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五章「キラー・ザ・ドラゴン」

   五 キラー・ザ・ドラゴン


『きっと早死にすると思う。でも、普通の人の百倍は生きると思う』

『努力でプラスできるのは一の位。生まれつきの資質が十の位。大概の選手は資質が二、三十ってとこかな。そこに努力で五、六。私は資質が百。そこに努力でプラス十。小学校行ってりゃ、計算できるよね。負けようがないんだわ』

『見てて楽しいものは、やったらもっと楽しいに決まってる。なのに、なんで見てるだけなんだろ。ファンって変態だと思うよ』

『ハードルは、自分で設定するもんだろ。他人の置いたハードルなんか、跳べて当たり前なんだから』

『ドーピングのどこが、いけないんだろうね。薬物だろうがサイボーグ手術だろうが、それで選手が強くなって、試合が面白くなれば、みんな万々歳じゃん。私にゃ必要ないけど』

『口が達者な人たちが羨しいよ。ペチャクチャ喋ってるだけで満足できるんでしょ。お手軽な人生だよね』

『できるだけ、ひとのアドバイスは聞く事にしてる。聞き流しで、だけど。忘れちゃう話は、忘れるべき話なんだよ』

『やらなきゃいけないことを、実際やるか、やらないか。私はやってる。それだけの差だよ』

       ――与午一二三発言集『よごろく』(絶版)より抜粋。


     1


 脱兎のごとく、試合会場の裏口から、タクシーの車内へ。

 ドアが閉まるが早いか、運転手を急かしてスタートを切らせる。

「試合中より会場に出入りするときのほうが緊張するって、どういうことですか?」

 ミラーに写った人影が、夜闇の彼方へ遠ざかるのを見ながら、飛羽は言った。裏口に張り込んでいた記者たちとおぼしい。会場入りのときと比べて、人数が激減しているのは、陽動が成功したのだろう。

「記者会見、すっぽかしてよかったんですか?」

「すっぽかしちゃいないだろ。そもそも会見に出るなんて約束、してないんだから」

 一二三はドリンクヨーグルトの紙パックに、ストローを刺しながら言った。

『記者会見を開くので、与午一二三および睦月飛羽に関して質問のある記者の方は○○室へ……』

 マグバド協会が流したアナウンスを真に受けて、ほとんどの記者がそちらに行ったようだった。今頃、飛羽たちは出席しないと知って怒号の嵐だろうが、たしかに本人が出るだなんて一言もいっていないのだから、一二三の理屈も間違ってはいなかった。

「ギャラが出るわけじゃないんだしさ。マスコミになんか、答えてやる義理はないんだよ」

「カメラとマイクの向こう側には、いつも応援してくださるファンの皆様がいらっしゃるんだから、決して失礼しちゃいけないんですよ?」

「益居の言いそうなこった。あいにく私はファンなんてあてにならないもん、あてにしない主義なのさ。はい、あんたの分」

 と、ポケットから紙パックのジュースをもう一個。

 パッケージに描かれた真っ赤な果実を見て、飛羽は渋面になった。

「なぜに、トマトジュース?」

「血、採られたんだろ? 補給しときなよ」

「あたしゃ、まぬけな吸血鬼ですか」

 試合が終わった後、飛羽は薬物検査のために採血されていた。試合前にも尿の採取、さらに持ち物検査もされている。分析すると過去に摂取した薬物の履歴がわかるとかで、頭髪まで採取されていた。フルコースである。

 おもわず受け取ってしまったトマトジュースを、飛羽は飲まずにバッグにしまった。生のトマトは大好物なのだが、ジュースになるとなぜか苦手だった。あとで、晃にでもあげよう。

「まあ、ともかく。二回戦突破。おめでとさん」

「おかげさまで」

 おざなりな祝福に、飛羽の返事もおざなりだった。

「なんだい。嬉しくないのか?」

「嬉しいですよ。勝ったんだから。けど、疲れちゃって。精も根も尽き果てた、ていうか」

「そういう作戦だからね。おいおい、まだ二試合戦っただけだぞ。道のりの半分も来てないってのに、くたびれるには早すぎねーか?」

「わかってますって。うっさいな」

 飛羽は携帯電話につないだイヤホンを耳につっこんだ。オーディオ機能を立ち上げて、適当な曲を再生する。

 一二三が、肩をすくめる様子が、気配で伝わる。イヤホンを引っこ抜いてまで説教するつもりはないようだ。

 誇張ぬきで、飛羽は疲労困憊していた。肉体的にも、精神的にも。一秒でもはやくベッドにもぐりこんで、泥のように眠りたかった。明日は試合がないことが、なによりもありがたかった。

 秋の四季杯の開催期間は、十月の第二日曜日から、第三日曜日までの八日間である。

 まず最初の日曜・月曜の二日間で、一回戦の十六試合を消化する。

 火曜日――つまり今日は、二回戦の八試合が行われた。

 翌日の水曜日はひとまず休みとなり、試合はない。四季杯ともなると、選手のコンディションにも配慮がされていて、さすがに一日に何度も試合をするような強行日程は組まれない。

 三回戦は、明後日の木曜日である。

 そして金曜日に準決勝。

 土曜日にまた休みとなり、たっぷりと英気を養ったファイナリスト二名が、日曜の決勝戦でついに雌雄を決するのである。

 眠気を紛らわそうと、飛羽は携帯電話をインターネットにつないだ。

『与午一二三』

 と入力、検索してみる。ずらりと並んだ項目の中から、適当に雑誌社のサイトを選ぶ。

 列挙される、過去の栄光。さすがは『絶対女王』だった。四季杯の五連覇を筆頭に、築き上げられた優勝の山。飛羽ごとき中途半端プレーヤーにはまぶしすぎる、光り輝きに輝きまくりのマグバド人生だった。

 しかし、栄光まみれの一二三のマグバドロードは、とつぜん終点を迎える。

 ドーピング疑惑。

 禁止されている薬物を使用して、魔法能力を強化しているのではないか。

 検査の結果、判定はクロ。

 かくて女王は罪人となり、袋叩きにされたうえ、存在したことそのものを抹消された。

「そんなに私に興味があるのかね?」

 飛羽の耳元に口を寄せての一二三の囁きは、狙い澄ましたように、曲と曲の合間を射抜いた。ギクリとして、飛羽は一二三を見た。

 一二三は携帯の画面を見つめて、ニヤニヤしていた。真実ではない記述も多く含まれているだろう自分の記事を目にしても、特に不快に感じている様子はない。とっくに踏ん切りがついている、ということだろうか。

 飛羽は、イヤホンを外した。

「何やってたんですか? マグバドやめてから、いままで」

 女王時代の経緯なら、すでに説明されていた。

 だが、日本のマグバド界を追放されてから、その後どうしていたのか、に関してはまだだった。

 飛羽の前に現れるまで、どこで何をしていたのか。

 一二三には、約十一年間の空白があった。

「やめてないよ。ずっと続けてた。イギリスでね」

「大人なのに?」

「魔法が使えなくたって、スポーツはできるだろ。名前がちょっと変わるだけさ。マグバドが、ただのバドになる。あっちにはプロのリーグがあってね」

「ただのバドミントンのですか?」

「大人のな」

 大人のプロスポーツ。

 そんなものも世界のどこかにはあるらしいと、飛羽も一般常識としてなら知っていたが、実際に競技の模様を見たことはなかった。子供のスポーツこそが本物のスポーツであり、大人のそれは運動不足解消のための余技にすぎない、と考えるのが日本では普通である。

 プロというからには、観客を集めて入場料を取るのだろうが、派手な魔法が飛び交うでもない、ただ羽根を打ち合うだけの試合を、誰が金を払ってまで見たいと思うのか。飛羽はピンとこなかった。

「バドだけで生計を立ててる選手はまずいないけどね。パン屋とか、教師とか、主婦とか、他に仕事を持ってる場合がほとんどさ。客も大して入らない。地元の爺ちゃん婆ちゃんが、茶飲み話のついでに眺めてるような感じでね」

 そう語る一二三の口元は、ほころんでいた。

「なんだか、楽しそうですね」

「ああ、楽しいよ」

「じゃ、どうして日本に戻ってきたんですか?」

 一二三は、それまでの和やかな笑みをひっこませて、かと思うと、すぐさま肉食恐竜が牙をむくみたいな、大振りな笑いを浮かべた。

「こっちのほうが、楽しいからに決まってんだろ」

 ――うわ、出たよ。

 一二三とのつきあいも、はや二週間。彼女がこの笑みを浮かべると、直後にろくでもないことが自分に降りかかってくることを、飛羽は学習していた。いまどき小学生でも敬遠するのじゃないかというプリント柄のパンツを押し付けられたときも、直前に一二三はこの凶悪な笑顔になったのだ。

 じたばたしたところで、もはや逃げ道はなかった。観念して、飛羽は自分から訊いた。

「今度は、何をやらせるつもりですか?」

「何を?」

「何か企んでるんでしょ。バレバレですよ」

「顔に出てた? へえ。気をつけなきゃな。しかし、企んでるとは人聞きが悪いな。おまえを勝利に導く方策をひねくりだそうと、必死こいて知恵を絞ってるってのに」

「はいはい。ありがたき幸せです」

「心がこもってねーなー。ま、いいや。明後日の三回戦から、あれ、解禁な」

「あれ、って……もしかして、あれ、ですか?」

「あれ、つったら、あれ、しかないだろ」

「はは。あれ、ですか……」

 あれ。

 とは、他でもない。

 一二三に指示されて新しく身につけた魔球――飛羽の新〔竜殺打〕のことである。

 現在の飛羽には、〔瀑飛蛟〕は消耗が激しすぎる。

『もう使うな』

 と一二三は厳命していた。

 マグバド選手にとっての〔竜殺打〕は、武士にとっての刀である。飛羽はいわば、落ちぶれて竹光を腰に差してごまかしている浪人、みたいなものだった。

 減衰した魔力をほぼ防御のみに傾注することで、飛羽はどうにか一回戦、二回戦を競り勝ってきたわけだが、同じ戦法が、いつまでも通用するはずがない。疲労も蓄積されてくるし、さらに勝ち進むには、抜本的な戦法の修正は不可避だった。

 新〔竜殺打〕は、強力な援軍となるだろう。

 だが、正直、飛羽は気がすすまなかった。

 というのも――。


 ホテルに帰り着くと、ロビーで花が泣いていた。

「負けちゃいましたあ……!」

 足下には、まとめた荷物が置かれていた。

 負けた者は去るのがルールだ。せめてひとこと、飛羽に挨拶してからにしようと、花は益居とそして晃とともに、ロビーで待っていたのだった。

 ホテルの側で配慮してくれたのか、本人不在の記者会見に釣られてしまったのか、ロビーにマスコミ記者の影は見当たらなかった。

 飛羽は言った。

「そ。さよなら」

「それだけですか!? もっと励ましとか、慰めとか、あるんじゃないんですか?」

「なんで? 二回戦敗退ってことは、全国でベスト16ってことだよ。さよなら、だけじゃ不満だってんなら、そうね、おめでとう」

 飛羽はトマトジュースを取り出して、晃に渡した。

 晃はさっそくストローを刺して飲み始めた。

「うう……。そうですけど、けど、やっぱり悔しいですよーっ」

 花はメガネをくもらせて、大粒の涙をポロポロこぼした。

 益居がその肩を抱いた。

「よくやったわ。あなたは立派な試合をした。誇りにしていいわよ」

 すると黙って見ていた一二三が、プッとふきだした。益居にギロリと睨まれ、背筋を伸ばす。

「失敬。美しい、じつに美しい師弟愛だね。感動したよ」

 純度100パーセントの、心にもないセリフ、だった。

「そして、ありがとう。花ちゃん、君はじつに先輩想いだ」

「あなたね……」

 益居の全身に怒気がみなぎった。

「怒るなよ。本当に感謝してるんだぜ。そっちは負けても悔いのない試合をすればいいんだろうけど、こちとら、勝たなきゃ次がない試合をしてるんでね」

 一二三はヘラヘラした。

 益居は、こいつには何を言っても無駄だ、とばかりにかぶりを振った。花の背中にそっと手を添える。

 新幹線の発車時刻が迫っていた。

 泣きじゃくる花を、益居は駅まで送っていった。


     2


 水曜日。

 一二三は飛羽のために、ホテルのプールを一時間、貸切にした。

 ただ安静にばかりしていると、血行が悪くなり、かえって肉体の自己治癒力が阻害される、という。身体への負担が少ない水中は、筋肉を鈍らせず、かつ疲労回復をはかるのにはもってこいの運動場だった。

 ホテル側に内緒でラケットとシャトルを持ち込み、飛羽は一時間みっちりと、新しい〔竜殺打〕の総仕上げに取り組んだ。

「そろそろ時間だな。しまいにするか」

 一二三が、手を打ち鳴らした。

「ラストワンだ。とちるなよ!」

 飛羽はプールの水を手のひらですくって、シャトルにまとわせた。プールの水を利用することで、魔力の消費をおさえられる。

 シャトルを頭上に放り、スマッシュ。

 飛沫を散らして、魔球は飛んだ。

 水中にある左手で、飛羽はガッツ・ポーズした。

「どうだ!」

「オーケイ。パーぺき」

 一二三はパーカーを脱いで水着だけになると、ザブン、プールに入った。水中を歩いて、飛羽のもとへ。

「パーぺ……?」

 小首をかしげた飛羽の右手首をとって、一二三は自分の胸に引き寄せた。二、三度、指圧する。

 飛羽は顔をしかめた。

「痛むか? いくらか熱も持ってるな。いつからだ?」

「昨日の、第3セットの途中から……」

「だから、左もバランス良く使えっつったろ」

「んなこと言ったって」

 試合中は必死なのだ。バランスなんて、気にする余裕はない。

「フォアで打つとき、右腕を棒みたいに振るあの癖、また出てたぞ。左でも引きつけるようにして、力を散らせって言っただろ」

「フォームの修正なんて、一朝一夕にはできませんよ」

「身体に染みついちまってるからな。まあ、明日からは必殺技も加わって、これまでよりは肉体的な負担は減るだろうし、どうにかなるか」

「いいかげんな。他人事だと思って」

「他人事じゃねーよ。おまえが負けると、益居を奴隷に出来なくなっちまうんだぜ」

「まだ言ってる。兎ちゃんは冗談通じないんですから」

「そうなんだよ、あいつ。意外にねちっこいしな。昨日も言いがかりふっかけてきてさ。にゃろー。毎日バニーガールの格好させちゃる」

 どこまでが本気で、どこからがジョークなのか。

 飛羽は依然として、与午一二三という人物をつかみかねていた。

 もしかすると、何から何まで――飛羽を優勝させるという宣言も、火事場の馬鹿力理論も、ぜんぶがぜんぶ悪ふざけなのではあるまいか。

 ときどき不安になるのである。

 プールから上がった後、二人はホテル内のジムに移動した。ランニングマシンを、上り坂の設定にして10キロ。走破したところで、午前中の練習は終了となった。午後はひたすら対戦相手の研究とイメージトレーニングで、あっという間に日が暮れた。休日はいつも儚い。夕食後、熱めの風呂に入り、今日は早めに眠ることになった。

 すぐには眠れないので、飛羽は携帯電話でスポーツニュースなどをチェックした。

 ネットも大手マスコミも、与午一二三の話題で、もちきりだった。

 掘り返される過去の悪行、暴言の数々。

『がんばれば勝てるなんて考え、甘えてるよ。人間には向き不向きがあるんだから。向いてない奴が、いくら努力したって時間の無駄さ。今日、負けた連中は、さっさと引退したほうが身のためだね』

 ある地方の大会で初優勝したときのコメントである。当時、一二三は十三歳。ふてぶてしい性格はすでに完成されていたようだ。

 一二三の武勇伝は数知れなかった。

 試合後のインタビュー中、ファンから差し入れされたスポーツドリンクを、

『のどがネバネバする』

 と投げ捨てたら、それが自身がCMキャラクターをつとめている商品だった、なんていう可愛いものもあれば、他選手のファンと乱闘し、十四人を病院送りにしたうえ一二三自身は無傷だった、とかいう壮絶なものまで、多種多彩である。

 特にマスコミとは因縁が根深いようで、会見をすっぽかしたり、出ても無言で通したり、などは序の口。何か気に入らないことがあれば、マイクを折る、カメラを殴る、記者を蹴る。一二三が破壊したマイクは通算で二十五本、写真カメラは十一台、ビデオカメラは七台にのぼる、とインターネットの某百科事典には記されていた。裁判沙汰になったことも二回、あるとか。

 ある大会でのことだ。

 いつものように決勝にすすんだ一二三は――一二三の場合、本当に『いつものように』なのである――、彼女にまつわる逸話の中でも最も有名な『事件』を起こした。

 圧倒的強さで第1セットをとり、第2セットも有利にすすめた一二三は、勝利まであと1点に迫ったところで、その『事件』を起こし、失格となった。

 その試合は映像に残されており、ここ数日テレビでも何度か放送された他、インターネットにも動画があがっていた。

 スコアが10対6という場面で、一二三が決定的なスマッシュを放つ。

 対戦相手は横っ飛びしてくらいつき、ラケットに当てるまではいったのだが、打球は大きすぎる弧を描く。

 明らかにアウト。

 対戦相手はがっくりとなり、這いつくばったまま、立ち上がろうともしない。

 そこで、一二三が思いも寄らない行動に出る。

 見送れば勝利できる打球に、あえてとびついたのだ。

 シャトルは直線的に飛び、対戦相手の横っ面に命中した。

 シャトルには魔法がこめられていた。〔水〕と〔土〕。対戦相手は、泥まみれになって転がった。

 唖然となる会場。

 やがて観客は総立ちとなって、その一部がコートに乱入。

 乱入したのは対戦相手のファンたちだった。ファンたちは、倒れた対戦相手を気遣う一方で、一二三に集団で殴りかかった。

 荒れ狂うファンたちを、ことごとく返り討ちにする一二三の雄姿は、不謹慎ながら、下手な格闘技の試合などより見応えがあった。幸いというべきか、一二三にもファンたちにも大きな怪我はなかったらしい。顔面に打球をぶつけられた対戦相手も、一二三が手加減をしたようで、大事はなかった。

 ともあれ、この暴挙によって、一二三は謹慎処分となった。一ヶ月間の公式戦出場停止である。その一ヶ月の間に四季杯があったため、彼女の連覇記録は五でストップする羽目になった。

 ちなみに、泥まみれにされた対戦相手とは、益居兎である。益居が一二三に拒絶反応を示したのは、この試合の記憶が尾を引いていたのかもしれない。

『清く、正しく、美しく』

 を地で行っていた益居は、一二三とは対極にいる選手だとして、当時よく引き合いに出されたらしい。

 度重なる暴言、暴挙。

 そのたびに協会から下される懲戒処分。

 しかし一向に、一二三は悔い改めなかった。協会も、決定的な最後通牒――選手資格剥奪をつきつけることはなかった。

 与午一二三は、日本マグバド界の『宝』だった。

 国内でいかに強かろうとも、国際試合では、からきし弱い。それが、それまでの日本のマグバド選手だった。

 与午一二三は違った。

 世界を相手どったときでも、彼女は変わらず強かった。

 日本マグバド界の黄金期とも絶頂期とも呼ばれかけ、他ならぬ一二三自身の薬物スキャンダルによって、永遠に忘却されることとなった、あの時代。与午一二三を抜きにして、日本のマグバドの発展はなかった。マグバド協会が一二三に甘い処分しか下せなかったのは、協会自身も、一二三の強さに依存していたからだ。世界を相手に一歩もひかない一二三の活躍があってこそ、マグバドは押しも押されぬ人気スポーツになれたのである。『クイーン・オブ・マジカルスポーツ』の称号が日本国内で定着したのも、この頃だ。

 すべてが転換したのは、一二三が十八歳になろうとしていた頃。

 国際的に、スポーツ界の薬物汚染が大問題になった時期で、日本マグバド協会でも綿密な薬物検査が実施されるようになった。

 これにより、一二三の違反薬物の使用が発覚したわけだが、追究はそこで終わらず、過去の一二三にまで波及することになる。

 なぜ、与午一二三は、あれほどまでに強かったのか。

 与午はずっと昔から、薬物を使用してきたのではないか。

 以前までマグバド協会が実施してきたドーピング検査は、はっきりいって、

『ザル』

 だった。ときたま尿検査をするくらいで、監視の目を潜り抜けるのは、たやすかったのだ。

 一二三は以前から薬物を使っていたのか、いないのか。

 どちらとも断定はできない。証拠がないのだから。だが世間――とりわけ、これまで散々、一二三の被害にあってきた報道機関は、反撃のチャンス来たれり、とばかりに大バッシングを開始した。

 数多の問題を起こしながらも、一二三がこれまで無事でいられたのは、圧倒的なまでの強さがあったからである。

 しかし、その強さが、偽りのものだったとしたら。

 強さを否定された一二三は、脆かった。

 ただちに、といっても過言ではないくらい速やかに、協会は彼女の選手資格を剥奪した。あまつさえ登録時にまで遡って、全記録を抹消した。

 直後、与午一二三の消息は途絶えた。

 本人の弁によれば、イギリスに渡って、バドミントンのプロ選手になっていたらしいのだが、大手メディアでそのことに触れたところは、飛羽が検索した限りでは、まだないようだった。

 インターネット上のニュース番組では、

『それからの与午の十一年間は、謎に包まれている……』

 などと興味をあおったうえで画面が切り替わり、桶狭間女子学園の正門が映し出された。

 かつてマグバド界に君臨した『絶対女王』与午一二三。

 そして現在、マグバドの女王といえば、桶女の大海晃である。

 二人の試合映像が、二分割した画面に並べて表示され、音声で、

『一二三は桶女マグバド部の副監督に就任している』

 と告げる。悪名高い彼女をなぜ副監督に就けたのか、桶女に質問をぶつけても、

『…………(回答なし)』

 と付け足して。

 桶女はスポーツ強豪校だが、マグバド部だけに限れば、昔ながらの名門というわけではない。全国的な知名度を獲得したのは、大海晃、佐野卵、そして飛羽のいわゆる『三羽烏』が登場してからだ。

 指導者としてはまだ新人だった益居監督と、才能に恵まれた部員たちが切磋琢磨した結果で、そこにはなんの不正もないのだが、ニュース番組では、桶女マグバド部が急成長した時期と、与午一二三の空白期間とを重ね合わせ、さも桶女の躍進の裏には一二三の暗躍があったかのように印象づけられていた。

 与午一二三といえば、違反薬物である。

 ファンを騙し、世を騙した、稀代の詐欺師アスリートである。

 たとえ一二三が関わっていたとしても、ただちに桶女マグバド部が不正を働いている証拠にはならないはずだが、おどろおどろしい音楽や映像の演出もあいまって、どうしても、きな臭い連想が浮かんでくる。内実を知らない者が見れば、桶女マグバド部とは、なんといかがわしい部なのだろうと、眉をひそめること請け合いだった。

 ――嫌な感じ。

 不快になり、飛羽はサイトを移動した。

 テレビや新聞での報道も、似たようなものらしい。個人の書きこみでも、批判的な憶測ばかりが目立っていた。

『桶女の急成長はたしかに不自然』

『大海晃は薬物常習これ確定』

『薬じゃなくても他の部員を使えば色々できる』

 などなど。挙句の果てには、

『大海は一二三の隠し子』

『クローンだ』

 とかなんとか。

 ――皆さん、想像力、たくましすぎ。

 与午一二三が在籍している。

 ただそれだけの事実で、桶女マグバド部全体が悪者になってしまうらしい。

 憤ろしいやら、バカバカしいやらで、飛羽はやっと眠くなってきた。

 携帯を置いて、スタンドを消すと、カーテンの隙間に、星が見えた。

 ――でも、たしかに一二三ちゃん、なんで桶女に来たんだろ……?

 そんなことを考えているうちに、飛羽はいつのまにか眠ってしまった。


     3


『〔竜殺打〕』

『必殺技』の別名でも呼ばれる、マグバドプレーヤーの切り札。

 マジカルスポーツにおいては――とりわけマグバドにおいては、魔法能力の優劣が、決定的な実力の差となりうる。

 結局のところ、マジカルスポーツとは、魔法を競い合うものだからだ。

 もちろん、あくまで決定的な差と『なりうる』のであって、必ずしも魔法の差だけで勝敗が決まるわけではない。

 だが、それでもやはり、魔法の力に勝る選手が有利であることは、否定の余地がない。

 だから選手たちは、身体能力以上に、魔法を磨く。

 魔力の質と量、両面の向上につとめ、より頑強で、かつ精緻な魔法を行使できるよう、研鑽を怠らない。

 そうした地道な努力の集大成が、〔竜殺打〕なのである。

 威力はまさに一撃必殺。

 そのぶん消耗が激しく、乱発はできない。

 試合の、どの局面で〔竜殺打〕を使うのか。

『ここぞ』

 というタイミングの見極めが、勝負の分かれ目となるのである。

 さて。

 三回戦に臨む飛羽に、一二三は次のように厳命した。

 ――『今日は、全弾〔竜殺打〕で行け』!

 サーブも返球も、あらゆる打球に新必殺技を込めろ、というのだ。

 あまりに、といえばあまりな、無茶な指示である。

 さすがに飛羽は躊躇した。

 ――いや、できるけどさ。

 ちょいと、あからさますぎやしませんか、と心配になったのだ。

 試合開始から、約5分。

 案の定、客席がざわつきはじめていた。

 飛羽はあえて平静をよそおった。いまさら作戦が変更できるはずもないし、そもそも一二三に逆らうなどできない。

 心情は、まな板の上の鯉だった。

 なるように、

 ――なれ!

 やけっぱちの声を心に吐きながら、サーブにこめる、新〔竜殺打〕。

〔水〕の膜に包まれたシャトルが、ヒュン、と飛んだ。

 使った〔水〕は、量にしてコップ五分の一杯もなかった。〔瀑飛蛟〕に費やされる水量の千分の一にも満たないだろう。

 しかし、軌道はなかなか、鋭い。

 ほとんど減速することなく、ネット上にさしかかった。

 対戦相手の〔竜羅〕に激突。

 わずかな魔力しか与えられていない〔竜殺打〕はひとたまりもなく、

 パッ。

 と散華した。

 だがしかし、ここからが、この魔球の本領発揮だった。

 シャトルの軌道が、唐突に上向いた。

 平たい石が水面を跳ねるように、空中でジャンプしたのだ。

 前のめりになっていた対戦相手が、コートを蹴った。前方に傾けていた体重を強引に打ち消し、後方へ跳びながら、真上にラケットをのばす。

 が、届かなかった。ラケットは空振りし、シャトルは彼女の後方に落ちた。

 飛羽にポイント、これで6対4。

 おびただしい発汗にまみれながら、対戦相手は歯噛みした。

 飛羽の新〔竜殺打〕は、とりたてて珍しい魔球ではなかった。むしろありふれた魔球の、一つの亜種に過ぎない。

『〔魔弾バレット〕』

 と、その魔球は呼ばれている。

 構造は、いたってシンプルである。朝顔の花が蕾を閉ざすように、シャトルの羽根をなんらかの魔法で閉じて、空気抵抗を減らすスピードショットだ。流線型となったシャトルは、ほとんど速度を減じることなく飛行する。Aクラス選手なら誰でも習得している、基本技と言っていい。

〔魔弾〕は、本来チェンジ・オブ・ペース。ラリーが長く続いたときなど、試合の流れに変化がほしいときに、相手のリズムを乱すために使われる魔球である。駆け引きのための魔球なのだ。

 少ない魔力消費でくりだせるので、いまの飛羽にはもってこいなのだが、省エネなぶん、威力は期待できない。敵の〔竜羅〕一枚で、儚くも砕け散るのが〔魔弾〕の運命だ。

 だが、それでかまわなかった。

 飛羽の〔魔弾〕は、砕け散ってこそ、真価を発揮するのだ。

 最小限にきりつめた魔法の〔水〕で、シャトルの羽根をくるみ、畳む。

 その際、あえて畳み方に偏りをもたせる。羽根は規則正しく植えられているので、ただ包みこむように圧力をかけると、傘みたいにきれいに畳まってしまう。飛羽はそこをあえて不細工に畳み、一部分だけ、羽根が分厚く重複するようにしていた。

 敵の〔竜羅〕が飛羽の〔水〕を剥ぎ取る。

 すると瞬時に羽根は開く。

 このとき、不均等に畳まれている羽根は、早く開く部分と、遅く開く部分とに分かれる。

 この、わずかな時間差が、シャトルに不規則な変化を与える。

 変化はささやかなものだが、敵の目測を狂わせ、揺さぶりをかけるには十分だった。

 特に、今日の対戦相手には、効果抜群だった。

 飛羽は、サーブのポジションに立った対戦相手の苦しげな表情を、冷たく観察した。

 一昨日、敗戦して去り行く花に、一二三は言った。

『ありがとう』

 そのとき、飛羽にはその意味がわからなかった。

 もし花が勝っていれば、三回戦は飛羽との対戦になっていたから、そのことだろうと見当をつけた。親しい花が相手では飛羽もやりにくかろうと、一二三は案じていたのではないか。

 だから――酷い言い草だが――負けてくれてありがとう、と感謝した。

 そんなところだろう、と。

 だが、この推測は、間違いだった。

 対戦相手――川森岬かわもり・みさきの立ち姿。重心のバランスが、わずかに傾いているのを、飛羽は見破っていた。うまく誤魔化しているつもりかもしれないが、左足にばかり体重をかけて、右足に負担をかけまいとしているのが読み取れる。

 厚手のソックスで隠しているが、無駄なあがきだった。川森の右足首は、テーピングでガチガチに固められていた。

 捻挫である。

 それも、かなり重度の。

 一昨日の花との試合で、ひねったのだ。

 一日の休養で快復する怪我ではなかった。痛みもひどいに違いない。

 左足に重心を置いたまま、川森はサーブを放った。飛羽の返球に備え、コートの中心近くに移動しようとする動きが、ぎこちない。右足をかばいながらではフットワークがおぼつかず、飛羽の〔魔弾〕に翻弄される一方だった。今回も、一度は打ち返したが、二度目の〔魔弾〕が下方向へ、野球のフォークボールのごとく変化したのには、追いつけなかった。

 7対4。

 客席の一部から、ブーイングが起こった。

「何度目だよ!」

「〔バッド〕はやめろ!」

〔魔弾〕には、あだ名がある。

 羽根をすぼめたシャトルが花の蕾に似ているので、

budバッド

 しかし、実際にそう叫ぶとき、観客がこめる意味は、違う。蕾の意ではなく、あきらかに、

badよろしくない

 のほうだ。

 高度な魔法の構築には、どうしても、あるていどの時間を要する。

 すばやく敵コートにシャトルを返してしまう〔魔弾〕は、敵から魔法を練りこむ時間を奪う。これでは、手間のかかる魔法は封じられ、いきおい試合は地味になってしまう。

 マグバドを観戦する客たちが期待しているのは、度肝を抜く大魔法の炸裂である。小ずるい駆け引きではない。

 マグバドに限らないが、マジカルスポーツの選手は、みな未成年、つまり子供である。子供が駆け引きだなんて、

『しゃらくさい』

 という思いが、観客にはある。

 膠着した試合に変化をつけるため、たまに使うくらいなら許容するが、〔魔弾〕だけに頼って攻撃を組み立てるなど、観客からすれば、

『言語道断』!

 だった。

 ――『派手な花火が見たけりゃ、夏の河原に行きゃいいんだ』

 などと、一二三は笑い飛ばしていたが。

 じっさいにブーイングを浴びるのは、飛羽である。

 浴びてみて、思い知る。

 ――こいつぁ、けっこう、こたえるぜ。

 だが、〔魔弾〕の連発をやめるつもりは、毛頭なかった。

 ――あたしが勝つには、こうするしかないんだ。

 ブーイングは、音量を増す一方だった。

 川森が負傷を抱えていることに、観客も気がつき始めていた。

 となると、多用される飛羽の〔魔弾〕の不規則変化が、川森の足首に多大な負担を強いていることも、観客の知るところとなる。

 全弾〔魔弾〕の作戦は、川森の捻挫を悪化させ、棄権に追いこむのが目的だと見抜かれるのも、時間の問題だった。

「そうまでして勝ちたいか!」

 観客の誰かが叫んで、飛羽はカッと熱くなった。

 ――勝ちたくて、何が悪い!

 努力もなしにできることだと思うのか。

 10メートル先に置かれた空き缶に、もしシャトルを命中させられる者が客席にいるなら、やってみせてみろ。

 ――勝ちたいさ。ああ勝ちたいさ。あたしはもう勝つしかないんだ。

 衰退期に入った飛羽の魔力は、小康状態を保っていた。

 しかし、どんなに緩やかであろうと、下降線をたどり続けているのに違いはない。

 四季杯がはじまる前、飛羽にはまだどこかで余裕があった。

 四季杯が終わっても、まだ試合に出られるくらいの魔力は維持されるのではないか。たとえ益居に見捨てられ、一二三からも見放されようと、魔力さえ無事なら、引退は先延ばしにできるのではないか。

 浅ましい期待だった。

 いま、飛羽は、哀しくなるほど切実に、覚悟していた。

 この四季杯が、自分の最後の大会になる。

 負ければ、即、引退だ。

 ――三年もAクラスにいつづけて、小さな大会でさえ一回も優勝してないなんて、それこそ笑いものじゃないか。

 スマッシュを叩きこむ――〔魔弾〕!

 川森は、〔竜羅〕を張らなかった。

 不規則変化に振り回されるよりも、〔魔弾〕の高速度に対応するほうを選んだのだ。

 流線型のシャトルは、通常のスマッシュの数倍のスピードで、川森の自陣を射抜く。

 川森は、追いついた。

 刹那、彼女の〔竜界路〕が、力強い光をほとばしらせた。

 渾身の魔法。赤茶色の岩が、シャトルを覆ってみるまに成長する。

重隕弾グラビトン〕!

 川森の〔竜殺打〕だ。

 ――わるいけど。

 審判に『消極的』と警告されないよう、一枚だけ〔竜羅〕を織り上げた飛羽は、ほとんど威力を削がれずにやってきた〔重隕弾〕を、あからさまに空振りした。

 9対5。

 歓声と罵声が混ざり合い、会場は異様な騒々しさになった。

〔重隕弾〕で精根尽き果てたのか、その後の川森は、輪をかけて動きが悪くなった。

 一方的に飛羽が攻め、11対5。

 第1セット、終了。


 休憩用の椅子に座るが早いか、飛羽はタオルを頭からかぶった。

 ――あの〔重隕弾〕は、打ち返したほうがよかったかな。

 ドリンクをちびちびやりながら、反省会を開始する。

 あの〔重隕弾〕は、川森の悪あがき以外のなにものでもなかった。

 限られた回数しか打てない〔竜殺打〕を、あの局面で使う理由がなかった。川森の立場で考えれば、第1セットはあえて捨てて、スタミナの温存をはかったほうが理にかなっていたはず。

 あれは、川森の意地の表明だったのだ。

『まだ、諦めていないからな!』

 と飛羽に思い知らせようとした。

 だからこそ、打ち返すべきだったのでは、と飛羽はちょっと悔やんでいた。意地の〔竜殺打〕を真っ向から打ち砕いてみせれば、川森の闘争心にとどめを刺せたかもしれない。かなりの無理をすることになるが、全力を傾注すれば、〔重隕弾〕の打破も不可能ではなかったのだ。

 シュー。

 スプレー音がした。川森が、患部に冷却スプレーを吹きかけているのだ。氷嚢も使っているかもしれない。

 飛羽は、ひそかにため息をついた。

 医務室に退場するのでなく、その場で応急処置をしているということは、まだ諦めていないということだ。ひょっとしたら棄権してくれるかも、と期待していたのだが。

 やはり〔重隕弾〕は砕くべきだった。川森の心を折るべきだった。

 川森を、哀れだとは思わない。

 彼女だって、必ず負けると覚悟して、この試合に臨んだわけではないだろう。

 勝てるかも、と思ったから出てきたのだ。飛羽になら、たとえ足に故障を抱えていても勝てるかもしれない、と踏んだのだ。飛羽の魔力が衰退していることは、試合を見れば、選手ならすぐ気がつくだろう。相手の弱味につけこもうとしているのは、お互い様だったのだ。

 勝つためなら、なんでもする。

 選手はみんな、そうなのではないだろうか。

 勝利を渇望するからこそ、〔竜殺打〕を磨く。つらい練習にも耐える。力を鍛え、技の精度を上げる。なにもかも、すべては勝つために。

 勝つ。

 勝って,勝って、勝ちまくる。

 今日勝てば、四季杯ベスト4。

 明日は準決勝。

 それも勝てば、ついに決勝だ。

 決勝に勝てば、もちろん優勝。

『四季杯優勝』!

 ずっと夢に見てきた。

 飛羽がマグバドに出会ってから十余年。もしかしたら届くかもしれないと手を伸ばしながら、届かないまますぎた年月。

 四季杯の表彰台の頂点は、文字通り、日本の全マグバド選手の頂点だ。

 そこに立つのだ。

 睦月飛羽が。

 心が震える想像だった。魂にすら鳥肌が立つようだ。

 あと三回、勝つだけでいい。

 四季杯のチャンピオンになれる。

 そして、そして……。

 ――……そして?

 とつぜん肩を叩かれて、飛羽は顔を上げた。

 タオルがずり落ち、中年の主審の顔が、飛羽の視界いっぱい、どアップになる。

 うおっ、とのけぞる飛羽に、主審はまじめくさった態度で命じた。

「早く立って、対戦相手と握手しなさい」

 見やれば、ネットのそばに川森が立っていた。親の仇でも見るみたいな三白眼を、こちらに向けている。

 事態がのみこめない飛羽に、主審は言った。

「君の勝ちだ。川森君のコーチが、棄権を申し入れたよ」


     4


 ドアから出る前に、念入りに辺りを見回してみたが無駄だった。

『関係者以外立入禁止』

 とボードに書かれた聖域から、一歩外へ出たとたん、飛羽と一二三は、巧妙に死角に身を潜めていた記者たちに包囲されてしまった。

「今日の試合ですが、対戦相手の川森選手は右足首を捻挫していたそうですが、事前に知っていらしたんですか?」

「え、と……」

「執拗に〔魔弾〕を使ったのは、彼女の負傷を悪化させようとする意図があったんじゃないんですか?」

 矢継ぎ早な質問に、飛羽はうろたえるしかなかった。

 飛羽が身を引くと記者たちはますます身を乗り出し、マイクやレコーダーを近づけてくる。

「いたいけな乙女に、あんたら、なに凄んでんの?」

 飛羽をかばって、一二三が肩をわりこませた。

「質問なら、私が受け付けるよ。スリーサイズでも預金の残高でも、訊きたきゃ訊きな。答えるかは、私の自由だけど」

「さきほどの質問の答えは?」

「敵が捻挫してたのを知ってたかって? もちろん。我が陣営の情報収集にぬかりはないさ」

「では、〔魔弾〕を多用したわけは?」

「あんたが言ったとおりだよ。痛む足であの〔魔弾〕に対応するのは大変だろうからね」

「リタイアするように追いつめたっていうんですか!?」

「怪我につけこまれても大丈夫なように、対策を練ってこかなかった、あちらさんの落ち度だろ。もっとも、そんな対策がありうるなら、だけど」

「フェアプレー精神にもとるとは思わないんですか?」

「ルール違反はしちゃいないぜ。そもそもフェアってどういうことさ? 故障を抱えて試合に出てくる以上、不利は覚悟の上なんじゃないの? 怪我してるから手加減してくれ、だなんて、そっちこそフェアじゃないだろ」

 それまで質問していた記者とは別の男が、デジタルレコーダーをつきだした。

「睦月選手といえば〔瀑飛蛟〕ですが、まだこの大会で一度も使っていませんね。水の竜が華麗に敵選手を破る瞬間を、ファンは心待ちにしていると思いますが?」

「ファンときたか。ファンの皆様には申し訳ないんだけど、睦月はもう〔瀑飛蛟〕は捨てたよ。賢明なファンの皆様ならもうお察しだろうけど、睦月は魔力の衰退期に入っちまったんだ。これまでみたいに、パワーにものをいわせた戦法はできない」

 記者たちがどよめく。

 引退会見でもないのに、魔力の衰退を選手側が明言するなど、前代未聞だった。

「〔竜殺打〕を打てない選手が、四季杯の準決勝に進むのに、ふさわしいといえるでしょうか?」

「なにそれ? 必殺技なしにコートに立っちゃいけないなんてルール、私ゃ聞いたことないけど?」

 一二三は大袈裟に眉をつりあげた。

 記者たちに取り囲まれても、一二三の長身は、頭一つ抜け出していた。攻めたてる記者たちを高所から見下ろし、まったく動じていない。

 記者たちがだんだん殺気だってくるのがわかって、飛羽は無意識に一二三の背中に身を隠していた。

「打てたとしても、打つわけにいかないよな。派手な必殺技をバンバン打ち上げたんじゃ、魔力が衰えてるって話と矛盾するし、せっかく協会が否定してくれたドーピング疑惑まで蒸し返しかねない」

 それは、異質な声だった。

 記者たちの声が総じてうわずりがちなのに対して、その声だけが低音の落ち着きを具えていた。

 他の記者たちをおしのけて、声の主は前に出た。

「久しぶりだな、女王さま」

 五十歳くらいか。むっつりと『へ』の字にむすんだ口のまわりに無精ひげ。手にはメモ帳と2Bの鉛筆という、絶滅危惧スタイルの記者だった。

「相変わらずの記者あしらいじゃないか。ご健勝で、安心したよ」

「あんたか。まだ記者やってたのか。よくクビにならなかったな」

「なったよ。いまじゃ、しがないフリーランスだ。――二、三、訊いてもいいかい?」

 一二三と顔見知りらしい記者は、返事をする暇も与えず、言葉をつなげた。

「日本を去ってからしばらく経つが、いままでどこにいたんだい?」

「いろいろ」

「イギリスって聞いたんだけど?」

「知ってんなら訊くなよ」

「バドのプロをやってたそうだが?」

「ほんの、手慰みていどにね」

「日本に帰ってコーチになったのは、あっちで学んだ戦法をマグバドに導入しようって思惑かな?」

「ま、そうなるかな。私流にアレンジは加えてるけど」

「〔竜殺打〕の封印も、その一つかね?」

「いまの睦月には、〔瀑飛蛟〕はメリットよりデメリットのほうが大きい。だから使わない。それだけさ。〔竜殺打〕自体は封印してないぜ。封印どころか、今日は嫌ってくらい見せてやったじゃないか」

「? ……ああ。あの〔魔弾〕かい?」

「ただの〔魔弾〕に見えたかい?」

「たしかに、妙な変化をしていたみたいだが。あれが〔竜殺打〕?」

 ちょっと信じられない、という面持ちで、記者が聞き返した。

 一二三はきっぱりと言った。

「あれこそが睦月飛羽の新〔竜殺打〕。その名も〔スプラッシュ〕だ」

 ――初耳。

 その場にいた誰よりも、飛羽がびっくりした。いつの間にネーミングされていたのだろう。一二三からは一言の相談もなかった。

 ――いま、思いついたな?

 きっとそうに違いない。

 あたしの魔球なのに、と飛羽は、丈高い背中を睨んだ。

「どんな魔球かについては、各自、スロー再生して確認するように」

 得意げに、一二三は記者たちへ言い渡した。

「ちょっと、地味すぎるんじゃないかね?」

 絶滅危惧な記者が、眉をひそめた。

「見た目だけで判断してもらいたくないね。効果のほどは、今日の試合で実証済みだろ。〔スプラッシュ〕で、うちの睦月はこの大会を制してみせる。楽しみにしていてもらおうか」

「優勝予告とは。あいかわらず自信家だな」

「勝つために試合に出てるんでね。勝ち続けてると、向こうから勝手に優勝がやってくるんだ。不思議なことにね」

「勝つためか。十ン年も異国にいて、たどり着いた結論がそれかね。マグバドは、ただ勝てればそれでいいのだと?」

「スポーツってのは全部そうだろ。勝てば天国、負ければ地獄。わかりやすくて最高じゃないか。だから燃えられる」

「勝って、それで何を得られるんだね?」

 ――あ。

 一二三の陰で縮こまっていた飛羽は、ハッとして記者の顔を凝視した。

 ブルドッグみたいにたるんだ頬。禿げた頭は、脂でテカテカしている。お世辞にも風采がいいとは言えない初老の記者は、小さな目をショボショボさせて、メモ帳に鉛筆を走らせていた。

 その質問は皮肉だったのかもしれない。

 現役時代、勝って勝って勝ちまくり、女王とまで呼ばれた一二三。

 勝ち続けようとしたその果てに、彼女が行き着いた場所はどこだったか。

 一二三は、とぼけたような顔で答えた。

「金と、名誉かな」

「それだけかい? マグバドをするのは、金と名誉が欲しいからだと?」

「他に何があるっての? あんた方だってその二つが欲しくて、汗水たらして働いてるんだろ?」

「なるほど」

 記者はメモ帳を見つめながら、鉛筆の頭で額を掻いた。

 彼の質問が終わったと察して、それまで不思議と黙っていた他の記者たちが、我先に口火を切ろうとした。

 と、それよりも先んじて、初老の記者は思い出したように言った。

「ちょっと小耳に挟んだんだが、いいかい?」

「なんだよ」

 訊くならまとめて訊いてくれ、と一二三は露骨に迷惑そうにした。

「一昨日の、二回戦なんだけどね。あいや、睦月くんのじゃなくて、川森くんのほう。その試合で彼女、捻挫したわけだけど。対戦相手は、貴田花くん。睦月くんとおなじ桶女の選手だが、その貴田選手に、あんたが『君は先輩想いだ』って言ってたのを聞いた、って人がいるんだけど?」

 急に、場が静まり返った。記者たちが息を呑んだのが伝わる。

 飛羽は感じた。

 一二三が笑うのを。

 飛羽の位置から、彼女の顔は見えない。

 だが、例の肉食恐竜系の笑みが、いままさに一二三の顔に広がりつつあることを、飛羽は確信した。

「ああ。言ったよ。一昨日、試合後の貴田にね。『君はじつに先輩想いだ。よくぞやってくれた』……てね」


     5


 翌朝。

 秋の四季杯、準決勝戦を控えたこの日。

 出場選手たちが宿泊するホテルは、おごそかなしじまに浸されていた。

 と。

 ガンッ!

 ガンッ、ガンッ!

 ガンガンガンガンガン……ッ!!

 ノック、と形容するには、あまりにも破壊的すぎる大音響が、与午一二三が眠るシングルルームを乱打した。

 一二三がいくら大声で退去を命じても、ノックの主は去らないどころか、ますます乱打を激しくした。あきらかにキックの音も加わっている。

 やむをえず、一二三はベッドから這いずり出た。

 ドアの覗き穴で、ノックの主を確認し、

 ――こりゃ、いくら言っても聞かねーはずだ……。

 観念して、鍵を外した。

「あ、な、た、ね、え……!」

 益居兎が、仁王立ちしていた。

 髪を振り乱したその姿は、さながら御伽噺の人食い鬼女だ。

「なんだよ、朝っぱらから」

 腹をボリボリ掻いている一二三に、益居は握りつぶしていた紙の束を叩きつけた。

 バシッ、と顔面に紙束を貼りつけられた一二三は、とっとっとっ、とあとずさった。

 追いかけて益居が部屋に入る。

 一二三の顔から紙束――今朝発売のスポーツ新聞をむしりとって、その第一面を指さし、

「どういうことなのよ、これは!」

「えらい剣幕だな」

 髪をかきあげながら、一二三は新聞を手に取った。紙面に目を落として、

「ほう、ほう、ほう」

 こまかくうなずきながら、ベッドに座る。

「ほ、ほ、ほ、じゃないわよ!」

 新聞の一面には、桶狭間女子学園の面々の、顔写真がならんでいた。

 睦月飛羽、貴田花、与午一二三に、大海晃、益居兎、さらには引退した佐野卵まで。

 どの写真も無表情で、どことなく不機嫌そうにも見える。そのせいか、紙面全体が、重大な犯罪事件の記事みたいな印象になっていた。

 記事を読んでみると、

『……右足首の負傷を押して出場した川森は、睦月の魔球〔スプラッシュ〕にふりまわされたため症状が悪化し、無念のリタイアとなった。

 桶女の与午副監督は試合後、川森の負傷を試合前から知っていたと認め、怪我が悪化するように、あえて〔スプラッシュ〕の連発を睦月に指示した、と明言した。フェアプレー精神のかけらもない悪辣さには開いた口が塞がらないが、彼女がそれから語った事実はさらに衝撃的だった。

 川森が右足を捻挫した二回戦の対戦相手は、睦月と同じ桶女所属の貴田である。その貴田に与午は「言ったよ。(川森を捻挫させた)君はじつに先輩想いだ、よくぞやってくれた、って」。これは貴田が意図的に川森を負傷させ、睦月の勝利を手助けしたという意味なのか。与午はこうも語った「スポーツは勝てればいいんだ。勝てば金と名誉が手に入る」。

 桶女マグバド部は、大海晃などの活躍により近年めざましく知名度を上げた。だが、この急成長を不自然がる声が、にわかに高まりつつある。もしも貴田がわざと川森を負傷させたのだとしたら、果たしてこれが初犯なのか。これまでにも桶女は、身内から優勝者を出さんがため、組織ぐるみで他校の有力選手を陥れてきたのではないか。証拠は何もないが、マグバド部のおかげで桶狭間女子学園が多額の金と名誉を手にしてきたことだけは、紛れもない事実――』

「どういうことよ?」

 益居が詰問する。カーテンはまだ開けていなかった。室内の薄闇で、彼女の白目だけが、炯々としていた。

「どういうことって、ここに書いてある通りだよ」

「どうして否定しなかったのよ! 貴田さんが川森さんをわざと怪我させたなんて、まったくの事実無根じゃない!」

「どこにも、わざと怪我させた、なんて断定してないぜ。かもしれないってだけだろ」

「疑われるだけで大変なのよ!」

 一二三は、パラパラと新聞をめくった。

 アイドルの外泊をとりあげた芸能スクープや、ツチノコ調査隊のレポート、ちょうど真ん中のページでは肌もあらわな女性の写真と、彼女の『得意技』についての記述。ありとあらゆる下世話な好奇心に応えようとするサービス精神が、紙面にはごった返していた。

 一二三は、半笑いして、訊いた。

「あのさ、前にもこういう新聞もってたけど、もしかして、毎日買ってんの?」

「うがぁぁあああああ(買ってて悪いか、てか、そんなこと言ってる場合か)――!」

 言葉にならない叫びをあげて、益居は一二三につかみかかった。


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