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三章「死神」

   三 死神


『子供の脳内には、別世界に通じる扉がある。

 その世界は、魔力と呼ばれる不可思議なエネルギーに満たされている。

 魔法とは、別世界から汲みだしたエネルギーを、恣意的に使いこなす技術のことである』

 というのは、魔法のメカニズムについて説明した、一つの仮説である。

 この説によれば、別世界への扉――〔魔泉門ませんもん〕は、子供の間しか開いておらず、大人になると閉じてしまうのだという。ちょうど、赤子のうちは誰にもある頭蓋骨の隙間が、成長とともにふさがるように。

〔魔泉門〕はとても狭く、魔力が通ると、ある種の摩擦熱が生じ、脳に負担をかける。その負担が限度を越えると、脳が自衛機能を働かせ、なおも魔法を使いつづけようとする意識を、強制的にシャットダウンする。

 子供にしか魔法が使えない理由や、魔法を使うと熱っぽくなったり、使いすぎると気絶してしまう理由を合理的に説明できているため、この仮説は現在、最も真実に近いと目されている。


     1


 輪切りにした脳の写真を、ずらり、モニターに並べて、医師は、

『ただの脳震盪につき大事なし』

 と太鼓判を押した。

 病院から寮への帰路。

 益居が運転する車の助手席で、飛羽は見るともなしに、窓の外の夜景を眺めていた。

 試合会場では、決勝戦が行われている時刻だった。

「私は、厳しいことを言わなければならない」

 益居が前置きした。

 赤信号で、車はゆるやかに停車した。信号の上にとまったカラスが、首を傾げてこちらを見下ろしている。

 信号が青になり、アクセルを踏みこみながら、益居はきりだした。

「睦月さん。あなた、引退しなさい」

「…………」

「魔力は、誰でもいつかは衰える。それとどう向き合うかは、個人の問題。すぐに見切りをつけて辞めるのも、ぎりぎりまでしがみつくのも、本人の自由。私は最大限、あなたの意思を尊重するつもりだった。どこまでやれば納得できるのか、それはあなた自身にしか決められないし、あなたなら最良のタイミングを見定められると信頼していたから。でも、見こみ違いだったみたいね」

 フェンスに激突して、脳が揺れて、気絶していた二分間。

 たった二分の間に、世界は飛羽を置き去りにして、すっかり様変わりしてしまったようだった。窓の景色も、益居の言葉も、少しも現実らしい気がしなかった。

 ひょっとすると、自分はまだ気絶していて、夢をみているのかも。

 虚しい空想だとは知りつつ、そうであって欲しいと飛羽は願わずにいられなかった。

「無茶な試合をして、あなただけが怪我をするのなら、私がとやかく言えた義理じゃないかもしれない。自業自得だもの。でもね、試合は一人ではできないのよ。試合中、あなたに『もしものこと』があったとする。その結果は、否応なしに対戦相手にも降りかかるの。たまたま運悪くあなたと対戦しただけなのに、想像もできないくらい重い十字架を、一生背負わなければならなくなるの。マギック・バドミントンはね、最悪の場合、命の危険だってあるスポーツなのよ」

 真剣に話すとき、益居は略称を使わない。

『マグバド』ではなく、必ず『マギック・バドミントン』と言う。

 益居は本気だ。

 本気で飛羽に、引退しろ、と言っている。

「あなたにも何度も言ってきたはずよ。スポーツは、ただ勝利すればいいというものではない。大切なのは、競技を通して、人として成長すること。練習や試合であなたが学んだものは、現役を引退した後も、一生消えずにあなたを支えてくれる。私はそう信じている。学ぶためのには、真摯でなくてはならない。対戦相手に対しても、敬意と感謝を忘れてはならない。自分の都合だけを優先して試合をするなんて、言語道断だわ。あなたには、マギック・バドミントンをする資格はない」

 身じろぎもできず、飛羽は窓の外をひたすら凝視していた。

 ――雨だ。

 しかし、すぐに知る。雨など、降り出していなかった。


     2


 黒から青へ。

 青から白へ。

 見慣れた自室の壁の色が、長い時間をかけて変わっていく。

「あ、初体験」

 飛羽は呟いた。

 徹夜のことである。

 飛羽は、カーテンを引き開けた。朝日が目に染みた。眼球の周囲で、血の巡りが滞っているのがわかる。瞬きすると、小石を転がすみたいな感触がゴロゴロしていた。

 疲れはあるが、眠くはなかった。妙に意識が覚醒していて、頭の中心に、冴え冴えとした部分がある。

 ――なるほど。

 これが噂の『寝不足ハイ』か。

 試験の当日などによくいる、目の下に隈をつくりながら、テンションだけはやたらに高いクラスメイトの姿を思い出す。なんだか楽しそうで、ひそかに憧れたりもしたものだが、実際に体験してみると、

 ――あんまり気持ちのいいものじゃ、ないね。

 何事も、自分で経験しなければ、わからないものだ。

 点けっぱなしにしていたテレビでは、虹色、と呼べるほどには美しくない試験電波映像が、唐突に終わったところだった。ベッドに寝っ転がりながら、飛羽は早朝のニュース番組を眺めた。

 国際情勢、強盗事件、交通事故に、芸能人の色恋スキャンダル。

 再放送のドラマを見ているような既視感に、飛羽は襲われた。目新しさなど、微塵も感じなかった。どんな出来事も、過去にどこかで起きたことの繰り返しに過ぎない気がした。

 たぶん、そうなのだ。

 一人のマグバド選手が引退を勧告されたことも、これまで散々くりかえされてきた、

『よくあること』

 にすぎないのだ。

 その証拠に、テレビのニュースにも取り上げられない。当たり前だ。マスコミに取り上げてほしかったら、次に挙げる項目くらいは、すべて満たしてみせせろというのだ。

 まず、美少女で。

 期待の新星で。

 公式戦初出場で。

 並み居る強豪Aクラス選手を片っ端からなぎ倒して。

 いきなり優勝。

 このくらいの条件を網羅してはじめて、スポーツコーナーのトップで紹介される価値が発生するのだ。

『造作もないわ!』

 ドアップ、だった。

 額の上半分と、あごの先端を画面からはみ出させて、雪白グリは、高笑いしていた。

『そんじょそこいらの凡愚どもが、いくら束になろうが相手になるか! 余を何者と心得ておる? 余は……』

 長い睫に縁取られた目を、カッ、と見開き、

『神ぞ!』

 ――大きく出たねえ。

 飛羽は苦笑いした。女王どころの騒ぎではない。一気呵成に雲の上か。

 画面が切り替わると、アナウンサーたちも苦笑していた。と、笑いを打ち消して、

『マグバドファンの皆様には、残念なお報せがあります』

 みなまで聞くまでもなく、天野冴火の引退のことだった。

 昨日の引退会見の映像が流れる。当代きってのアイドル・アスリートは、何も悔いはありません、と言わんばかりに晴れやかな表情をしていた。

 これまで応援してくださって、ありがとうございます、と深々と頭を下げた冴火の姿を最後に、マグバドに関するニュースは終わった。野球、そしてサッカーへと、種目が移り変わる。

「無理しちゃって」

 飛羽は、一瞬アップになった冴火の顔を思い出して、呟いた。どんなに巧みな化粧をしても、白目の充血は隠せない。

 昨日、あんなにあっさり引退表明したものだから、冴火はつらくないのかと思っていた。もちろん、そんなことはなかったらしい。冴火だって、飲み下せないものを、むりやり飲み下したのだ。

 ぐったりとベッドに横たわりながら、飛羽は、画面の時刻表示に目を泳がせた。朝練がはじまる時刻だった。

 反射的に身体を起こして、飛羽の五体は、またヘナヘナと弛緩した。

 昨日は試合だったのだから、朝練は休みだ。

 ――違うか。もう、ずっと休みなんだ。

『日常』という言葉は、飛羽にとっては『練習』の同意語だった。

 練習が消えてなくなってしまったら、いったい、これからどうやって毎日を過ごせばいいのだろう。

 砂漠で遭難したみたいに、飛羽は途方に暮れた。

 マグバドを引退してからのことなんて、引退してから考えればいいと思っていた。

 ようするに、何も考えてこなかったのだ。

 つくづく、自分はマグバドしかしていなかったのだと、思い知る。

 ――とりあえず、大学、かな……。

 学びたいことなんか、何もないけれど。

 その場合、学費はどうするか。親に払ってもらうしかないか。となると、私立は無理だ。桶女に入学したときだって、かなり無理をさせてしまったのである。必ずAクラスになって出世払いで返す、と飛羽は約束し、実際に出世払いしたのだが、今にして思えばあんな約束、親は本気にしてはいなかったろう。なんだかんだで、大事に育ててもらってきたんだな、と飛羽は貯金を使いこまれた恨みを一瞬、忘れそうになった。

 学費はなんとかなるとしても、問題は学力である。いまから受験勉強なんて、想像するのも恐ろしい。はっきり言って、勉強なんかしたくない。

 勉強だけではない。

 したいことなんか、何もなかった。

 飛羽は、ベッドに自分を投げ出したまま、ぼんやりとテレビを見つづけた。再利用の方法すらない廃棄物になった気分だった。プラスチックの破片みたいに、このまま日光にさらされて、風化して粉々になって果てるのだ。すすんでそうなりたいとすら願った。したくもないことを嫌々やって生きるよりも、何もせずにミイラになったほうがマシだった。

 朝の時間は、もどかしくなるほどのんびりと過ぎていった。

 ようやく校舎の玄関が開く時刻になり、飛羽はのろのろと起き上がると、制服に着替えた。

 ――授業に出たからって、なんになる?

 問いかける自分もいたが、

 ――出なかったからって、なんになる?

 問いで返して、部屋を出る。

 そういえば、腹が減っていた。昨日、バナナサンドをつまんで以来、何も口にしていない。

 ――まあ、いいか。

 朝食を抜いたのも、初体験だった。


     3


 一時間目は、どうにかやりすごせた。

 二時間目から、そいつは暴れだした。

「飛羽。うるさい」

 佐野卵が、冷たく言った。

「うう。ごめん」

 飛羽は机に突っ伏して、腹をなでさすっていた。

 荒れ狂う腹の虫は、いっかな鎮まる兆しもない。

 ――なんて、落ちこむのに向かない体質……。

 飛羽は、泣けてきた。

 隣の席から、ため息が聞こえた。つづいて、椅子を引く音。そして卵の声。

「先生ー。睦月さん、具合が悪いみたいなんで、保健室に連れていきたいんですが、いいですか?」

 英語教師は肩をすくめ、うなずいた。

 クラスメイトたちのくすくす笑いを背に受けて、飛羽は卵に寄り添われ、教室を脱出した。

「言っとくけど、相談には乗らないよ」

 購買部の前のベンチに飛羽を座らせながら、卵は予防線を張った。

「傷なめ合うなんて、まっぴらだから」

 卵は購買のカウンターへ行き、特大の紙袋を抱えて戻ってきた。

「ほれ」

 紙袋を飛羽に押しつける。

 ヒラヒラと片手を振って、卵は教室へ帰っていった。

 茶色い紙袋の中には、ぎっしり、パンが詰まっていた。

 桶狭間女子学園の敷地の隅に、合気道場がある。

 もともと慢性的な部員不足に悩まされていた合気道部は、講師が高齢を理由に退職したのを機に、三年前に廃部になっていた。

 以来、使用者のいなくなった道場は、格好の日向ぼっこスポットとして、昼休みになると取り合いが起こるほどの人気を博している。

 雨戸を開ければ、即、縁側。

 これがまた、座ってほのぼのするのにも、寝そべって居眠りするのにも、実に具合のいい縁側なのである。

 その縁側に腰かけて、足をブラブラさせながら、

「カスタードクリームコロッケパン」

 飛羽は棒読みして、パッケージをひっくり返した。カロリー表記が目に留まった。1260キロカロリー。

 ――栄養たっぷり。良いパンだ。

 パクリ、ひとくち。

「……おいし」

 牛乳の一リットルパックに直接口をつけ、ゴクゴクと飲む。

 いい日和だった。

 飛羽は、牛乳を最後の一滴まで飲み干すと、そのまま仰向けに寝そべった。十字架みたいに、両腕をひろげる。

 夏と秋との狭間の季節。

 陽射しはギラつき、肌に熱い。その熱さもまた、心地よかった。首から上は庇の影に入っているので、まぶしいということもない。

 飛羽はうとうとしてきて、あっけなく眠りに落ちた。

 …………バッ!

 ……バッ!

 バッ!

 風を砕く音がする。

 切る、というようなスマートな響きではない。

 破壊。粉砕。爆破。

 力のかぎりに叩きつけ、力まかせにぶち破る。

 百獣の王の咆哮のごとき、乱暴で、強引で、問答無用の迫力が、その音にはあった。

 ――きれいなフォーム。

 薄目を開けて、飛羽は思った。寝ぼけ眼の、ぼやけた視野のなかで、その人のラケットを振る姿だけが鮮明だった。

 その人は、額の汗を手首で拭いながら、ふりかえった。

「お。やっと起きた」

 太陽は、やや西寄りに位置を変えていた。昼休みが終わって、少し経った頃だろうか。

「さすが桶女は、お嬢さま学校だね。いやー、広くて参ったよ。迷っちまってさ。案内してくんない?」

 男みたいな、荒っぽい言葉遣いだった。

 ――背、高けー……。

 彼女が近づいてくるにつれて、見上げる飛羽の首の角度が、みるみる急になっていく。

 2メートル近いのではないだろうか。飛羽の知り合いでは、卵が179センチで一番の長身だが、その卵よりも10センチ以上、彼女は背が高かった。

 年の頃は、益居監督と同じくらいか。赤いキャップをかぶって、長い黒髪を無造作にうなじで束ねている。Tシャツの上に半袖シャツ、ジーンズにスニーカーと、色気も性別もへったくれもない服装だ。

 間近まで来て飛羽を見下ろし、彼女は、おや、と眉を動かした。

「おまえ、睦月だろ。睦月、飛羽。マグバドの」

 飛羽の顔を指さす。

「違った?」

「そうです、けど」

「昨日のあれ、最高だったよ。フェンスにダイビングヘッド。あんな思い切りのいい頭突き、はじめて見た」

 ケタケタと笑う。

「そいつは、どうも……」

 飛羽は口角をヒクヒクさせた。

 ――無神経な。

 打ち所が悪ければ、この世にいなかったかもしれないのだ。

「ちょうどいいや」

 彼女はきびすを返すと、地面に置きっぱなしにしていたバッグから、ポテトチップスが入っているような筒を出した。飛羽にはなじみの筒だった。バドミントンのシャトルの容器だ。

 左手に三個、シャトルを握って、彼女は右手のラケットをふりかぶった。

「へ?」

 呆気にとられる飛羽の顔面めがけ、スマッシュ。

 飛来した剛速球に、飛羽はとっさに手をかざした。キャッチ成功。

「そら、そら!」

 すかさず、彼女が連続スマッシュ。

「うわっ、はむっ!」

 二球目もキャッチして、両手がふさがる。やむをえずに、飛羽は三球目を口で受けた。これまた成功。前歯が痛い。

 ――あたしは、犬か。

 ぺ、と吐き出し、彼女を睨む。

「なにすんですか!」

「とりあえず、動体視力と反射神経は合格、と」

 彼女はバッグからもう一本ラケットをとりだして、飛羽へ投げて寄越した。マグバド用のラケットよりも、シャフトが細く、グリップが短い。魔法なしの、ただのバドミントン用のラケットだった。

 白い歯を見せて、彼女は言った。

「なにはともあれ、勝負しようぜ」

「なにがともあれ、ですか!」

「いいから、いいから」

 二の腕をつかまれ、縁側から引っ張り出される。

「サーブ権は私からだから。あと、わかってんだろうけど、魔法は禁止ね」

 反論をさしはさむ隙を与えず、彼女ははやくもシャトルを頭上へ、高く放った。

「ちょっと、サーブは、腰の下!」

「無視、無視。うりゃ!」

 ドン!

 発砲した。

 と形容するのが相応しいような、弾丸サーブだった。

 ――なめんなっ!

 どこの誰だか知らないが、飛羽はまだ公式には現役Aクラスプレイヤーだ。こんな、速いだけの棒球など、

「せぁ!」

 フルスイングでかっ飛ばした。

 ――どうだ!

 と飛羽の瞳がきらめいた、転瞬。

 ゴッ!

 飛羽の眉間に、二個目のシャトルが、突き刺さった。

「言いそびれたけど、シャトルはダブルね、この勝負」

 のけぞって倒れようとする飛羽へ、ニョホホ、と彼女は笑った。

「……こ、のぉっ!」

 後頭部が地面に接する寸前で、飛羽は踏ん張った。腹筋と背筋をフル活動させて、手を使わずに起き上がる。

「もう、あったま、きた!」

「きたら、どうした?」

「容赦しないからな! あたしを怒らせたこと、後悔させてやる!」

「おー、迫力満点。いいよ、いいよ」

 モデルを脱がせようとするカメラマンみたいに、彼女はおだてた。

 その余裕が、飛羽の炎に油を注いだ。ラケットを、彼女のほうへ突きつけて、

「次のサーブは、あたしからだから!」

「でもルールじゃ……」

「無視、無視!」

 彼女は口辺に微笑をただよわせ、抗議せずにひきさがった。ラケットをかまえる。

 ――できる……!

 飛羽の心に緊張が走った。

 かまえを見れば、わかる。このノッポ女、只者ではない。

 だが、只者でないのは、飛羽だって同じだ。

 飛羽は、シャトルを二個、いっぺんに放り投げた。

 上段打ち(オーバーハンド・ストローク)でまず一個、返す刀の下段打ち(アンダーハンド・ストローク)で、もう一個。

 番の白い鳥のように、二個のシャトルを、青空へ射出した。

 ネットもなければ、サイドラインもエンドラインもない。合気道場前のただの野原を、二個のシャトルは、忙しなく飛び交った。

 両者の実力は、伯仲していてた。

 勝負の行方は混沌とし、足元の狙い合いになったり、顔面へのぶつけ合いになったり、勝負の内容もそのときどきで変遷した。二個のシャトルを同時に使っているややこしさもあつて、じきにどっちがポイントをリードしているのか、わからなくなる。

 勝負に熱中するほどに、飛羽の頭の中は、空っぽになっていった。得点なんて、もうどうでもよかった。要は、目の前のこいつをぶっ倒せれば、それでいいのだ。目的はシンプルに研ぎ澄まされていき、やがて、その単純化した目的すら、意識の遥か彼方へ消し飛んだ。燦々と注ぐ陽射しの下で、汗だくになってラケットを振る。それだけでよくなる。

 たっぷり三十分以上、二人は無心で動き回った。

 シャトルが二個とも落下したのを潮に、どちらからともなく、膝をついた。

 ゴロリと寝転がって、大の字が二つ、地面に並んだ。

「なかなか、やるじゃ、ないか」

 苦しい呼吸の合間を縫って、彼女が言った。

「こっちの、セリフ、です」

 敬語に戻して、飛羽は言った。体育会系で育っているので、年上と話す場合、『です・ます』調のほうがしっくりくる。

「私とここまで張り合えるやつは、世界ひろしといえど、二百人くらいしかいないぜ」

「たくさんいるんですね」

「少ないだろ。全世界でだぞ」

 彼女は立ち上がった。服についた砂や草の葉を払い落としてから、飛羽へ手を差し伸べる。

「どうも」

 断るのも変なので、飛羽は素直に立たせてもらった。

「なんの。敗者に敬意を表するのは、勝者の義務だからな」

「はあ? いまの勝負に、勝ち負けなんかないでしょ」

「じゃ、言ったもん勝ちだ。やっぱり私の勝ち」

「子供ですか?」

「やーい、負け犬」

「負けてません! 最後にシャトル落としたの、そっちじゃないスか」

「先に倒れたのはおまえ。だから、おまえの負け」

「いいえ、あたしの勝ちです!」

「はー、敗北を認めない敗者くらい、見苦しいもんはないね」

「見苦しいのはそっちでしょ、年上のくせに!」

「聞こえない、聞こえなーい」

 彼女は両手で耳に蓋をした。

 ――こいつ……!

 飛羽は握りしめた拳を震わせた。こんな大人にだけはなるまい、と誓う。

「ところで、いま何時?」

 彼女に訊かれて、飛羽はそっぽを向いた。

「知りませんよ」

「ちっと、やばいかな。益居のあの短気が、直ってるとは思えねーし」

「益居監督と、お知り合いなんですか?」

 監督の名を口にすると、飛羽は気持ちが暗くなった。昨夜の車内での益居の言葉が思い出される。

「腐れ縁ってやつかな。あっちは私のことなんか、忘れてっかもしんねーけどね。ん、どうした? 浮かない顔して?」

「あ、いえ、べつに」

「ふーん。じゃ、あらためて、案内してくれよ。マグバド部に」

「いいですけど、何の用ですか? ていうか、あなた、誰なんですか?」

「ヒ・ミ・ツ」

 彼女は器用に片目を瞑った。


     4


 体育館では、部員たちがすでにかなりの量の汗を流していた。

 益居監督謹製の練習メニュー――別名『地獄百景』――を、必死の形相で消化しているその群れから、飛羽は花を引っ張り出した。

「遅刻は、コートダッシュ50往復の刑ですよ!」

 花が唇を尖らせる。どうやら益居はまだ、飛羽の引退のことを部員たちに話していないらしい。

「お客さん案内してきたんだけど、兎ちゃんはどこ?」

「お客さん?」

 飛羽の後ろにそびえる影を、花は見上げた。

 男でもなかなかいない長身の主が女だとわかり、ポカンと口を開けている後輩の肩を、飛羽はポンポンと叩いた。

「どこ?」

「あ、すいません。監督なら、監督室です。カミサマと、何か話してます」

「了解」

 運動部の部室が入っている部室棟は、戦後すぐに建てられた旧校舎を改装したものである。

 歴史を感じさせる佇まいは、趣があって味わい深い、と言えなくもないが、率直に言えば、

『古くて、ボロい』

 マグバド部の領域は、一階の西南の角である。東側から用具室、更衣室、監督室の順で、三部屋が割り当てられていた。

 軋む廊下を歩くごとに、飛羽はだんだん息苦しくなっていった。

 昨夜、ああは言った益居監督だが、言い過ぎだったといまは後悔しているかもしれない。引退はまだ先でいい、と訂正する気になっているかも。

 淡い期待と、そんな虫のいい展開にはならない、と否定する気持ちとが、争いあって胸を圧迫する。

 もしも、引退しなくてもいい、と許されたとして。

 これ以上、マグバドを続けたとして、だからどうなる。

 いまさら、飛羽に何ができるというのか。

 ドアに拳をかざしたまま、飛羽はすぐにはノックができなかった。『お客さん』の視線を首筋に感じて、やっと意を決する。

 室内からの応答を待ってドアを開けると、益居と戸上が応接セットに座っていた。

 益居と合ってしまった目を、飛羽は反射的にそらして、

「あの、お客さまを、ご案内してきました」

「どこに行ってたんですか!」

 戸上が立ち上がって、『お客さん』を咎めた。

『お客さん』は毛ほども悪びれず、

「大事な話の前にトイレに行っとこうと思ってさ。行くには行けたんだけど、帰り道がわかんなくなっちゃって。散歩してきた」

「勝手にいなくならないでください。お願いしますよ……」

 戸上は益居に向き直って、

「たいへん失礼しました。こちらが、いまお話した、副監督をつとめていただくことになった……」

「まさか、与午よごさん?」

 眉をひそめて『お客さん』の顔に見入っていた益居が、信じられない、という顔つきになった。

『お客さん』は、気軽に片手を振って、

「よ、益居。久しぶり」

「冗談じゃないわ!」

 益居が高い声を発した。

「与午さんが副監督? そんな、バカな話……」

「もちろん冗談ではありませんし、バカでもありません」

 戸上は落ち着き払って言った。

「益居監督も、ご承知してくださったではありませんか」

「副監督の就任についてだけです。相手が与午さんだなんて、聞いていません」

与午一二三ひふみ副監督の、何が不満だというのですか?」

「彼女がどんな人かは、戸上さんだって、ご存知でしょう?」

「経験、技術、知識、どれをとっても申し分のない人物だと認識しています」

「どこがですか!」

「困りましたね。学園長には、すでにご了解していただいているんですが」

 飛羽は、ちょっと圧倒されていた。

 益居監督の激しやすい性格は飛羽もよく知っているが、ここまであからさまな反感をむきだしにするのは珍しい。

 まるで親の仇にでも巡り会ったみたいだ。

「ずいぶん嫌われたもんだね」

 与午が肩をすくめた。

 益居は言った。

「副監督なんて、そもそも必要ないんです。戸上さんがどうしてもとおっしゃるので、しぶしぶ承諾しただけです」

「本当に必要ないんですか? 強豪校では、監督の下に二、三人のコーチがいるのが普通ですよ。専属のコーチと契約しているAクラス選手だって、珍しくないんですし」

「うちの部員たちには、自分のことは自分でするように指導しています。大人がそばに付き添ってやらなければならないような、情けない部員はいません」

「ほう。では、どうして昨日のような事故が起こったんでしょうか?」

 戸上が、ちらり、飛羽に目をやった。

「それは……」

 益居が言葉に詰まった。

「あなたには助けが必要なんですよ。与午さんとは初対面ではないんですし、すぐに打ち解けられますよ」

 益居が、下唇をかんで、飛羽を見つめた。

 その瞳の色を見ただけで、飛羽は彼女が何を言おうとしているか、わかった。

 ――待って!

 制止したかったが、声が出なかった。

「睦月の事故は、私の監督不行き届きでした。どのような処分でも、あまんじて受ける覚悟です。睦月にも、引退するように勧告しました」

 益居の言葉は、戸上にも意外だったらしい。余裕の笑みが、一瞬、消えた。

 益居は、飛羽へ、

「ごめんなさい。昨夜は言い過ぎたわ。でも、言った内容は間違っていなかった。あなたは、もうマギック・バドミントンを卒業するべきよ」

「おいおい、待てよ」

 与午が言った。

「事故ってのは、フェンスにつっこんだ、あれのことだろ。そんな大層なことか? ガッツに溢れてて、むしろ私ゃ、感動したけどね」

「無責任なこと、言わないで」

 言下に益居が遮った。

「衝突したのがフェンスで幸運だったのよ。もしも、あれが魔球だったら、睦月さんは大怪我を、いいえ、怪我だけじゃすまなかったかもしれないのよ」

「フェンスだから、ぶつかっちまったのさ。シャトルだったら、睦月だってラケットで受けていたよ。選手だったら誰だって、反射的にそうしちまうもんさ。な、睦月?」

「睦月さんが注意散漫になったのは、魔力の衰退が原因なのよ。他の原因なら直せるけど、これは直せないどころか、どんどん悪化する。それでも試合に出たいなら、自分の現状を客観的に把握できなくちゃならない。自分にいま、どこまでのプレーができるのか理解したうえで、いざ試合に臨んだなら、いままでよりも一層の集中力を発揮しなくちゃならない。彼女には、それができていない。危険すぎるわ」

「だから引退しかないって?」

「これがベストの選択なのよ」

 益居は言い切った。

 飛羽は、一言も口をはさめなかった。益居の決心にゆるぎのないことを思い知らされ、目の焦点が合わなくなる。吐き気が、のどをせり上がってきた。三半規管が乱れ、ぐるぐると世界が回りはじめた。

「わかりました」

 戸上が、事務的な口調で言った。

「では、お申し出もあったことですし、益居監督には昨日の事故の責任を取って、辞任していただきましょう。後任は、とりあえず与午副監督に昇格していただくしか、ないでしょうね」

 益居が、ハッとなった。

 戸上はつづけた。

「監督不行き届きだったと、あなたがご自分でお認めになったんですよ? 睦月選手は引退させるのに、ご自分は監督の椅子に居座るなんて、そんなわけにはいかないでしょう?」

「……何を、企んでいるんですか?」

 青ざめた顔で、益居が問うた。

 戸上は脚を組み、苦笑した。

「人聞きが悪いですね。何も企んでなんかいませんよ」

「私の部員たちに、いったい、何をするつもりですか?」

「もう『私の部員』ではないでしょう? いいですか、どんな処分でも受けるとおっしゃったのは、あなたなんですよ?」

 戸上は余裕綽々だった。子供の駄々をあやしているみたいだ。

「まあ、待ちなって」

 与午一二三が、進み出て言った。

「じゃ、一つ、賭けをしてみないか。私と益居とで、サシの勝負さ」

 戸上が戸惑いの表情を浮かべた。

 口を開きかけた彼を、与午は手で制して、

「益居が勝ったなら、私はおとなしく退散するよ。監督辞任の件も取り消しだ」

「何を言い出すんですか。せっかく、いま……」

 声をあげる戸上を、与午は相手にせず、

「私が勝った場合は、もちろん監督は私。そして益居には、副監督をやってもらう。そのときは私の命令に絶対服従すること。どんな場合にも逆らうのは禁止とする。任期は最低でも一年。トンズラはさせない。つまり一年間、益居は私の奴隷になるんだ。――で、肝心の賭けの内容だけど……」

 ニタニタと、与午は発達した犬歯をのぞかせた。

「私がコーチする選手が、今度の四季杯で優勝するか、しないか。優勝したら、私の勝ち。しなかったら、おまえの勝ち」

 与午は、自分と益居とを、交互に指さした。

 黙って聞いてた益居が、プッ、とふきだした。

 笑ったのは一瞬で、一層倍の怒りを、震えた声にみなぎらせる。

「からかうのはいい加減にして」

「からかっちゃいないよ。本気で言ってんのさ」

「もし万が一、本気で言っているなら、あなた、どうかしてるわ」

「そうかい?」

「だいたい、誰をコーチするというの? 私の部員には、指一本だって触れさせないわよ。たとえ刺し違えたって、守ってみせる。あなたなんかの好きにはさせない」

「刺し違えて、って時代劇かよ。ま、それでもいいさ。おまえの部員になんか頼らなくたって、選手なら、ここにいるしな」

 与午は飛羽の肩を抱いて、自分の胸に引き寄せた。

「睦月飛羽。こいつが、私の選手だ」

「え、えっ?」

 とつぜんのなりゆきに、飛羽は目を白黒させた。

 与午は益居に言った。

「睦月は引退なんだろ? なら、もうおまえの部員じゃないよな?」

「何を言い出すかと思えば……」

 益居はかぶりを振った。

「四季杯だなんて、出たいと言って出られる大会じゃないのよ」

「出られるさ。な、戸上さん?」

 水を向けられ、戸上はうなずいた。与午に対して何か言いたそうな、不服そうな面持ちだが、とりあえず質問に答える。

「正式な発表は明日ですが、四季杯をスポンサードしている関係で、我が社には一足早く、出場者の選考結果が伝えられているんです。再来週に開催される秋の四季杯に、桶女マグバド部から選出された選手は三名。大海晃選手、貴田花選手、そして睦月飛羽選手、君だ」

「ええっ!?」

 飛羽は素っ頓狂に叫んだ。

 叫ぶに値する、驚きの報告だった。

「間違いではないんですか?」

 益居が質した。

「確定情報です」

「ですが、一つの学校から、三人もなんて」

「学校は関係ありません。純粋に、実力への評価です。……と言いたいところですが、睦月選手に関しては、直前までは圏外だったようです。天野冴火選手が引退したので、次点だった彼女が繰り上げ当選になったんですよ。――ですので、カイナ社としましては、現時点での睦月選手の引退を認めるわけには参りません。なんとしても四季杯に出場し、我が社の製品の優位性をアピールしていただきます」

「賭けの条件は整ったな」

 与午が言った。

「私が睦月を優勝させた暁には、益居、おまえは私の奴隷だ」

「睦月さん」

 与午を無視して、益居は飛羽に向き直った。

「辞退しなさい」

「おいおい」

 と与午。益居はとりあわずに、

「状況がどうなろうと、私の結論は変わらないわ。あなたは、引退すべきです」

「だから、勝手に決めつけんじゃねーよ。監督様は神様か?」

 与午が気色ばんだ。

「引退するにしろ、しないにしろ、決められるのは睦月本人だけだろが。こいつの人生なんだぜ」

 そして与午は、飛羽を見下ろし、言った。

「さあ、選べ。益居に従って、四季杯に出場せずに引退するか。それとも私に従って四季杯のチャンピオンになるか。誰も無理強いはしない。選ぶのはおまえだ」

 言い切って、飛羽の答えを待つ。

 益居も、戸上も、沈黙した。

 大人たちの視線を一身に浴びて、飛羽は膝がふるえはじめた。

 ――なに? なんなの? この状況?

 混乱していた。急激すぎる状況の変化に、意識がついていかない。

 ――選べって、そんな……。

 とにかく与午を選べば、どうやら四季杯に出られるらしい。全マグバド選手が憧れる、夢の舞台に立てるのだ。なによりも、まだマグバドを諦めなくてもいいのだ。

 ――けど。

 益居の表情をうかがう。硬質な瞳が、飛羽の心を見透かすように、こちらを直視していた。

 桶女に入学してから、飛羽はずっと益居に従ってきた。マグバド選手としての飛羽を、益居以上に把握している人物はいない。彼女が引退しろと命じるなら、それはきっと、この世でいちばん正しい判断なのだ。

 だいたい、いまさら何ができるのか。衰えた魔力は回復しない。四季杯に出場しても、どうせ醜態をさらすだけになるのは目に見えている。潔く引退したほうが、きっと傷は浅くてすむ。

 ――けど……。

 ――けど!

「やめたく、ありません」

 迷いの霧のなかから、言葉は唐突にこぼれた。

 ひとつこぼしてしまうと、あとは自動的だった。あとからあとから、言葉はひとりでに飛羽の口をついて出た。

「まだ辞めたくありません。あたし、まだ、何も出来ていないんです。まだ優勝したことないし、まだまだ勝ちたいし、お金なくなっちゃったし……納得できてないんです。やりきったって、思えない。まだまだなんです。あたし、まだまだなんです!」

 飛羽は、泣き出していた。

「いま辞めたら、絶対、後悔します。一生、後悔し続けます。だから、だから……」

 飛羽の声が途切れると、与午は勝ち誇った笑みを益居に向けた。

「だそうだぜ?」

 益居は、くやしそうに口を引き結んだ。

「よし。賭けは成立だ」

「待って。賭けなんて、私は……」

「逃げるのか? 教え子をここまで追いつめといて、ずいぶん卑怯じゃないか。おまえの大事な部員たちが知ったら、なんて言うかな?」

 益居をやりこめて、そして与午は、飛羽のあごをつまみ、仰向かせた。

「いつまでも泣いてんじゃねーぞ。たったいまから、おまえの肉体も精神も、全面的に私の所有物だ。涙の一滴だって、勝手に流すのは許さねー」

 与午の表面から、いっさいの甘さが消えた。

 食い殺されそうな迫力に、飛羽の涙も呼吸も止まった。

 氷柱を心臓に突き刺すように、与午は、言葉を飛羽に突き刺した。

「そんじゃ、コーチとして、最初の命令だ。飛羽。おまえは、いっぺん死ね」


     5


 きっと、言葉自体に意味などないのだ。

 なめられないために、出会い頭に強烈なのを一発、ぶちかまし。

 そんなところだろ、と飛羽は見当をつけた。

『いっぺん死ね』!

 実に、ありふれた脅し文句である。

 あいにくと、そんな一言で砕かれるほど、飛羽の自尊心は柔弱ではなかった。さっきは引退のことで頭がいっぱいで、おもわず気を呑まれてしまったが、罵詈雑言を怖がっていては運動部はやっていられない。

「いい天気」

 踊りだしたいくらい明るい気分で、飛羽は深呼吸した。肺まで青く染まりそうな青空だった。

 監督室でのあのやりとりから、かれこれ三十分が経とうとしていた。正門前で待つように、と飛羽に言い置いて、一二三はどこかへ行ったきりだ。

 ――慣れないことは、するもんじゃないね。

 飛羽は反省した。

 辞めるべきか、続けるべきか。

 くよくよ思い悩むなど、飛羽の人生において前代未聞の事態だった。またもやの初体験。そりゃ、弱気にもなろうというものである。

 ――もう、やるしかないんだ。

 いったん決断してしまうと、嘘みたいに心は晴れて、すっきりとしてしまった。

 まだマグバドを続ける。

 まともには戦えないかもしれない。

 見苦しい試合をして、恥の上塗りをするだけかもしれない。

 ――そうなったら、なったで。

 しようがない。

 そのときはそのとき、落ちこむしかない。

 投げやりかもしれないが、飛羽はすこぶる前向きだった。

 ――まだ、やれるんだ。

 マグバドが。

 また、やれるのだ。

 飛羽は、ニヘニヘと笑っていた。相当、不気味な顔になっているだろうが、こみあげてくる衝動は、どうしようもない。ふんぞりかえって、呵々大笑したいくらいなのである。

 ――四季杯。四季杯。四季杯!

 国内マグバド選手の頂上決戦。その出場メンバーに選ばれたのだ。天野冴火の後釜、というのはちょっと気に食わないが、それでも、嬉しいことには変わりはない。

「ちっとはマシな面になったな。ふっきれたか?」

 銀色の自転車に乗って、与午一二三はあらわれた。いつも益居監督がランニングのときに乗っている自転車だ。

「そんじゃ、まずは質問。四季杯の開催はいつだ?」

 後輪をドリフトさせて停車させ、一二三は問うた。

「来週末です」

「正解。では次。運に恵まれて補欠出場が決まった睦月飛羽が、一回戦を突破できる確率は?」

「……60パーセントくらいかな?」

「前向きなのは悪くない。自信も、過剰なくらいでちょうどいい。残念なのは、客観性が著しく欠けている点だな。自分も周りも見えてない。煎じ詰めて言っちまえば、おまえはバカだ」

 飛羽は、うっ、と後ずさった。

 一二三は、断言した。

「はっきり言うが、このままいって、おまえが一勝でもできる確率は、ゼロだ」

「ゼロって、そんな」

「ゼロだ」

「何事にも、絶対は、ないわけだし」

「絶対は、ある。脳細胞の一番底に刻んどけ。『ラッキーパンチは当たらない』んだ。絶対に」

「で、でも、優勝しないと、いけないんでしょ?」

「そうだ。だから、おまえには、いっぺん死んでもらう」

「それ、どういう意味なんですか?」

 まさか、字面の通り、

『生命活動を停止しろ』

 ではあるまい。

 選手生命のことだろうか。だが、引退を迫ったのは益居で、それを制止したのが一二三である。

 わけがわからずにいると、一二三は自転車から降りて、飛羽に歩み寄り、急にしゃがんだ。

 無造作に、飛羽の制服のスカートを、ペロッ、とめくる。

「うおっ」

 驚いて、飛羽は一二三から距離をとった。

 一二三はしゃがんだまま、肩を落とし、ため息をついた。

「なんなんだ、それは?」

「こっちのセリフですよ! なんなんですか」

「その、色気絶無のパンツはなんなんだ? おまえ、女子高生だろ。リボンとかレースとかピンクとか黒とか水玉とか縞々とか、あるだろ、もっと! さらに『うおっ』だと? 悲鳴のつもりか? 『きゃあ』だろ、『きゃあ』。手で押さえようともしねーし、恥じらいはないのか!」

「女同士で、恥ずかしいも何もないでしょ」

「バカ野郎っ。対戦相手は、みんな女だろうが」

 ――わけわからん。

 飛羽は本格的に困惑した。

「先が思いやられるぜ」

 一二三は立ち上がり、ふたたび自転車にまたがった。

「うだうだ言ってても埒が明かねー。とにかく特訓開始だ。走るぞ」

「あ、はい。じゃあ着替えてきます」

「必要ない。そのまま走れ」

「え、でも」

「私服でミニスカ持ってんのか? 持ってねーんだろ、どうせ」

「なんでミニスカ指定なんスか」

「なんでもだ。おら、スタート!」

 一二三が、正門の外を指差した。

「外、走るんですか?」

「あたりまえだろ。ろくに坂もない学園内を走って、トレーニングになるかよ」

「けど、外は、男の人も、いるし」

 飛羽はもじもじした。急に、下半身が頼りなく感じる。

「男に見られるのは恥ずかしいのか。屈折したやつだな」

「正常だと思います」

「だったら好都合だ。よし、とりあえず全力疾走で一キロ。行け!」

「全力って、スカート、確実にめくれますって」

「行けっ!」

 鬼の形相になって、一二三は命じた。

 ――ああ、もう、なんなの?

 一二三の剣幕に抗しきれず、飛羽は泣く泣く、走り出した。

 まさか、ぶっ通しで六時間も走り続ける羽目になろうとは、夢にも思っていなかった。


 飛羽は、力尽きた。

 公園の、ブランコの横を通りかかったとき、飛羽は膝から崩れ落ちた。

 とっぷりと日が暮れていた。

 もう走れない。歩くこともできない。それ以前に立てない。

 心肺への負荷は、とっくに限界値をふりきっていた。一二三がリードするランニングのペースは滅茶苦茶だった。平常走行の合間に、数キロの全力疾走を何度も、気まぐれとしか思えないタイミングでさしはさむのである。一秒たりとも休憩は認められず、立ち止まろうものなら、容赦なしに平手で背中をどやされた。途中、飛羽は何度も嘔吐した。

 ――もうダメ。死ぬ……。

 飛羽は大の字になって、酸素をむさぼった。カラカラに渇いたのどがひりついた。水が欲しい。飲み込んだとたん、きっと胃が受けつけずに戻してしまうだろうが、それでもよかった。水が飲みたい。

 そのとき、渇望していた液体が、天から飛羽の顔面を打った。口と鼻をめがけて、ドボドボ、あとからあとから注がれる。呼吸が出来なくなり、飛羽は顔をそむけた。

「誰が寝ていいって言った?」

 一二三が、ペットボトルをさかさまにしていた。

 キャップの鍔に街灯の光が遮られ、一二三の顔は闇そのものだった。

 ――笑ってる?

 そんな気がして、飛羽は悪寒に襲われた。

 500ミリリットルのペットボトルは、すぐに空になった。飛羽は意地になって口を閉ざし、一滴も飲まなかった。

「大股ひらいて、恥ずかしくねーのか? いつ男が通りかかるかわかんねーぞ」

「……パンツなんて、どうでもいいっス」

 飛羽の声は、擦り切れてガラガラだった。

「情けねーなー。まだ百キロも走ってねーぞ」

「あたし、マラソン選手じゃ、ないし」

 一二三は首をめぐらした。何かをみつけて、そちらへ去る。戻ってきたとき、その手には金属バットが握られていた。草野球などで使われるものより一回り小振りだった。子供の忘れ物なのだろう。

 飛羽の耳のそばに、ゴツ、と一二三はバットの先端をつきたてた。

「立て。ロードワークは終了にしてやる」

 よろよろと立ち上がった飛羽に、柄のほうを向けてバットを手渡す。

「次は素振りだ。それをラケットだと思って、片手持ちで五百回ずつ振れ」

「素振り千回ですか」

 飛羽はホッとした。そのくらいなら、毎日振っている。

「はやとちりすんな。五百回ごとに右手と左手を交代、って意味だ。右のフォアで五百振ったら、次は左でも五百、その次はバックハンドで右五百、左五百、そしたらフォアに戻してまた右五百。休みなしで振り続けろ。朝までな」

「は?」

「朝まで、徹夜で素振りだ」

「はあ!?」

「ほら、開始っ!」

 一二三は手を打ち鳴らした。顔つきも声も、冗談を言っているふうではない。

 ――マジで言ってる!?

 飛羽は全身から血の気がひいた。恐怖が、指の先まで染み渡る。

 恐怖は、瞬時に裏返り、怒りへと変質した。

 カッ、と飛羽の内部で、赤い色が炸裂した。

 夕飯時の夜のしじまをぶち破って、甲高い音が空に木霊した。

 反動で、飛羽の右腕は肩まで痺れた。

 力任せに叩きつけたバットは、ブランコの支柱に強度で負けて、くの字に折れ曲がっていた。

「ふざけんなっ!」

 飛羽は叫んだ。

「こんなの、トレーニングになるかっ!」

 一二三は胸高に腕を組み、黙っている。

 キャップの陰からこちらをのぞいている暗い瞳へ、飛羽は声を叩きつけた。

「走って、動いて、ただそれだけで強くなれるんなら、誰が苦労するか! 徹夜で素振りなんて、肩をつぶすのがオチじゃない!」

 一二三が口を開く。

「つまり、おまえはいままで、徹夜で素振りをしたことがないんだな?」

「あるわけないでしょ!」

 一二三は、ゆっくりとかぶりを振った。

「私がなんて言ったのか、忘れたのか?」

 飛羽は答えなかった。噛みしめた歯をむきだす。

 一二三はつづけた。

「『死ね』と言ったんだ。なにが肩がつぶれる、だ。肩くらい無くなったって、死にやしねーよ。この、甘ったれたガキが」

 つばを吐き捨てる。

「Aクラスに居続けるだけで満足しやがって。おまえはな、便器にこびりついて、いつまでも流れねーウンコと変わらねーんだよ」

「汚い言葉で罵って、それで黙ると思ってるなら……!」

「益居がなんでおまえを見棄てたか、教えてやろうか? あいつも、私と同意見だからだよ」

「デタラメ言うな!」

「これ以上マグバドをつづけたって、おまえは変われない。ウンコのまま、悪臭を撒き散らすだけだ。益居は優しいからな。苦しみが長引かないように、ひとおもいに首を刎ねてやることにしたのさ。だが、おまえはウンコだから、あいつの優しささえ理解できない」

「黙れっ!」

 一二三の手がのびて、飛羽の手首を握った。

 力任せに、引き寄せられる。

 逃れようと、飛羽はもがいた。しかし一二三の身体は、どこも鋼鉄で出来ているみたいで、殴っても蹴っても、ビクともしなかった。

 屈するものか、と飛羽は一二三の目を直視した。

 ――え?

 うろたえる。

 一二三の眼差しが、一瞬、かよわく揺れて見えた。まるで迷子の子供が、頼れる大人を探しているように。

 錯覚か。瞬きして見直すと、やはり一二三の眼球は、数億年前から融けていない氷のように冷たく、硬かった。

「マグバドを引退して、おまえは生きられるのか?」

 一二三は、静かに問いかけた。

「自分にはマグバドしかない。そう覚悟して生きてきたんじゃないのか?」

「…………」

「このまま何もしなくたって、おまえのマグバドは終わる。この終わりは、避けようがない。いまのままで終わりたいのか? 私が信用できないなら、逃げるがいいさ。一度の優勝もできなかった、ダラダラと長いだけだったAクラスの思い出と一緒にな」

 一二三は声を殺していた。呼気だけで、畳みかける。

「後悔したくないんだろ? まだまだ、やりきってないんだろ? じゃあ、やりきれよ。私がおまえに与えられるのは、チャンスだけだ。勝率は、ぶっちゃけ低いよ。蜘蛛の糸より細い可能性さ。だが、ゼロじゃない。どんなに細かろうが、私が垂らす糸の先には、四季杯のトロフィがぶらさがってる。手繰り寄せるか? 手放すか? 決めるのおまえだ」

 一二三は飛羽をつきとばした。

 転びそうになって、飛羽は踏ん張った。

 ギラギラと、一二三を睨む。

 石像のように、一二三は微動だにしない。黙然と、飛羽の回答を待っている。

 飛羽は、柄が指の形にへこむほど、金属バットを握りしめた。

 雄叫びをあげて、飛羽はバットをふりかぶった。

 一心不乱に、素振りをはじめる。

「朝まで振ればいいんでしょ、振ればっ!」

 ヤケクソだった。いまさら益居の下には戻れない。飛羽がマグバドを続けるには、一二三とともに行くしかないのだ。

 ――首洗って待ってろ。

 飛羽は、そこに浮かんでいる憎いものを叩き落とそうとするみたいに、バットを大振りした。

 ――あんたの言うとおりにして、もし一勝もできなかったら、その頭、かち割ってやるからな!

 一二三は、ジャングルジムに寄りかかって、飛羽が手を抜かないようにじっと監視した。

 素振りは、本当に朝まで続いた。

 近所の住民から通報を受けた警察官が事情を聞きにきたときでさえ、一二三は一人で対応し、飛羽に素振りを中断することを許さなかった。


     6


 雪白義也よしやは、おしゃべりである。

「昔の人は、日の出とともに起きて、日の入りとともに寝た、って言いますよね。当時の生活サイクルが、姫はいまだに抜けていないんですよ。僕も引きずられて、夜型生活がすっかり改善しちゃいました。目が覚めてすぐに朝の澄んだ空気を深呼吸するってのは、実に清々しいものですね。不思議なんですけど、夜型だった頃よりも、一日が長く感じるんですよ。睡眠時間は増えてるのに、ですよ。脳のクロック周波数もいくらかアップしたような気がしますし、やっぱり人間は、太陽とともに生きるべき生き物なんでしょうね」

 戸上誠は、相槌ひとつ打たず、聞き役に徹した。

 昇りたての朝陽に目をしかめつつ、腕時計をちらりと見る。5時52分。

 昨夜、日付が変わる頃まで残業していた戸上は、疲れが顔に出ない体質に産んでくれた両親に感謝した。おかげで、義也の上機嫌に水をささずにすんでいる。

 マグバドでは珍しい屋外コートの片隅に、二人は肩を並べて立っていた。

 コートでは、三人の専任コーチの指導の下、雪白グリが早朝練習にいそしんでいた。

「スポーツにはまったく興味がありませんでしたけど、腰をすえて見てみると、おもしろいものですね。すんなり勝てないところが、またいい。ハラハラ、ドキドキの展開ってやつですか。もしかしたら負けるかもとヒヤヒヤさせられて、その心配が良い意味で裏切られる瞬間のカタルシス。ああ、やっぱり姫は勝った、という安堵感と、僕はなんて愚かなんだ、一瞬でも姫の勝利を疑ったりして、という罪悪感。アンビバレンツな感情のマーブル模様にかき乱され、僕の心は混沌の坩堝、しかし、それが決して不快ではなく、むしろ癖になりそうなんですから、本当にもう、困っちゃいますよ」

 ――アンビバレンツ、はちょっと違うのでは?

 思ったが、戸上は指摘しなかった。

 いま戸上に求められている役割は、教師ではない。義也の言葉を残らず受け止めた上で、無駄口をきかない壁なのだ。

 戸上誠には、夢がある。

 彼の夢が叶うも叶わないも、この、世界で五指に入る製薬会社『雪白製薬』の若き経営者の心持ちひとつに懸かっていた。

 求められていないことは、しないに限る。

 義也が、顔を戸上に向けた。

「で、戸上さん。どうですか。あなたの計画の進捗状況は?」

「順調です」

 壁以外の役割を求められて、戸上は即答した。

「彼女も無事に学園に潜入しました。マスコミへの根回しも完了しています。あとは、四季杯の開催を待つばかりです」

「すばらしい!」

 義也はいったん褒めてから、表情を曇らせた。

「ですが、変ですね。先日届いた出場選手の名簿に、戸上さんに以前、提出していただいた計画書にはなかった名前があるんですが」

「引退した選手がおりまして。急遽、代役を立てました」

「イレギュラーですか。不吉ですね」

「何事も、完璧にはいかないものです」

「僕は完璧が好きですけどねえ」

「私もです。しかし優先すべきは、パーフェクトな過程ではなく、パーフェクトな結果ではないかと」

「なるほど」

 義也は、つるりとした顎を指でしごいた。体毛がほとんど生えない体質で、数えるほどしか剃刀をあてたことがないらしい。

 義也が口を閉ざすと、妙な緊迫感が生まれた。

 戸上の背中が、にわかに痒くなってきた。戸上は、かきむしりたい衝動を、必死にこらえた。

 やがて、義也がうなずいた。

「よろしいでしょう。僕だって、何もかもが思い通りには運ばないことくらい、心得ていますよ。僕には守備範囲外の分野ですしね。戸上さんのやりやすいように進めてください。ただし、パーフェクトな結果だけは、徹底遵守してください。お願いしますよ」

「かしこまりました」

 戸上は頭を下げた。背中の痒みは、嘘みたいに消えていた。

「ちょうど、去年の今頃でしたねえ」

 しみじみと、義也が言った。

「戸上さんが初めて僕のところへいらしたのは。あなたは、僕にこう言った。『お嬢さまは逸材です。ぜひマグバドをさせてください。一年後には、かならず頂点に君臨できます』……」

 抑揚、息継ぎ、声の高さ。義也の物真似は、完璧だった。

「僕は一度見たことは、決して忘れないんですよ。あのときの、あなたの真剣な目も、はっきり覚えています。脳に電極を繋いで、スクリーンに映して見せたいくらいだ。僕はあなたを信用した。僕の判断は、間違っていたのでしょうか?」

 戸上の背中の痒みが、ぶり返してきた。

「もしも間違いだったとすると、我が社とカイナ社さんとの提携も、間違っていたということになりますねえ?」

 それに答える機会は、戸上に与えられなかった。

 グリが練習をきりあげて、こちらに歩いてきたのだ。

 戸上が腕時計を見ると、6時を回っていた。

「また悪巧みか。精が出ることよのう」

 ドリンクを飲む合間に、グリは二人を皮肉った。その肩へ、駆け寄った義也がタオルをかける。

「そのほう等が何を企んでおろうが、余は戦いたいように戦うだけじゃぞ」

 グリに言われて、戸上は恭しくお辞儀した。

「ご随意に」

「さ、さ、お腹が空いたでしょう。美味しい朝ごはんが待ってますよ。今朝はですね、ハムエッグと、納豆と、豆腐とワカメの味噌汁と……」

 義也が指折り数える。グリの食事は、彼が手ずから作るのだという。彼女の世話が焼けることが嬉しくてたまらないという風情で、グリが鬱陶しそうにしていることも、意に介していない。

「ハムエッグの黄身は?」

 グリに問われ、義也は『きをつけ』をした。

「身命を賭して、半熟に仕上げてご覧にいれます!」

「うむ」

 ――溺愛だな。

 戸上は苦笑をかみ殺した。

『姫は、僕の運命の人です』

 いつだったか、義也は臆面もなく言ってのけた。

 恋人の意味ではないらしい。義也に言わせれば、恋だの愛だのという感情は、汚らわしい欲望に根ざした忌むべきもので、想像しただけで、

『寒気がします』!

 だそうである。

 たしかに義也がグリにかしずくさまは、姫君に仕える騎士の忠誠、または女神を崇める信者の熱狂、という印象だった。

 ――あなたの判断は、間違っていませんよ。

 答える機会のなかった問いに、戸上は心の中で答えた。

 ――不測の事態も含めて、私にとってすべては盤上の駒にすぎません。むろん義也さん、あなたもね。


     7


 睦月飛羽が、秘密特訓をしている。

「ずるい!」

 大海晃は、唐突に叫んだ。眉間には深々と縦皺が刻まれている。

「何がですか?」

 そばにいた貴田花が、聞き返した。

 午後の練習、最初のメニューであるランニングを終えて、しばしの休憩中である。体育館では、桶女マグバド部の部員たちが、おもいおもいの姿勢でくつろいでいた。

「飛羽ばっかり、あんな、楽しそうなことして」

「楽しそうって。きっと大変ですよ」

 謎の新コーチが登場してから、飛羽は他の部員たちとは別行動をとるようになっていた。使われていなかった合気道場を貸し切って、なにやら極秘のトレーニングに励んでいるという。

 晃は花の肩に手を置くと、うなずきながら言った。

「よし。偵察に行こう」

「は? ちょ、ちょっと先輩っ!?」

 花の左手首を握りしめ、そのままひきずって晃は歩き出した。

「兎ちゃんが監督室に戻ってる今がチャンスだって? おぬしもワルよのう」

「言ってないでしょ、そんなこと。先輩、やめましよ。やめましょって! みんな、助けて!」

 花が半べそになって助けを求めても、最上級生である晃に逆らおうという部員は現われなかった。花が、飛羽や晃の遊びの巻き添えになるのはいつものことで、慣れっこになった部員たちは、温かい目で二人を見送っている。手を振る輩までいた。

 三分後。

「いつもこうだ。わたしって、いつもこういう役回りなんだ……」

 花は涙に暮れていた。

 ちょっと資料を取りに行っていただけの益居監督が、体育館に戻っている頃合だった。他の部員に範を垂れるべきAクラス部員二名が姿をくらましたと知り、さぞや怒髪で天を衝いていることだろう。

 今回は、いったいどんな罰を下されることになるのか。花は恐ろしかった。いっそ、このまま部に帰らず、旅に出てしまおうか。真剣に思案しかける。

「しっ」

 晃が、唇に人差し指をあてた。

 二人は、合気道場のそばの茂みに身を潜めていた。

 床を踏み鳴らす低い音が、道場から伝わってくる。雨戸は開いているが、縁側の向こうの障子がピタリと閉て切られており、内部はうかがい知れなかった。

「特別なことはしてませんって。マグバドの練習には違いないんだし」

 花はもう泣いていなかった。運命を受け入れたのだ。

「じゃ、なんで秘密にしてるの?」

「んー。コスプレとか、してるんじゃないですか」

「なんで?」

「気分転換に」

「なるの? 転換に? シャッターチャンスじゃん。ケータイ持ってこなきゃ」

「すいません。適当なこと言いました。きっとコスプレなんかしてません」

「じゃ、飛羽がコスプレしてなかったら、花がコスプレするっとことで」

「なんでですかっ」

「しっ」

 黙らせて、晃は、ススス、と道場に忍び寄った。縁の下に潜りこみ、花に手招きする。

 ――どんな格好、させられるんだろう?

 悄然と、花は茂みを出た。晃がジェスチャーで、伏せろ、伏せろ、とうるさいので、いちおう身をかがめて歩く。

「遅いっ。貴様、それでも忍の者か」

 辿り着いた花を、晃が息だけで叱責した。

「ほんと好きですよね、こういう遊び」

 飛羽の意地悪は、意地悪と自覚している意地悪だが、晃の意地悪には自覚がない。ただ純粋に遊んでいるだけで、悪意がないのである。花も楽しんでいるものと決めつけているから、ときどき飛羽のイタズラよりも始末が悪かった。

「油断めさるなよ。槍でグサッと刺されるでな」

「時代劇の見すぎですよー」

「しっ!」

 響いてくる足音に、変化はない。こちらの接近は悟られていないと判断し、晃は縁側に這い上がった。そろりそろりと障子に近づく。

 花もさすがに気配を殺して、そうっと後に続いた。

 晃が、唾で湿した指で、障子に穴を開けた。覗きこんで、息をのむ。

「メイド服」

 つぶやいた。

「あ、意外とソフトですね。そのくらいなら、わかりました」

 もっときわどいコスチュームを強要されるものと覚悟していた花は、拍子抜けした。

「そうじゃなくて、飛羽が」

「は?」

 晃につづいて障子の穴を覗いた花は、呆然とした。

 畳敷きの道場には、50インチはある巨大モニターが据えられており、モニターの前には、一心不乱に素振りをしている飛羽がいた。

 こちらに背中を向けた彼女がまとっていたのは、練習用ジャージでもなければ、試合用ウェアでもなかった。

 黒のワンピースの上に、白いエプロン。

 スカート丈は股下3センチ。

 動くたびにヒラヒラめくれて、ペチコートの白い裾がチラチラしていた。

 飛羽の傍らにそびえ立ったコーチが、おもむろ、ペチコートごとスカートをめくった。

「きゃあっ」

 飛羽が悲鳴をあげ、尻を押さえた。

「まだしらじらしい!」

 ビシイッ、コーチが竹刀で畳を叩いた。

 晃に背中をつつかれて、花は自失から復帰した。振り返ると、青ざめた顔をしている晃の瞳に、花の青ざめた顔が映りこんでいた。

 二人は、来たときよりも慎重に縁側を降り、道場から離れた。

「秘密にしましょうね。誰にも話しちゃダメですよ。ていうか、忘れましょ。わたしたち、何も見なかったんですよ。ね。何も見てない。見てないですよ!」

 花は、念を押しまくった。

 晃は、胸高に腕組みした。

「あれはあんまり、ずるくなかった」

 二人の脳の記憶野には、スカートの下に垣間見えた、サンランボ柄の薄布が、まざまざと焼きついていた。


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