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六章「陥落」

   六 陥落


 魔法は、コントロールが難しい。

 制御不能に陥った魔法がひきおこした事件・事故は、人類の歴史上、枚挙に暇がなかった。

『〔竜界路〕』

 魔法の凶暴性を封じこめ、自在に制御することを可能とする、魔法使いの陣地。

 太古に絶滅した超生物の化石を砕いた砂――〔竜砂〕を用いて描かれる、まだ魔法が文明の主役であった頃の、人類の知恵の極致である。

〔竜界路〕を介することで、魔法は飼いならされた。命令に忠実なしもべとなった。

『それは、堕落ではないのか?』

 誰かが呟く。

『〔竜界路〕とは、檻ではないのか?』

 魔法という得体の知れない力を――子供という怪物を、閉じこめるための。


     1


 その美しさに、息を呑まずにいられない。

 巨大な水の塊が、シャトルをふところ深く沈めて、ゆっくりと敵陣へ。

 照明の光が、水を透過して青く染まった。

 深く、そして静かな青。

 つかのま、会場全体が、まるで深海に没したようになる。

 自然と誰もが押し黙っていた。この厳かな静寂を破ることを、恐れない者はいなかった。

 のどかなスピードとは裏腹に、その威力は凶悪だ。シャトルを包んだ水は、重さ約150トン。フワリと飛んで、ドスンと落ちる。下敷きになれば、人間などひとたまりもなくペチャンコである。

 最も美しく、最も恐ろしい〔竜殺打〕。

 現役女王・大海晃の〔竜殺打〕。

 その名も、

『〔竜宮りゅうぐう〕』!

〔竜宮〕は、無人のコートに、ボシャン、と落ちた。はじけはせず、球体をたもったまま楕円に潰れ、そのまま分解されていく。青いゼリーが鉄板で熱せられているみたいだった。直径五メートルのゼリーが。

 最後の一滴が分解されるまで待って、飛羽はやっと、コート内に戻った。

 秋の四季杯。準決勝。第二試合。

 大海晃VS睦月飛羽。

 第1セット。

 最初のポイントが、晃に入った――1対0。

 ――いきなしかよ。

 飛羽は胸中でつっこみを入れた。

 ――ノリノリじゃん。

 サーブ権は、まず晃からだった。晃は第一発目のサーブで、いきなり〔竜宮〕を放ってきたのである。

 晃と対戦するのは、公式戦だと、約半年ぶりだった。

 晃の口元は、ニヤついていた。久々の飛羽との真剣勝負に、わくわくしている様子。嬉しさのあまり、つい〔竜殺打〕を打ってしまったのだろう。

 大海晃は、いつもこうだ。

 試合が楽しくて、こらえきれない。マグバドを楽しむことにかけて、彼女の右に出る選手はいなかった。

 好きこそものの上手なれ。

 を地で行っているのが、晃なのである。

 ――あたしだって、楽しみたいけどね。

 そうもいかないんだわ、と飛羽の呟き。楽しんで、それで勝てるならなによりだが、飛羽は晃ではない。楽しむことと勝つことが、イコールでつながってはいない。

『天才』

 そう呼ばれてみたかった。

 思いながら、ラケットをぶつける。二発目のサーブは、さすがに〔竜宮〕ではなかった。しかしそこは現役女王。衝撃が、飛羽のわき腹を鋭くえぐってくる。

 グッ、と腹筋を硬化させて、飛羽は打ち返した。晃のコート、左奥の隅を狙う。

 晃が追いつく。打ち返す。

 飛び散る〔水〕が、空中に曲線を描く。

 飛羽の〔竜羅〕がシャトルをとらえ、パン、と飛沫がはじけた。

 得意なのは〔水〕の魔法。

 晃と飛羽の共通点だ。

 他に共通していることといえば、年齢と、桶女マグバド部所属ということと、Aクラスということくらいか。

 あとは違う。

 遥かに違う。

 ――いつからだろ?

 返球する。狙うのは同じコース。左奥の隅。

 自陣の中央に移動しかけていた晃が、ただちに元の位置に戻る。

『変な奴』

 が第一印象。飛羽だけではなかったはずだ。卵だって、他の部員たちだって、晃と出会ったばかりの頃は、そう思ったはずだ。しばらく経つと、その第一印象は間違っていなかったとわかった。

『やっぱり変な奴。でも憎めない奴。ていうか、好い奴』

 その頃はまだ、こんなにも差がつくとは予想だにしなかった。いつからだろう。晃が立つ場所と、飛羽が立つ場所とが、こんなにも隔たってしまったのは。

 桶女に入学したての頃は逆だった。むしろ晃は覚えが悪いほうで、体格の良い卵や、何事も器用にこなす飛羽のほうが、周囲からも期待されていた気がする。

 Aクラスに昇格した頃、追いつかれた。そして追い抜かれ、その後は突き放されるいっぽうだ。

 大海晃は、メキメキと頭角を現した、というタイプではない。徐々に徐々に、ゆっくりとしたスピードで成長を遂げてきた。特異なのは、その歩みに途切れ目がないことだった。

 練習を重ねるほど実力が伸びていくのは、どの選手も同様だ。だが成長は階段を昇るのと似ていて、途中には必ず踊り場がある。いわゆるスランプと呼ばれるもので、成長が途切れ、何をやっても技量が伸びなくなる時期だ。足踏み状態に陥った選手は、焦り、悩む。ひどい場合はスポーツをつづけること自体、あきらめてしまう。

 大海晃が昇る階段には、踊り場がなかった。

 階段というよりも、坂道と形容したほうが適切かもしれない。晃の道はまっすぐに、ひたすら上へと、なだらかに伸びている。

 晃は歩みつづける。

 焦りも、迷いも、彼女には無縁だった。

 ただ、歩く。

 まっすぐに、前方を見上げて。

 誰かと自分を比べることもなく。

 一歩ずつ、立ち止まらずに歩き続ける。

 飛羽は違う。

 飛羽の階段には、たくさんの踊り場が用意されていた。

 焦りも、迷いも、しこたまあった。

 他の選手と自分を見比べて、全力疾走してみたりして、それで転んで、ますます遅れをとったりして。

 ――ああ、ヤダヤダ。

 晃と自分を比べだすと、最後にはいつも僻みに到る。卑屈な考えを振り払おうと、飛羽はラケットを振った。

 狙うのは、あくまで、左奥の隅。

 易々と、晃が打ち返してくる。

 飛沫を散らして飛来したシャトルを、飛羽のラケットが捉えた。瞬間、針で刺されたような痛みが、右手首に走った。

 ――く。

 痛みは微細だったが、ショットのコントロールを乱すには十分だった。

 コート中央へ、甘く飛んだシャトル。

 晃はピョンと跳んで、手前に落とした。

〔竜鱗域〕近くの浅い位置。飛羽はあきらめずに駆けつけたが、間に合わなかった。

 晃に追加ポイント。これで2点差。

 フッ!

 飛羽は鋭く息を吐いた。動揺はしない。身体にガタが来ていることは、先刻承知である。まだ痛いだけだ。気にしなければ、なんともない。

 晃のサーブ、三発目。

 飛羽が返球する。左奥の隅へ。

 晃が返球。

 それを、飛羽はやっぱり、左奥の隅へ返した。

 飛羽が執拗に同じコースばかり狙うため、晃はさっきからほとんど立ち位置を変えていなかった。

 飛羽がラケットを振るたびに、晃の膝が、グッ、と撓む。

 飛羽が不意にコースを変えるときに、備えているのだ。左奥の隅に晃を釘付けにし、とつじょ、別のコース――最も遠い右手前が有力――にすばやくショットを打ちこむ。飛羽はそういう作戦でいるのだと、読んでいる。でなければ、同じコースにばかりショットを集中させる説明がつかない。

 晃のほうは、あちらこちらへショットを散らしていた。飛羽を走らせ、流れのなかで隙をつくりだそうとしている。

 その場で動かない晃と、忙しく走り回る飛羽。

 対照的な両者のラリーがつづくと、先にほころびを見せるのは、きまって飛羽だった。動き回っていたほうが消耗も激しく、姿勢も不安定なのだから、当たり前といえた。あっという間に、5対0。

 飛羽にサーブ権がめぐってきた。

 最初のサーブを、飛羽は、左奥の隅めがけて放った。

 晃の表情が、不審な色に染まっていた。飛羽はいつまで左奥を攻めつづけるのか。いくらなんでも、長すぎた。こんな攻め方、無意味である。

 しかし、飛羽は左奥を狙うことを、やめなかった。

 ふいに、晃の〔竜界路〕が、強烈に光った。

〔竜宮〕!

 空を舞う、巨大な水の球。

 視力の優れた者が観察すれば、水の縁がぼやけていることに気がつくかもしれない。晃の〔竜宮〕は、量子力学のひとつの実証になりうる、と科学界からも注目されていた。なんでも量子の『重なり』を起こしているのだとか。同一空間上に、水分子がいくつも重複して存在しているらしいのである。ゆえに、見た目の容積から計算される数値の何倍も〔竜宮〕は重いのだという。

 と、そんな七面倒くさい理屈、飛羽にはどうでもいいことだ。とにかく恐ろしい魔球だ、とだけわかれば十分だった。太刀打ち不可能。さっさと自陣から退散する。

 6対0。

〔水〕が分解され尽くしてから、コートに戻る。

 ――そろそろ、痺れを切らしてきましたか。

 晃の心理を読みながら、二発目のサーブ。

 左奥の、隅へ。

 飛羽は、なぜ同じコースばかり狙うのか。

 はっきり言ってしまえば、意味はない。

 意味はないからこそ、意味があるのである。


     2


 大海晃とは、何者か。

「アンドロイドだ」

 与午一二三は言った。

 飛羽は首をひねった。

「アンドロ……誰ですか? 有名な選手?」

「ロボットのことだよっ。人間そっくりの」

 アハハー、飛羽は笑った。

「そんなわけないでしょ。人間ですよ、晃は」

「あたりめーだ。喩で言ってんだよ。――おまえは、大海と長い付き合いだよな。どんな選手だと思う? なるたけ客観的に分析してみろ」

「ええー……っ」

 分析だなんて、面倒くさい。飛羽は不平顔になった。

「まず、魔法を使うのが上手いです。そもそも魔力が強いんだけど、技術も凄くて。〔竜羅〕を編むのなんか、めちゃくちゃ早いんですよ。あと、対戦してみると、凄く勘がいいのがわかります。こっちが狙ったコースに先回りされることが多くて」

「なるほど」

「さっきの喩、間違ってますよ。魔法とか勘とか、ぜんぜんロボットっぽくないじゃないですか」

「十分に発達した科学は、魔法と区別がつかない」

「は?」

「どっかのSF小説家が、そんなことを言ったらしいぜ。――大海の勘は勘じゃない。経験から導き出された計算結果だ。本人自身、自覚がないみたいだが、あいつは根っからの理論派だよ」

 理屈バカともいう、と一二三は付け足した。

「練習や試合で経験したことのすべてが、膨大なデータとなってあいつの記憶に蓄積されている。直面した状況を分析し、経験を参考に超高速で計算して出した解。それがあいつの勘の正体だ。経験が土台になっているから、キャリアを積めば積むほど計算の精度があがる――つまり、強くなる」

「経験なら、あたしだって」

「負けてないってか? 同い年の選手はみんなそうさ。経験の量の話をしてるんじゃないんだ。大海がずば抜けているのは、経験を生かす能力さ。ありゃ、文字通りの『天賦の才』だ。真似できるこっちゃない。分析だの計算だのを受け持ってるのは、大海の潜在意識だな。本能、と言い換えてもいい。だから、自覚がない。気持ちよく、思いのままにプレーしてれば、それがスーパーコンピューターも顔負けの緻密な計算に基づいたプレーになっちまってるんだ。自然とな」

「ずるいよ!」

「たしかにな。だが、なーに、対策はあるさ。コンピューターってのはよくできた機械だが、あらかじめ組み込まれたプログラムを実行するしか能はないんだ。だから、プログラムで想定していない状況に追いつめれば、機能不全に陥る」

「はあ」

 わかったような、わからないような。飛羽は生返事をした。

「さらにいえば、大海はロボットじゃない。血と感情が通った人間だ。いつもいつも計算通りに動いてるわけじゃない」

「え?」

「言ってることが矛盾してるって? けど、人間ってのは、矛盾してるもんだろ。もちろん、大海晃もな」


     3


『脳みそまで筋肉』

 などと揶揄されがちなスポーツ選手だが、スポーツほど繊細な技術と、考え抜いた理論がものをいう分野も少ない。

 トップ・アスリートの身のこなしは、小指を曲げる角度ひとつにわたるまで、その競技のために最適化されている。

 そもそも、人間の肉体は、超・精密機械である。現状の人類が作成しうるどんな機械よりも、細密に形作られている。それを、思いのままに動かすなど、あらためて考えてみれば離れ業である。

 まして、最大限に能力を引き出そうとすれば、どれほど膨大な計算が必要になることか。関節ひとつ曲げるのにも、最適な角度、速度、力加減、血管にかかる圧迫や、それにともなう血流への影響、などなど、考慮しなければならない要素は多岐にわたる。

 脳は、それらをほぼ自動的・瞬間的に処理している。なにも大海晃の脳だけが、格別に優れているわけではないのだ。人間は誰しも、地球史上最も優れたコンピューターを内蔵しているのである。

 脳というスーパーコンピューターを駆使し、超・精密機械である肉体の機能を極限までひきだす。

 スポーツ選手にとってスポーツをするとは、そういうことなのである。

 ――『大海に〔スプラッシュ〕は通用しない』

 昨夜のミーティング。

 具体的な作戦指示に入ると、まず一二三はそう注意した。

 ――『〔スプラッシュ〕の強味は、〔竜羅〕にぶつかった瞬間、どっちへ曲がるか予測がつかないところにある。逆を言えば、どっちに曲がるか予測がついちまえば、怖くもなんともない。ちょっと訊くが、大海のやつ、視力は良いだろ?』

 ――『両目とも2・0以上、って身体検査のたびに自慢してきますけど』

 ――『うん。動体視力も相当なもんだろう』

 ――『えっ。もしかして、〔スプラッシュ〕の羽が重なってるところまで、晃には見えるってことですか?』

 シャトルの羽を魔法で束ねる〔スプラッシュ〕。

 解き放たれときに軌道が変化するのは、束ねられ方が均一ではなく、一部分だけ、複数枚の羽が重なっているためだ。

 その部分だけ、羽が開くのが遅れ、空気抵抗が生じるタイミングが遅れる。

 そのせいで、〔スプラッシュ〕は羽が余分に重なっている部分とは逆の方向へ、曲がるのである。

 ――『見えるだろうな。もっとも大海の実感としては、シャトルを見た瞬間に「なんか変だぞ」と感じる程度だろうけど。おそらく初見ならまだ、その違和感の正体まではわからないだろう。だが二回、三回と見れば、「あ、羽の重なり方が歪なんだ、そして歪なところの逆に曲がるんだ」って気がつく。そうなったらアウトだ。〔スプラッシュ〕敗れたりさ』

 ――『んな、バカな』

 シャトルの羽など、薄いものである。二、三枚重なったくらいでは、見た目の厚さにほとんど差はできない。しかも、シャトルは高速で飛んでいる。回転までしているのだ。

 ――『人間の目ってのは、実はかなり性能がいいんだ。視力が低くて焦点が合わないってんなら別だが、〔スプラッシュ〕の羽くらいなら、見えてるんだよ、本当は誰でも。だが、目から入る膨大な情報をそのまま受け取ってたんじゃきりがないから、見るべきものと見なくてもいいものを、脳が自動的に選別する。羽の重なりみたいな些細なものは、問答無用でゴミ箱行きだろう。これは意思とは無関係に行われる処理だから、本人にはどうしようもない。だが大海の脳は、そこを拾うんだ。そして即座に対抗策を講じてくる』

 ――『それってもう反則って域だよ』

 飛羽は、あらためて慄然としたものだ。

 日頃、一緒に遊び興じている親友が、こんなにも底の知れない怪物だったとは。

 無情にも時はすぎていく。

 大海晃のスコアに追加ポイントを刻みながら。

 あれよあれよという間に、10対0。

 あと1点で、第1セットは晃のものになってしまう。

 瀬戸際に追いつめられてもなお、飛羽は左奥の隅を狙いつづけた。

 観客席は、とっくの昔からブーイングの嵐である。

 まじめにやれ、の大合唱だ。

 桶女に疑惑の目が向けられている折りも折り。

 晃を優勝させるために飛羽がわざと負けようとしているのではないか、と観客たちが疑っても仕方がなかった。

 このままいけば、本当に、ただ晃を楽に勝たせるだけになってしまう。

 ――『あとで文句言われたくねーから言っとくけど、今回の作戦は、かなり分が悪い。成功率は、おまけして五割ってとこだな』

 一二三が歯切れの悪いセリフを言うのを、昨夜、飛羽は初めて聞いた。

 ラッキーパンチは当たらない、と言ったのはあんたじゃないか、と噛みついてみると、

 ――『ラッキー頼みの作戦じゃねーよ。目を瞑って矢を撃つのと、ちゃんと的を見て撃つのとは違うだろ。狙ったからって、命中するとは限らない。何事も思い通りにはいかないさ』

 人間だもの、とどこかのカレンダーみたいなことを言う。

 ――そりゃ、そうかもしれないけどさ。

 自陣内を縦横無尽に走りながら、飛羽は晃の打球を拾いつづけた。

 そして唐突に放たれる、〔竜宮〕。

 ――お。

 頭上にのしかかってくる水の球を見上げたとき、飛羽はおもわず一瞬、動きを止めた。

『つまんないぞ!』

 と言わんばかりに、晃は憤然と飛羽を睨みつけていた。

 飛羽はとりあわずに、潔く自陣から退去した。

〔竜宮〕は落ち、そして第1セットが終わった。

 結局、1ポイントも取れなかった飛羽だが、休憩用の椅子へ向かう足取りは軽かった。

 最後の〔竜宮〕が原因だった。一二三ですら自信がなかった作戦が、どうやら功を奏しはじめたかもしれなかった。光明が、見えたかもしれないのだ。

 だが浮かれてもいられない。

 いよいよ、ここからが正念場である。

 第2セットが開始された。

 サーブ権は飛羽から。

 まず打ちこむのは、左奥の、隅へ。

 いい加減にしろ、と満面に朱をのぼした晃が返したシャトルを、もう一度、左奥の隅へ。

 晃、投げやりなスイング。それでも、飛羽のコート内にちゃんとインしてくるのは、さすがだった。

 飛羽が打ち返した――右へ。

『あ』

 と、晃が口を開けた。

 シャトルは右奥の、ラインの角に着弾し、跳ねた。

 晃はその場で足踏みしただけだった。咄嗟のことに、反応が遅れたのだろう。飛羽に得点。0対1。だが晃は少しも悔しそうではなかった。飛羽を見て、ニタリ、嬉しそうに笑いかけてくる。

 飛羽は無視した。新しいシャトルを手に取り、サーブ。左奥の、隅。

 晃が返球する。投げやりではなく、活き活きと。やっと飛羽がやる気になった、と喜んでいる。

 が、その喜色も、みるみる褪せた。それから一分以上もつづいたラリーの間、飛羽がまたもや延々と左奥を狙い続けたせいだ。最後には、晃の打球の重さに耐えきれなくなった飛羽がミスをして、そのラリーは終わった。1対1。

 晃はふたたび不満顔。左手を腰にあて、右手でラケットを忙しなくブラブラさせている。

 いいぞいいぞ、と飛羽は顔には出さずにほくそ笑んだ。

 ――怒れ。悩め。思う壺。

 飛羽にもようやく、勝利の芽が出てきていた。

 大切に育てなければならない。この芽はか弱いのだ。雨の一降り、風の一吹きで、たちまち萎れてしまう。

 大海晃は、アンドロイド。

 気の向くままに、自由奔放にコートを舞っているようでいて、実はそのプレーは極限まで合理化されている。

 ならば、不合理な振る舞いをする対戦相手に出くわしたとき、どうなるか。

 ここしばらく無敗状態の晃だが、一年前くらいまでは、実力で遥かに劣るはずの選手相手に、コロっと負けてしまうことが、よくあった。

『なんか気持ち悪かった』

 敗戦のあと、決まって晃は、そう感想を漏らしたものだ。なんだかわからないけれど、すっきりしない試合だった、と。

 それはきっと、勘がうまく働かなかった試合なのだ。

 支離滅裂なプレーをする対戦相手に、理詰めで対応しようとして、空回りをしてしまった。晃本人には、計算ずくで動いている自覚はないから、感じたことを言葉にすると、気持ち悪かった、の一言になる。

 一二三が授けた打倒・晃の作戦とは、煎じ詰めれば、こういうことである。

 ――『気持ちの悪い相手になれ』!

 そんなにうまくいくかいな、と飛羽は半信半疑でいた。たぶんダメだろう、と本心は諦めモードだった。

 だが第1セット、最後の〔竜宮〕を見た瞬間、飛羽の憂いは希望に代わった。

 魔力には、波がある。

 強いときと弱いときと、まるで心電図みたいに、山と谷がかわりばんこに流れているのだ。山の頂点に達したときに放たれる魔法は、最高の威力を発揮する。

 マグバドでは、頂点の瞬間にラケットとシャトルを接触させることを、

『ジャストインパクト』

 と呼ぶ。

 仰々しい呼び名だが、実際にジャストで打つのは、それほど難しい技術ではない。魔力の波は心臓の鼓動のようなもので、体内で息づくリズムの一つだ。だから、自分にとって心地の良いタイミングで素直に打てば、おのずとジャストになるのである。熟練のAクラス選手のショットは、〔竜殺打〕以外でもほとんどジャストインパクトだ。

 まして天才・大海晃。

 彼女が必殺の〔竜宮〕を打つ際に、ジャストインパクトを外すなどということが、はたしてありうるだろうか。

 ありえない。

 にもかかわらず、さきほどの〔竜宮〕は、ほんの寸毫だが、ジャストを外していたのである。

 晃の歯車は、狂いだしていた。

 二度と歯車がかみ合わないように、このまま、だましだましに、だましつづけるのだ。

 百に一つも勝ち目はないと絶望しながら臨んだ準決勝だったが、飛羽の目の前に、ひとすじの光明が差しはじめた。


     4


 益居の不安は的中した。

 記者会見は、『捻挫疑惑』で紛糾した。

「この会見は、大海晃選手の引退会見です! それ以外の質問はうけつけません!」

 司会進行を任されたマグバド協会の職員が、金切り声で注意しても、記者たちはどこ吹く風だった。職員は、だったら会見を中止する、と幾度も脅しをかけて、ようやく最低限の秩序を維持していた。

「はい。そちらの、グレーのスーツの方。青いネクタイの方です、あなたじゃありませんっ。……はい、あなたです、質問どうぞ」

 職員は、行儀よく挙手していた一人の記者を指さした。

 記者は新聞社名と、自らの名を名乗った。そして白いクロスがかけられただけの殺風景なテーブルについた晃と益居へ、

「えー。突然の引退ですが、理由は昨日の敗戦でしょうか?」

 晃は半分だけ肯定した。

「半分だけ、というのは?」

「この四季杯に入る少し前から、薄々は感じていたんですが、昨日の試合ではっきりわかったんです。私の魔力に、終わりが来ました」

 記者たちのざわめきが、ひときわ高まった。

 返答の内容は予想の範疇だっただろうに、現役のトップ選手に自ら告白されると、少なからぬ衝撃があったらしい。

「私は、いつも前だけを見てマグバドをしてきました。もうこれ以上、前に進めないのなら続ける意味はありません。ですので、引退を決めました」

「しかし、巷では……」

「質問は、一人ひとつずつです」

 職員が制した。

「他の方。……はい、そちらの、赤いネクタイの方」

「○○テレビの××です。引退の理由について、もっと詳しく聞かせてください。女王とまで呼ばれているあなたなら、魔法の威力が多少低下しても、まだまだやれるんじゃないんですか?」

「ですから、これ以上――」

「そういう建前ではなくてですね。本当は、これまでのペテンがバレそうになったから、さっさと逃げることにしたんじゃないんですか?」

「会見の趣旨と関係のない質問は……!」

「ありますよ! 引退の理由を訊いてるんです」

 職員が止めても、記者はひきさがらなかった。

 そうだそうだ、と他の記者たちも呼応する。

「大海選手が女王の座に君臨できたのは、桶女の他の部員たちが裏工作をしてきたおかげなんじゃないんですか?」

「そのようは事実はありません! 根拠もなしに……」

 即座に否定しようとした職員を、みなまで喋らせず、

「あるだろっ。現に睦月は、貴田を使って勝ったじゃないか。昨日の試合だって、見るからにおかしかっただろ。わざと負けてやったんじゃないのか?」

 ダムが決壊するみたいだった。一人が口火を切ると、他の記者もいっせいに口を開く。会見会場は、怒鳴り声の坩堝と化した。

「……皆さんが、お疑いになられるお気持ちはわかります」

 それは、囁いた、とでも形容するべき、ひそやかな声だった。

 それまで静観を決めこんでいた益居が初めて発言した。

 マイクに口を近づけた姿勢を維持したまま、ふたたび黙りこんだ彼女の、次の発言を聞き漏らすまいとして、記者たちの怒号はだんだん収まっていった。

 完全に静かになっても、益居はさらに数秒間、焦らしてから、

「我が部の副監督が誤解を招く発言をしたことについて、謝罪させていただきます。お騒がせして、申し訳ありませんでした」

 益居は立ち上がって、深々と頭を下げた。

「誤解だという証拠は?」

「試合の映像を観ていただければ、一目瞭然だと思います。二回戦で、我が部の貴田が、川森選手を故意に負傷させたかのような報道もあるようですが、あれは試合中の不幸な事故であるとしか言いようがありません」

「仕組んでおいて、よく言うよっ」

 別の記者が勝手に発言した。

「仕組んでいません」

 益居は語気を抑えて反論した。

「懸命にプレーをしていればこその、不慮の事故です。川森選手は気の毒でした。ですが、皆さんが貴田や睦月を非難されるのは、筋違いです」

「でもですね、与午副監督は、睦月に、川森の足を潰す作戦を実行させたと、認めていますよ」

「弱みにつけこむのは桶女じゃ基本なんでしょ?」

「卑怯なことしたって、とにかく勝てりゃいいんでしょ?」

 益居兎は、短気である。

 すぐにカッと怒りが沸騰する。

 自分の性格を益居はちゃんと自覚し、自戒してもいる。

 特に、公的な場所では、持てるかぎりの忍耐力でもって、堪忍袋の緒をギッチギチに固く引き締めている。

 益居兎には、ひそやかな野望があった。

『クールビューティーと、呼ばれたい』!

 現在までのところ、この野望は、あるていど成功しつつあった。

「睦月の指導については、副監督に一任しています。私は口出しする立場にありません」

「睦月がどんな真似をしたって、自分は関係ないっていうんですかっ!」

「責任放棄か!」

「あの、ですから、質問は、私に指名されてから!」

 どうにか収拾しようとする職員だが、馬の耳に念仏もいいところだった。

 益居が応じる。

「最終的な責任は、もちろん私にあります。睦月に対しては現在、直接こまかい指導はしていないと申し上げただけです。貴田は私が指導しています。彼女が故意に相手選手を負傷させるなどありえないと、私が保証します」

「保障になるかっ」

「貴田だって、先輩の睦月に頼まれれば嫌とは言えないでしょう。運動部は縦社会ですから」

「睦月も、三週間前までは私が指導してきた、私の部員です。意図的に怪我させるように仕向けるなんて、彼女だってするはずがありません」

「それはあなたの希望的観測でしょう。副監督は、なんたって、あの与午一二三ですよ」

「本当は、ドーピングだって、し放題なんだろ?」

「イギリスなら、日本ではまだご禁制になってない、良い薬があるかもしれないしな」

「そもそも睦月みたいな冴えない選手が、Aクラスに居続けてること自体、裏で何かやってる証明みたいなもんでしょ」

「居続けてるどころか、決勝進出だぞ?」

「ずっとパッとしなかった友人に、最後に桧舞台をプレゼントですか。大海選手は優しいですねー」

「演技は下手だけどな」

 記者たちは、顔を見合わせ、どっと笑った。

 ――怒っちゃダメ。

 ――怒っちゃダメ。

 益居は必死に自分を抑えた。

 選手時代とは違うのだ。

『直情径行』とコーチに叱られ、『瞬間湯沸かし器』と仲間たちには嗤われた、あの頃の兎はもういないのだ。

 ここでぶちまけてしまっては、いままでの苦労が水の泡である。

『知的な美人監督。しかも若い』

 と世間から評されるようになるまで、どんなに遠い道程だったことか。

 激しく葛藤する益居の膝が、小刻みに震えだしたことを、隣に座った晃だけが気づいていた。

 あーあ、と晃が、そっとため息をついた。

 もう、限界だった。

「あなたたちが、睦月の何を知ってるって言うんですか!」

 ただでさえ引火しやすい益居の感性は、ここ最近の一二三との消耗戦によって、カラカラに乾燥させられていた。

 黒色火薬よろしく、火がつくやいなや、大爆発。

 こうなれば、売り言葉に買い言葉だ。

「三回戦のプレー内容がスポーツマン・シップに反するものだったとしても、ルールは犯していないでしょう! 睦月は、ちゃんと戦って勝ったんです!」

「戦ってないだろ! リタイアさせたんじゃないか」

「ルールさえ破らなきゃ、何やっても良いってんですか?」

「誹謗中傷はやめろと言ってるんです! 貴田がわざと怪我させたとか、大海がわざと負けたとか、証明できるんですか!? いいかげんにしないと、名誉毀損で訴えますよ!」

「報道に圧力をかける気かっ!」

「報道だからなんだって言うのよ、いつもいつも偉そうに! 睦月が薬を使ってるなんて、証拠もなしに、言って良いことと悪いことの区別もつかないくせに!」

 あちゃあ、と晃は天を仰いだ。

 しかし救い主は見当たらず、濃オレンジ色の天井があっただけだった。


     5


「泳ぎに行こ」

 昨夜――準決勝を戦ったその日の夜遅く、ホテルの飛羽の部屋を訊ねてきて、晃は開口一番、そう言った。

 どういう風の吹き回しだろう。飛羽は面食らった。そもそも、今夜はホテルに泊まらずに桶女の寮に帰ったはずでは。

 晃は言った。

「もう少しだけ、こっちに残ることになったんだ」

「なになに? あたしの決勝、応援してくれんの?」

「んー。それは、まだわかんない」

「……?」

 晃はちょっと言葉を濁していた。

 なんだか妙な感じだった。晃のほうから泳ぎに誘ってきたのは、これが初めてだった。桶女では、晃がひとりでプールに忍びこんでいるところへ、飛羽が押しかけるのがいつものパターンで、逆はなかったのだ。

 ちょうど眠れずにいたところだった。泳いでさっぱりするのも悪くないと、飛羽は誘いに応じた。

 ホテルのプールは、深夜十一時をすぎると立ち入り禁止になり、施錠されてしまう。だが魔法の天才、晃にかかれば、鍵などないも同然だった。

 難なく潜入に成功した二人は、Tシャツと短パンのまま、準備運動もせずにとびこんだ。

 窓から差しこんだ月明かりを反射して、水飛沫が無数の星になった。

 はじまったのは、いつものバカ騒ぎだった。

 思い思いに水の球をつくり、飛羽と晃はぶつけあった。ドッジボールだ。

 双方、防御は頭になかった。ひたすら攻撃。先に倒れたほうの負けだ。

 水上でボールを投げながら、飛羽は水中にも矢を放った。見えない水の大蛇が、晃の足をすくう。

「うおっ」

 たまらず、晃が水中に没した。

 飛羽は快哉を叫んだ。

「あたしの勝ちぃ!」

「……飛ぃぃぃ羽ぁぁあああ―――!」

 晃はただでは起きなかった。

 天へ両腕を開いて、間に引力を生じさせる。

 水が吸引され、みるみるプールの水嵩が下がった。プールの容積の、悠に半分はある水量が、晃の頭上で球体に結実した。さながら水の惑星だ。

「ちょ、うそっ!」

 泡を食う飛羽に、晃は、情け容赦なく叩きつけた。

 逃げようとした飛羽は、太ももまであるプールの水に足をとられた。仰向けに体勢を崩したところへ、もろに食らった。

 十秒経過。

 ……プカリ。

 いまだに波打っている水面に、飛羽の五体が浮かび上がった。

「わたしの勝ち!」

 ガッツ・ポーズを決めた晃に、飛羽は仰向けになって水面を漂いながら、

「あんた、加減ってのを知らないの?」

「最初に卑怯な手を使ったのは飛羽だろ」

「どこが。作戦じゃん」

「こっちも作戦」

「どこがっ。ただの力任せじゃん!」

 憤然と立った飛羽は、ハッとして青ざめた。

「て、それどこじゃないや。逃げなきゃ」

 大急ぎで、プールからあがろうとする。いぶかしげにこっちを見ている晃へ、

「なにしてんの! あんな大技かまして、今頃、ホテル中が大騒ぎだよ。みつからないうちに逃げなきゃ」

「平気だよ」

「どこがっ。兎ちゃんにバレたら、どんな罰が待ってるか、あんた、想像してみなって」

 兎ちゃんどころではなかった。

 あれだけ巨大な水の球が墜落したのだ。建物の骨組みに亀裂が入ったかもしれない。最悪、ホテルごと弁償、なんてことにも。

 と、飛羽はハタと立ち止まった。

 ――晃なら、弁償できるのか?

 勃然と、妬みの感情が沸き起こる。

 ――こいつ、いままで、どんだけ稼いだんだ?

 晃は悠長に平泳ぎなどしはじめた。水中をすべりながら、

「大丈夫だって。ちゃんと〔クッション〕当てといたから」

「へ?」

「だから、音とかショックとか、この階の外には漏れないようにしといたんだって。魔法で」

「うそ」

「耳、澄ましてみなよ」

 言われて、息を止めてみる。

 静かだった。

 異様なまでに。

 晃がたてる水音しか、空気を揺らすものがなかった。今夜もこのホテルには、大勢の宿泊客がいるはずだった。なのに、一切の気配が感じられない。このプールのあるフロアだけが切り離されて、宇宙の真空に放り出されたみたいだった。

 ――なんてこった。

 飛羽は賞賛の眼差しを晃へ向けた。

 絶賛するしかなかった。

 いつからだったのか。おそらく、プールに忍びこむのと同時だったのだろう。晃は魔法で、このフロアと他のフロアとの間に緩衝地帯を創造したのだ。ありていに言うなら、〔結界〕を張った。プールで大暴れしても、支障の出ないように。

 そのうえで、あんなに巨大な水まで操った。

 飛羽には到底、たとえ魔力が衰えていなくても真似のできない芸当である。

 風船から空気が抜けるみたいに、飛羽は、へなへなとプールサイドにへたりこんだ。

「晃には、かなわないよ。お手上げだ」

「なに言ってんの。勝ったくせに」

 晃が声を尖らせた。

「今日だけだよ。最後の1点を決めるまで、ヒヤヒヤしっぱなしだったし」

「おかしいよ、ヒヤヒヤなんて。試合はアツアツでするもんだろ」

「おでんじゃないんだから」

「今日の飛羽、すっげー気持ち悪かった」

 背泳ぎしながら、晃は顔を、ぐえー、と歪めた。

「いいじゃん、一回くらい。いつも気持ちよく勝たせてあげてるでしょ」

「あげてる、ってなんだよ? わざと負けてたみたいに。勝ち負けなんか、ただの結果じゃんか。久々に飛羽と公式戦だから、楽しみにしてたのに。台無しだよ」

「だから、今日だけだって。いいじゃん。気持ち悪くあたしが勝ったって。勝ちたかったんだよ、晃に」

 言葉を切って、口の中でつづける。

 ――あたしの、最後の大会だから。

 声に出しはしなかった。だが、晃は聴覚もおそるべき高性能だった。

 晃は言った。

「わたしだって、最後だったよ」

 ――え?

 飛羽は、俯いていた顔を上げた。

「わたし、引退するから」

 飛羽のほうを見もせずに、晃は泳ぎながら言った。

 パチパチ。飛羽は目をしばたたいた。

「え? なにそれ? 冗談? え?」

「冗談なんか言わないよ。今日の試合が、わたしの最後の試合だったの。兎ちゃんにもそう言ったらさ、明日、記者会見しなきゃいけなくなっちゃった。面倒っちいの」

「急に引退なんて、そんな、どうして?」

「そんなの、飛羽と同じに決まってんじゃん。わたしにもタイム・リミットが来たんだよ。『もうあなたは大人です。魔法もスポーツも卒業です』……ほんと、いきなりなんだもん、びっくりした」

「だって、あんた、魔法はまだ、こんなに……」

 プールの端まで達した晃は、底に足を着いた。

 水に浸かったままで、プールの縁に背をもたれる。

 窓の外、浮かぶ月を見やりながら、

「この四季杯がはじまってさ、一回戦から変な感じがしてたんだ。そしたらさ、日に日に魔力が落ちてくのがわかるんだ。わたし、卵と同じタイプみたいだ。たぶん来週の今頃には、ぜんぜん使えなくなってる」

「そんなの錯覚だよ。今日の〔竜宮〕、ぜんぜん威力落ちてなかったじゃん」

「〔竜宮〕だけはね。ちょっと無理した」

「無理でもなんでも、あれだけ使えたら十分だよ。来週には使えなくなってるって、そんなの、まだわかんないじゃん」

「わたしの勘は、百発百中だよ」

 ため息をつくように晃は言った。

 最初に卵、次は晃、最後に飛羽。

 いつかの夜、桶女のプールで明かした晃の勘では、引退する順番はそうなるはずだった。

 あのときは、生まれて初めて勘が外れた、と落胆していた晃だが、実は外れていなかったのだ。

「飛羽はさ、どうしてマグバド始めたの?」

 晃は言った。

「なによ、いきなり?」

「わたしはさ、試合を見て、おもしろそうだったからなんだ。自分でやってみたら、やっぱりおもしろかった。練習は、ときどき面倒っちかったけど、試合が近づくとワクワクして、辞めようなんて、考えたこともなかった」

「そりゃ、晃は勝てるもん。楽しいでしょうよ」

「わたし、中毒ってヤツだったのかもしれない。マグバドなしじゃ生きていけない身体になってたんだ」

「不穏当な発言だなあ」

 飛羽はドキッとした。飛羽にも身に覚えがなくはなかったからだ。

「だったら、それこそ、どうして辞められるの? たかがタバコやめるのだって、物凄い苦労するって言うよ?」

「この四季杯の、前からなんだ」

「?」

「ここんとこ、試合前のワクワクが減ってきててさ。いままでなら、前の夜、眠れないくらい楽しみだったのに、普通に眠れるし。そんでね、今日の試合で、ああ、て思った」

「ああ?」

「今日の飛羽、気持ち悪かったけど、いつもだったら、気持ち悪いなりに楽しめたと思う。負けたら悔しいし、こんにゃろ、って頭に来るはずなんだ。けど、全然でさ。こんなふうに、一緒に泳げてるし」

「…………」

「きっとさ、ワクワク、使い切っちゃったんだよ。マグバドが楽しくやれる期間が終わっちゃったんだ。だから、辞める」

「……電池切れみたいに言うなよ」

 飛羽は低い声で吐き捨てた。

 急に怒りがこみあげてきて、

「機械じゃないんだからさ。なんで、そんな簡単に終わりにできるんだよ。たくさん勝ったから、もう満足なの? 卵はあんなに泣いたんだよ。あたしだって……。なのに、晃はひどいよ。あっさりしすぎだよ。そんな、何も悔いはありませんみたいなの、嘘だよ。みんな、割り切れないのを、むりやり割り切って、割り切ったふりして辞めてくんだよ。晃はふりしてないじゃん。本音で割り切れてるじゃん」

 声がうわずってきて、鼻声に変わる。

「……ダメだよ。卵が辞めて、あたしもダメになって、これで晃まで終わっちゃうなんて、早すぎるよ。晃だけは、まだダメだよ!」

 この四季杯を最後に、自分が引退するのはしようがない。魔力の衰退を悟ってから一ヶ月。飛羽はやっと納得しかけていた。だが、晃が辞めるのは、認められなかった。

 晃まで引退してしまったら、本当に終わってしまう気がした。

 飛羽たちのマグバドが。

 桶女ですごしたこの数年間が、もうとりかえしのつかない過去に変わってしまう気がした。

 そんなの、理屈になっていないことは、わかっている。

 だがとにかく、ダメなものはダメなのだ。

 こみあげてくるものをどうにもできず、飛羽は泣き出してしまった。

「……ごめん」

 謝ったのは、なぜか晃のほうだった。理不尽な飛羽を、責めようともしない。困った顔をして、しゃくりあげる飛羽から目を逸らす。

 飛羽は、いよいよ自分が大嫌いになった。

 わかっていた。飛羽は、また晃に嫉妬しているのだ。

 晃の潔さが、羨ましかった。どうすれば、そんなふうに引退を受け入れられるのだろう。飛羽はこんなにも意地汚く、マグバドにしがみついているというのに。

 晃にも、もっと取り乱して欲しかった。

 悪あがきして欲しかった。

 思えば、ずっと晃が妬ましかった。晃みたいになりたくて、なれない自分が嫌いだった。

 晃さえいなければ。

 死すら願ったことも、一度や二度ではなかった。

「でも、良かったよ」

 月を見て、晃が言った。

「最後の相手が飛羽で。終わりよければ全て良し、って言うじゃん。気持ち悪かったけど、でも、やっぱり飛羽しか考えらんなかった。うん。飛羽で良かった」

 晃は飛羽を見て、ありがと、とはにかんだ。


     6


 晃の引退会見で、益居が『爆発』していた頃。

 飛羽は、ロードワークに出ていた。

 ここのところ煩わしいマスコミは、きっと会見にひきつけられるだろう、との読みは当たった。会見会場としてマグバド協会は急遽、飛羽たちも宿泊しているホテルの宴会場をおさえた。記者たちがそっちに集中したため手薄になったエントランスをすばやく駆け抜けて、飛羽は久々にすがすがしいランニングにありつけたのだった。

 青空の下、外の空気を吸いながら走る開放感は、格別だった。ジムのマシンとは雲泥の差だ。やはりランニングは、実際に大地を踏みしめて、肩で風を切りながらにかぎる。くるくる回るベルトの上を走らされるなんて、ハムスターじゃないんだから、といいかげん嫌気が差していたのだ。

 耳を騒がせるのは、自分自身の足音と、心臓の鼓動と、呼吸音。

 苦しい上に単調なランニングを毛嫌いする部員も多いが、頭を空っぽにして三種類のリズムだけに集中できるこの時間が、飛羽は好きだった。

 一気に坂を登りつめて、足を止めた。

 大きく息を吐き、吸う。振り返ると、見晴らしが最高だった。街の中心地を少し外れたこのあたりに高層ビルはなく、雑多な色の屋根が、なだらかに下りながら広がっている。

 開放感をフルに満喫したくて、飛羽はウインド・ブレーカーのフードを下ろした。

 とたん、待ち構えていたように、ひときわ強い風が髪をなぶる。

「うひゃあっ」

 苦笑して、飛羽は近くのバス停に逃げこんだ。

 アクリル板の壁で三方を囲んだベンチには、先客がいた。

「あ」

 会釈しようとして、飛羽は声を上げた。

「おや」

 相手も、こちらに気づいたようだ。

「ランニングかい?」

 ハンカチで首の汗を拭いながら、気軽に話しかけてくる。

「ええ、まあ」

 飛羽はあいまいに答えを濁した。立ち去ろうか、と後ずさりしかけるが、

「いい天気だねえ。こんな日に練習なんて、嫌になっちゃうだろう?」

 人懐っこい笑みを浮かべながら質問してくる相手に、飛羽は逃げる機会を逸した。

 馴れ馴れしいのは、職業病だろうか。彼は、三回戦の後、試合会場で質問してきた記者だった。一二三と親しそうに話していた、あの古風な冴えない記者だ。わざわざ自分がずれてベンチにスペースを空けてくれ、座るようにと、飛羽に無言の圧力を与えてくる。

 あきらめて、飛羽はベンチの端に腰を下ろした。

「べつに。好きでやってることですから」

 そう答えるのに、考える必要はなかった。記者の質問は、それほどありふれたものだった。

『がんばっていて、凄いね。やめたくならないのかい?』

 答えはいつも決まっている。

『好きでやってますから、苦じゃありません』

「好きでやってる、か」

 呟いて、記者はゆっくりと息をついた。

「あの、行かなくて良いんですか。晃、記者会見してるはずですけど?」

「あっちは盛況だろうね」

 まるで他人事のような口ぶりだった。

「ああいうのは、上司の言うとおりにしてれば月給がもらえる連中の仕事だよ。私みたいなフリーランスが、大手とおんなじ取材してたんじゃ、勝負にならんさ。今日はね、この近くに中学校があるんだけど、そこの取材。おもしろい選手がいてね」

「マグバドですか?」

「うん。四季杯はまだ遠いけどね。でも二年、いや一年後には、かなりのところまで行ってるんじゃないかって、期待してるんだ。有名になってから取材を申しこんだって、私なんか相手にしてくれないだろ? だから、いまのうちに顔見知りになっておくんだよ。弱者の知恵だね」

「なるほど」

「いやー、しかし今日は運がいい。独占取材が二回もできるなんて。しかも一人は、四季杯のファイナリストだ」

 と、へたくそなウインクをしてくる。

「……あたし、何も答えませんよ」

 ガラガラガラ。飛羽は、心のシャッターを閉て切った。

 あはは、と記者は笑った。

「警戒されちゃったね。じゃ、しようがない」

 ひきさがった。

 え、と飛羽のほうが、おもわず身を乗り出す。

「訊かないんですか、なにも?」

「だって、答えてくれないんでしょ? 無理強いはできないじゃないか」

「はあ。まあ……」

「それにね、だいたいは察しがついているんだ。君は、与午の言うとおりに試合をしているだけだろう? あの捻挫にしたって、偶然の事故だしね。与午は、そいつを利用したにすぎない。他の記者連中だって、本当はわかっているのさ。けど、真実をそのまま文字にしてたって商売にはならない。ジャーナリズムとしちゃ失格だが、マスコミも営利企業だからね。売れる記事を追究しているうちに、間違った道に入りこんじまうこともある。困ったもんだ」

 あっけらかんとしたものだった。

「与午監督とは、前からお知り合いなんですか?」

「聞いてないのかい?」

 記者は意外そうだった。

「与午のドーピングの件、あれ、スッパ抜いたの、私なんだよ」

 飛羽が目を丸くすると、記者は気恥ずかしそうに、

「これでも、昔は敏腕でならしたもんさ。君くらいの歳の子は知らないかもしれないが、あの頃の与午は超スター選手でね。そいつをぎゃふんと言わせてやったんだ。鼻高々だったよ」

「ぎゃふんと……」

「与午の憎たらしさったら、なかったからね。コメントは適当だわ、愛想はないわ、敬語は使わないわ。記者はみんな、陰じゃ目の敵にしていたよ。スクープをものにした私は、一躍ヒーローさ」

 そして、さびしげに自嘲する。

「それで、調子に乗っちゃった。驕る平家は久しからず、でね。行き着いた先が、いまのしがない傭兵稼業さ。ま、後悔はしちゃいないけど。寄らば大樹というが、大樹の木陰を出てみると、一味違った景色が見える。案外、悪くはないもんだ」

 記者はバスの時刻表に目をやった。

 陽射しが、その頭部でテカテカしていた。防御力が極端に低そうな、その頭を見ていると、飛羽の警戒感も薄れていった。先日来、のどに刺さった小骨みたいにひっかかっていた疑問が、つい口をついて出る。

「一昨日、与午副監督に、勝つと何が得られるのかって訊いてましたよね? どうしてですか?」

「そんなこと言ったっけ? どうしてって、そりゃ、与午が何が何でも勝ちたい、みたいなこと言ったからじゃないかな。そんなにまでして勝ってどうするんだ、と思ったんだろう。すまないが、よく憶えていないよ。それが、どうかしたのかい?」

「あんな質問した人、初めてだったんで」

「そうかい?」

「だって、勝ちたいの、当たり前じゃないですか。みんな、勝つために練習して、試合してるんですよ。なのに、別に勝たなくたっていいじゃないか、みたいな質問、変ですよ」

「みんな勝つためにねえ」

 記者は、首をひねった。

「それは、ちょっと違うんじゃないの? 勝ちたいだけなら、別のことでもいいじゃない。マグバドじゃなくったって、オセロとかババヌキとか、もっと手軽なので。そういうゲームで勝ったって、勝ちは勝ちでしょ」

「ぜんぜん違いますよ」

「そうだね。ごめん。屁理屈だった」

 記者は素直に認めた。

「私が思うのはね。勝つのは目的じゃなくて手段だろう、ということなんだ。君はAクラス選手だが、Aクラスでいつづけて、たくさん大会で試合をするためには――つまり、高いレベルでマグバドをするためには、勝たなきゃいけない。実は、勝つのは練習するのと同じなんじゃないのかな。どっちも、マグバドの選手になるために必要な過程の一つ、つまり手段だよ。では、目的はなんだろうか? 勝って、Aクラス選手になって、で、どうしたいんだい?」

「…………」

「ゴールはどこにあるんだね。四季杯の優勝か? だがそんなこと、マグバドに興味のない人から見れば『ふーん。だから何?』ってなもんだ。益体もない。たかがスポーツじゃないか」

「そんなの、何だってそうですよ。関係のない人からすれば、何だって『だから何?』ですよ」

「そうだ。だから、懸命に何かをしている人は、自分だけの理由を持っている。なぜそれをするのか、しなければいけないのか、他人に理解されずとも、しっかりとした何かを握っているものだ。スポーツ記者になって三十年になる。選手たちの日々の努力には、いまだに脱帽させられっぱなしだ。だから、ときどきわからなくなる。どうしてそうまで頑張れるのか。そりゃ、勝つのは快感だろうさ。チヤホヤだってされるだろう。でも気持ちがいいのは一瞬だ。すぐにまた苦しい練習を始めなけりゃならない。勝利の快感は、長い長い練習の苦しみを帳消しにして余りあるほどのものなのか。だとしても、そうそう勝てるものじゃない。トーナメントなんて一人を除いてみんな負けるんだから。負けても、君たちは諦めない。また歯を食いしばって練習に戻る。勝ちたいから? 理由は本当にそれだけなのかい?」

「…………」

「与午は『金と名誉』のためだと答えた。なかなか説得力がある答えだ。だが、ありゃ、嘘だ」

「え?」

 どっこいしょ、と記者は立ち上がった。

 いつの間にか、バスが到着していた。

 記者を乗せ、飛羽を残して、バスはゆっくりとバス停を離れて行った。


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