二章「おわるひと、はじまるひと」
二 おわるひと、はじまるひと
かつて、子供は神だった。
魔法という名の奇跡が起こせるからだ。
大人になると消えてしまう、この神秘の力ゆえに、子供は大人よりも一段階、高位の存在だった。
科学の勃興が、彼ら小さき神々を、雲の上からひきずりおろした。
もはや、大人は役立たずの残骸ではなくなった。子供に頼らなくとも、風よりも速く移動できるし、宇宙にすら飛び出せるようになったのだ。
もう子供は神ではない。成長途上にある人間――少しばかり不思議な力を使える小さな人間に過ぎなくなった。
魔法も、実利的な役目を担うことは絶え、いまや娯楽や芸術、スポーツなどの分野でわずかに活用されるだけになった。
科学の発展に従事する、ある研究者は言ったという。
『魔法は、もはや暇つぶしの見世物にしかならない』
1
試合会場に着くと、選手たちはまず、支給されるタンクトップとショートパンツに着替えなければならない。
もちろん、素肌に着る。その他には何も、アクセサリーはもちろん、下着も、化粧品も、髪をまとめる輪ゴムの類すら、身につけてはならない。
はりつめた空気の中、行われるのは、魔力の計量である。
選手の魔法能力が基準に達しているか、テストするのだ。
計量が厳格に行われるのは、マグバドの試合では、魔力の不足が、生命の危険を招きかねないからである。魔法がかかったスマッシュは凶器だ。もし生身に直撃されれば大怪我は必至、最悪の場合、死にいたってもおかしくはない。だからコートに立つには、それに相応しい力があることを証明しなくてはならない。
ウェアやラケットをはじめ、試合中に身につけるものは全て、魔力を水増しする術がかけられていないか、入念にチェックされる。抜き打ちで尿検査をされることもある。もし違反薬物が検出されでもしたら、その選手はマグバド界から永久追放される掟だった。
「みなさん強そうですね。さすが、Aクラス」
計量を待つ選手の列。
一つ前に並んだ花が、ひそひそと飛羽に話しかけてきた。
「案ずるな。バストサイズではお主が最強じゃ」
飛羽は太鼓判を押してやった。
「関係ないじゃないですかっ。もう、いつもいつも、そればっかり」
上目遣いに、睨んでくる。メガネなしだと30センチ前方もおぼつかないという彼女の目は、微妙に焦点が合っていなかった。好きで大きくなったんじゃないですっ、とでも言いたいらしいが。
――贅沢なやつめ。
思ったが、飛羽はそれ以上、口には出さなかった。他の選手の白い目を意識したからだ。計量中は、私語厳禁なのである。
晃は、この大会にはエントリーしていなかった。雑誌の取材があるとかで、今日は別行動である。
BクラスからAクラスに昇格すると、選手の生活は、劇的に変わる。
『クイーン・オブ・マジカルスポーツ』
の異名で呼ばれることもあるマグバドは、週末になると必ず日本のどこかで一つや二つは、企業や自治体主催の大会が開かれる人気スポーツだ。
そうした大会のほとんどが、
『Aクラス選手限定』
という出場制限を設けているのである。
それらの大会では、賞金が設定される。金額はピンからキリまでだが、ピンともなると万円の上にゼロが三つ並ぶ場合も珍しくはなかった。
つまりAクラスは、
『稼げる』
のである。
大会の出場者は全員がライバルである。賞金がからんでいるため、計量を待つ列は殺伐とした雰囲気になりがちだが、夏の四季杯が終わって一ヶ月半になる今の時期は、さらに輪をかけて殺気が漂いがちだった。
まもなく開催される、秋の四季杯。
今頃、マグバド協会では、その出場選手の最終選考に入っているはずだった。
夏の四季杯が、クラス関係なしに全選手が参加して予選を行い、最後に、
『聖地・日本武道館』
で覇者を決する、文字通りの全国大会であるのと違って、秋の四季杯は、協会の選考委員がえらんだメンバーが激突する、選抜大会である。
四季杯は、日本の全マグバド選手の頂点を決める大会である。本選に出場できただけで、たいへんな名誉となる。
夢の舞台への切符を手にするため、いまの時期の大会はおろそかにできない。ぜひとも好成績を残し、協会にアピールせねばならないのだ。選手たちの肩に力が入るのも、やむをえなかった。
花に計量の順番がまわってきた。
計量台、と呼ばれている、へそくらいまでの高さの机の前に立つ。
計量台の上には、ミニチュアサイズの〔竜界路〕が描かれた白い板が敷かれていて、さらにその〔竜界路〕の中心には、ピラミッド型の分銅が置かれている。
分銅の横には定規が立てられており、その目盛りには一本だけ、赤い色で引かれた線がある。それが合格ラインだった。魔法の力だけで、赤いラインよりも上までピラミッドを持ち上げるのだ。
「ちょっとドキドキしちゃいました」
難なく合格をかちとった花がふりむき、飛羽の顔を見て――はっきりとは見えなくても、雰囲気で察したのだろう――、表情をこわばらせた。
心配げな後輩に何も言わず、飛羽は前に進んだ。
「睦月飛羽です」
名簿を手にした係員に、どうぞ、と促されて、飛羽はピラミッドに向き合った。鈍色の表面に映りこんだ自分の顔と、にらめっこだ。
心の中で、重力を司る大地の精霊に、ピラミッドと縁を切るようかけあいながら、風の精霊には、ピラミッドはいいやつだから、と交際を薦める。精霊たちとの、ほとんど冗談みたいなお喋り。もっとも、飛羽は精霊の存在など、もう信じてはいない。リラックスするための、お呪いみたいなものだった。
いつもなら、すぐさまピラミッドは空中浮遊をはじめ、係員から合格のお達しがある。いつもなら。
「……睦月さん」
五十がらみのおばさん係員が、腫れぼったい目を飛羽に向けた。
「あまり、張り切り過ぎないように」
「すいません」
飛羽は、天井すれすれまで打ち上げてしまったピラミッドを、スルスルと降下させた。危うく、天井に穴を開けてしまうところだった。
見守っていた花と一緒に、飛羽はすごすごと計量会場をあとにした。
――なにやってんだか。
ロッカールームのベンチに座り、飛羽は自己嫌悪に陥った。乾いた唇を、スポーツドリンクで湿す。クエン酸がピリリと沁みた。
魔力が衰えはじめたとはいえ、出場資格を得られないほどにまで低下するのは、まだ先である。
魔力の衰え方には個人差があり、飛羽はどうやら、緩やかに落ちていくタイプらしかった。崖から飛び降りるみたいに、一気に魔力が底をつく選手もいるのだから、幸運なほうだ。
佐野卵など、魔力低下の兆しが出てから、ものの一週間で選手生命が終わってしまったのである。
あの頃の卵の取り乱し方は、見ていられなかった。
楽天家で、面倒見がよくて、部のムードメイカーだった卵が、最後はコートにひざまずいて、駄々っ子みたいに泣き喚いたのだ。
飛羽は後悔していた。
憔悴する卵に、飛羽は何もしてやれなかった。嘘っぽく聞こえるのを恐れて、慰めの言葉すらかけられなかった。
――卵に比べたら。
恵まれている、と飛羽は自分を叱った。
すくなくとも自分はまだ、やれるのだから。試合に出られれば、ギャラだって稼げるのだ。消えてしまった貯金は、また作ればいい。元通りにはできなくても、できるかぎり取り返そう。卵に比べたら、これくらい。
――ん?
そこまで考えて、ふと違和感が、頭をもたげた。
――でも、卵はお金はあるんだよな。大学行って何したいのか知らないけど、ちゃんと将来の目標だってあるみたいだし。
飛羽には何があるのか。
金はない。将来のあてもない。
ちなみに勉強も出来ないし、恋人もいない。
マグバドしか、ない。
それに比べて、卵には……。
――あたし、ほんとに恵まれてんのか?
おそらく気づいてはいけなかった事実に飛羽が気づきかけたとき、横合いから、健気な後輩が助け舟を出した。
「ちょっと早いかも、なんですけど」
おずおずと花が差し出してきたのは、四角くて平べったい物体だった。空色の紙と黄色のリボンで、きれいにラッピングされている。
「誕生日、おめでとうございます」
「……まだ二ヶ月も先なんですけど?」
「あの、ですから、もしも忘れちゃいけないんで、早めに」
「あんたってさ、デリカシーないよね」
「えっ。なにか、まずかったですか?」
「いいのよ。そのままの君でいて。どうもあんがと。開けていい?」
欧米では、プレゼントの包み紙は派手に破くのがマナーだと、どこかで聞いた覚えがあった。しかし日本人の感覚では、それは失礼にあたるのではないか、とも思われ、飛羽は逡巡した結果、日本的おもいやりの心を優先させることにした。が、セロハンテープを剥がそうとして少し紙が破けてしまうと、とたんにどうでもよくなり、盛大に音を立てて引き破った。
中から現われたのは、絵本だった。
『おわりのもりのはじまりのめがみ』
――『りの』が多い。
タイトルを読んで、まず飛羽は思った。
ずいぶん古びた絵本だった。背表紙は色褪せ、角がへこんでいたり、白い下地が露出したりしている。
「新しいの、探したんですけど、絶版になってて」
花は恐縮しいしい、言った。
「わたしの大好きな絵本なんです。お古で申し訳ないんですけど、もっと状態のいいやつ、絶対みつけて交換しますから。それまでは、これで」
「いいよ、これで。ていうか、これ花のなんでしょ? いいの? あたしにくれちゃって」
「ぜんぶ頭に入ってますから。先輩に、ぜひ読んで欲しいんです」
「ふーん。ありがとう」
パラパラとめくってから、飛羽は絵本を、丸めた包み紙と一緒にバッグにしまった。
「絶対に読んでくださいよ」
花が釘を刺す。
「読むよ。睡眠薬代わりに、ちょうどよさそうだし」
「もう。ちゃんと読んでくださいよ。わたしの思い出がいっぱい詰まった、大切な本なんですから」
「そんな呪いの本みたいなの寄越すなよ。気色悪い」
「ひどーいっ! じゃ、いいですよ。返してください。金輪際、先輩にプレゼントなんてしませんから」
「冗談ですって。読みます。ありがたく読ませていただきます」
飛羽の試合は午後からだった。絵本を読む趣味はないのだが、暇つぶしにはなるだろう。
貴田花のおどおど声が、試合会場に木霊する。
『え、えーと、意気込みですか? が、がんばるだけです! それしかできませんから。対戦相手に言いたいこと? ありませんよっ、そんな、畏れ多い。ひたすら光栄ですってだけで。……なんですか、このメモ? 読むんですか? えーと……「アイドル気取りの、このカマトト、オレっちが化けの皮をはいでやるぜ」? もっと凶悪な感じで? 濁声で、ですか。出せるかな。わかりました。それじゃ……』
――なごむなぁ。
笑いに沸く観客席の片隅で、飛羽はほのぼのと聞き惚れていた。
『流れ弾』で観客が怪我をしないように、試合用コートがある床面は、緑色のフェンスで囲まれている。客席は、フェンスの上に階段状にしつらえられていて、どの席からでも、コート全体が見下ろせるようになっていた。
今回の大会の主催者は、CSのスポーツ専門チャンネルである。大会の模様は完全生中継で放送され、試合の直前には、選手のインタビュー映像が挿入される構成だった。会場にはモニターがないため、その音声だけが、スピーカーから流れるようになっていた。
花に続いて、対戦相手のコメントが流れだすと、客席から笑い声は消えた。代わりに一部から、熱狂的な歓声がわきおこる。
『正々堂々、死力を尽くしてプレーします。ワンデイ・トーナメントは、次の試合のことも考えてペース配分する選手もいますけど、私はいつも目の前の試合だけに集中する主義なんです。だって負けちゃったら、次なんてないんですから……』
花とはうってかわって、立て板に水だった。さすが、踏んでる場数が違う。風格すら漂っている。
フェンスに開いている入場ゲートから、これから対戦する選手たちが姿を現すと、一部の観客の興奮は、はやくも頂点に達した。
「冴火ちゃーん!」
一人が叫ぶと、負けじと次々、絶叫がつづく。
マグバドファンには、おなじみの光景だ。昔かたぎの硬派なファンが眉をひそめる、
『天野冴火ファン倶楽部』
の応援である。
飛羽も先週、久々に体験したが、冴火との対戦は、正直、ちょっとやりづらい。それは、ライブに行ったら突然ステージに上げられ、主役のアイドルとぶっつけ本番でデュエットをさせられるような、そんな居たたまれなさだった。
もちろん負けたのはそのせいではないし、仮にそのせいだったとしても、冴火に責任はないが。
天野冴火はコート脇の椅子にバッグを置くと、主審から〔竜砂――太古に絶滅した超生物の化石を砕いたもので、〔竜界路〕はこれで描かれている。天然物は貴重で、現在では科学的に合成された人工の物が、公式大会でも使用されている――〕の入ったカップを受け取り、自陣の〔竜界路〕を加筆しはじめた。
おや、と飛羽は、いぶかしんだ。
いつもの冴火なら、まずは百点満点の笑顔で、声援に手を振っているはずだ。今回はほぼ無視。なにゆえか。〔竜界路〕を描く手つきも、どことなく固い気がする。
――緊張してる?
あの天野冴火が。
まさか。
「貴田先輩、ガチガチだよ。ああ、見てらんない」
隣の席の後輩部員が、絶望的な声でうめいた。
桶女マグバド部では、部員がAクラスの大会に出場する場合、極力、数人の後輩部員を同伴させるようにしている。応援させるためではない。トップクラスの試合を生で観戦させ、勉強させるためだ。
飛羽が目をやると、花も自陣の〔竜界路〕を修正している最中だった。
と、手が滑ったらしく、〔竜砂〕を盛大にぶちまけてしまう。自らも尻餅をつき、全身砂まみれだ。
――後輩にトラウマ刻むような負け方だけはすんなよ。
ホウキとチリトリを持って駆けつけた係員に、平謝りしている花を、飛羽は微苦笑しつつ、あたたかい目で見守った。
他の観客たちも、冴火のファンすらが、花をあたたかく見守っていた。
誰も、花が冴火に勝利できるとは予想していないのだ。
当然だろう。人気、実力、実績、どれをとっても天野冴火のほうが遥かに上である。ルックスだけならチャンピオン、と揶揄されがちな冴火だが、純粋な実力でも、現在ランキング12位にいるのである。
両者とも〔竜界路〕のアレンジが終わり、新たに描き加えた線に、魔法による定着処理を施す。〔竜砂〕の厚みが失われ、もともとの四重円と完全に同化した。これでつまずく心配もない。準備完了だ。
――けど。
飛羽は、冴火の一挙手一投足に注視しながら思った。
――気のせいかな。でも。
経験からくるものなのか。単なる勘によるものか。ピンとくる試合が、たまにある。まだ始まってもいないのに、どちらが勝つのか、直感的にわかってしまう試合。
飛羽は、サーブを放とうとしている花に、目を移した。
――ひょっとすると、ひょっとするかもね。
次の瞬間、会場の各所から、失笑が沸いた。
あろうことか、花がサーブを空振りしたのだ。
――ひょっとしないか。
飛羽は、自分の直感を信じないことにした。
2
旅をはじめたばかりの旅人が、『おわりのもり』に迷いこんだ。
歌が得意な旅人は、もりの動物たちを歌で楽しませ、お礼に出口を教えてもらった。
しかし教えられた道を進むと、泉に辿り着いただけで、そこは行き止まりだった。
泉には美しい娘がいて、『おわりのめがみ』と名乗った。
旅人の歌をいたく気に入っためがみは、旅はここでおわりだと告げ、『おわりのもり』から永久に出られないよう、旅人に呪いをかけた。
旅人は嘆き悲しんだ。自慢の歌声も涙で濁り、もとの魅力はかけらもなくなってしまった。
見かねためがみは、旅人に希望を与えた。もしも次の課題を解けたなら呪いを解く、と。
「このもりに隠れているもう一人のめがみを探し出すのじゃ。彼女は『はじまりのめがみ』。わらわの双子の妹じゃ」
それは難攻不落の難題だった。
あまりにも長い間、誰も答えに辿り着けずにいるので、『おわりのめがみ』でさえ、もう一人のめがみの居場所を忘れてしまったくらいだった。
ところが旅人は、そんなの簡単でございます、と笑いながら指さした。
「双子というのは、勘違いでございましょう。『おわりのめがみ』さま、あなたが『はじまりのめがみ』さまに違いありません。何かがおわるということは、何かがはじまるということです。戦争がおわれば、平和がはじまります。夫婦のはじまりは、恋人のおわりです。おわりははじまり、はじまりはおわりなのです」
――なあんて直球なんでしょう。
飛羽は、感動すらおぼえながら、絵本を閉じた。
花はスゴイ、と思う。
他の人間にこんな絵本を渡されたら、悪質な皮肉だとしか受け取れなかったろう。
が、花の場合は確信できる。
純粋な善意だ。
混じり気なしの、100パーセントの真心だ。
『選手生命が終わっても、それは新しい何かの始まり。だから落ちこまないで、元気出してください!』
まぶたを閉じると、優しさに溢れた花の笑顔が見えた。
その笑顔を、飛羽は土足で踏みにじってやりたかった。
くっきりと靴底の跡を刻印したうえで、グジグジとねじって、泥をすりこんでやりたかった。
「大きなお世話だ! そんなに簡単に心の整理がつくんなら、誰が苦労するか! 善意だからってな、なにやっても許されると思うなよ! 自分だけ善い子ちゃんのつもりか! ああ善い子だよ、あんたは! あんたの優しさを素直に受け入れられない、あたしが悪人なんだろうよ! さぞや良い気分だろうな! あたしをダシして『わたしって善人』アピールができて! はっ!」
絶叫してやりたかったが、誰が聞いているかわからない。飛羽は心の中で叫んだだけで、自重した。
試合会場に隣接している、公園である。
森と呼んでも差し支えないほど濃密な緑の間を縫って、石畳の歩道が敷かれていた。
道端にぽつんとベンチが一つ。
飛羽は一人で、それに座っていた。
「ひとの事情も知らないで。まったく」
知らないのは花の罪ではない。言わない飛羽の責任だ。言えるものか。父親に貯金を使いこまれて、引退後の生活設計がパーになっちゃった、なんて。
その父親だが、失踪から三日後、無事に実家に帰っていた。いまでは何事もなかったように、まじめなサラリーマン生活に復帰しているという。
失踪中の三日間も、会社にはちゃんと連絡を入れて有給休暇にしていたあたり、抜け目がないというか、小心者というか。そこまで頭が回るなら、自分にギャンブルの才能がないことくらい、とっくに承知していて欲しかった。
電話口で土下座する父親に、飛羽はねちねちと嫌味を言ってやった。
よくおめおめと帰ってこられたな、何度失敗すれば懲りるんだ、犬だってもうちょっとは学習能力があるぞ、あんたは犬以下だ、せめて犬並みになりたかったら三回まわってワンと鳴け……。
泣き出すまで許さないつもりだった。しかし見かねた母親の強制ストップによって、飛羽の復讐は頓挫させられた。
結局、貯金が戻る見込みはゼロだった。
正午を告げるメロディが、どこからともなく流れてきた。耳を澄ますと、試合会場の、いまだ騒然としている空気が、ほのかに伝わってくる。
まだ騒いでいやがるのか、と飛羽はうんざりする一方で、それも致し方なしか、とあきらめてもいた。
天野冴火VS貴田花。
試合の結果だが、飛羽の勝負勘は外れていなかった。勝利したのは、花だったのだ。
序盤こそ、冴火が老獪とも言うべき巧みな攻守でポイントをリードしたのだが、徐々にそのペースは崩れ、第1セットをからくもものにした後、第2セット、第3セットを花が連取し、勝敗は決した。
天野冴火の自滅だった。
花の出来も良かったが、それ以上に、冴火の乱調がひどかった。
冴火自身が、自分の不調をよく理解していたのだろう。ラケットの振り方やフットワークなど、些細な動きの中に、おなじ選手の飛羽だからこそ見抜ける、感情の揺れがあらわれていた。――こんなはずない、私はこんなものじゃない、どうして、どうしてできないの……。
痛々しくて、試合の終盤になると、飛羽はもう見ていられなかった。――そうか、冴火もか……。
試合後のインタビュー。満足げに微笑みながら、冴火はきっぱりと言った。
『限界が来ました。引退します』
衝撃の宣言だった。
実力では劣っても、人気では大海晃と伍する――いや晃以上の冴火である。冴火ファンならずとも、上を下への大騒動になるのはやむをえない。
緊急記者会見が組まれるとかで、そのあおりをくって、飛羽の試合の開始時間も予定より遅れることとなった。べつにそれはかまわなかった。何回か対戦したことがあるだけで、飛羽は冴火と個人的な交流はないが、同じ時代にマグバドをしてきた者どうしの親しみというか、連帯感みたいなものなら感じている。華やかな彼女の花道なのだ。めいっぱい華やかにしてやってくれ、と思う。
天野冴火は、飛羽と同い年である。お互い、今年で十八歳。
「みんな、そういう時期なんだよな」
飛羽はベンチにふんぞり返った。
梢の隙間に、薄墨色の空が見えた。斜めにカラスが横切っていく。
なぜだろう。
鳥は大人になると翼を得、飛ぶことを憶える。
人間は逆だ。
飛べなくなって、大人になる。
空を見ていたら腹が減った。いや空は関係ないが。
バッグには、朝作ったサンドイッチが入っていた。試合前は食べないようにしている飛羽だが、空腹すぎても調子が出ない。ひとつつまんでおこうか、とバッグのファスナーを開けていると、
「のくがよい」
かぐや姫みたい、と声の主を見た飛羽は、とっさに思った。
平安時代の絵巻に登場するような、真っ黒な長い髪をした女の子が、目の前に立っていた。
純和風の顔立ちをした女の子だった。小学校の高学年くらいだろうか。フサフサした丸っこい物体を、抱きしめるようにして抱えている。ぬいぐるみなのか、バッグなのか、腕に隠れて判然としなかった。
「のけ、と申しておる」
飛羽がぼんやりしていると、女の子は語気を強めてくりかえした。
「のけ!」
「……ノンケ?」
「退け! その腰掛は、余が使うと決めたのじゃ。そのほうは、いずこなりと去るがよい」
――日本語だよな?
飛羽は眉をひそめた。どうやら、ベンチを明け渡せ、と言っているらしいが。
「やあよ。あたしのほうが先に座ってたんだから。なんで、どかなきゃいけないのよ」
「余が座るからじゃ。余を何者と心得ておる。そのほうごとき下賤の娘は、そこらの地べたにでも座っておるのが似合いじゃ」
ずいぶん侮辱的なことを言われた気がしたが、飛羽は腹が立たなかった。腹を立てるには、女の子の口調は浮世離れしすぎていた。芝居のセリフを聞いているみたいで、現実感がないのだ。流行のマンガの物真似か何かなのだろうが、大時代にもほどがある。
――しかも、微妙にデタラメくさいし。
「退けい。退かぬか!」
女の子の目尻に、じわり、涙が滲んできて、飛羽はうろたえた。
「あたしの横に座ればいいじゃん。ベンチってのは二人か三人で座るようにできてんだからさ」
女の子は、半泣きの目で飛羽を睨んだ。だが飛羽に頑として立ち去る意思がないと悟ると、不承不承、隣に腰を下ろした。
――変な子。あれ、でも、どっかで見たような……?
横顔をじろじろ眺めていた飛羽は、キッ、とまた睨まれて、目をそらした。どうやら嫌われたらしい。もうちょっとで、どこで見たのか思い出せそうだったのだが。
まあいいか、どうせ他人の空似でしょ、と気を取り直して、飛羽は自分のことをすることにした。そうだ、腹が減っていたのだ。バッグからタッパーをとりだし、蓋を取る。
「いただきまーす」
頬張ろうとして、手が止まった。
圧迫感みたいなものを感じて、ちらり、横目でうかがうと、女の子がサンドイッチに熱烈な視線を注いでいた。
「えーと、食べる?」
試しにタッパーをさしだしてみると、女の子は、疑うように眉根を寄せた。
「……毒が盛ってあるのではあるまいな?」
「盛るかっ! あたしが自分で食べる用に作ってきたんだぞ。いいよ。そんなこと言う子には、あげないから」
「あ、あ、誰も食べないとは申してなかろう」
慌てふためく様子が可愛かったので、飛羽は許してやることにした。
渡されたサンドイッチを、女の子は物珍しそうにためつすがめつして、さらに匂いまで嗅いでから、やっと口に入れた。二、三度もぐもぐして、動きが止まる。
「……なんじゃ、これは?」
サンドイッチが入ったままの口で、訊いてきた。
「特製、睦月飛羽印のバナナサンド」
飛羽は得意満面である。
「イケるでしょ? 隠し味に味噌を入れるのがミソなんだ」
「隠し味? 隠すとは、たしか、有る者をまるで無いかのように、わからなくすることだと思っておったが。言葉の意味が変わったのか?」
「なんだか難しいこと言うのね。頭いいんだ」
「いや、だから……」
美味しそうにパクパクと食べる飛羽を見て、女の子は抗議する虚しさを悟ったようだ。その腹で、キュルキュルと虫が鳴く。
「背に腹は換えられぬか」
女の子は、ギュッと目を瞑って、ええいままよ、と手にあった残りを口に詰めこんだ。噛まずに飲み下そうとして、のどにつかえる。
「あー、もう、慌てないの。よっぽどお腹すいてたのね」
飛羽はペットボトルの蓋を外して、女の子に渡した。
もぎとるように受け取って、女の子はペットボトルの中身をのどにそそぎこみ、そして噴き出した。激しく咳きこむ。
「あ、ごめん。慣れないと酸っぱいんだよね。でも身体にはいいんだよ。乳酸を分解してくれて、疲れにくくなるんだ」
「こんなものを飲んでおるから、舌がバカになるのじゃ!」
「なに怒ってんのよ?」
「そのほうとは、話が通じぬっ」
ペットボトルを突き返して、女の子は立ち上がった。
通りの向こうからスーツの男が現われたのは、そのときだった。女の子をみつけると、全速力で走ってくる。
「こんなところにおいででしたか。もうすぐ出番ですよ。さ、参りましょう」
息をあえがせながら、男は女の子に言った。
いかにもデスクワーク専門といった風情の、色白、痩せ型の男だった。若者、と呼んでいい年齢に見える。見た目ほど若くはなくとも、女の子の父親ということはあるまい。
「あのような騒々しい場所は好かぬ」
「ワガママは許しません。さ、参りますよ、姫」
「姫ではないと申しておろう!」
男が恭しいのは、言葉遣いだけだった。女の子の二の腕をつかんで、引きずって行こうとする。
――よもや、誘拐!?
腰を浮かせた飛羽の足下に、毛に覆われた物体が転がってきた。
女の子が抱いていた、ぬいぐるみだかバッグだかが、腕を引っ張られたせいでこぼれ落ちたのだ。
拾うと、意外に固い感触がした。中身は空っぽらしく、ひどく軽い。
間近に見ることが出来て、飛羽はやっとその物体の正体がわかった。
「熊だ……」
――なんで熊?
「触れるでないっ!」
びっくりするような大声で叫んで、女の子が飛羽からそれを奪い取った。胸に抱きしめ、声を荒らげる。
「こやつに触れてよいのは、余だけじゃ!」
女の子の目には、涙が溜まっていた。飛羽に背を向け、逃げるように駆け出す。
「お待ちください! そちらではありませんっ」
スーツの男が追いかけていった。
――よく泣く子だな。
一人ベンチに残された飛羽は、いや泣いてはいないか、と思い直した。
女の子は、泣き出す一歩手前で、全部こらえていた。
「それにしても、なによ、拾ってやったのに。サンドイッチだって。お礼くらい、言っていきなさいよ」
いちおう愚痴ってみたが、女の子の目尻に溜まっていた光を思い出して、飛羽の憤りはすぐにとけた。
――剥製だったよな。仔熊か。流行ってんのかな。
だとするなら、あまり気分のいい流行ではなかった。実際に生きていたものの抜け殻を肌身離さず持ち歩くなんて、健全とは言えない気がする。
――あ、でも、本革の鞄とか靴とかだって、もともと生きてたって意味じゃ、同じか。いや、でもな……。
「センパーイ! やっとみつけたぁ……」
飛羽が難しい顔で腕組みしていると、花がやってきて背中を叩いた。
「何やってんですか。そろそろウォームアップはじめないと、試合に間に合いませんよ」
「命とは何か、ファッションとは何か、たやすくは答えの出ない難題に、取り組んでいたのだよ」
「はあ?」
「おお、誰かと思えば、天野冴火選手を引退に追いこんだ、貴田花選手ではありませんか。いかがですか。全国5000万人のファンを絶望のどん底に突き落とした心境は?」
「天野さんのファンって、そんなにいるんですかっ!?」
「いたらびっくりだよね」
「お、おどかさないでくださいよ……」
花は蒼白になって、心臓の辺りを手で押さえた。
「動揺してるね。大丈夫?」
「だって、だって、引退するなんて」
「そうだよね。まさか、あんたのせいでね」
「わたしのせいじゃありませんよっ! ……イジメないでくださいよ。それでなくたって、みんなの視線が怖いんですから」
ポロポロと涙をこぼす。
「こっちは泣き虫だね。あっちとはえらい違いだ」
「あっち?」
「こっちの話。あんたは大金星あげたんだから、喜んでればいいのに」
「だって、だって……」
気の置けない飛羽と二人きりになって、緊張の糸が切れたのだろう。泣きじゃくる花をベンチに座らせて、飛羽はバッグからとりだしたタオルを渡した。そして彼女が泣きやむまで、その場でストレッチをしながら待つ。
――あべこべだよな。
そっとため息をつく。
――泣いていいのは、あたしのほうじゃないのかな。
しみじみ、思う。終わりは始まりか。
今日のこの勝利で、花はAクラス選手として、真のスタートを切るのかもしれなかった。
しょせんこの業界は、限られた席の奪い合いである。自分の椅子が欲しければ、他の誰かを蹴落とすしかない。
蹴落とせば当然、恨まれる。
恨まれてこそ本物のAクラス、といえる。
世代交代、の四文字で簡単に片付けられてしまう、本当はまったく簡単ではないバトンタッチ。天野冴火の終わりが、貴田花の始まりになるのだ。
ならば。
飛羽の終わりは、誰の始まりになるのだろう。
3
会場の出入り口付近に出現した、本日かぎりの屋台街で購入したパックを手に、戸上誠は観客席に戻った。
「おおっ。待ってました」
両手を揉み合わせてから、彼女はパックを受け取った。
「本当によろしかったんですか? もっときちんとした昼食もご用意できますが」
「選手たちの熱戦に声援を送って空いた腹を、屋台で買ったメシで満たす。これぞマグバド観戦の醍醐味じゃないか。んん、んまい!」
焼きたてのタコ焼きを、はふはふと口の中で転がしながら、彼女は舌鼓を打った。
戸上は、自分の分のパックから輪ゴムを外しながら、
「あなたが満足なら、私はかまいませんが」
「でも、不味いのかもしんないな」
「は?」
「このタコ焼き、私的には美味いんだけど、他の店のやつを食べ慣れた人間からしたら、不味いタコ焼きなのかもしれない。私はタコ焼きを食べるのが、生まれてからこれで七回目なんだ。判断を下すには、データ不足と言わざるをえないだろう?」
「はあ」
生返事をしながら、戸上もタコ焼きを口に入れた。ただちに、ペットボトルの緑茶に助けを求める。美味いとか、不味いとかの問題ではなかった。熱い。熱すぎる。
火傷した舌を手で扇いでいる戸上の横で、彼女は三個目のタコ焼きを味わいながら、会場全体をのんびりと眺めた。
「日本マグバド界を背負って立つ、選りすぐりの選手16名が、一日で頂点を決するトーナメントか。決勝までいくとなると、なんと一日で四試合。いやはや、ハードなんてもんじゃない。大ハード・スケジュールだね。昨日は土曜だったんだから、今日とで二日に分けて試合をすりゃ、よさそうなもんだが」
「放送スケジュールの都合がつかなかったみたいですよ」
舌を口の中にしまって、戸上は言った。まだちょっとあやしい呂律で、
「それに、過酷なトーナメントなればこそ、体力の限界を超えた選手たちの、なりふりかまわない姿が観られます。『気持ちの勝負』とか、『気力で勝ったほうが勝つ』というやつですよ。エキサイティングでしょう?」
「完璧にテレビ局の都合だけで組まれた大会だな」
彼女は苦笑した。
「選手たちだって、何もかも承知のうえで出場しています。選手として活動できる時間が長くないことを、彼女たち自身が、最も切実に感じていますから。過密スケジュールは、むしろ望むところでしょう。もっと熱く、もっと激しく、もっと濃密に。儚い選手生命だからこそ、完全燃焼させようと、彼女たちはあがくのです」
「まるでセミだね。年端もいかない小娘たちの弱みにつけこんで、大人たちは暴利をむさぼるわけだ」
「もちつもたれつですよ。強制されて出ている選手はいません」
「そりゃ、そうだろうけどさ」
言葉は批判的だが、彼女の顔は嬉しそうだった。会場のあちこちへ忙しなく視線を動かし、かと思うとまぶたを閉じて、心地よさそうに耳を澄ませたりしている。初めて試合観戦に連れてきてもらった子供みたいに落ち着きがなく、そして楽しそうだった。
「もうすぐ次の試合ですよ」
戸上が時計を見て言った。
ほどなく、例の『試合前インタビュー』が、スピーカーから流れはじめる。
「よくご覧になってください。片方の選手は、あなたの教え子の一人になるんですから」
「まだ、そうとは決まっちゃいないぜ」
「ここまで来て、何をおっしゃっているんですか。列車はもう動き出しているんですよ。いまさら乗らないなんて、そんな冗談……」
「強要されると、やる気をなくす性質でね」
「…………」
「ま、でも、ここの空気を吸っちまうと、後戻りしようって気分には、なりにくくはなるね」
「予定通り、あなたは必ず協力してくださるものと、私は信じています」
祈るように組み合わせた手を口元に寄せて、戸上は前屈みになった。
暗い眼差しで見つめるコートでは、これから熱戦を展開する二人の少女が、いままさに入場しようとしていた。
4
――終わってたまるか!
試合前にいくら殊勝な感傷に浸っていても、いざ試合の開始時間が迫ってくれば、どうしようもなく強烈に、負けん気が昂ぶってしまう飛羽だった。
とりわけ今日みたいに、
『クソ生意気』
な対戦相手に遭遇した日には。
『試合に臨んで一言? ようは勝てばよいのであろ。たやすいことよ。対戦相手? 知らんな。知ってどうする? そのほうは歩くときに、いちいち踏んだ土の色を憶えておくのか?』
聞き覚えのある声と、語り口だった。入場ゲートの手前で待機する飛羽の脳裏には、この挑発的な声の主の姿が、自動的に浮かび上がっていた。
黒髪ツヤツヤ、ストレート。
華奢な手足は小学生かと見紛うほどだが、当年とって十四歳とか。
雪白グリ。
それが彼女の名前だった。
――どっかで見た顔だと思ったら、対戦相手か。だまされた。
誰もだましていない。
とつぜん目の前に現われて、席を譲れと駄々をこねた、かぐや姫。熊の剥製を抱きしめて、いきなり怒って走って消えた、あの女の子が、グリだった。
普段なら、対戦相手の情報は、事前にできるかぎり頭に叩き込んでおく飛羽である。ところが今日は、グリの顔も名前もうろ覚えのまま、こうして試合のときを迎えてしまっていた。
衰えはじめた魔力のことで、頭がいっぱいだったせいだ。
――バカまるだし。なっさけねー。
だがこの試合でよかった、と飛羽は安堵してもいた。
もしもこんな精神状態で、他の選手との試合に臨んでいたら、勝ち目はだいぶ縮小してしまっていただろう。対戦相手が、雪白グリでよかった。
『グリちゃんですか。かわいいですね。マグバドをはじめて、まだ間もないんですって? それでこの大会に出場できるなんて、凄いです』
グリに続いて、飛羽のインタビュー音声が流れる。収録したのは午前中だった。このときは、ちゃんとグリの名前を言っている。この後、すぐに忘れてしまったらしい。
『ほんと凄いですね。Aクラス選手でもないのに出場できるなんて。よっぽど力があるんでしょうね。マグバドの実力以外の力が』
係員が、ゴーサインを出した。
飛羽はゲートの薄闇から、たった五段の階段を駆け上がった。
目がくらむ。地底からうかつに這い出したモグラみたいに、ほんの一瞬、飛羽はひるんだ。
すぐにひるみは消え去って、代わりに沸きあがったのは、ジ~ン、骨まで震わす期待感。
耳を聾する喚声に、これ、これ、これよ、と頬が緩む。
出場する選手にしか、この感動は味わえない。
これからの数十分間、この閉ざされた世界の半分は、飛羽のためだけに存在するのだ。
反対側のゲートから、雪白グリも姿を現した。ライトの明るさに顔をしかめただけで、飛羽と目が合っても、特に表情の変化はなかった。さっきベンチで相席した相手とはわからなかったのか、それとも『土』なんぞに興味はないのか。
二人はネットをはさみ、主審の前に並び立った。
「正々堂々、ルールを守って、精一杯のプレーを」
マニュアルどおりの文句をのたまってから、主審は〔竜砂〕のカップを二人に手渡した。
――だんだん思い出してきた。そうそう、雪白グリ。グリちゃんだ。
自陣の〔竜界路〕を加筆しながら、飛羽は、だんだん不機嫌になってきた。
何事にも、例外は存在する。
Aクラスに昇格できないばかりに、いくら修練を積んでも桧舞台に立てない選手がいる一方で、まるでヘリコプターで運ばれるみたいに、いきなりトップクラスのステージに立ててしまう選手もいる。
主催者推薦。
Aクラス選手でもない雪白グリが、このコートに立てる理由がそれだった。
主催しているテレビ局か、その後ろにいるスポンサーか、どこの誰かは不明だが、この大会で雪白グリを世間にお披露目したいと考えた者がいるらしい。
べつに推薦されて出てくる選手すべてを、卑怯だ、とは飛羽も思わない。まだAクラスに届いてはいないものの、それに匹敵する資質を具えた若手とか、成長いちじるしい有望株とかが出場してきたなら、
『ドーン、と胸を』
貸してやろう、くらいの気概ならある。
ところが雪白グリは、そういう選手とは、どうも違うのである。
なんと彼女、この試合が公式戦デビューらしいのだ。生まれて初めての真剣勝負が、Aクラスしか出場できないはずの、この大会だというのである。
無謀、としか言いようがなかった。
つかまり立ちができるだけの赤ん坊を、オリンピックの100メートル走に出すようなものだ。推薦した何者かは、グリがまともに戦えると思ったのだろうか。だとしたら、いくらなんでも、Aクラスをなめている。
なめられれば、腹が立つ。
しかし飛羽は腹を立てるよりもむしろ、ラッキー、とほくそ笑んでいた。
なにはともあれ、飛羽の一回戦突破はこれで確定である。さっさと片付けて、スタミナを温存させてもらうとしよう。グリには苦いデビュー戦になるだろうが、飛羽だって切羽詰っているのだ。
――今度こそ泣かせちゃうかも。ごめんね。
勝負の世界は、非情なのだ。
小学生の頃、仲の良くないクラスメイトが、聞こえよがしに言っていた、
『運動が得意な子って、みんな性格悪いよね』
との陰口が、飛羽の耳の奥によみがえった。
――そりゃ、こちとら負かしてなんぼの商売ですから。天辺に立ちたい、他の連中みんな見下ろしたいって、根っこでは思ってますから。オフィシャルじゃスポーツマンシップとかなんとか言ってたって、これが本性ですから。
試合開始の笛が響いた。
サーブ権は、まず飛羽からだった。
足下の〔竜界路〕が、だしぬけに青い光を炸裂させる。
――つまり勝ちたいんだ、あたしはっ!
逆巻く〔水〕に鎧われて、シャトルは鋭く回転しながら、グリの陣内へ突撃した。
〔瀑飛蛟〕!
睦月飛羽の代名詞。
彼女がAクラスプレイヤーであると、誰もが認める、その根拠。
幾人もの対戦相手に苦杯を舐めさせてきた〔竜殺打〕――必殺の魔球だった。
二条の激流がからみあい、ド派手に飛沫を撒き散らす姿は、まさしく、
『水の竜』
である。
――おびえろ、これがAクラスだ!
大量の魔力を消費する〔瀑飛蛟〕を、一打目からいきなり放ったのには、もちろん意図がある。Aクラス選手の恐ろしさを思い知らせて、グリの戦意を阻喪させてやろう、というのだ。
ところが、雪白グリは、落ち着いていた。
〔竜鱗域〕。
ネットを境に両方の陣地に1・2メートルずつ張り出した、専守防衛空域。
このエリアの上空にだけ、魔法の盾――〔竜羅〕の展開が許される。
〔瀑飛蛟〕に対して、グリが織り上げた〔竜羅〕の枚数を見て、飛羽は瞠目した。
なんと七枚。
Aクラス選手でも、一度に展開できる〔竜羅〕は、せいぜい五枚まで、といわれている。それも、反撃にまわすぶんの魔力を度外視して、である。ただ防御だけに専念して、やっと五枚だ。
七枚の〔竜羅〕を突き抜けたとき、シャトルには、一滴の〔水〕も残っていなかった。
雪白グリのラケットが、唸りを生じ、シャトルを捉えた。
シャトルは、一条の光と化した。
飛羽は、動けなかった。〔瀑飛蛟〕を打ち返されるとは、予想だにしていなかった彼女には、一枚の〔竜羅〕を張る余裕もなかった。迫りくるグリの打球に、抵抗するすべがない。
飛羽の頬をかすめて、グリの〔雷撃〕は、あさっての方角へ。
フェンスに激突し、落雷の音を轟かせた。
グリが舌打ちした。
打ち損じである。
判定は、アウト。主審が笛を吹いて、飛羽のほうを手のひらで示した。1ポイントが入った、とのジェスチャーだ。
会場全体が、呆気にとられていた。
それほどまでに、たったいまコートで展開した光景は、衝撃的だった。
数秒間の静寂が過ぎて、沸き起こる、地鳴りのような低音の歓声、拍手。
熱狂が、場内を荒れ狂った。
チリッ。
と痛みが走って、飛羽は我に返った。ヒリヒリする頬に手をやりながら、呆然とグリを見る。
――この子、何者……?
5
天才は、いる。
そうでない者にとっては忌々しいかぎりだが、実在するのだ、天才は。
雪白グリは、天才だった。
――晃と互角? もしかして、晃以上!?
おなじく天才である親友と比較しても、グリの魔法能力は、規格外だった。
「……なろぉっ!」
野太い気合を発して、飛羽はシャトルを打ち返した。
なりふりかまってはいられなかった。
なけなしの魔力をシャトルに託して、満身の力を駆使し、返球する。
すると、ネットの向こうには〔竜羅〕の列。五枚。
――多すぎるっつの!
飛羽がツッコミを入れたくなるほどの、グリの大盤振る舞いだった。
二枚目の〔竜羅〕を突き破った時点で、飛羽がまとわせた魔法の〔水〕は、きれいさっぱり消えていた。
〔竜羅〕は、魔法にのみ反応する。三枚の〔竜羅〕を素通りしたシャトルへ、グリがラケットを叩きつけた。
〔雷撃〕!
飛羽の〔瀑飛蛟〕に勝るとも劣らない、強烈な魔球だった。
飛羽はどうにか魔力を工面して、二枚の〔竜羅〕を展開した。〔雷撃〕の威力をやっと半分、道連れにして、魔法の盾は千切れ去った。
飛羽は歯を食いしばって、ラケットを繰り出した。
ガツッ!
みぞおちを殴られたみたいに、衝撃が背中へつきぬけた。
グリップを手放さないようにするだけで、精一杯だった。
シャトルは飛羽のラケットで跳ねて、真横のフェンスにぶち当たり、床に落ちた。アウトだ。
主審の笛。グリにポイント、11対8。
第1セットを獲得したのは、雪白グリだった。
――ちくしょおっ!
飛羽は、したたかに床を踏みつけた。
床を高く鳴らしたその音は、しかし、大歓声にかき消された。
観客たちは、目の色を変えていた。あちらこちらで囁かれる言葉が、飛羽の耳にも届く。
……雪白グリ。なんだこの新人は。天才。怪物だ。とんでもないバケモノが出てきた……。
どの声も興奮し、そして嬉々としていた。この試合を生で観戦できた幸運を、喜んでいるのだ。雪白グリは十年に一人、いや百年に一人の逸材かもしれない。これから彼女が築いていく伝説の、最初の一ページに自分たちは立ち会っているのだ、と。
「……いいや。まだだ」
飛羽は呟いて、顔を上げた。コート脇の、自分の椅子へ歩く。
マグバドでは、セットが一つ終わるごとに、五分間の小休止が挟まれることになっている。背もたれにかけたタオルをとって、飛羽は腰を下ろした。汗を拭き、スポーツドリンクで水分補給をする。
「勝てない相手なんかいない。絶対、勝機はある」
呪文のように息だけで言って、のぼせあがった心を冷ました。メンタルコントロールは得意なほうだ。
電光掲示板の数字を見上げる。11対8。
「8点も入った。あと、たったの3点」
いける、と自分を鼓舞する。やっぱり勝てない相手じゃない。
五分間は、あっという間に過ぎた。
飛羽とグリは、己の〔竜界路〕を描いたコートへ、それぞれ舞い戻った。
サーブはグリからである。
ほぼ手首のスナップだけで打った、何気ないサーブだった。しかし、こめられた魔法は、何気ないどころではなかった。恐ろしいことに、並みの選手の〔竜殺打〕クラスの魔法が、その一打には宿っていた。
おもわず逃げ出したくなる気持ちをねじ伏せて、飛羽は立ち向かった。
〔竜羅〕を二枚、展開する。第3セットまで戦うことを考慮すると、それがいま消費できる魔力の限度だった。〔雷撃〕を一回り小さくしただけで、その二枚は儚く消し飛んだ。
すでに飛羽は、落下点でラケットを振りはじめていた。
ガツン、と衝撃が、またしても身体の芯を貫く。
根性で、飛羽は振りぬいた。
シャトルの行方を目で追って、
――よしっ!
飛羽は自分で自分を褒めた。
狙ったコースを一直線。一滴の魔法もまとわせてはやれなかったが、シャトルは、飛羽がイメージした軌道をトレースするみたいに、空を横切った。
やがて響く、主審の笛。
飛羽に、1ポイント。
小休止の間に第1セットを分析した飛羽は、必勝法を見出していた。
雪白グリには、弱点が二つあるのだ。
弱点、その一。
――そこ!
ボーリングの玉か、と思うほどの手ごたえを、飛羽は強引に打ち返した。
狙うはコートの右奥、サイドライン上。
ショットの正確性では、桶女マグバド部でも最強の飛羽だ。
シャトルは白い線の上でバウンドした。ラインに一ミリでも触れていれば、有効打の判定となる。
飛羽に追加点。2対0。
――やっぱり。
飛羽の確信は、ゆるぎないものとなった。
グリは、今回の失点でも、飛羽から見て左側手前に立ったまま、シャトルを追おうとすらしていなかった。
――雪白くん、まだまだ修行が足りておらんようだね。
未熟なプレーヤーは、ライン際への打球の対処に迷うものだ。
きわどいコースに飛来したシャトルを、追うべきか、見送るべきか。
無理に手を出して、もし身体のバランスを崩せば、敵に決定的なチャンスを与えることになる。見送っていればアウトになり、自分の得点になっていたかもしれないのに、無理に打ち返したばっかりに、がら空きになった自陣に敵のスマッシュを叩きこまれかねない。
シャトルの行方はアウトか、インか。
正確に、かつ迅速に見極められるようになるには、経験が要る。
雪白グリには、絶対的に経験が不足していた。
シャトルを追うそぶりすら見せないのは、性格だろう。無駄になるかもしれない努力はしない、効率至上主義者らしい。まだ序盤であることも、影響しているかもしれない。1点や2点、すぐに取り返せる、と高を括っているのだ。
――その余裕が、命取り。
もっとも飛羽にも、言うほど余裕があるわけではない。
飛羽は三発目のサーブに備えながら、リストバンドを直すふりをして、さりげなく右の手首を揉んだ。〔雷撃〕を打ち返した衝撃の余韻が、鈍くわだかまっていた。まだ痛みはないが、ダメージは着実に蓄積されていた。
魔法をまとったままのシャトルは、重く、硬い。
ラケットに施されている抗魔法効果が、魔法を分解するからだ。こちらの魔法で相殺しているわけではないので、魔法のエネルギーは形を変えて残る。それが重さと、硬さである。
グリのサーブ、三発目。
――ぐっ!
ラケットでシャトルをとらえた瞬間、飛羽の息が止まった。膝が沈みかける。こらえて、ラケットを振りぬいた。
――浅いっ!
シャトルがラケットを離れた瞬間に、わかった。シャトルは、サイドラインから50センチ以上も内側へ落ちるコースを飛んだ。
グリは見送らずに落下点に駆けつけ、ラケットを縦に振り下ろした。
シャトルは、雷光と化した。
〔竜羅〕を展開しかけて、飛羽は、思いとどまった。
遮るもののない空をグリの〔雷撃〕は翔け抜け、さっと体をかわした飛羽の目の前を素通りした。
落雷の轟音が生まれたのは、エンドラインから、1メートルも外でだった。アウトである。
これで、3対0。
雪白グリの弱点、その二が、これだった。
コントロールが、甘いのである。
もともと精密射撃は苦手そうなグリだが、初めての実戦ということで、筋肉に余計な力が入ってしまっているようだ。第1セットでも、平均して五回に一回はミスショットが出ていた。
無理もない。周囲360度、ありとあらゆる方角から、大観衆の無遠慮な視線を浴びせられているのである。意識するなというほうが無茶だった。
飛羽は、電光掲示板を見やった。
スタートダッシュ成功。第1セットで喫した3点差は、これで帳消しだ。
――ここからが、本当の反撃開始!
ギラッ、とグリを睨みつけかけて、飛羽はペロッと一瞬、舌を出した。
――なーんて、威勢のいいこと、言ってみたいけど。
手首をさすって、はやる気持ちにブレーキをかける。
飛羽は自覚していた。ここまでの得点は、いわば敵失。相手の未熟さにつけこんで、運よく連続ポイントが稼げただけだ。これからはグリも気を引き締めてくるだろうし、そうそうこちらの思惑通りには運ばなくなるだろう。
『忍耐』
の二字を、肝に銘じる。
しばらくは、耐える時間帯が続くはずだった。
耐えて、耐えて、耐え抜かねばならない。
耐えていれば、遠からず、そのときは訪れるのだ。
雪白グリの三つ目の弱点が、顔を出すそのときが。
6
戸上誠は、感心した。
「やはり睦月は頭がいい。もう修正してきましたね」
隣席の彼女が、電光掲示板に表示された名前を読み上げる。
「睦月、飛羽。ははっ。マグバド選手になるのが義務だったみたいな名前だね」
「偶然らしいですよ。両親どちらも、特にスポーツ好きではないようです」
「ふーん」
「睦月は、体力、技術、魔法、どこをとっても穴がありません。どんな相手にも対応の利くクレバーな選手だと、うるさいファンにも一目置かれています。あとは、際立った武器が一つでもあれば、申し分なかったんですが」
「短所がない代わり、これといった長所もないって?」
「彼女も、努力はしてきたようですが」
「頑張ればどうにかなるってもんでも、ないからね」
「大海、佐野とセットで『桶女の三羽烏』だなどと、もてはやされた時期もあったんですが、だんだんと注目される機会も減っていきましたね。なんというか、ここぞというときの爆発力に欠けるんですよ。大会でも準決勝まではいけるんですが、さらに一歩、踏みこむ決定力が足らない、といいますか」
「欠点がないってのは、結構、強力な武器になると思うけどね。もっとも、今日みたいな試合運びしかできないようじゃ、何を持っていたところで、宝の持ち腐れだけど」
「どういう意味ですか?」
スコアは現在、5対2だった。飛羽の3点リードは変わっていない。
「あんたはクレバーだって言ったけど、本当に賢い選手だったら、戦法の修正なんか第1セットの最中に終えていただろうよ。インターバルで頭を冷やしたんだろうね。第2セットから挽回してきたけど、遅いんだよな、それじゃ。睦月が雪白に勝つには、絶対に第1セットを落としちゃいけなかったんだ」
「ですが、まだ勝負は……」
「決まったさ。さっき、睦月は二度目の判断ミスをした。ほんのちょっぴりだけ残っていた勝ち目を、自分で摘み取っちまったんだ。そろそろ本人も気がつきはじめているだろうさ。とんでもない思い違いをしてたってことにね」
――おかしい。
飛羽の中で、違和感がパンパンに膨らんでいた。破裂寸前だ。
こんなはずはないのだ。こんなはずは。
サーブ権は飛羽に移っていた。サイドラインぎりぎりを狙って、飛羽はシャトルを放った。
グリがくらいつき、爆音を轟かせて〔雷撃〕を打った。
飛羽は〔竜羅〕を編んだ。二枚。突き破っても、〔雷撃〕はまだまだ意気盛んだった。バチバチ、雷の枝をはじけさせながら、飛羽のもとへ迫り来る。
――やせ我慢してんじゃ。
ねえよ! と飛羽はラケットをフルスイングした。全身のありとあらゆる筋肉を総動員して、押し返す。
打球は、フラフラと上がった。
グリは涼しい顔で待ちうけて、ビュッ、華麗に打ち返した。
落雷。
飛羽の〔竜界路〕の片隅に、轟音とともに焦げ目が着いた。床の抗魔法効果で焦げ目はまもなく消え去ったが、飛羽の意識に生まれた黒い染みのような不吉な予感は、ジワジワと広がっていく一方だった。
――いい加減にしなよ。なに落ち着いてんの?
エンドラインを片足で踏み、もう片足はコートの外に。
ルールに則って、サーブを打つときのポジションに立ちながら、飛羽は雪白グリの顔色をうかがった。
祈るような気持ちで、グリに異変が現われていないか、兆候を探す。
――無理はよくないよ。ねえ?
苗字を体現したかのようなグリの白い肌は、上気して赤らみ、汗で光っていた。息も多少は乱れている様子だが、グリの瞳の輝きに、疲れの色は見当たらなかった。
飛羽は混乱した。
どう考えたって変だった。いったい何が起こっているのか。いくら魔法の天才だからといって、グリの状態は異常だった。
グリはこれまで、何発の〔雷撃〕を放ったことか。
ベタベタと過剰に張った〔竜羅〕の枚数は、合計何十枚にのぼることか。
消費した魔力を数値に換算できるとすれば、飛羽の消費量の、かるく五倍もの魔力を、グリは魔法にして放っていた。
――五倍!?
ぞっとする消費量だった。
一般的に『魔力』と称される、魔法の原動力となるエネルギーには、使用限度量があって、肉体のスタミナと同様、いずれは尽きる。自動車のガソリンタンクみたいに、はっきりしたエンプティラインがあるわけではないが、魔法といえど、無限に使えはしないのだ。
――……〔無限行使者〕!?
飛羽の記憶の底から浮かび上がった、ひとつの可能性。
――でも、あれって、ただのおとぎ話じゃ。実在? うそっ!
サーブには、制限時間がある。タイムリミットぎりぎりで、飛羽はシャトルを打った。
打球はグリを経由して、〔雷撃〕となって返ってきた。
飛羽が展開した〔竜羅〕は二枚。その二枚目が、かすれていた。ヤスリをかけたみたいに、斜めに走った無数の亀裂が、〔竜羅〕の繊細な紋様を途切れさせている。魔力不足だ。飛羽のほうの魔力が、先に底をつきかけていた。
不完全な〔竜羅〕で、グリの〔雷撃〕には太刀打ちできない。
それでも飛羽はラケットを出した。はじくのがやっとだった。シャトルはフェンスに激突した。
「どうやら、気がついたね」
飛羽を見下ろして、彼女が言った。
戸上にも、もうわかっていた。
「睦月は我慢くらべを選択したんですね。それが、判断ミス」
「雪白のハイペースがいつまでも続くはずがない。いずれ魔法の使いすぎで息切れする。そのときが、攻めに転ずる絶好のチャンス。――そんなとこだろ、睦月の策は」
「経験豊富な彼女らしい、堅実な作戦ですね。だが、相手がまずかった」
「3点リードしただけで満足しないで、嵩にかかって攻め立てるべきだったんだ。雪白の経験不足につけいって動揺を誘い、さらにミスを連発させる。そうするしかなかったんだよ、睦月が勝つには」
「もう、挽回は不可能ですか?」
「無理だね」
戸上は席を立った。
「トイレかい?」
「さっき、行きそびれまして」
「試合はまだ続いてるぜ」
「もう勝敗は決まったんでしょう? なら、見ても仕方ありませんよ」
「そうかな?」
彼女は腕を組むと、背もたれに深く寄りかかり直した。
「本格的に面白くなるのは、こっからのような気がするんだけどね」
――くそっ!
悔しさを叫ぶのは、心の中でだけだ。面には出さない。
手首の痺れを無視して、飛羽はラケットをかまえた。
グリを見る眼差しには、激しい怒りがあった。
――このガキ。調子に乗ってんじゃねーぞ。あたしだって、魔力さえ本調子だったら……。
グリが、サーブを打った。〔雷撃〕。
飛羽はラケットを出した。打球は、あさっての方角へ飛んだ。
これで、6対9。
グリに逆転されたうえ、またしても3点差だった。飛羽は唇を噛んだ。こちらが3点リードしていた頃が、はるか昔の夢のように思える。
試合開始と同時に放った〔瀑飛蛟〕。
あのときの感触を、飛羽は何度も脳裏に呼び起こしては、確認しようとしていた。
あれは、本物の〔瀑飛蛟〕になっていたのか。
確信がなかった。Aクラス選手の〔竜殺打〕に恥じないだけの威力を、あの〔瀑飛蛟〕は発揮していただろうか。
足りなかったのではないか。全力で打ったつもりだった。けれど、魔力の衰えを気にして、知らず知らずに加減してしまったのではないか。だから、グリの〔竜羅〕を破れなかったのではないか。
――そうだ。そうに決まってる。
いくら七枚も束になられたからといって、こんなド新人の〔竜羅〕に、〔瀑飛蛟〕が負けてたまるか。〔瀑飛蛟〕が完成するまで、どれだけ苦労したと思っているんだ。睦月飛羽の必殺ショットが、雪白グリごときに破られるなんて、あるわけがない。
――あってたまるか!
グリが、サーブを打った。
飛羽が打ち返す。今度はどうにか、前に飛ばせた。しかし、コースは右に大きく逸れていた。
アウト。6対10。
雪白グリの、マッチポイントだ。
いよいよ、飛羽には後がなくなった。
飛羽の脳の中心で、ドクドク、不愉快な熱の塊が脈打っていた。吐き気がこみあげてくる。寝不足の朝みたいに、意識はモヤモヤした雲に覆われていた。晴らそうと、飛羽は二回、ギュッ、と瞬きした。
わかっている。
飛羽は、わかっていた。最初に放った〔瀑飛蛟〕。今日の飛羽の打球のなかで、あれが最高の一打だった。
認めたくはないが、グリの〔竜羅〕に難なく討ち果たされてしまったあの竜が、いまの飛羽に到達できる最高点だったのだ。
痛感させられる、魔力の衰え。
鼻の奥が、ツーンと痛くなった。ひどい顔になってるんだろうな、と飛羽は自覚しながら、決して俯かなかった。まっすぐに、グリを見る。最後の1ポイントが決まるまで勝負はついちゃいねーんだぞ、と睨みつける。
飛羽はいままで、何度、こうして敵のサーブを待ったことだろうか。
練習まで含めたら、何百回、何千回、何万回……とても数え切れなかった。
何度、ラケットを振ってきただろう。
何万、何億、何兆……ますます数え切れない。
ずっとマグバドばかりしてきた。
他には、何もしなかった。勉強もしなかったし、恋もしなかった。十代の女子らしいお洒落も、遊びも、自分には関係ない、と思い定めてやってきた。
他の選手は違うのだろうか。
天野冴火は引退した。あんなにもあっさりと。マグバドを辞めて、彼女はこれからどうするつもりなのだろう。
飛羽は自問する。自分なら、引退後、いったい何をするだろう。
九九をおぼえるよりも先に〔竜界路〕の描き方をおぼえた。最初はうまく描けなかった。描けても、うまく操れなかった。注ぎこんだ魔力が漏れて、一歩まちがえていたら大惨事、なんてこともあった。
懲りずに練習した。
すると、だんだんできるようになった。
もっと練習した。
もっとできるようになった。
改良もはじめた。線を加えて、削って。カーブさせてみたり、まっすぐにしてみたり。自分の魔力がよりスムーズに出せる形を求めて、修正はいまも続けている。
〔竜界路〕が描けただけでは、マグバドはできない。
〔竜羅〕。これがまた、けっこう手ごわいのだ。
その編み方。展開するタイミング。複数を並べる場合、どのくらいの間隔を空けて配置するのが最も効果的か。
研究した。
試した。
毎日、試行錯誤の連続だった。
身体だって鍛えてきた。来る日も来る日も、汗で池ができるくらい動き回った。
シャトルが身体に当たれば、あざくらいできる。室内競技といえど、転べば擦り傷くらいできるし、摩擦で火傷をすることもある。手のひらや足の裏なんか、ワニの革みたいにカチカチで、もうマメもできない。いつだって、身体のどこかが痛かった。でも、辞めなかった。
無駄になるのか。
いままでの努力が。
必死に積み重ねてきた。
たくさんのことをあきらめて。
なのに、泡と消えてしまうのか。
何が残る?
お金はもう消えた。
他に何かあったか?
何もない。
何も残らない。
雪白グリが、サーブを放った。〔雷撃〕。
反射的に〔竜羅〕を展開させてから、飛羽はハッとなった。
――やばっ!
いったん織り上げた〔竜羅〕を畳もうとするが、間に合わない。
〔竜羅〕を貫いたシャトルは、魔法の〔雷〕をほとばしらせながら、飛羽の頭上を跳び越えた。
明らかなミスショットだった。
放っておけば飛羽の得点になっていたものを、〔竜羅〕で触れてしまったため、このまま落ちれば失点――飛羽の敗北が確定する。
――やだ。……やだ!
飛羽は走った。
羽が空気抵抗を受けるため、バドミントンのシャトルは飛距離が伸びると急激に速度が落ちる。全力疾走すれば、追いつけるはずだ。
――違う。違うよ。終わってない。あたし、まだ、終わってない!
飛羽は床を蹴ってジャンプした。
シャトルしか見ていなかった。
たとえラケットが届いたとしても、グリの〔雷撃〕を打ち返せるのか?
そんな心配、思いつきもしなかった。
ふいに、気配を感じた。
目だけを動かすと、飛羽の視界は、緑色でいっぱいになった。
フェンスに頭からつっこんで、睦月飛羽はぐったりと横たわった。駆けつけた副審の顔が青ざめ、手でどこかへ合図を送る。
騒然となる場内で、戸上の隣の彼女だけが、泰然としていた。
ほんのわずかにだが、その唇は、笑っていた。