七章「うるせぇ!」
七 うるせえ!
魔法は厳重に管理されなければならない。
一般社会においても、スポーツにおいても。
たとえばマグバドであれば、選手には、厳正な審査基準に合格したウェアやシューズの着用が義務づけられている。
ウェアやシューズには魔法的処理が施されている。選手の魔力に不可逆な流れを与えるもので、この流れにより、選手の魔力はかならず一度〔竜界路〕に注ぎこまれることになる。
〔竜界路〕を通じて、許された二つの出力機関――ラケットと〔竜鱗域〕――へ送られた魔力は、そこではじめて魔法として形を結ぶ。
二つの出力機関以外での魔法の実現は、反則である。ウェアやシューズが正規のものであるかぎり、不可能でもある。
ウェアやシューズは、選手を〔竜界路〕に『接続』する手助けをするとともに、選手たちの魔法を『封印』する役割も担っているのだ。
1
ゲートの暗がりから、コートへ。
一歩を踏み出して、飛羽は立ち止まった。
天井高く、ライトは太陽よりも明るく輝いていた。
飛羽は目を閉じて、胸いっぱいに空気を吸った。
――やっぱり、いいなあ。
なぜマグバドをしてきたのか。
理由の一つは、試合会場の、この空気が好きだからだ。
特に試合の直前がいい。
はりつめた雰囲気に鳥肌が立ち、期待感で心臓がドキドキしてくる。このワクワク感は、この場でしか体験できない。
そりゃ、酷い負け方をしたらどうしよう、と不安もある。
花などは、逃げ出したくなるほどこの空気が怖いらしい。コートに立ってしまえば、勝敗が決まるまで逃げ場はない。徐々に追いつめられていくようで、膝が震えてくるのだとか。
飛羽の膝もよく震える。
だが原因は恐怖ではなく期待感だった。武者震いである。
今日の震えは、ひときわ激しかった。なにしろこれから始まるのは、一世一代の晴れ舞台、
『秋の四季杯、決勝戦』
なのである。
観客は満員だった。歓声が、鼓膜に痛い。応援の声は、もっぱら相手選手に向かっていた。
雪白グリ。
まさか、こんなにも早く再戦が、しかもこんな大舞台で叶うとは。
グリは澄まし顔をしていたが、かすかに上を向いた顎に、隠しきれない満足感があらわれていた。大観衆が歓呼して迎えるのを、当然であるというように受け流している。天狗になるのも当然か。初試合で飛羽を下して以来、全勝でここまで来た彼女だ。
二人並んで、主審の注意を聞いた。
〔竜砂〕のカップを受け取ると、飛羽は丁寧に〔竜界路〕を描いた。どんなに注意を払っても、どこかしか歪になってしまうのが常なのだが、今日だけは寸分の狂いもなく描けるから不思議だった。
描きあがった〔竜界路〕の縁に手を触れて、魔力を注いだ。
淡く輝いて、〔竜界路〕は定着した。
サーブ権は、雪白グリから。
グリが、自陣のエンドラインを踏み、サーブのポジションに立った。
主審のホイッスルを待って、場内が静まり返った。
試合開始だ。
2
決勝戦開始の瞬間を、一二三は飛羽の控え室で迎えた。
備えつけのソファに足を組んで座った一二三は、これまた備えつけのテレビのちっぽけな画面に見入っていた。音声は切っていた。アナウンサーの声も、往年の名選手の解説も鬱陶しいだけだった。生中継の映像に合わせて、観客たちの喚声が地鳴りみたいに響いてくる。それだけで十分だ。
ドアがノックされた。
入ってきたのは、戸上誠だった。
「すばらしい手腕でした。私の見込んだ通り、いや、私の想像を越えたご活躍でした」
戸上はホクホク顔だった。
「睦月の専任コーチになるだなんて、正直、あなたの本気を疑ったこともありましたが。あなたは凄い、実に凄い。我が社の上層部も絶賛していますよ」
「お偉いさんが褒めてんのは、私をじゃなくて、あんたをだろ」
「いやー、はは」
「出世街道まっしぐらだね。おめでとさん」
「あなたのおかげです。私は偉くなりますよ。偉くなりますとも」
浮かれている自分が急に恥ずかしくなったのか、戸上は頬を赤らめ、咳払いした。
「こんな穴倉、あなたにふさわしくありません。ビップルームをご用意しました。ご案内しましょう」
「豪勢だね」
「やはり試合は、直に観戦するにかぎりますから。一緒に見ようじゃありませんか。これからのマグバド界を背負って立つニューヒロインの誕生を」
「桶女が没落する瞬間も、かい?」
一二三が微笑みかけると、戸上は困ったような顔になった。
「栄枯盛衰は、世の習いですよ」
一二三が席を立とうとしたときだった。
大きな音を立てて、部屋の隅のロッカーが、内側から開いた。
ロッカーの中からあらわれた彼女を見て、戸上が青ざめた。
「その、ビップルーム」
髪や肩のほこりを払いながら、益居兎は言った。
「私もご一緒して、かまいませんよね?」
3
閃光と轟音に、空気がひしゃげた。
稲妻と化したシャトルが、飛羽のコートに突き刺さった。
飛羽がラケットを振ったのは、シャトルが通り過ぎてから、だいぶ経ってからだった。誰が見てもわかる、完璧な振り遅れである。
客席がざわつく。飛羽の意図を測りかねているようだ。五回連続の空振りともなれば、むべなるかなだった。
0対5。
雪白のリードは、すべてサービスエースによる得点だった。
主審が試合を止めて、飛羽に手招きした。
「試合をする気がないんですか?」
小走りで近寄ると、主審は非難の目を向けてきた。
飛羽は、可能なかぎり、しおらしくした。
「すみません。すごい魔球で、ちょっと驚いちゃって」
「以降も消極的姿勢がめだつ場合は、ペナルティとして、雪白選手に加点しますよ?」
「気をつけます」
ペコリ、頭を下げながら、飛羽はチロリと唇をなめた。
最後の空振りが、遅れすぎたようだ。
まあ、いい。これでサーブ権はこちらに移る。逆襲開始だ。
自陣に戻ろうときびすを返した飛羽は、立ちくらみを起こしたように、足を止めた。
天井から注ぐ光に、自分の〔竜界路〕が浮かび上がっていた。
――あ。
ふと思った。
――終わるんだ。
初めて知るみたいに驚いている自分に、飛羽は驚いた。
飛羽のマグバドは、今日、ここで終わるのだ。
飛羽は、ぼんやりした。
「睦月選手?」
いぶかしげな主審の声を背に受けて、飛羽は我に返った。
急いで自陣に戻る。コートの外に並べられているシャトルから一つを拾って、エンド・ラインを踏んで立った。
試合の再開を、主審の笛が告げた。
飛羽は、手首のスナップを利かせて、打った。
グリが魔球で攻めたてるなら、こちらも魔球で応じるまでだ。
〔スプラッシュ〕!
グリの〔竜羅〕に捉えられ、〔水〕の鎧をはぎとられたシャトルは、羽根の花を開くと、軌道を変えた。下へ。
いきなり急角度で落下したシャトルに、グリはびっくりして前に駆け出した。ラケットを伸ばすが、届かない。
1対5。
睨みつけてくるグリの視線を無視して、飛羽は次のシャトルを拾った。
――ガキンチョめ。
本心では、むかついていた。
〔スプラッシュ〕の変化を目撃したグリの、あの驚きよう。
完璧に、初めて見た者の驚き方だった。
事前に飛羽のことを研究してきていない証拠である。
――なめくさりやがって。こっちはどんだけあんたの試合映像、見てきたと思ってんのよ。
飛羽の中でムクムクと、いじめてやりたい衝動、が沸き起こる。
グリはネットのそば、〔竜鱗域〕のラインぎりぎりまで近づいて、ラケットをかまえた。
超・前進守備だ。
同じ手は通用せんぞ、と不敵に笑っている。
飛羽は二発目のサーブを放った。
〔スプラッシュ〕は〔竜羅〕にぶつかって花開き、軌道を変えた。
今度は、上へだ。
見えない地面にバウンドしたみたいに、シャトルは空中でジャンプした。
「なにっ!」
意表を突かれたグリが、とっさに伸び上がりながら、真上にラケットをのばした。
ラケットの先端の、さらに握りこぶし二個分、上空を横切って、シャトルはコートの奥にポトリと落ちた。
2対5。
二度も飛羽にしてやられたグリは、満面に朱をそそいだ。
「卑怯者め! 余と真っ向から勝負せぬか!」
飛羽は聞こえないふりをした。無表情。新しいシャトルを拾う。
「おのれ……」
地団太を踏んだグリは、ふと何かを思いついたように、コートの中央に移動した。
猫足立ちになって、どの方向にも素早く駆け出せるように準備している。
そこへ、飛羽は三発目の〔スプラッシュ〕を放った。
羽根を閉じたシャトルが、何物にも遮られることなくネットを越えたのを見て、
――お。
飛羽はちょっと感心した。
グリが〔竜羅〕を張らなかったのである。
不規則変化にふりまわされるのを嫌ったのだろう。
〔スプラッシュ〕がまとっている魔力の総量は微々たるもの。〔竜羅〕で削ぎ落とさずとも、ラケットに魔力を宿せば、楽に打ち返せる。
もっとも、ちゃんとラケットに当てることができれば、だが。
羽根を閉じ、ほとんど空気抵抗を受けないシャトルの速度は、文字通りの弾丸である。ふだんのシャトルのスピードに慣れている選手ほど、対応するのは難しい。わかっていても、反射神経が追いつかないのだ。
グリは、追いついた。
二歩のステップで落下点に到達し、やや振り遅れ気味ではあったが、シャトルを捉える。
と、そのときだった。
ラケットに打たれる寸前、〔スプラッシュ〕の花が、ひとりでに開いた。
シャトルに急ブレーキがかかった。ただでさえギリギリだったミートのタイミングが、決定的にずれた。
カツン。
硬い音を立てて、シャトルはグリのラケットのフレームにぶつかった。あらぬ方へ吹っ飛んでいく。
――こんなこともあろうかと、ってね。
飛羽に抜かりはなかった。
飛羽は〔スプラッシュ〕を、非常に敏感に形作っていた。敵のラケットにみなぎった魔力に反応し、近づいただけで花開くほどに。
3対5。
観客席は、非難囂々だった。
飛羽がサーブを打つたびに、ブーイングが起こっている。
昨日の晃の引退会見における益居の『爆発』を、マスコミ各社は大々的に、悪意をもって報じていた。世間一般の認識では、桶女マグバド部は卑怯な裏工作をする部で、今大会で飛羽を優勝させるために、花は川森をわざと負傷させ、晃はわざと負けたのだということになっていた。
見渡したかぎり、客席を埋め尽くした人々のなかに、飛羽の優勝を望む者は一人もいなさそうだった。
もっとも、彼らは騒ぐだけだ。なにができるわけでもない。
飛羽は、あくまでも何事もないように、サーブのモーションに入った。
打つのは、もちろん〔スプラッシュ〕!
さっきので懲りたのか、グリも、今度はちゃんと〔竜羅〕で迎え撃った。
やや深めの位置で待ちかえた彼女をからかうように、〔スプラッシュ〕はグリから見て右へ、鋭角に変化した。
グリは一度は追いかけようとしたが、途中であきらめた。遠すぎた。フェンスに当たって落ちるシャトルを、立ち尽くして見つめる。
4対5。
そして飛羽が連続五回目の〔スプラッシュ〕を放ったとき、グリは、シャトルを見ようともしなかった。
〔竜羅〕も張らずに、まるで刀みたいにラケットを正眼にかまえたまま、微動もしない。自陣の右奥に、同点となる打球が着弾するのも放置して、グリはずっと飛羽の顔から目を逸らさなかった。
4
「しようがないだろ。おまえは絶対に何か企んでる、白状するまでは地の果てまでだって追いかける、ってきかないんだから。私が説明してもよかったんだけどさ、戸上さんのほうが適任だと思って」
益居をロッカーに潜ませていた理由を、一二三はそんなふうに弁解した。
とりあえず三人は、戸上が用意したというビップルームに移動した。
一般席の百倍近い代金を支払わねば入れない特別観覧室は、一般席の足下――コートを囲むフェンスの内側にあった。
偏光強化ガラス製のフェンスは、コート側からは緑色の壁にしか見えないが、ビップルーム側から見ると空気みたいに透明だった。
六畳間ほどのスペースには座り心地のいい椅子が並べられ、備えつけの電話で酒や料理を注文するのも自由である。防音設備も完璧で、頭上の足音がうるさい、なんてこともない。臨場感が欲しければ、場内の音を拾っているスピーカーの音量を上げればよかった。
「ええ。仕組みましたよ。仕組みましたとも」
戸上は不貞腐れて、椅子にどっかりと腰を下ろした。
「すべては、雪白グリのデビューを、華やかに飾るためです。そのために、まず与午一二三さんを探し出して、桶女マグバド部にねじこみました。桶女を悪役に仕立てるためにね。極悪な桶女を打ち破り、彗星のごとく現われるニューヒロイン。わかりやすい筋書きでしょう? 雪白グリがこの四季杯を制した瞬間、日本マグバド界は新しいステージに飛躍するのです」
「与午さんの副監督就任を、学園長はどうして認めたんですか? 彼女の悪評を知らないはずはないのに」
益居が訊いた。椅子にはかけず、立ったまま壁に背をもたれている。
「拒否するならカイナ社が毎年出している寄付金を止める、と脅迫しました。受け入れるなら、今後三年間はマグバド部をスポンサードしつづけると、飴もちらつかせて。金の力は偉大ですね。二つ返事でしたよ」
さもありなん、と益居は額に指をあてた。
戸上はつづけた。
「私の予定では、与午さんには副監督ではなく、正式な監督に就任していただくはずでした。与午さんと机を並べて仕事だなんて、どうせ益居監督が承諾するはずはありませんし。嫌なら出て行ってください、とさっさと厄介払いするはずだったんです」
「厄介払い……」
益居の表情が険しくなった。
開き直った戸上は、彼女の機嫌を損ねることを恐れなかった。
「桶女内の邪魔者を片づけたあとは、舞台の設営です。今回の四季杯の出場選手に、雪白選手と、桶女から三名の部員を選ぶよう、四季杯の選考委員に働きかけました。カイナ社は今大会最大のスポンサーですから、簡単でしたよ。トーナメント表にも細工して、桶女の選手と雪白選手は決勝まで当たらないようにしました。じっくりと桶女の悪評を育む時間を確保するためにね」
「ずいぶん大雑把な計画ですね。雪白さんが決勝に進めない可能性は考えなかったんですか?」
「どんなに綿密な計画にも、多少のギャンブル要素が混入するのは避けられませんよ。他の選手に負けるようなら、そもそも雪白グリは、新女王の器ではなかったということです。私の眼鏡違いだったと、あきらめるしかありません。もっとも、雪白が大海晃以外に敗北する確率は、我が社の研究班が出した結論では二割もありませんでした。大海が雪白以外に負ける確率も同程度でしたから、決勝戦は雪白グリVS大海晃になるだろうことは、ほとんど確定事項だったんですよ」
「ですが、それでも、決勝戦で大海さんに勝てなければ、元も子もないんじゃありませんか? 客観的に見た実力で比べれば、雪白さんはまだまだ、大海さんに確実に勝てるほどではないはずです。かといって、あの大海さんが、わざと負けるはずはない。たとえ与午さんが正式な監督になっていて、命令したとしてもです」
「約七割」
戸上は言下に言った。
「決勝戦までに、大海選手の魔力が衰退期に入っている確率、です。我が社の研究班が割り出しました。ここが、このプロジェクト最大のギャンブル要素だったんですよ。大海選手の魔力が、いつ衰退期に突入するのか。いかに大海晃といえど、魔力が衰えてしまえば、雪白選手の敵ではありません。だが衰退するのが早すぎて、決勝前に他の選手に敗れてもらっても困る。ちょうどいいタイミングで、大海選手が衰えてくれること。ここが、最大の賭けでした。まあ、たとえ衰えていなくたって、雪白選手の勝率は三割くらいはあったんですが。与午監督を通じて、大海選手に試合外で『揺さぶり』をかければ、もう少し確率は増したでしょうし、そんなに悪い賭けでもありませんよ」
もっとも、と戸上は苦笑した。
「すべては杞憂に終わりました。与午さんのアドリブのせいです。ですが嬉しい誤算でしたよ。大海選手との決勝戦では順当すぎて、ここまで盛り上がることはなかったでしょう。――さて、マッチメイクも整ったところで、最後はマスコミ対策です。これも、そう難しくはありません。与午さんはいまだにマスコミに憎まれていますし、カイナ社は多額の宣伝広告費をばらまく『お得意さま』ですから。報道なんて、どうとでもなります」
「じゃあ、川森さんが捻挫したのは?」
忌まわしい想像が、益居の頭に湧き出てきた。
貴田がわざと捻挫させた可能性はない。それは信じている。そもそも、試合中に相手選手をわざと捻挫させるなど、不可能だ。転ばせるくらいがせいぜいである。
益居が懸念したのは、川森のほうだった。捻挫は、彼女の演技だったとしたら。考えたくはないが、多額の金銭を提示されれば、あるいは。
が、戸上は、あっさりと否定した。
「たんなる偶然です。ですよね?」
確認されて、一二三もうなずく。
「あたりまえだろ」
椅子に浅く腰かけた一二三は、前屈みになって試合を注視している。
益居は、ほっと胸に手を当てた。
「そう。そうよね……。でも、捻挫がなかったら、どうするつもりだったんですか? 桶女の評判が落ちた決定的な原因は、あの捻挫でしょう?」
「過去の試合を掘り起こす予定でした」
戸上が応じた。
「審判が下した微妙な判定や、相手選手の不調による不戦勝なんて、いくらだってあるでしょう? そういう『くさい試合』を蒸し返して、さも桶女の選手が何かしてきたように見せかけられれば、それで十分です。桶女には、悪役を演じてもらえればいいんですから。本物の犯罪者になってもらおうなんて、私だって考えていませんよ」
「どうして桶女なんですか? なぜそこまで、桶女を貶めようとするんですか?」
益居は一瞬躊躇して、つづけた。
「……私が、あなたを拒絶したからですか?」
戸上は、虚を突かれたというように、ポカンとした。
「そんなわけないでしょう。この計画がスタートしたのは、あなたにプロポーズをしたときよりずっと前ですよ?」
「へえ。プロポーズ?」
一二三がニヤニヤする。
「益居監督には桶女から去っていただく予定でしたから、会えなくなる前に告白しておこうと決意しただけです。私なりに、踏ん切りをつけたかったんだと思います。結果はけんもほろろでしたけど、恨んでいませんから、気にしないでください」
「ですが、だったら、どうして桶女を?」
「ちょうど都合が良かったからです」
戸上は言った。
「大海、睦月の両選手ももうすぐ引退し、残るAクラスは貴田選手ただ一人。カイナ社にとって、桶女の商品価値は下落する一途です。どうせ散る花なら、いっそ粉々に刻んで、次に咲く花の肥料にしたほうが経済的でしょう? ――これはですね、純粋にビジネスの話なんです。雪白選手をマグバド界の新しい女王に据えることは、カイナ社と雪白製薬との共同プロジェクトです。桶女には、雪白選手の踏み台になっていただきました。最高の踏み台になりましたよ。ありがとうございました」
過去形で、戸上は言い切った。戸上にとっては、桶女はすでに過去の存在なのだった。
「このプロジェクトの成功は、社内での私の立場を押し上げてくれるでしょう。私は偉くなりたいんです。可及的速やかに、我が社のマグバド事業を統括するポジションに登りつめ、やがてはカイナ社の枠も超えて、日本のマグバド界を掌握する立場になってみせます」
「掌握して、どうするんです? あなたは、マグバドをどうしたいんですか?」
「面白くします」
戸上は即答した。
は?
と益居が間の抜けた顔になった。
「マグバドを、もっと面白くしてみせます。試合をひとめ見たが最後、誰もが虜になってしまうように。全人類をマグバドに夢中にさせること、それが私の夢です」
戸上の瞳は、熱っぽくキラキラと輝いていた。
「私は、マグバドを愛しているんです。世界一のファンであると自負しています。今回の計画は、夢の第一歩であり、最初の実験でもあるんですよ」
「なら、失敗ですね」
益居は冷然と言った。
「なぜですか?」
「なぜ? この声を聞けば、わかるでしょう?」
場内の音を伝えるスピーカーからは、蜂の群れが飛んでいるような不機嫌な重低音が流れていた。
「ブーイングしているから、観客が楽しんでいないだなんて、短絡的ですよ。本当に不快なら、試合を見なければいいんです。ですが見てしまう。安くはないチケット代を払ってまで、会場に足を運んでしまう。なぜか。おもしろいからですよ。人は誰しも、つまらない日常を忘れ、ダイナミックな非日常に没頭したいと願っています。マグバドが提供する非日常は、みごとに願いに応えているのです。ここでは、ブーイングを叫ぶことすら快楽だ」
「上から目線でむかつきますね。何様ですか?」
「『クイーン・オブ・マジカルスポーツ』などとおだてられても、マグバドの人気は安泰ではありません。人々の歓心を得るには、つねに新しい刺激を提供しつづけなくてはならないのです。マグバドはショーです。ショーは、おもしろくなくてはいけません」
「ショーではありません。ショーだなんて、ひどい侮辱です」
「侮辱なものですか。ショーとは偉大なものです。人は非日常を求めている。だから歌がある。ダンスがある。芝居がある。映画がある。テレビがある。小説が、コミックがある。スポーツがあるのも、同じ理由です。目の前で展開される起承転結に一喜一憂する観客にとって、媒体の違いなど関係ありません。観客の求めに応じ、感動を、感情のうねりを提供し、生きる活力をすら惹起する。ショーは素晴らしいものです。私は、このショーをより素晴らしくするためなら、魂を売ってもいいとすら思っています」
「ああっと。いいかな?」
一二三が挙手した。
「話が難しくて、学のない私にゃ、ついていけないんだけど」
「すみません。つい、夢中になってしまいました」
戸上は気恥ずかしそうに、まえのめりになっていた姿勢をあらため、椅子に座り直した。
「もう一度言いますが、私はマグバドを愛しています。その発展のために、自分の人生を捧げるつもりです。そのことだけは、信じてください」
いくぶんか落ち着いた口調で、最後に付け加えた。
益居は言った。
「どんな理由であろうと、あなた方が私の部員にしたことを許す気にはなれません」
「では、どうなさいますか?」
「いまあなたが話したことを、マスコミに洗いざらい話します」
「そうですか。どうぞ」
「ど、どうぞ?」
「でも無駄だと思いますよ。マスコミも当事者ですから。私に操られて情報操作をしただなんて、そんな自分の恥をさらすような記事、書くとは思えません。それに捻挫のことにしろ、大海選手が勝ちを譲ったことにしろ、彼らは一貫して『かもしれない』と報じてきただけです。断定はしていませんから、もし間違っていても、訂正する必要はないでしょう」
「だ、だったら、ネットに私が自分で……」
「うーん。それもどうでしょう? 『マスコミが桶女を悪く言うのは、雪白グリを売り出すための工作だ』という書き込みなら、私がみつけただけでも、すでに十数件はあります。そのどれもが、ありふれた陰謀論だと笑い飛ばされていました。いまさら益居監督が自らおっしゃったところで、どれだけの人達が真に受けてくれるか」
「な、な……」
「もう、いいじゃありませんか。大会が終われば、桶女を悪く言う報道もピタリとやみます。世間に植えつけられた悪印象も、じきに忘却の彼方ですよ。あなたは変わらず桶女の監督です。周囲の雑音など無視して、これまでと同じように部員たちを育ててゆけばいいんです」
空いている椅子を指し示して、
「そんなことより、ちゃんと観戦しようじゃありませんか。たとえあらかじめ負けることが決まっていても、あなたが育てた睦月選手の、最後の晴れ舞台なんですから」
益居は歯軋りして、そっぽを向いた。戸上が提供する椅子になど、死んでも座りそうにない。
二人のやりとりを背中で聞きながら、一二三は苦笑した。
――そうそう。ちゃんと観戦しようや。
一二三の目は、ずっと試合を――飛羽を追いかけ続けていた。
――試合ってのは、最後の1ポイントが決まるまで、決まらないんだからさ。
5
いまさらながら。
あれはどういう意味だったのだろう、と飛羽は考える。
――『死ね』
と一二三は言った。
あの『死ね』には、一筋縄ではいかない、幾つもの意味がこめられていたような気がするのだ。
一つは、
『これまでのプレイ・スタイルを捨てろ』
という意味。
これまでの睦月飛羽は死んで、新しい睦月飛羽に生まれ変われ。というのだ。
一つは、
『この四季杯で死ぬつもりで無茶をしろ』
という意味。
火事場の馬鹿力を任意でひきだせるように、脳のブレーキを外せ。肉体が耐え切れず、たとえ一生快復できない後遺症が残ったとしたって、四季杯で勝てれば本望だろう。というのだ。
そして最近、飛羽は三つ目の意味に気がついた気がするのである。
一二三の言う『死ね』には、
『相手に合わせろ』
という意味も含まれているのではないだろうか。
これまでの飛羽は、自分を出そうと、躍起だった。自分が積み重ねてきた努力の成果をみせつけたい。自分にできる最高のパフォーマンスを発揮し、敵選手を圧倒したい。自分、自分、と必死だった。
それじゃ駄目だ、と一二三はいうのだ。
主役の座は、敵にゆずれ。
自分ではなく、敵の心を優先しろ。敵の得意技、戦術、性格。敵がやりたいこと、やろうとしていることを読みとって、合わせてやれ。
そして導け。
敗北へと。
この場合の『死ね』とはつまり、
『我を殺せ』
という意味だ。
自己顕示欲を捨てて、脇役に徹すること。あくまで主役は敵選手。コートで展開するのが勝者のストーリーではなく、敗者の物語であれば、おのずと勝利は飛羽のところに転がりこんでくる。
だから飛羽は考える。
今日の対戦相手、雪白グリの心を。
彼女はこのコートで、どのように戦いたいのだろう、と。
サーブ権を取り戻したグリは、鬱憤を晴らすみたいに、またもド派手な〔雷撃〕を連発した。
〔無限行使者〕。
ごくごく稀――数百万人に一人とも、数千万人に一人ともいわれる、微細きわまる確率で生まれてくる、無尽蔵魔力保有者。
魔力が満ち溢れている異世界に通じているという、脳内の扉――〔魔泉門〕。
〔魔泉門〕の実在は確認されていないが、もし実在すると仮定した場合、特異体質者とは、常人よりもずっと大きく、かつ頑丈な〔魔泉門〕の具有者、ということになる。
雪白グリは〔無限行使者〕だった。
彼女の魔力は、文字通り、底無しなのだ。
――あいかわらず、おっそろしい。
グリの〔雷撃〕に宿った魔力の量に怖気をふるいながら、飛羽は今度も、グリのサーブを五回とも空振りした。
毎回、一枚だけだが〔竜羅〕も張っており、ラケットもできるかぎり自然なタイミングで空振りしたので、審判もケチをつけてはこなかった。主審は何か言いたそうだったが、それだけだ。
5対10。
グリのセット・ポイントに、割れんばかりの拍手が沸き起こるなか、サーブ権はふたたび飛羽へ。
飛羽がシャトルを手にすると起こるブーイングは、飛羽が懲りずに〔スプラッシュ〕を打ったときに最高潮に達し、シャトルがグリのもとへ届いた頃、尻すぼみに静まっていった。
ブーイングに取って代わって、ざわざわ、戸惑いのざわめきが起こる。
グリは、一歩も動かなかった。
飛羽がサーブを放っても、シャトルが自陣でバウンドしても、ラケットを片手にぶらさげたまま、無反応。無気力そうに棒立ちしている。
飛羽は、もう一度、サーブを放った。
グリはやはり動かなかった。まったくの無抵抗だ。ポイントは、7対10。
主審の笛が、甲高く鳴り響いた。
呼びつけられたのは、今度はグリである。
飛羽は、ガットが緩んでいないか確かめながら、グリと主審の会話に耳をそばだてた。
「打ち返そうが返すまいが、余の勝手であろう!」
グリは、ラケットで飛羽を指して、
「あやつも打ち返して来ぬではないか!」
「あなたの態度は、試合放棄とみなされるものです。以降も態度を改めないなら、ペナルティとして睦月選手に点数を加算しますよ」
「好きにせい!」
主審の許しも得ないまま、グリは憤然と自陣に戻ってしまった。
主審は憮然とした様子で、試合再開を告げる笛を鳴らした。
飛羽のサーブを、グリはまたもや、何もせずに放置した。
8対10。
主審の手が、首に吊るした笛に触れた。
だが、まだ吹こうとはしない。
吹かないかぎり、試合は止まらない。
飛羽のサーブ。
9対10。
笛が鳴った。
「雪白選手、限度を越えた消極的態度は、競技への侮辱とみなします。よって睦月選手に加点。ポイントは10対10。ジュース」
飛羽に利する判定に、客席から野次がとんだ。
が、それも少数だった。
どちらかが勝利するには、ここから2点差をつけなければならないが、飛羽に残されたサーブは、あと1回しかないのだ。
無抵抗主義のグリから、飛羽が10回目のサービス・エースを奪うと、観客たちは期待の歓声をあげた。
彗星のごとくあらわれた可憐な少女は、はやくも多くのマグバド・ファンを魅了していた。底無しの魔力に支えられたグリのプレーは、巨大な魔法が乱れ飛ぶ光景に度肝を抜かれたいという、観客の欲求にストレートに応えるものだった。
それにひきかえ、魔法を出し惜しみする地味な飛羽。同じ学校の仲間を使って、卑怯な手で勝ち進んできた、マグバドの冒涜者。
新星とも姫とも呼ばれるグリが、ずるがしこさだけが取り得の飛羽を、完膚なきまでに打ち砕く。
こんなに痛快な試合もないだろう。
観客の期待を背負って、グリがサーブを打った。
雷光が炸裂し、微細な雷の枝葉を撒き散らしながら、打球が走る。
グリは、自分の魔球に名称などつけてはいない。だが、それではさびしいと感じたのか、誰からともなく、彼女が好んで放つ雷撃魔球はこう呼ばれるようになっていた。
その名もずばり、
〔建御雷〕!
大和の神の名を冠した〔雷撃〕が、コート上空をまぶしく引き裂く。
今回もその〔雷〕は、いっさいの抵抗を受けずに飛羽のコートに突き刺さるだろう。
と誰もが予想した、その刹那。
飛羽側の〔竜鱗域〕に、一挙に五枚、〔竜羅〕が出現した。
触れるものみな射殺してためらわない雷の矢に、レース生地にも似た〔竜羅〕が立ち向かう。己を捧げて、あらぶる雷をなだめていく。
五つの犠牲が積み重なったとき、〔建御雷〕はほとんど輝きを失っていた。
飛羽の足下で、〔竜界路〕が青く光った。
渾身の力と魔法を、飛羽はこの一振りに懸けた。
ラケットがシャトルをとらえ、瞬間、盛大な水飛沫がはじける。
〔瀑飛蛟〕!
「なっ!?」
瞠目したグリが、あわてて〔竜羅〕を展開した。
しかし心の準備もなしに防げるほど、〔瀑飛蛟〕は脆くない。
半端に張られた三枚の〔竜羅〕を噛み千切り、なお活き活きと、水の竜はグリの眼前で牙を剥いた。
噛まれる、と思ったのか、グリはとっさに腕をあげ、顔と胸をかばった。
彼女を嘲笑うように、〔瀑飛蛟〕は左脇をすりぬけると、床に激突して生涯を終えた。
12対10。
飛羽、第1セット獲得である。
6
コートに立つとき、彼女はいつも主役だった。
対戦相手は脇役――もっと直截的に言うなら、引き立て役だ。
――なにムキになってんだよ。
相手の〔竜殺打〕を難なく打ち返すとき、彼女の胸にひらめくのは、つねに嘲りと、苛立ちだった。
――おまえみたいなゴミ、どうあがいたって無駄に決まってんだろ。
どいつもこいつも、弱すぎた。
彼女は、いつも怒っていた。
歯ごたえのない対戦相手をはじめとして、彼女の周囲には、憤怒をかきたてるものばかりがひしめいていた。
金儲けがいちばん大事なくせに、選手には清廉をおしつける協会。
スポーツを通して社会に貢献、とか言いながら、商品が売れなければ、とっとと逃げ出すスポンサー。
それらの実態を知っていながら、知らぬふりをして、キレイゴトばかり書くマスコミ。
選手にタダ乗りして、お手軽にストレス発散しようという、ファンという名の有象無象。
どいつもこいつも、憎たらしくてならなかった。
彼らが押しつけてくる幻想や願望を、滅茶苦茶にしてやりたかった。
彼女が頑張るのは、彼らのためではない。
必死になって戦っているのは、彼らに金儲けをさせるためや、安っぽい感動を与えるためなどではないのだと、思い知らせてやりたかった。
燃え滾る怒りを原動力に、彼女は勝った。
彼女は、勝利することに貪欲だった。
勝って、勝って、勝ちまくった。
勝つことだけが、彼女を正当化した。
周りに馴染まず、媚びない彼女は、強くなければ、すぐに周囲によって引きずりおろされていただろう。
彼女にとって勝つことは、生きることと同義だった。
「これは、どういうことですか……?」
戸上の声は震えていた。眼前の現実が信じられない、いや、信じたくない、という面持ちだ。
「ああ、そうか。すんなり勝ってしまっては、面白味がありませんからね。ピンチからの挽回は、エンターテインメントの定石。ふはは。与午さん、あなたも演出家ですね」
虚ろに笑う。
この決勝で、飛羽が一つでもセットを獲得するなど、彼には想定外だった。大海晃ならばいざ知らず、飛羽相手に、グリが遅れをとるはずがないのだ。
一二三は振り返って、悪びれもせずに言った。
「戸上さん、悪りい。飛羽に、負けろ、って命令するの、忘れちゃった」
「は?」
戸上の笑みが、凍りついた。
「いやー、そういや、雪白を勝たせるのが最終目的だったっけね。飛羽の指導に忙しくてさ、うっかりしてたよ」
ごめんごめん、と適当にわびる。
「けど大丈夫でしょ。飛羽には、勝つ方法も教えてないから」
「どういうこと?」
と、益居が訊いた。
一二三は、コートの傍らで休憩をとっている飛羽に目を戻して、言った。
「『お前に教えることはもう何もない。好きに戦え』……決勝前に、私が飛羽に言ったのはそれだけさ。実際、もう教えることなんかないんだ。しようがねーだろ」
「じゃ、いまの第1セットは、睦月さんが自分で……?」
「何から何まで、飛羽が自分で考えた作戦さ。雪白の性格を読んで、うまくハメたんだろう」
「何を落ち着いているんですかっ!」
戸上が金切り声を張り上げた。
「いますぐ睦月に負けろと指示してくださいっ。いますぐっ!」
一二三は耳の穴に指をつっこんだ。
「うるっさいな。そんなことしたら、反則負けになっちまうぜ。試合中は、何人といえども選手に手を貸しちゃいけねーんだから。飛羽の反則負けで優勝だなんて、ンな情けない勝ち方した雪白を、果たしてファンが認めるかねー?」
「負けるよりはマシです! いいですか。雪白の優勝には、私の将来が、ひいてはマグバド界の未来が懸かっているんですよ!」
自信過剰にも限度がある。益居は露骨に嫌悪の表情を浮かべた。
一二三は、問題児をあやすみたいに、言った。
「落ち着きなって。雪白が負けるなんて決まっちゃいないぜ。いまコートで繰り広げられてるのは、正真正銘の真剣勝負だ。強いほうが勝つ。それだけのことさ。それとも雪白ってのは、飛羽よりも弱い選手なのかい?」
「まさか。雪白グリは、本物の天才ですよ。私が言うんだから、間違いありません」
「なら、心配はいらないじゃないか。あんたの将来も、マグバド界の未来も安泰だよ」
それよりさ、と一二三は話を変えた。
「場内の音、もっとよく聞きたいんだけど。ボリューム、どうやって上げんの?」
スイッチを探して、キョロキョロする。
益居が動いて、ドアの横のパネルに指を触れた。空調や照明など、室内のスイッチ類はすべてそこに集約されていた。
じきに、会場の物音で、室内は喧しいくらいになった。
鼓膜を傷めかねない大音量の雑音を、一二三はむしろ心地よさそうに感受した。
「いいねえ、この臨場感、たまんないね」
益居が、一二三の隣に椅子を運び、腰を下ろした。ガラスに顔を近づけて、真剣な目でコートを凝視し始める。
「なんだ? 飛羽が勝つかもしれないってわかったとたん、試合を見る気になったのか? おまえも現金だな」
「反省したのよ」
益居は言った。
「どんな試合であれ、これが睦月さんの最後の試合になるのは間違いないわ。私には、見届ける義務がある」
「ほう。義務といえば、飛羽が勝ったら私の奴隷になるって義務も、ちゃんと履行してもらおうかね」
「ふざけていないで、あなたも見なさい。あなただって、睦月さんの指導者なんだから」
泣き出す寸前みたいに、益居の目は険しかった。組み合わせた指を、額に当てる。
「どうして、こうなってしまったの……」
「なに落ちこんでんだよ。私たちの教え子の晴れ舞台じゃないか」
「あなたは何も感じないの? この先、この大会の後に、睦月さんに何が待っているか、少しは想像してみなさいよ」
「まずは、ヒーローインタビューかな。四季杯優勝の感想を……」
「睦月が優勝しちゃダメでしょう!」
戸上の叫びは、女たちに無視された。
益居は、沈んだ声で言った。
「何年も経ってから、この大会を思い出したとき、彼女が誇らかな気持ちになれると思う? 対戦相手を罠にはめて、全力を出し切ることもなく手にした勝利なんて、むなしいだけじゃない」
益居は一二三だけを非難しているのではなかった。矛先は、むしろ自分自身に向いていた。後悔にさいなまれながら、それでもコートから目を離すことを自分自身に許さない。
「いまわかったわ。あなたは同類が欲しいのよ。勝ち星でキラキラ飾られて、見てくれだけはマシなようだけど、その実、中身が空っぽの抜け殻を、自分以外にも作りたいのよ」
「へえ」
一二三は感心して言った。
「おまえって、ときどき鋭いよな。その通りだよ。私は、自分と同じ目に遭う奴が欲しかったのさ」
「あなたは、睦月さんを何だと思ってるの! 彼女と四六時中一緒にいて、なんとも思わなかったの!」
「飛羽をどう思ってるか、ね。正直に言ってやろうか? きっと驚くぜ」
一二三はもったいぶった。
と、突然それまでのニヤニヤ笑いを打ち消して、ひどく冷たい表情になると、言った。
「飛羽なんて、あんな奴、大っ嫌いだ。ぶっ殺してやりたいくらいさ。私なんかの言いなりになりやがって、バッカじゃねーの? 優勝でも何でもして、後悔すりゃいいんだ。いい気味さ」
風船が破裂したような、高い音が鳴った。
吹き飛んだ一二三のキャップが、パサリと落ちた。
「……いけね」
ビンタされ、早くも赤く染まりだした頬を歪めて、一二三は苦笑した。
「避けそこねた」
――ちくしょおっ!
シャトルを追った。
汗の粒を散らし、髪を振り乱し、死ぬ気でラケットを振り抜いた。
――こんなヤツ相手に。私はこんな、こんなもんじゃないんだっ!
心の叫びと、プレーの質とは比例しなかった。
息があがる。苦しい。だが試合は中断できない。音をあげたがる心臓と肺を気合で黙らせて、サーブを放つ。
相手が打ち返す。
しぶとい敵だった。総合的な力量なら、まだ彼女のほうが上回っているはずなのに。敵も必死だ。打ち返されてくる一打、一打に、強靭な精神力が宿っていた。
ラインぎりぎりの、きわどいところに打ちこまれて、思わず手を出してしまった彼女は、バランスを崩して転んだ。
観客たちの声に、笑いが混ざった。
――黙れ、クズども!
心に唱える反撃も、少し弱々しいものになっていた。
――遠くから吠えるしかない虫けらども。文句があるならコートに来い。踏み潰してやる!
彼女が違反薬物を使用しているのではないかとの疑惑は、すでに衆人の知るところとなっていた。検査の結果が、明日にも出る予定だ。
検査結果は、彼女に引導を渡すだろう。撥ね退ける術はなかった。
がんばれ。
そんな彼女でも、まだ応援してくれる者はいた。
がんばれ。
おまえががんばれ、と彼女はそれにすら反発した。
――がんばったさ。毎日、毎日。死ぬほどな。
頑張ったから、それでどうにかなるのか。
評価されるのは、努力の量ではないのだ。
結果が全てだ。
勝利だけが、正義だ。
だから勝たなければいけない。
勝ち続けなければ、彼女はここに立っていられなくなる。
それだけは嫌だった。
他のものなら、何を失ってもかまわない。金も、誇りも、命すら、ひきかえにできるなら喜んでさしだそう。それらをいくら持っていたところで、この場所を失ってしまったら、意味がないのだ。
もうすぐ失ってしまう瀬戸際に追いつめられて、初めて、彼女はこの場所がどれほど自分にとってかけがえがなかったか、思い知った。
失いたくなかった。
マグバドを。
このコートを。
これだけで生きてきた。
このためだけに生きてきた。
ここが、彼女の全てだった。
がんばれ。
――うるせえ。
がんばれ。
――うるせえっ!
敗北が決まり、彼女がただ立ち尽くすしかなくなっても、その声援はやまなかった。
彼女を励ますその声は、このとき彼女の奥底に生まれた巨大な空洞で、その後も永く鳴り響きつづけた。