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四章「魔少女たち」

   四 魔少女たち


『イギリス生まれ、アメリカ育ち』

 マギック・バドミントンの歴史は、そのように要約される。

 バドミントンはイギリス発祥だが、そこに魔法を織り交ぜたのはアメリカだった。

 コートをひとまわり以上も広くしたり、ラケットを頑丈で両手でも持てるものにしたりと、魔法の導入に伴って変更されたルールは多々あるが、最大にして最良の変更点は、

『〔竜鱗域〕』

 である、といわれている。

 ネットを境に、両方の陣地に1ヤード1フィートずつ張り出した、特殊地帯。

〔竜鱗域〕の上空でのみ〔竜羅〕の展開が許され、エリア内に落ちた打球は、コート外に落ちた場合と同様の判定となる。

〔竜鱗域〕の存在によって、バドミントンの醍醐味のひとつであるネット際でのめまぐるしい駆け引きが、マグバドではほぼ不可能となった。だが、犠牲となった魅力を補っても余りある恩恵も、同時に生まれた。

 バドミントンのシャトルは軽いうえに、羽が空気抵抗を被るため、飛距離がのびると極端にスピードが落ちる。初速で時速400キロを越えるトップ選手のスマッシュも、〔竜鱗域〕を通過する間にみるみる減速し、対抗魔法を構築する時間的猶予を、対戦相手に与えることになる。

 マジカルスポーツで、時間は重要である。

魔法の実現には、どうしても、あるていどの手間隙がかかるからだ。

 飛距離がのびると速度が急低下するシャトルの特性を、〔竜鱗域〕の設置によって助長する。このおかげで、選手たちには、じっくりと魔法を練りあげる時間が――といっても、せいぜい一秒か二秒だが――増加した。

 結果、マグバドで使用される魔法は、より高度で大規模なものとなり、他のマジカルスポーツをうわまわる見応えを、観客に提供できるようになった。

〔竜鱗域〕のおかげで、マグバドは、

『クイーン・オブ・マジカルスポーツ』

 の地位を確立したといっても、過言ではないのである。


    1


 三年前。

 北関東の、とある山中でのこと。

 斜面を掘削中だったショベルカーが、その〔氷〕を掘り当てた。

 地表に露出した一角を、自分の目で確認した現場監督は、

「なんてこった」

 苦そうに口を歪めた。

 ただでさえ遅れ気味だった工事が、これで期日に間に合わなくなること確実になったのだ。


 雪白グリは、朝の空気が嫌いである。

 寒々と透き通った、あの静けさに頬が触れると、憂鬱になるのだ。

 忌々しいことに、その憂鬱は、安堵感と表裏一体だった。寒さを皮膚に感じると、グリの心は暗鬱に染まりながら、その一方で、どうしようもなく安らいでしまうのである。

 あの、気の遠くなるほどの、莫大な時間の海に漂っていた間、寒さはつねに彼女のそばにあった。慰めたり、励ましたりはしてくれなかったけれど、ずっと離れずに寄り添ってくれたことだけは、間違いないのだ。

 十月。二回目の日曜日。朝まだき。

 雪白家の、広大な日本庭園は、薄闇に沈んでいた。

 鯉たちが泳ぐ池の上。

 赤い欄干の太鼓橋。

 橋の真ん中で、グリは目を閉じて立った。

 腕の中の感触を、ギュッと抱きしめる。温かかった。むさぼるように、鼻をこすりつけた。

 しかし、その温かさは、グリの体温の反射にすぎなかった。自らの体温で『彼』が温かかった頃を、グリは憶えていなかった。それは思い出すには、あまりに遠すぎる記憶だった。

 この朝のひとときは、グリにとって、かけがえのないものだった。冷たい静寂に肌をさらして、『彼』の毛並みに顔をおしつけるとき、グリは他のどんなとき、どんな場所でも味わえない、心の平安に浸ることが出来た。

 ――来るでない。

 奴の接近を感じとって、グリの神経がささくれ立った。

 心の声で命じたところで、もちろん奴は止まらない。といって、グリのほうが逃げたとしても無駄だった。かならず追いつかれてしまう。それ以前に、逃げるなど、グリのプライドが許さなかった。逃げも隠れもするものか。

 グリは、瞑想によって高まった魔力を、指先の一点に集めた。

〔紫電〕を放つ。

「あぎゃあっ!」

 庭木の陰から姿を現したところだった奴は、一瞬、カメラのストロボみたいに真っ白く輝いた。

 バタン、倒れる。

 焦げ臭さが、空気を汚していく。

「ふっふっふっふっふっ……」

 やがて、奴は立ち上がる。グロテスクな映画に登場する、動く死体さながらだった。そして叫ぶ。歓喜に打ち震えながら。

「絶好調じゃないですか、姫!」

「姫と呼ぶでない!」

 抱きついてきた義也を、グリは紙一重でかわした。

 ――おのれ、妖怪め。

 義也の言ったとおり、今朝のグリは絶好調だった。今朝の一撃でなら、あるいは義也も倒せるやも、と期待したのだが。

 魔法が効かない体質、というものがある。非常に珍しい遺伝的形質で、一種の抗魔法効果を、生まれつき細胞に宿しているのである。雪白義也が、それだった。常人ならば、グリの〔紫電〕を直撃されて生きてはいられない。

「今朝もお早いですね。今日は大切な日なんですから、もっとゆっくりお休みになられてもよろしかったのに」

「眠くもないのに眠れるか。コーチどもを呼べ。朝餉の前にひと汗ながすぞ」

「今日は、お止しになられたほうが、よろしいのでは。汗なら、あとでたっぷり流せますよ」

「いま流すのじゃ」

「ですが、本番の前に、お疲れになっては……」

「余を愚弄するのか。あのような座興、いくらやったところで疲れるものか」

「ははは。ごもっとも!」

 義也はさっそく、携帯電話でコーチたちに呼び出しをかけた。

 今朝の彼も上機嫌だった。グリのそばにさえいられれば、無条件で彼は幸福なのである。

 こんなノーテンキ野郎が、国内でも有数の大企業の主だというのだから、グリは呆れるとともに、恨めしい気分になる。戦も飢饉も、テレビという名の板の向こうに、ときたま姿を現すだけの、この時代。この平和な時代に生まれていれば、グリだって、こんなニコニコゾンビの世話になる羽目になど、なっていなかっただろうに。

「では姫。コートに参りましょうか」

「姫と呼ぶな。何度申せばわかるのじゃ。こら、押すでない。いいか、よく聞け。余は姫ではない。余は……」

 グリの抵抗などお構いなしに、義也が背中を押して歩かせる。精神はともかく、肉体的には義也は健康な二十代前半の男であり、グリは十四歳の少女にすぎない。力比べでは、勝負にならなかった。

「余は、神ぞ!」


 その子供たちは〔冬眠者〕と呼ばれている。

 かつて、子供は神だった。

 人は神に願いを訴える。叶える力があると信じて。その意味で〔冬眠者〕は、最も神らしい神だった、といえるかもしれない。

 戦乱、疫病、天候不順……。

 人の力はもちろん、神の力――魔法ですら、どうにもできない災難に見舞われたとき、人々は彼らにすがった。

 格別に魔力の強い子供を選んで、願いを託し、土中深く埋める。あるいは、水底に沈める。そうすれば、子供は土地と同化し、そこに暮らす人々の守り神になってくれる。災いも、かならずや鎮めてくれるはず。

 いわゆる人柱。

 生贄の儀式である。

 守り神の作り方はいくつかあるが、最もポピュラーなのが、魔法の〔氷〕に封じる方法だった。半永久的に融けない〔氷〕の中で、守り神は子供のまま眠り続ける。〔氷〕が融けないかぎり、霊験は失われない。

 現代では一般的に〔冬眠者〕と呼ばれるようになった守り神たちを、生きたまま解凍できるようになったのは、ここ最近、やっと二十年位前からだった。

 以来、幾人もの〔冬眠者〕が、守り神の重責から解放されてきたが、いまだすべての〔冬眠者〕を覚醒させるまでには至っていなかった。地域住民の反発が強くて手出しができない場合もあるし、時の経過が、そこに神が埋められていることを人々の記憶から拭い去ってしまった場合もある。

 雪白グリの場合は、後者だった。

 彼女を発掘したのは、雪白製薬の依頼で作業していた建設会社である。新規に工場を建設するため山林を開拓したところ、偶然、掘り起こしてしまったのだ。

 近隣の住民にたずねても、誰一人、そこにグリが眠っていることを、知っていた者はいなかった。


     2


 ダン!

 と踏みこむ、左足。

 足裏ではじけるショック。くるぶしに、ググッと慣性がかかる。

 ふくらはぎが隆起し、凝固した。大腿も鋼鉄と化す。

 極限まで圧縮し、そして解き放つ、パワー。

 大地から、天空へ。突き上げる。エネルギーはまだ直線的だ。

 ひねる。ウエストをひねり、胸をひねる。

 肩を振り回し、腕を振り出す。

 するとエネルギーは渦を巻く。遠心力も味方に加わる。

 飛来するシャトル。

 生み出した全エネルギーを、飛羽は叩きつけた。

 楽に打ち返せはしない。一打、一打がダメージとなり、飛羽の骨に、肉に、蓄積されていく。

 だが、そんなこと、覚悟の上だ。

 ――『粘れ』!

 試合前に下された一二三の指示が、背中を押す。

 ――『あきらめたら終わるぞ。敵さんがあれを使うまで、血反吐を吐いても粘りぬけ』!

 ――言われなくったって!

 秋の四季杯。一回戦。第11試合。

 睦月飛羽VS会田美衣あいだ・みい

 第1セット。

 スコアは現在、4対10。

 会田美衣がこのセットを取るまで、残り1点だった。

「ぐっ!」

 一瞬、飛羽の呼吸が止まった。

 わき腹をえぐってくるような衝撃に耐えて、飛羽は打ち返した。

 シャトルは、ふわりと飛んだ。

 わずかばかり宿した魔法は、ネットを越えるや、たった一枚の〔竜羅〕に吹き払われた。

 会田の瞳に、光が閃いた。

 繰り出されるのは、彼女の〔竜殺打〕。

小太陽リトルサン〕!

 と銘打たれた、直径2メートルもの火炎魔球である。

「きゃあっ!」

 ぎりぎりまで自陣で粘った飛羽は、ついに〔小太陽〕の熱に耐え切れなくなり、こけつまろびつ、コートから退散した。

 無人となったコートに太陽が沈んでいく様子を、尻餅をついたまま見つめていると、

「大丈夫ですか?」

 副審が近づいてきて、案じてくれた。

「すいません。足が滑っちゃって」

 スカートの裾に気をつけながら、飛羽は立ち上がった。

 マグバドをはじめた小学生の頃から、飛羽の試合着はいつもショートパンツ・スタイルだった。だがこの大会では、プリーツスカートのワンピースに変えていた。

 もう十年近く、スカートなんて制服でしか着たことがなかった飛羽だが、一二三の秘密特訓のおかげで、ごく自然に着こなせるようになっていた。気がついたら大股を開いていた、なんてこともない。

 飛羽が自陣に戻るのを待ってから、主審が第1セットの終了を告げた。

 会田が、やれやれ、と髪をかきあげた。

 その口元がかすかにニヤついているのを、飛羽は見逃さなかった。

 ――楽な相手に当たってラッキー。とか思ってんだろうな。

 不満だった。

 といっても、会田に侮られていることが、ではない。

 憮然としつつ、飛羽は休憩用の椅子に腰を下ろした。膝にバッグを乗せ、太ももを隠す。頭からタオルを被って顔も隠すと、トイレの個室に入ったみたいに落ち着いた。

 タオルの隙間から、電光掲示板をチェックする。4対11のスコアの横に、経過時間が表示されていた。12分25秒。両者合計で15点しか入っていないにしては、長すぎる第1セットだった。

 ゴク、ゴク。

 のどを鳴らす音がした。会田がさきほどから、しきりにドリンクをあおっているのだ。

 ――がぶ飲みすると、第2セットにたたるよ。

 飛羽は、なんだか老婆心が湧いてきた。

 ――地獄は、これからなんだから。

 その地獄、閻魔大王の名は、与午一二三という。

 主審が笛を鳴らした。インターバル終了だ。

 コートに戻るとき、飛羽の汗は、すっかりひいていた。

 対する会田は、いまだダラダラと垂れる汗を、鬱陶しそうに手の甲で拭っていた。

 ――まいったな。

 会田のサーブを待ちながら、飛羽はやっぱり不満だった。

 ――この試合、このままいくと、勝てちゃうぞ。

 一二三の指導がはじまってからの、この二週間。

 飛羽はある映像を、くりかえし見させられてきた。

 この四季杯で対戦する可能性のある全選手の、過去の試合映像である。とくに、必ず対戦することになる会田美衣の試合は、入念に頭に叩きこまされた。

 ――『無くて七癖、って言うだろ。人間の身体ってのは、かなりの部分、無意識が動かしている。歩くときに足の動かし方を考えないように、マグバドの試合中だって、身体の隅々まで意識的に動かしているわけじゃないのさ。癖っていうのは、そういう、意識していない動きの中に出る。それを読み取るんだ』

 主審が第2セットのスタートを宣した。

 会田がサーブを放つ寸前、ほんの一瞬間、主審に目を向けたのを、飛羽は見落とさなかった。

 ――強めの魔法、を打つサイン!

 サーブからいきなり強烈な打球を叩きこむとき、会田は主審をちょっとだけ気にする。映像から読み取った、会田の癖だ。

 ――『予測できるってのは、強いぜ。一ミリ秒ぽっちでも、心の準備ができる時間があるのとないのとでは、天と地ほども結果は違ってくる』

 紅蓮の〔炎〕に包まれて、シャトルは飛羽に向かってきた。

 意表を突かれた、という表情を装って、飛羽はあわただしく〔竜羅〕を展開した。

 それを難なく引き裂いて、まだまだ元気な会田の魔球へ、歯を食いしばり、ラケットを振り出す。

 ――『明日の試合、序盤はまず防御に徹しろ。ただ防ぐだけじゃダメだぞ。その間に、会田をよく観察するんだ』

 昨夜。

 飛羽に一回戦の戦術を授ける際に、一二三は会田美衣という選手のことを、次の一言で形容した。

 ――『お調子者だ』

 調子のいいとき、悪いときが、露骨に出る選手だ、と。

 ――『好調なときは手がつけられないが、不調のときは習いたてのガキでもしないような凡ミスをする。で、重要になってくるのが、ここ最近のコンディションだが、録画は見たよな? どう思った? ……正解。そうだ、絶好調だ』

 そこで、こちらの作戦は?

 一二三はポケットから秘密道具をとりだすみたいに、得意げにニヤリとして言った。

 ――『もっと絶好調にしてやろう』

 第2セットがはじまるやいなや、猛烈な勢いでたたみかけてきた会田の魔球攻勢を、飛羽は死に物狂いでしのぎつづけた。

 会田が、早々にこの試合のケリをつけてしまおうと考えているのは、明白だった。

 ――一二三ちゃんの思う壺だよ、それじゃ。

 と思いながら、

「きゃあっ!」

 会田の球圧にラケットをはじかれ、飛羽はたたらを踏んだ。

 シャトルは、どうにかネットと〔竜鱗域〕を越えた。

 待ってました、と会田、スマッシュ。

 ――まだまだっ!

 飛羽は打球へ、横っ飛びでくらいついた。

 シャトルは高く打ちあがった。

 飛羽は前転してスムーズに立ち上がった。

 なかなか落ちてこないシャトルに、会田が焦れる。やっと間合いに入るが早いか、またもスマッシュ。

 しかし、コースが甘い。

 飛羽は泥臭く打ち返した。

 ――イラついてる、イラついてる。

 会田のショットが、雑になってきていた。こめられる魔法も弱まってきている。

 飛羽は、会田がいま、なにを思っているか、わかる気がした。

 圧倒的点差で第1セットをとった会田。

 第2セットになっても、あいかわらず会田の優勢。

 飛羽は受けるのがやっとで、強烈な球を打ちこむたびに、めめしく悲鳴をあげる始末。

 会田の勝利は、もはや確実。

 なのに、飛羽は往生際が悪く、しつこくシャトルを拾ってくる。

 試合中に私語が許されるなら、会田はきっと、こんなふうに言いたいんじゃなかろうか。

『あきらめなよ、いいかげん。勝ち目がないのはわかるでしょ。せつかく四季杯に出られたんだし、なるべく長くコートに立ちたいってのは、わかるけどさ。こっちの事情も汲んでよ。こっちは明日の二回戦も戦わなけりゃならんのよ。もう勘弁してよ』

 ――おあいにくさま。

 飛羽は、勘弁しなかった。

 しつこく、しつこく、会田の打球をはねかえす。

 ――『跳ね返すだけでいい。つーか、跳ね返すことしかするな」

 飛羽のここまでの行動は、すべて、昨夜の一二三の指示どおりだった。

 ――『ただ、しぐさには気をつけろよ。できるだけ可愛く、しおらしくだぞ。小悪魔になって、焦らして焦らして焦らしまくるんだ。会田ちゃんが、辛抱たまらなくなるまでな』

 小悪魔を演じるのも楽ではなかった。

 たやすく倒れそうにみせかけて、飛羽は汗だくになって粘りつづけた。

 そしてとうとう、会田の我慢が切れるときがきた。

 彼女の〔竜界路〕が、紅蓮の光をゆらめかせる。

 飛翔する、〔小太陽〕!

 ――来たっ!

 飛羽にとっても、それは待望の瞬間だった。

 猛練習して身につけた『可愛い悲鳴』をあげながら、コートから逃げる。

 太陽はコートに沈み、第2セット最初のポイントが、会田の側に加算された。

「続けられますか?」

 気遣ってくれる副審に、飛羽は悲壮な覚悟をただよわせながら、うなずいた。

「はい。まだ、やれます……」

 会田美衣が、意外そうにこちらを見ていた。

『え、まだやるの?』

 ――はい、やります。

 飛羽は、胸のうちで答えた。

 ――まだまだ、やります。

 ――『たとえば貴田花だ。あいつはあの外見で、得をしている、とは思わないか?』

 なぜスカートなのか。しかもメイド服なのか。

 練習着として渡されたコスチュームの意味がわからず、飛羽が着用を拒むと、一二三は逆に問いかけてきた。

 ――『なんのことスか?』

 ――『いいから、どう思う?』

 ――『まあ、巨乳は、ちょっと羨ましいかな。メガネも、意外にチャームポイントだし』

 ――『バカ。男目線の話じゃねえ。選手目線で、だ』

 ――『だったら、損してますよ。乳もメガネも、絶対、邪魔だもん』

 ――『だよな。たいていの奴はそう思う。だからこそ、貴田は得をしている』

 ――『?』

 ――『おまえがそう思うように、対戦相手もそう思うってことだよ。貴田と対面したとき、対戦相手が抱く第一印象はこうだ、「こいつ、スポーツ選手に向いてないだろ?」そして次にはこう思う、「ラッキー。今日は楽な相手とあたった」……そのとき、そいつの心理には油断が生じている。貴田は労せずして、敵の戦意に隙を作ったのさ。さらに、貴田のあの性格がいい。あんなにオドオドしてくれりゃ、Sっ気のある敵はイチコロだ。どんどん攻めたてたくなっちまう。いい気になって攻めまくってりゃ、とうぜん、スタミナは急減する。中盤、はやくも自分の息が上がっていることに愕然としても、後の祭りだ。そっから先は、スタミナがたっぷり残ってる貴田の独壇場、って寸法さ』

 指摘されて、はじめてハッとする。

 言われてみれば、花の勝ち方は、第1セットを敵にとられてからの逆転勝ち、と言うケースが大半だった。

 ――『けど、それとメイド服と、どんな関係が?』

 ――『貴田を見習え、って言ってんだよ。たしかにおまえにゃ乳はない。急にメガネなんかかけたって、邪魔になるだけだ。だが、ようは敵に与える印象を操作できればいいんだ。考えてみな。ヒラヒラしたミニスカはいて、アンダーウェアが見えそうなのを気にして内股歩きしてるような選手を、どこのどいつが「強敵だ」って警戒するんだ?』

 試合は進行して、第2セットも中盤にさしかかろうとしていた。

 スコアは、4対6。

 会田美衣の2点リードだ。しかし、第1セットみたいな、圧倒的大差をつけるまでには、いたっていなかった。

 必死に呼吸を整えようとする会田の息遣いが、飛羽の耳にすらうるさいくらいだった。苦しそうにゆがんだ表情は、もちろん演技ではないだろう。

 慢心の代償だった。

〔竜殺打〕は、諸刃の剣である。強大な威力を誇る、必殺の魔球。放つには、莫大な魔力を消費しなければならない。

 会田がここまでで〔小太陽〕を打った回数は、なんと8回。

 とばしすぎ、である。

 絶好調な自分と、〔小太陽〕を打ちこむたびに醜態をさらして逃げる対戦相手。会田でなくとも思うだろう。

『こりゃ、楽勝』

 しかし、飛羽は予想外にしぶといのである。簡単に倒れそうなのに、実はなかなか倒れない。しぶとく、しぶとく、打ち返してくる。

 会田はしだいに焦れてくる。こんな弱々しい相手とラリーをつづけることが、馬鹿らしくなる。

 そこで、さっさと点を決めてしまおうと〔小太陽〕をくりだすのだ。

 猛烈にスタミナを消耗することは、もちろん会田も承知の上だ。だが、相手が飛羽であれば、まあ大丈夫だろう、と高を括っている。こんな情けない選手が相手なら、多少の無理をしたって、問題になるまい。こっちは絶好調なんだし。

 ところがどっこい。

 それが、慢心なのである。

 飛羽にいったん移ったサーブ権が、会田に戻って、一球目。

 制限時間ギリギリまで、会田はシャトルを手放さなかった。

 と、彼女の〔竜界路〕が、ひときわ赤く燃え上がる。

 ――いよいよ、か。

 飛羽は、冷たく研ぎ澄まされていく自分を意識した。

 会田が、サーブを放つ。

 いきなりの〔小太陽〕だった。

 会田は声に出して叫んだ。

「潰れろ、この雑魚!」

 ――雑魚って言うやつが、雑魚なんだよ。

 心の声で反駁して、飛羽は二枚の〔竜羅〕を織り上げた。それが蒸発させられてしまうと、後ずさりして逃げる。

 4対7。

 勝利まで、あと4点に迫った会田が、コートに両膝をついた。四つんばいになって肩を上下させる彼女に、副審が駆け寄る。会田は首を振って、自力で立ち上がった。

 ――嫌んなっちゃうな。

 サーブを待ちながら、飛羽はやっぱり不満だった。

 ――これじゃ、頭、かち割れないじゃん。

 一二三の戦術が失敗だとわかったら、即座に放棄して、好き勝手に戦ってやるつもりだったのだ。

 あんな恥ずかしい格好をさせられて、ガラじゃない悲鳴まであげさせられて、飛羽のストレスは溜まりまくりである。

 これで作戦が的外れだったら、存分に恨みを晴らすことができたというのに。

 会田は、

『あと、たったの……』

 4点、と疲労困憊の自分を励ましていることだろう。

 だが、まもなく思い知る。

 そのたった4点をもぎとる余力すら、残されていないことを。


     3


 バイキング形式の夕食から、食べたい料理を片っ端から自分の皿に盛り付けた飛羽は、並んだテーブルを見渡して、こちらに手を振る花をみつけた。晃もおなじテーブルについていて、すでに食事に夢中である。

 秋の四季杯の開催地は、各立候補地から、マグバド協会の理事たちの投票により選ばれる。熾烈な誘致合戦がくりひろげられているおかげで、選手たちに提供されるホテルもけっこう豪華だ。

「三人そろって一回戦突破ですね!」

 まずは満面の笑みで喜んでから、花は意気込んだ顔つきになり、両手を握りしめた。

「明日の二回戦も絶対、絶対、勝ちましょうね。わたし、決めたんです。この大会で活躍して、『新・桶女の三羽烏』って呼ばれるようになるんだ、って!」

 すると晃が、釈迦力に動かしていたスプーンを止め、言った。

「カア」

 飛羽もつづいた。

「バカア」

「ひどいです! 真剣なのに!」

 メガネの奥の垂れ目が潤んだ。

「そりゃ、卵先輩が抜けた穴をわたしごときが埋めようなんて、だいそれたこと言ってるの、わかってますけど。でもでも、桶女のために自分に何ができるのか、一所懸命に考えて、頑張ってるんですから!」

「桶女のためってどういうことよ?」

 飛羽はズケズケと言った。

「あんたが頑張るのは、あんたの勝手。同じ学校だからってね、試合じゃそんなの関係ないの。対戦したら敵なんだぞ。あんたが相手だろうが、あたしは手加減しないからな。完膚なきまでに叩き潰してやる!」

 フォークに刺したエビフライを、花の眼前につきつける。

「むー」

 眉を寄せて、不服そうな花。

 と、いきなり大口を開けて、エビフライに噛みついた。

 空っぽになったフォークを呆然と見つめる飛羽の前で、尻尾まで残さず噛み砕き、

「敵じゃ、ありませんよ! 益居監督はいつも言ってるじゃないですか。敵は自分自身だけだ、って。対戦相手は、自分に何が不足しているのか教えてくれる、尊敬すべき先生なんだ、って」

「悪うござんしたね。あたしゃ、益居監督には破門されちまったもんで」

「あ……」

 花が凍りついた。

 飛羽と益居との間にどんな話があったのか、依然として他の部員は知らされていなかった。が、全くの没交渉になっている二人の様子を見れば、よっぽどのことがあったのだろうと推察できた。益居監督はよく怒るが、後々までひきずったりはしないし、飛羽も物怖じする性格ではない。二人が醸すただならない雰囲気に、いつのまにか二人のことは、マグバド部内では触れてはならないタブーと化していた。

 もっとも、花をフリーズさせた直接の原因は、彼女の脳内シアターで上映がはじまった、サクランボ柄のパンツ、の映像であるが。

 スパアン!

 小気味の良い音がした。飛羽は、後ろ頭に軽い衝撃を受けてつんのめった。

 ふりむくと、晃がスリッパを履きなおしつつ、

「意地悪すぎ」

「……食事中にスリッパ振り回すなよ」

 飛羽は、乱された髪をなでつけながら、

「意地悪してないじゃん。事実じゃん」

「あの、益居監督と、なにがあったんですか?」

 花が、いかにもおそるおそるといった感じで、きりだした。

「何が、って。引退しろ、って言われただけだよ」

 その話が部内のタブーになっていようとは思いも寄らない飛羽は、スパゲティを巻きながら、さらりと答えた。一二三の門下に入って以来、食事もミーティングを兼ねて道場で採るようになり、他の部員たちとはすっかり疎遠になってしまっていたのだ。だから、

「ええっ!」

 大仰に驚いた花に、むしろ飛羽のほうが驚かされた。

「な、なんだよ、いきなり大声で」

「本当なんですか?」

「嘘ついてどうすんのさ? ……んでさ、一二三ちゃんが、だったら私がコーチする、って申し出てくれて。引退したくなかったら私について来い、ってさ。まだ引退したくなかったし、他に選択肢なんかないんだもん。否応なしだよ」

「ヒフミちゃん?」

 花が聞き咎めた。

 ――あ、やべ。

 飛羽は、ちょっと慌てた。

「ヒフミさんって言うんですか、新コーチ?」

 花が身を乗り出してくる。他の部員にとって、一二三はいまだに『謎の新コーチ』なのだった。名前すら、知らされていないのだ。

 飛羽は、ごまかした。

「んー、そ。苗字がね」

「苗字? どう書くんですか?」

「これ以上は企業秘密。知りたかったら金払え」

「なんですか、急に」

「なんでも。もうダメなの」

「いいじゃないですか。カワイイ後輩がお願いしてるんですよ」

「へえ。自分のこと、カワイイって思ってんだ?」

「そういう意味のカワイイじゃないですよっ」

 ローストレッグにかぶりつこうとしていた晃が、食べるのを一時停止して、口を挟んだ。

「最近、男からのファンレターが急増していると、ある筋からの情報」

「どの筋ですかっ」

「へえ……」

 飛羽は、底意地の悪い半眼になった。

「あんたのウェア、ポロシャツタイプだったよね。こりゃ当然、ボタンは全開にしなくちゃいけませんな?」

 と晃に同意を求める。晃ものってきて、

「ときどきポロリ、くらいのサービスは義務でしょう、人として」

「どんな人ですかっ!」

 花が真っ赤になった。

「も、もう、なんでわたしの話になってるんですか。いまは、飛羽先輩の話でしょ」

 花をからかうのも久しぶりだった。

 飛羽はなんだか懐かしくて、久々に和やかな気分を満喫していた。

「よお。盛り上がってるみたいだね」

 どこからともなく一二三があらわれ、飛羽の背もたれに肘をのせた。飛羽の皿を覗きこんで、片方の眉だけを器用に動かす。

「まだ食い終わってないのか。ミーティングの時間だぞ。しょーがねーな」

 料理のテーブルのほうへ行き、フランスパンを一本とると、縦に裂け目を入れながら戻ってくる。そして飛羽の皿から料理を手づかみし、裂け目にむりやり詰めこんでいく。

 呆気にとられている飛羽に、パンをつきつけ、

「一二三特製バケットサンド。美味いぞ。たぶん」

「味よりも、見た目と衛生面が気になるんですが」

「おやおや。お年頃だね。んじゃ、これは私の晩飯にしよう」

 一二三は自分でかぶりついた。

「ほら、自分の分は自分で作りな。部屋に戻って、食いながらミーティングだ。一回戦を勝ったくらいで、いい気になってんじゃねーぞ。わかってんだろ。ゆっくりしてられる時間は、もうないんだぜ」

 飛羽は口を『へ』の字にした。が、文句は言わず、

「じゃ。そういうことだから」

 晃と花に断って、席を立つ。フランスパンを取って、見た目の彩りと味のバランスを考えてサンドイッチを作ると、一二三と一緒に食堂をあとにした。


 バケットサンドを食べ終わると、一二三は飛羽をベッドにうつぶせに寝させた。馬乗りになって、首、肩、背中、と順にマッサージしていく。

「右側の筋肉のほうが、張ってる度合いが強いな。左ももっとバランスよく使え」

「あたし、右利きだし」

「偏った身体の使い方してると、骨やら腱やらに余計な負担がかかるんだよ。怪我すっぞ」

「あと四試合だけ、もてばいいんでしょ?」

「あと四試合も、もたせなきゃいけねーんだ。肉体は消耗品なんだから、大事に使ってけ」

「無茶させてるのは、そっちでしょうに」

 マッサージ中も、飛羽は頭を横にしてテレビを凝視していた。

 映っているのは、明日の二回戦の対戦相手の試合映像だ。

 ショットの癖や、苦手なコースと得意なコース、表情の微細な変化から読み取れる彼女の性格など、研究しなければならない要素はいくらでもあったが、一回戦の疲労にマッサージの心地よさが追い討ちとなり、ついつい、まぶたが重くなる。

「誰が、寝ていいっつった?」

 一二三に頭を小突かれた。

「でも、息抜きだってしなきゃ、頭、働きませんよ」

 飛羽はリモコンに手を伸ばした。

「あ、こら」

 とりあげようとする一二三の手をかわしながら、チャンネルを切り替える。お笑い番組でも、と探していると、とつぜん画面に一二三の横顔が大写しになった。

「あ」

「へえ」

 一二三が声を漏らした。ニヤニヤしている。

 テレビの中の一二三は、カメラの存在に気づいていないようだった。今日の飛羽の試合を客席から観戦しているところを、望遠レンズで撮影したものらしい。

「あの、これって……」

 飛羽が口を開いたところで、スタジオの映像に変わった。

『間違いありません。あの与午選手です』

 コメンテーターらしき女性が、深刻な顔つきで言った。

 彼女は元マグバド選手で、現在の肩書きは、たしか、スポーツジャーナリスト。益居や一二三よりもいくらか年嵩で、いつだったか飛羽もインタビューをされたことがあった。

『驚きました。まさか、彼女に試合会場でまた出会うなんて……』

 コメントか途切れると、男性アナウンサーがフォローを入れた。

『当時は、かなり大きな話題、問題になりましたもんね。私もまだ学生で、スポーツにはあまり縁がありませんでしたが、それでも憶えていますよ』

『はい。あの事件以来、二度と与午さんのような人が現われないよう、協会の管理も徹底されるようになりました。現在のクリーンな大会運営があるのも、皮肉ですが、彼女の功績と言えるかもしれません』

『えー、十年以上マグバドを応援し続けているファンの皆様はご存知のことと思いますが、与午一二三選手は、かつて「絶対女王」とまで呼ばれた名選手でした。ところが現在、公式記録から彼女の名前は抹消されていまして、というのも……』


     4


 マスコミの集中砲火をかいくぐり、関係者以外立ち入り禁止、の通用門に転がりこむ。

 外の警備員がやっとのことで閉めてくれたドアに背中をあずけ、ズルズルとへたりこんだ飛羽は、恨みがましく隣へ言った。

「フルセット戦った後みたいに疲れたんですが? ちなみに、まだ試合前なんですが?」

「スタミナ不足だな。走りこみが足らなかったか」

 一二三がとぼけた。こちらは喫煙する不良少年みたいに、膝を開いてしゃがんでいる。

「皮肉を真に受けんでください。だいたい、誰のせいですか?」

 飛羽は立ち上がり、バッグのストラップを肩にかけなおした。

「有名人はつらいね、ってとこかな」

 一二三も立って、キャップをかぶりなおした。

 無駄話はここまでだった。二人は並んで歩き出した。

 通路は、ピリピリするような静けさに浸されていた。

 徐々に高まっていく緊張感をもてあましながら進んでいくと、飛羽にあてがわれた控え室の前で、益居兎が待ち受けていた。

 益居は壁にもたれて、ゆるく腕を組んでいた。脇の下に、今朝発売のスポーツ新聞をはさんでいる。飛羽はまだ読んでいないが――そもそもスポーツ新聞に目を通す習慣がないが――、何が書かれているかは予想がついた。

「晃も花も、控え室は反対側ですよ?」

 念のため、飛羽は言ってみた。

 二人には、ホテルを出るときにマスコミをひきつける囮を引き受けてもらっていた。どこから調達してきたのかシークレットブーツまで履いて、一二三になりきった晃がノリノリだったのとは対照的に、飛羽役の花はガムテープでギュウギュウに胸を締めつけられ、終始、不平たらたらだった。飛羽は感謝すべき立場なのだが、だんだん腹が立ってきて、さらにきつくガムテープを巻いてやった。

「こっちにね、ちょっと話したい相手がいるの」

「デートのお誘いかい?」

 益居に見つめられて、一二三がおどけた。

 控え室のドアが開いて、マグバド協会の女性職員が顔を出した。飛羽をみつけて、小走りで寄ってくる。

「睦月さん、よかったわ、早めに来てくれて。ちょっと話があるんだけど。――よろしいでしょうか?」

 一二三が、どうぞ、と会釈すると、職員は飛羽を連れて控え室に消えた。

「睦月さんも、いいとばっちりね」

 益居が言った。

「でも、動揺はしてないみたいね。説明済みだったの?」

 スポーツ新聞を、一二三に見えるように振った。丸められた紙面に、赤い活字で大見出しが躍っていた。

『ドーピング女王、帰る!』

 一二三は肩をすくめた。

「検索一発でバレることを、隠したって意味ないだろ。どうせ知るなら、早いほうがダメージが少ないしね。精神的ショックってやつに弱っちいからね、人間ってのは」

「自分はそのかぎりじゃない、って言ってるみたいなニュアンスに聞こえるけど? あなたはいつもそうだった。自分は特別って顔をして、他の選手を見下してた。改心してるかと期待していたのに、まだみたいね」

「どんなふうに改心すればいいってんだ? 私が特別なプレーヤーだったのは真実だろ。いまの大海晃みたいにさ」

「大海さんとあなたは違う。全然、似ても似つかないわ」

 不愉快そうに顔をしかめた益居を、一二三はせせら笑った。

「たしかに違うな。念入りに、おまえが箍をはめたんだもんな。私に似ないように、細心の注意を払って洗脳したんだろ? 試合は勝ち負けじゃない、勝ったからって偉くない、敬意と感謝を忘れずに。ハッ! どっかの宗教の教祖さまでも育てたつもりか?」

 益居は、悩ましげにかぶりを振り、重い息をついた。

「ここ、憶えてる?」

 天井へ、目線をさまよわせる。

「あなたと、この場所で話すのは二度目よ。あれからもう十四年も経つのね。この競技場が建てられて、まだ間もない頃だった。試合の後で、私があなたを呼び止めたの」

「悪いが記憶にないね。出待ちしてるファンは多かったからな」

「私は、あなたは凄い、って伝えようとしただけだった。対戦して、ぜんぜん歯が立たなくて、こんなに強い選手がいるのかって感動して。試合中、あなたは終始つまらなそうにしていたけど、それも感情を面に出さない強さなんだって、好意的に解釈してた。可愛かったな、あの頃の私。マグバドが好きで、試合が楽しくて、きっと選手はみんな同じ気持ちなんだって、無邪気に信じてた」

「あのさ」

 たまりかねた様子で、一二三が言った。

「懐かし話なら、またの機会にしてくんない? 試合前で、それなりに忙しいんだけど」

「『ゴミ』って言ったのよ」

 益居の声が、鋭く尖った。

「あなた、私にこう言ったのよ。『さっき掃除したゴミが、どうしてこんなところに転がってんだ?』……あなたにとって、試合は掃除だったのよね。自分以外のゴミを掃いて捨てるための」

「恨み言か。手紙にしたためてくれよ。いつか読むから」

 一二三はキャップの鍔に手をやり、角度を微調整した。益居の前を横切って、控え室のドアへ向かう。

「帰ってきたのは復讐するため。違う?」

 益居の問いかけが、ノックしようとした一二三の拳を止めた。

「……なに言ってんだか、わかんないな」

「あなたが薬物を使ったのは、選手生命が終わりかけていた頃の、ごく短い期間だけだった。にもかかわらず、マグバド協会は薬物に手を出す以前のあなたの記録まで抹消し、あなたという選手が存在した事実自体を葬った。あなたが最初から薬漬けだったかのような無責任な報道も、わざと野放しにして。当時、薬に手を出していた選手は他にもいたのに、あなたをサンドバッグにすることで、追究が全体へ及ぶのを回避したのね。あなた一人が極悪人で、いつのまにか協会までが、あなたに騙された被害者ということになっていた。薬が蔓延した原因は、利益の追求を最優先にした、当時の協会にこそあったのに」

 マグバドは、金になる。

 この認識が一般常識化してから、どれほどの年月が経過したろう。

 試合の入場料。放映権料。スポンサーが注ぎこむ宣伝広告費。レプリカウェアをはじめしたグッズの売り上げ。スポーツ用品店には選手の名前を冠した『~モデル』のラケットやシューズが並び、ファンや、

『いずれは……』

 自分も、と夢見る少女たちの購買意欲をそそりたてる。四季杯の開催地に選ばれた地域には、巨額の経済効果がもたらされるとか。観戦めあての観光客が大挙して訪れるほか、連日メディアで紹介されることによる知名度アップ。これほど手軽な町おこしも少ない。

 大会にかけられる賞金も、競い合うように高額化していき、トップ選手ともなれば、企業のコマーシャルにひっぱりだこである。

 マグバドで活躍すれば巨万の富がころがりこむ、この構図は、選手たちの内部にゆがんだ野心を育みがちだ。益居や一二三が現役だった当時、その野心は、多くの選手たちを禁断の果実へ導くこととなった。

 カフェインなどの興奮剤、筋肉増強剤、成長ホルモン、鎮痛剤、そして魔力増強薬……。

 てっとりばやく能力を底上げできる薬物は、深く静かに選手たちに浸透していった。

 マグバド教会が、薬物を厳しく取り締まっていたか、といえば、

『否』

 である。

 マグバドが商品として高い価値を維持するには、選手たちの成長が不可欠だ。より派手に、よりスピーディーに、より感動的に。観客の要求はいつだって、

『もっと。もっと!』

 である。それに応えるには、多少のルール違反も、黙認しなければならなかったのだろう。

 だが、パンパンに膨らんだ風船は、遅かれ早かれ、破裂する。

 破裂が避けられないのならば、せめて被害を最小に食い止めなければならない。問題は、そのとき噴出する爆風を、どこへ吹きつけさせるかだった。

 与午一二三。

 絶対女王とまで呼ばれた彼女は、格好の吹きつけ先となった。

「絵に描いたようなスケープゴート。恨んでも当然よね」

 一二三はズカズカと歩み寄ると、壁に肘をついて、益居の頭上に覆いかぶさった。

「なにそれ? 私を可哀想がってんの? それとも私に同情するふりして、大昔の自分を投影して可哀想がってんの? どっちなのよ、〔冬眠者〕のウ・サ・ギ・ちゃ・ん?」

 ガラスが割れるみたいに、益居の表情がゆがんだ。しかし、彼女は堪えた。

「あなたのどこが可哀想だというの? 薬を使ったのは本当じゃない。私は、悪いのはあなただけではなかった、と言っているだけよ。あなたは罪人よ。女王の地位に固執して、私たちプレーヤー全員の誇りを踏みにじった。恥ずべき人間だわ」

 一二三は、薄く笑った。

「おまえ、疑ってないのか? 飛羽も薬を使ってるんじゃないかって」

「睦月さんは、あなたみたいなバカじゃないわ」

「へえ」

「あなたが何を企んでいるのかは知らない。でも睦月さんを巻き込むのはやめて。あなたに下された処分は理不尽だったかもしれないけど、それと睦月さんは何の関係もないでしょう」

「話ってのは、それか。飛羽を自由にしてやれって? つまり、私にお願いしてるわけだ。なら、言わなきゃならない一言が、あるんじゃないのかな?」

「……お願いします」

 噛み締めた歯の隙間から、益居は声を絞り出した。

「言葉だけかい? 誠意が感じらんないな。動作も伴ってなきゃ」

 一二三は、息がかかるくらい益居に顔を近づけ、言った。

「土下座してよ」

「!」

 益居はガバと顔を上げた。鬼の形相だ。

 一二三はふきだした。益居を指さして、

「その顔! 思い出したよ、あんときか。ハハハ、もう十四年も経つのか。たしかおまえ、『ゴミ』って言ってやったあのときも、そういう怖い顔になって、ビンタしてきたよな。避けたけど」

 またビンタが飛んでこないうちに、一二三は益居から離れた。

「勘違いすんなよ。私は何も企んじゃいないぜ。飛羽が勝ちたいって言うから、勝たせてやっているだけさ」

「それを信用しろというの?」

「信じる信じないは、おまえの自由さ。――そんなことより、あの賭け、忘れてねーだろーな。飛羽が優勝したら、おまえは私の奴隷だかんな」

「まだそんなことを言っているの」

「逃げんなよ。安いもんだろ。飛羽なんか、この大会に命を張ってんだぜ」

「どういう意味?」

「面倒っちーやつだな。いちいち裏があると疑いやがる。意味も何も、そのまんまだよ。じゃあな」

 ヒラヒラと片手を振って、一二三は控え室のドアをノックすると、室内からの許しも得ないうちに、さっさと中へ入ってしまった。


     5


 一二三の過去を聞かされても、飛羽はべつに動揺しなかった。

 海で溺れているところへ、唯一さしのべられた手の主が、脱獄して逃走中の死刑囚だった。

 だからといって、その手を握らないという選択肢があるだろうか。

 ない。

 すくなくとも、飛羽には。

 もっとも、一二三は脱獄囚ではない。ちゃんと罰を受けている。その罰が、彼女の罪にふさわしいものだったかどうかは、個人によって見解が分かれるとしても。

 どうやら、今日、競技場につめかけた観客たちの多くは、罰は軽すぎた、と感じているらしかった。

 ――うおっ、アウェイ。

 コートに出た瞬間、飛羽はゲートに後戻りしたくなった。

 ――どんだけ憎まれてんのよ、一二三ちゃん。

 あからさまなブーイングはなかった。歓迎の拍手すら、あるにはあった。しかし冷え切った場内の空気を暖めるには貧弱すぎた。

 観客は、飛羽を敵視しているのではなかった。

 疑っているだけだ。

 カエルの子はカエル。

 ドーピング女王の弟子も、やはりドーピングしているのではないか、と。

 ――冗談じゃない。

 飛羽は、もちろん薬など使っていない。使おうと考えたことすらない。

 そもそも薬を使うくらいなら、誰が好き好んで、コスプレやら徹夜で素振りやら、あんな特訓を積むものか。

 一二三の現役時代とは違うのだ。違反薬物を使用すれば、必ず発覚する。十重二十重に張り巡らされたドーピング検査の網を、潜り抜ける方法はない。

 観客たちの疑惑は、見当外れもはなはだしかった。

 このいわれのない逆風は、かえって飛羽の闘志をかきたてた。

 周囲すべてが敵ならば、手当たりしだいになぎ倒すまでだ。

 秋の四季杯。二回戦。第6試合。

 睦月飛羽VS秋日理保あきひ・りほ

 試合は、ゆったりとした立ち上がりになった。

 秋日は、用心深かった。

 飛羽の出方を探っている様子が、ありありと伝わってくる。

 飛羽が、秋日のことを研究したように、秋日の側でも、飛羽の一回戦を研究したのだろう。会田が〔竜殺打〕の乱発で自滅したのは、そうなるように仕向けた飛羽の策のせいだったことは、すでに見抜かれているようだ。

 一筋縄ではいかない相手、と秋日は飛羽を警戒していた。

 1対0。

 2対0。

 2対1。

 2対2。

 2対3。

 3対3……。

 ポイントは、一進一退だった。

 点が1つ決まるまでに、最低でも10打以上のラリーが応酬されていた。第1セット開始からの経過時間ははやくも5分を越え、長期戦の様相である。

 二回戦に臨むにあたって、一二三は、戦術の変更を指示しなかった。

 一回戦と同じように戦え、というのだ。

 与午一二三、のたまわく、

 ――『会田の二の舞にはなるまいと、秋日は魔力の節約を心がけてくるだろう。かたやおまえも、魔力の衰退期に入っちまってる都合上、魔力は節約せざるを得ない。あっちも節約、こっちも節約。これで条件は互角になったな』

 一二三はまず人差し指を立て、次に中指を立てた。ピース。

 ――『こっちの土俵に、わざわざ乗りこんで来てくださるんだ。熱烈歓迎してさしあげなきゃ、女が廃るぜ?』

 だから、戦法の変更はなし。対会田戦と同様、粘って粘って粘り抜け。

 飛羽が粘れば、負けじと秋日も粘る。

 畢竟、ラリーが多くなり、試合時間は長引く。

 ――おいでませ。

 飛羽は心で秋日に微笑みかけた。

 ――こっちの土俵は、地獄だよ。

 4対5。

 5対5。

 6対5……。

 地獄なら、いくつも越えてきた飛羽だった。

 昏倒するまで続くランニングや、徹夜の素振り。はたしてこれがトレーニングと呼べるのか。鍛えるどころか、かえって身体を破壊してしまうのではないか。

 募りに募った疑問符を、ついに飛羽がぶつけたとき、

 ――『そうだよ』

 一二三はあっさり首肯した。

 一二三の目的は、破壊にあったのだ。

 7対8。

 8対8。

 9対8……。

 マグバドに限らず、マジカルスポーツの選手には、

『タンクが、二つ』

 ある、といわれる。

 体力のタンクと、魔力のタンクである。

 飛羽と秋日の対決は、まず前者の競い合いとなった。容積がより大きいタンクを有する側へ、やがて趨勢は傾くだろう。

 このままいけば、だが。

 もちろん、いかなかった。

 10対9。

 10対10。ジュース……。

 ジュースは、最大で16点までだ。2点差がつかなくとも、どちらかが16点に達すれば、そのセットは終わる。

 ここまで両者は一歩も引かず、鍔迫り合いのような攻防をくりひろげてきた。

 きっと決着は16リミットポイントまでもつれこむだろう、と観客たちの大半が思った矢先、にわかに秋日の〔竜界路〕が輝きを増した。

風帝テンペスト〕!

 この試合、初の〔竜殺打〕が、秋日のラケットから放たれた。

 それは、極大気圧のカプセルだった。大量の空気を召還し、シャトルにまとわせ、封じ込める。

 カプセルには、真後ろに一穴だけ、針の穴ほどの隙間が開いていた。

 極限まで圧縮された風が穴から噴出し、転瞬。

 シャトルは、音速を超えた。

 一回戦で、飛羽は会田が〔竜殺打〕を放つたびに、勝負を放棄して逃げた。

 ――『逃げろ』

 と一二三に指示されていたからだ。

 一回戦と同じ戦術でいくなら、この〔風帝〕に対しても、逃げの一手を選択すべきとなる。

 前述撤回。

 二回戦に臨むにあたって、一二三は、戦術に一箇所だけ、変更を加えていた。

 秋日の〔竜殺打〕に対しては、

 ――『逃げずに、砕け』

 と。

 秋日の〔竜界路〕が輝いたとき、すかさず飛羽も、自陣の〔竜界路〕へ、気合を入れて魔力を注ぎこんでいた。

 そして〔風帝〕が音速に達したときには、魔力は四枚の〔竜羅〕となって、シャトルの行く手に立ちはだかっていた。

 空気のカプセルを剥ぎ取っても、すぐには〔風帝〕のスピードは落ちない。だがその弾道は、ほぼ一直線である。打つ瞬間のラケットの角度から予測して、着弾点に先回りすることは、飛羽にとって難しくはない。

 渾身のスイングで、飛羽は〔風帝〕を迎え打った。

 シャトルは、打ち返された。

 一糸の攻撃魔法もまとわせてはやれなかったが、ちゃんとした有効打として、秋日のコートへ飛んだのである。

 秋日の表情に、戸惑いが揺れた。

 飛羽は魔力の衰退期に入っている。そう彼女も確信していたはずだ。衰退していないなら、一回戦で飛羽があんな戦い方をした説明がつかない。飛羽に〔竜殺打〕を防ぐ魔力はない。〔風帝〕なら、かならず得点できるはず。

 だが闇雲に〔竜殺打〕に頼ったのでは、会田と同じ轍を踏んでしまうので、秋日は自制していたのだ。〔風帝〕を披露するなら、セットの終盤、あと1点か2点でそのセットをものにできるという局面に限る、と。

 確実に点を奪えるはずの〔風帝〕は、だがしかし、打ち返された。

 秋日の確信が、揺らいでいた。

 飛羽の魔力は衰退していないのでは。一回戦の戦術は、二回戦のための布石――魔力が衰えていると、秋日に信じこませるための罠だったのでは。おかげで試合は、秋日には不慣れな持久戦になった。

 いや、まさか。考えすぎだ。

 でも。

 心の迷いは、打球に伝染する。

 秋日がミスショットを連発したことで、第1セットはあっけなく終結した。

 大きく息を吐き出しながら、飛羽は胸をなでおろした。

 ――危ない、危ない。

 休憩用の椅子へ向かう。そしてゆっくりと汗を拭き、ゆっくりと水分を補給する。

 苦労したのは、ボトルの蓋を緩めるときと、締めるときだった。あやうく、蓋を手から落としそうになる。落としてしまうと、せっかく秋日の胸に芽生えさせた迷いを晴らしてしまうことになりかねないから、必死だった。

 もちろん、飛羽の魔力は衰退している。

 しかし、試合前の魔力計量で失格になるほどには、まだ弱っていない。無理をすれば、敵の〔竜殺打〕を跳ね返すことくらい、まだできなくはないのだ。一試合に一、二回であれば。

 むろん、それには大きなリスクが伴う。Aクラス選手が全身全霊を託して放つ〔竜殺打〕。雪白グリみたいに七枚も重ねられるなら話は別だが、現在の飛羽がひねりだせる〔竜羅〕では、その威力の半分も削れない。インパクトの瞬間、ラケットにかかる重さ・硬さはとてつもなく、一歩まちがうと、両腕の骨ごと粉砕されかねなかった。

〔風帝〕を打ち砕いた飛羽の両手首は、深甚なダメージを負っていた。折れてはいないが、感電したような痺れが骨の芯にまで染み透り、指の自由を妨げていた。もし、あの後にもう一撃、〔風帝〕を撃ちこまれていたら、一回戦と同様に悲鳴を上げて逃げるしかなかっただろう。

 リスクを冒した甲斐はあった。

 おかげで秋日は迷いにとらわれ、第1セットは飛羽のものとなったのである。

 手首の痺れは、なかなか取れなかった。ようやく回復したのは、第2セットの開始寸前だった。

 さて。

 インターバル中に、秋日の迷いは晴れただろうか。

 それとも、まだ迷いの雲の中か。

 後者であってくれ、と願いながら、飛羽は一球目のサーブを、ふわりと打ち上げた。

 とたん、秋日の〔竜界路〕が白く光ったのを見て、飛羽の背筋を悪寒が駆け抜けた。

〔風帝〕!

 ――いきなし!?

〔竜羅〕の準備を――いや、間に合わない。だいいち、こんな序盤で手首に痺れを抱えるわけにはいかない飛羽は、頭が真っ白になった。

 音速のシャトルは、棒立ちの飛羽の足下に突き刺さった。

 圧縮された大気が、解き放たれた。めくれあがったスカートを押さえる余裕もなく、飛羽は、吹き飛ばされないように踏ん張るだけで精一杯だった。

 突風が通り過ぎて、見やれば、秋日の口元に嘲笑があった。

「……にゃろう」

 飛羽は、忌々しげに呟いた。

 目を見交わした瞬間、飛羽は了解した。コート上限定のテレパシー。アイコンタクトだけで、秋日の意図が伝わってくる。

『あんたに振り回されるの、やめたから』

 あえて言葉に翻訳すれば、秋日の目は、そのように語っていた。

『魔法、遠慮なしに使ってくよ。つっても、会田みたいに大盤振る舞いはしないから。いつもどおり、いくだけだから』

 飛羽の魔力は衰退しているのか、いないのか、という迷いを、秋日は吹っ切った。答えを見出したのではなく、問題自体をうっちゃったのだ。飛羽がなにを企んでいようが、そんなの知ったことか、である。

 ――友達になれそうじゃん。

 こういう大雑把さは、飛羽も大いに好むところである。あれこれ悩んで、なんになる。コートに立ったら、全力でぶつかるだけだ。

 飛羽だって、できるならばそうしたい。

 存分に魔法を駆使して、〔瀑飛蛟〕で豪快にとどめを刺したい。

 だがむろん、それはできない。

 自在に魔法を駆使しはじめた秋日の攻撃を、飛羽はこれまでと変わらず体力一辺倒の防御でしのいだ。

 秋日はきっと、飛羽はこの第2セットに懸けている、と考えているだろう。第1セットであれだけ体力を消耗したのだから、飛羽はさっさと勝負を決めるつもりだ、と。魔力が衰退してるなら当然だし、そうでなくとも、ストレート勝ちできるなら、それに越したことはない。

 不正解。

 飛羽は、第3セットまで見据えて、戦っている。

 最初から、フルセット戦う計算で、コートに立っている。

 体力の限界を、超えてやる覚悟で臨んでいる。

 限界とは、なんだろうか。

 到達できる最高の値。

 あるいは、すべて出し切ったあとの、空っぽ。

 ――『「度胸試し(チキンレース)」だな』

 与午一二三は、そう定義した。

 ――『行こうとすれば、まだ行ける。だが、その先に何があるのかはわからない。はっきりしてるのは、進めば進むほど飛躍的に危険が増すってことだけ。だからブレーキを踏む。意識が、無意識が、本能が。本来、人間の肉体は、とんでもない怪力を秘めているんだ。だが強すぎる力は、使い方を間違えると自分自身を滅ぼしかねない。だから、何段重ねにもなった安全装置で、使えないように戒められているんだ。ところが、何かのきっかけでこのブレーキがぶっ壊れることがある。すると誰でも一時的にスーパーマンになれる。いわゆる「火事場の馬鹿力」だ』

 意識的に、ブレーキを壊すには、どうすればいいのか。

 好きなときに、火事場の馬鹿力を引き出すには。

 ――『経験だ。実際に、限界を極めてみるんだ。ここまでやっても、まだ大丈夫だってのを、自分の脳に教えてやるのさ。まだ大丈夫、ほら大丈夫……。繰り返していけば、脳はだんだん麻痺してくる。ブレーキのネジも、どんどん緩む』

 これは非常に危険な挑戦である。

 火事場の馬鹿力を使いすぎると、骨や筋肉が負担に耐え切れなくなり、自壊するおそれがあった。

 ブレーキの壊れた車で、挑むレース。

 待ち伏せるのは、天井知らずの危険である。

 一二三の言った、

『死ね』

 とはつまり、このことだった。

 この大会で死ぬつもりで、消耗品である肉体をぜんぶ使い切ってしまえ、というのだ。

 二回戦、三回戦、準決勝、決勝。飛羽に残された試合は、あと四つ。この四試合で、飛羽の選手生命は尽きる。

 どうせ尽きるなら、すすんで燃やし尽くせ。

 他の選手は、大会が終わった後のことも考えている。全力で、と口では言っても、本当にすべてを懸けるつもりはない。あたりまえだ。たかがスポーツ。引退しても、人生はまだまだ続くのだ。

 もちろん、飛羽にも、その後の人生は、ある。

 これまで生きてきた時間の数倍もの長さになるであろう未来を、満足に歩くことすらできない肉体で送ることになったとしても、

 ――『だからどうした?』

 と一二三は言うのだ。

 ――『マグバドだけで、生きてきたんだろ?』

 ――『だったら、最後まで生き尽くせよ』

 ――『後の人生が、そんなに惜しいか?』

 ――『マグバドのない余生に、価値なんかあるのか?』 

 悪魔の口車。

 果てしなく高価な代償を支払わされることを承知で、なお飛羽はその魅惑に抗えなかった。

 ――この四季杯の間だけ、生きられればいい。

 飛羽は、打球に問いを託した。

 ――この覚悟に、秋日、あんたはついて来れるのか?

 ついて来れない以上、この二回戦は、飛羽のものなのだ。

 フルセットの死闘の果てに、飛羽はそれを証明した。

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