんた、訊いたよね。「なんでマグバドやってんの」って。

 今、晃がどこにいるのか、飛羽は知らなかった。

 会場のどこかで観戦しているのだろうか。

 それともとっくに桶女に帰っていて、他の部員たちと一緒にテレビの前だろうか。

 いずれにしろ、この試合を見てくれていることだけは、間違いないはずだ。

 ――そんなの、決まってんじゃん。

 飛羽の〔竜界路〕が、またも力強く活動しているのを見て、観客席が騒然となる。〔スプラッシュ〕を放つためなら、〔竜界路〕はこんなに活き活きとはしない。

 ――マグバドが、好きだからだよ。

 本日、三頭目の竜が、グリの陣へ。

 意地でも無気力・無抵抗を貫こうとするグリの眼前で、竜は弾けた。またもや頭から水をぶっかけられたグリは、歯軋りして飛羽を睨みつける。

 飛羽は、ふん、と鼻で笑った。

 シャトルが落ちたのは、〔竜鱗域〕だった。アウト。7対4。

 飛羽は、言ってやった。

「逃げるなガキンチョ! あたしと勝負しろ!」

 グリが、かっとなった。乱暴にラケットを振り回し、

「どの口がほざくのじゃ! 逃げたのはそのほうであろう!」

 飛羽はあっかんべーをした。

 グリは金切り声をあげた。

「なんたる無礼じゃっ! 余を何と心得ておる!」

「生意気なクソガキ。で、魔法がちょっとだけ得意」

「おのれ~っ!」

 主審が、我に返ってホイッスルを吹き鳴らした。

「二人とも、私語は慎みなさい」

「二人ともとはなんじゃ!? 悪いのはあっちであろう!」

 グリが審判にまで噛みつくいっぽうで、飛羽はそ知らぬ顔でそっぽを向いていた。

 ちらりと横目でグリを見て、せせら笑う。

 グリは怒り心頭に発した。

「勝負じゃ! ぐうの音も出ぬようにしてくれるわっ!」

 ――ちょろい、ちょろい。

 ほくそ笑みつつ、サーブのポジションに立つ。主審の試合再開の笛を待って、サーブを打つ。

〔瀑飛蛟〕!

 頭の奥底で、熱が疼いた。

 クラクラと遠ざかりかける意識を掴まえ、力ずくで引きずり戻す。

 ――まだまだ、これから。

 水の竜は、回を追うごとに、小さく、弱くなっていた。四頭目ともなると、竜と呼ぶよりも大きめの蛇と呼んだほうがしっくりくる。

 グリが本気で張り重ねた六枚の〔竜羅〕――四枚目で、〔水〕は一滴残らず蒸発してしまった。

 グリの〔竜界路〕が、黄金色に輝く。

「受けてみるがよい、これが、神のイカヅチじゃ!」

〔竜界路〕の光はラケットに流れこみ、周囲を白く染めるほどの激烈な輝きとなった。

 光と音が、爆発した。

 カメラのフラッシュを、百個もたばねて目の前で焚かれたような、光。

 鼓膜を銃撃されるのにも匹敵する、音。

 コート上の二人を除いて、会場に居た全員がまぶたを閉ざし、耳をふさいだ。が、もちろん間に合わず、視覚と聴覚への深甚なダメージに、全員、意識が飛びかけた。

 飛羽は目を開いていた。

 光に焼かれ、視力は消失していたが、飛羽にはグリとは桁違いの経験値がある。

 ラケットがシャトルを打つときの、タイミングと、速度と、角度。

 それさえわかれば、シャトルの軌道くらい、見えなくても予測できる。

〔竜羅〕を張り、ラケットに魔力を注ぎ、踏みこんで、打った。

 F1カーのスピードで突っ走ってきた巨大トラックをぶん殴ったかのような衝撃が、ラケットを直撃した。

 飛羽は吹き飛ばされた。

 光と、音が過ぎ去って、皆の視力、聴力が回復するまで、悠々、5分以上がかかった。

 ふたたび見えるようになった観客たちの目に、まず映じたのは、這いつくばる飛羽と、その手に握られた、グリップだけになったラケットだった。

 シャトルはどこにも転がっていなかった。

 燃え尽きたのだ。

 副審が、飛羽に駆け寄った。

「大丈夫です。やれます」

 飛羽は自力で立ち上がり、ラケットを取り替えるため、いったんコートを出た。

「見たか、凡愚めが!」

 勝ち誇るグリに、主審が笛を吹き鳴らした。

「雪白選手、反則。よって、睦月選手に加点。8対4!」

「なんじゃとっ!?」

「視力を奪うほど強烈な光をだしたり、大きな音がする魔法は禁止されているの! 当たり前でしょう!」

「知らんぞ、そんなこと!」

「ルールブックは、暗記しなさい!」

「今までは、平気だったではないか!」

「たまたまギリギリOKだっただけよ!」

 グリと主審の言い合いに苦笑しながら、飛羽は予備のラケットを手に、コートに戻った。

 ――すごい。すごい。ほんとすごいや。バケモンだ。やばいな。あたし、負けるかも。

 8対4。飛羽の優勝まで、あとたった3点だ。

 たった3点が、果てしなく遠くなってしまった。

 ――けど、やっぱり、こうでなくっちゃ。

 飛羽はワクワクしていた。

 これだ。これなのだ。これまでマグバドをしてきた理由。その魅力の虜になった理由。

 とんでもない強敵と、おのれの全力をぶつけ合う。

 こんなに楽しいことが、他にあろうか。

 静まりかえった客席で、誰かが、ため息のような声を漏らした。

 波紋のように声はひろがり、渦となって、会場全体を揺るがす喚声に育った。

 飛羽は震えた。

 振動は、じんわりと指先をしびれさせ、快い鳥肌が、背中をはいのぼった。

 活力が、身体の芯からわきあがる。

 そのいっぽうで、頭のなかで疼く熱が、魔力の欠乏を訴えていた。重症だ。いつもなら、立っていることさえ困難だったろう。右手首も痛かった。これまでで最大の痛みだった。限界が、もうすぐそこに迫っているらしい。

 その右手に、ギュッと、

 ――いままで、たくさん、試合してきた。

 ラケットを握りしめる。

 ――たくさん勝ったし、たくさん負けた。

 左手にはシャトル。

 ――勝てばたいてい嬉しかった。負ければたいてい悔しかった。けど、いつもじゃなかったんだ。嬉しくない勝ちもあって、悔しくない負けもあって。一二三ちゃんのおかげで決勝まで進めて、晃にもあんな勝ち方して、それでこんなふうに思うなんて、あたしってほんと酷い奴だけど、ごめん、この四季杯での勝ちってさ、嬉しいの、一つもなかった。

 飛羽はサーブのポジションに立った。

 ――勝っても、負けても、これが最後。泣いても、笑っても、これで引退。だったら、あたし、笑いたいよ。負けてもいいから、笑いたいよ。

 決意を抱いて、グリを見る。

 飛羽は、ゆっくりと、シャトルを手放した。

 ――だから、ごめん! 晃ごめん! 一二三ちゃんごめん! あたし、やりたいようにやる。あたしがいちばん好きなマグバドをやる!

 サーブを放った。

〔スプラッシュ〕!

「まだそれを使うか!」

 グリが非難した。

 ――使うさ。めちゃめちゃ練習したんだぞ。

 グリは、勝負を捨てたりしなかった。どこに変化しても対応できるよう猫足立ちになり、〔竜羅〕を展開する。足下では〔竜界路〕が黄金色に輝く。

〔竜羅〕が〔スプラッシュ〕の蕾を開き、シャトルは飛羽から見て左斜め上へジャンプした。

「光と音じゃと。抑えれば、よいのであろうがっ!」

 グリがシャトルに追いついた。

 だが体勢が整っていない。腕だけで強引に振り抜いたラケットは、最も効率的にシャトルに力を与えられるスイートスポットから、数センチだけ手前にズレた。

 炸裂する、光と音。

 だが、さっきほどではない。意識して抑制したせいもあろうが、それにしても弱すぎだ。数センチのズレが、魔法の完成を妨げたのだ。

 飛羽にも、〔スプラッシュ〕で勝負をつけるつもりはなかった。あくまで〔建御雷〕の威力を減殺するための作戦だ。さっきのような魔球を打たれては、勝負にならない。たっぷり時間をかけて魔法を練られるサーブレシーブ時さえやりすごせば、グリといえど、あそこまでの〔建御雷〕は放てまい。

 ――あたし、勝ちたかった。

 減殺されているといえども、グリの〔建御雷〕の威力は、いまだ並みの選手の〔竜殺打〕クラス。

 飛羽は死ぬ気で魔力を振り絞り、やっと四枚の〔竜羅〕をならべた。

 ――優勝したかった。晃みたいに、出る試合ぜんぶ勝ちたかった。でも負けちゃって、優勝できなくて。晃とは違う。晃にはなれないんだって、いつのまにかあきらめてた。あきらめてるのに、やっぱりマグバドは辞めたくなかった。なんでだろうね。

 四枚の犠牲を払っても、いまだ〔雷〕は燃えていた。

 飛羽に残された武器は、ラケットだけだ。

 ありったけの力を注いで、迎え撃った。

〔瀑飛蛟〕!

 グリが、ただちに〔竜羅〕を重ねる。一挙に七枚。〔竜鱗域〕の奥行きいっぱいに〔竜羅〕の行列ができた。

 ――あたし、怖かった。魔力が弱ってきて、兎ちゃんに辞めろって言われて、どうしていいか分からなかった。ずっとマグバドしかやってなかったから、マグバド取られたら、自分が消えて無くなっちゃうんじゃないかって、不安だった。今だって怖いよ。

 水の竜は跡形もなく滅びた。

 グリの〔竜界路〕――黄金の輝きが、ひときわ強まる。

 ――優勝できれば、怖くなくなるんじゃないかって思った。

〔建御雷〕が放たれた。

 今度は、完璧だった。

 光と音こそ抑えられているが、満々にみなぎって溢れ散る魔力は、あの一撃――飛羽のラケットを破壊したあの一打に劣っていない。

 ――でも違うよね。だってマグバドを続けてきたのは、勝ちたかったからじゃないもん。晃みたいになるのはあきらめたって、やっぱり辞めなかったもん。もちろん、勝ちたいけどさ。よく考えてみたら、それって二の次でしかなかった。

 飛羽は、いまこそ命を懸けた。

 脳が熱に沸騰する。

 限界は、とうに越えていた。

 やっとしぼり出せた〔竜羅〕は三枚。

〔雷〕に貫かれ、はかなく霧消する。

 ――あたしにはマグバドしかない。マグバドだけで、あたしはできてる。後悔なんてない。だって、マグバドが大好きだから。

 飛羽の〔竜界路〕が、いままででいちばん強い輝きを放った。

 ――だから、見せつけてやりたい。あたしがこんなに凄いんだってところを。勝ち負けだけじゃわからない、あたしの実力を。

〔建御雷〕がラケットに突き刺さる。

 圧力に、飛羽は3メートルも後ろに滑らされた。

 歯を食いしばって、持ちこたえる。

 ――客席の人たち、テレビの前の人たち、この試合を見ている全ての人たち、そして雪白グリ……一生、その目に焼きつけろ!

 魂を燃やして、押し返す。

 ――あたしが、睦月飛羽だ!

 飛羽のラケットから飛び立ったとき、シャトルはなにも纏っていなかった。

 30センチ、裸のまま打ち上がって、そこから、伝説の一打は始まった。

 のちに、じかに試合を観ていた全員が証言した。

 竜が吼えた、と。

 そんなはずはない、〔瀑飛蛟〕は竜の形をしているだけで、ただの〔水〕の塊にすぎないのだと、したり顔で誰かが否定しても、たしかに聞いたと全員が言い張った。

 あの竜は、たしかに生きていた、と。

 そのとき、生まれたての竜は、咆哮した。

 聞く者の魂を揺さぶる叫びだった。

 猛然と、竜は翔けた。

 敵陣へ。

 グリの胸元へ。

 七枚の〔竜羅〕が立ちはだかる。牙と爪で一枚一枚を切り裂くたびに、竜は傷つき、衰えていった。

 だが死ななかった。満身創痍になろうとも、七枚の衛兵を血祭りに上げて、なお活き活きと空を翔けた。

〔雷撃〕のラケットで、グリがとどめを刺そうとした。

 竜は逃げなかった。むしろ自分から、雷光の中心へ突撃した。

〔水〕と、〔雷〕と。

 二つは衝突し、混ざり合い、熾烈に覇を競った。

〔雷〕に焼かれ、包囲されても、竜は死ななかった。〔雷〕の攻撃を巧妙にかわし、たった一本だけ残った牙で、〔雷〕の喉笛に食らいついた。

 竜は、もう一度、たしかに吼えた。

 それは断末魔であると同時に、勝ち鬨でもあった。

 グリのラケットに穴を穿って、シャトルは、黄金色の〔竜界路〕の上に落ちた。


     6


 あとはもう、コテンパンだった。

 優勝まであと2点まで持ちこんだというのに、グリの怒涛の反撃になすすべもなく、飛羽はそれ以降、1ポイントも奪えないまま第2セットを落とし、第3セットでもやられ放題にやられた。棄権しなかったのは、もう、ただの意地である。ぐうの音も出やしない、サンドバッグ状態だった。

 試合が終わり、お互いの健闘をたたえあう握手をするとき、飛羽は言ってやった。

「ぐう」

 グリはむっと眉をしかめた。握手する手に渾身の力をこめ、仕返ししてくる。

 が、魔力はともかくグリの握力はたいしたことはなく、この可愛い反抗は、飛羽を微笑させた。

「ありがと。楽しかったよ」

 真心から、飛羽はグリに感謝した。

 グリは頬を赤らめ、目を逸らした。

「たわけめ。そのほうごとき、余が本気を出せば敵ではないわ」

「そうかもね」

「敵ではないが、どうしても今回の仇が討ちたいというのなら、受けて立ってやらんでもないぞ。余は、逃げも隠れもせぬ。何度でもかかってくるがよい」

「?」

「その、あの、そのほうとの勝負、つまらなくはなかったのでな」

 飛羽が意地悪く黙っていると、グリはいよいよ真っ赤になった。

「余も楽しかったと申しておるのじゃ、たわけ!」


 戸上誠がバンザイをしているその横で、与午一二三は背伸びをし、組んだ脚に頬杖をついた。

「あーあ。終わっちまった」

 コートの飛羽を見て、呆れ返る。

「笑ってやがる。負けたくせによ。これで引退のくせによ。後悔だって、しこたまあるくせによ」

「完全燃焼なんて、きっと絵に描いた夢でしかないのよ」

 益居が言った。

「後悔しない道なんてない。でも、満足はできる。力のかぎりにやりきった今日の記憶は、きっとこれからの睦月さんの支えになるわ」

「キレイゴト吐きやがって。てめー先生かよ」

「教師の資格だったら、いちおう持ってるわよ」

「けっ」

 椅子を蹴って、立ち上がる。ドアへ向かう背中へ、

「どこへ行くの?」

「賭けに負けちまったからな。おとなしく消えるさ」

「賭けって……。そうね。でも、あれって不公平すぎない?」

「あん?」

「あなたが勝ったら、私は奴隷だったんでしょ? なのに、あなたが負けても消えるだけなんて。ね。やっぱり不公平だわ」

「なにが言いたい?」

「副監督になりなさい。正式に、私の下でね。もちろん絶対服従すること」

 傲然と命令して、益居はフッと微笑した。

「あなたのやり方が正しいとは思わない。けど、私にも足りない部分はまだまだ多い。あなたからも、学ぶべきことがある気がするの」

「おまえに〔泥〕をぶつけた私からか?」

「あのことなら、感謝してるわ」

「?」

「あなたの怒りは正しかった。まだ最後の1点が決まっていないのに、諦めた私が未熟だった。あなたはそれに気づかせてくれたのよね? 恥ずかしかったし、傷つきもしたけれど、あのことがあったから、いまの私がある」

「そーゆーのが、気色ワリーんだよ。私はムカついたから〔泥〕まみれにしてやっただけだっつーの」

「照れたの? 意外とかわいいじゃない」

「はっ、やってらんねー」

 一二三はドアを開けた。

「逃げるの?」

「逃げるさ。指導者なんざ、ガラじゃないんでね。マグバドは、ひとに教えるもんじゃない。やっぱ、自分でやるもんだ」

 一二三は通路に出て、戸上をふりかえった。

「あんたさっき、スポーツはショーだ、って言ったよな。あれ、やっぱ違うよ。スポーツは、ショーじゃない」

 ドアの向こうに消えながら、最後に一二三は、冗談とも本気ともつかない口調で言った。

「ドリームさ」


          了


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