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序章+一章「飛羽のマグバド」

ジャンルは美少女スポーツファンタジーとでも申しましょうか。

魔法のある世界で女の子たちがスポーツする話です。

二ヶ月かけて書き散らした代物を三ヶ月かけて修正し、さらに半年かけて書き直しました。

下手に時間だけかけても良いものはできない、という見本です。

某新人賞に応募したら箸にも棒にもかからずにボツりました。

がんばったんだけどなー。ちくしょー。

     序


 飛羽ひわの足下で、〔竜界路ドラゴンサーキット〕が青く輝く。

〔竜界路〕に注ぎこんだ魔力は、二枚の〔竜羅ヴェール〕となって、ネット際の中空に形を結んだ。

 と、結んだとたん、敵の羽球シャトルに貫かれ、霧散する。

 もちろん、無駄に霧散してはいない。

 シャトルに宿っていた敵の魔法も道連れだ。

 道連れだった、はずなのだが。


 ――まだ燃えてる!?


 二枚の〔竜羅〕を突き抜けたとき、シャトルはまだ、魔法の〔火〕で燃えていた。

 うまく織り上げたつもりだったが、〔竜羅〕の出来が完璧ではなかったらしい。

 飛羽はのみくだせない違和感を覚えながら、手元へ来たシャトルへ、ラケットを叩きつけた。

 ラケットには、〔水〕の魔法がこめられている。

 燃え残っていた敵の〔火〕とぶつかり、


 ジュワッ!


 小気味のいい音がはじけた。


 ――おもっ!


 ずっしりとした手ごたえがあった。

 強引に、振りぬいた。

 シャトルは〔水〕をまとって、敵陣へ飛んだ。


 自らの打球を見送りながら、飛羽は舌打ちした。

 威力が、想定していたものよりも数段、劣っていたのだ。

 攻撃に使うために練っていた〔水〕の魔法。

 その力のうちの少なくない量が、燃え残りの〔火〕を消すために消費されてしまっていた。


 攻撃は、最大の防御でもある。

 こちらが強烈な攻撃を放てば、敵はそれを防ぐために多くの力を割かなければならず、そのぶん、次の反撃にこめる力が減る。

 反対に、こちらの攻撃が弱ければ、敵は防御に使う予定だった力まで上乗せして、より強い反撃を放ってくる。

 早い話、飛羽はピンチに陥ったのだ。


 もっとも、魔法の威力を、外見だけで測るのは、意外と難しい。

 飛羽の打球を、敵が過大評価してくれないとも限らない。


 敵――天野冴火あまのさえかが、自陣のネット際に〔竜羅〕を展開した。

 その枚数、たったの一枚。

 敵ながら天晴れ、だった。

 実に正確な見立てである。


 ――ちきしょっ!


 悪態をついても、はじまらない。

 飛羽は自陣の〔竜界路〕に、気合を入れて魔力を注いだ。

 次の冴火の打球は、強烈なものになる。

 もちろん、それに備えての気合だが、それ以上に、飛羽の勝負勘が告げていた。

 いま、この瞬間がこの試合のターニング・ポイントになる。

 ここで退いたら、この試合、負ける。


 冴火の足下でも、彼女の〔竜界路〕が真紅色にきらめいていた。

 流れるような美しいモーションで、冴火がラケットをふりかぶる。

 渾身の、スマッシュ!

 こめられた〔火〕の魔法の、あまりの熱量に、シャトルは白い光と化した。


 迎え撃つ飛羽が展開した〔竜羅〕は四枚。

 どれも、惚れ惚れするくらい完璧に織りあがった。

 おかげで、飛羽のラケットはほとんど裸だが、冴火にしたところで、この一打に死力をこめたはずだった。

 ここをしのげば、まだまだ、飛羽にも勝機はあるはずだ。


 淡い光をまとった〔竜羅〕の列。

 レース生地にも似た、魔法の薄綾たち。

『純潔』

 という言葉を目に見える形にしたら、こんな姿になるかもしれない。


 そこへ突き刺さる、炎の槍。

 哀しくなるほど儚く、〔竜羅〕たちは散らされていく。

 もちろん〔竜羅〕はただの薄布ではない。

 飛羽の燃える闘志が具現化した、魔法の盾である。

 自らを切り裂かれながら、同時に敵にも深々と爪を立てる。

 一枚が散るごとに、飛羽の〔竜羅〕は確実に冴火の〔火〕から力を奪っていった。


 ――うそっ!?


 四枚の〔竜羅〕がすべて散ったとき、飛羽の目の前に現出したのは、またもや期待を裏切る光景だった。

 冴火の〔火〕が、まだ消えていない。


 ――うそうそうそっ!


 いくらうろたえたところで、現実は変わらない。

 なかばヤケクソで、飛羽はラケットをくりだした。


 重い衝撃に、足がふらついた。

 なんとか持ちこたえ、振りぬくが、下半身のふらつきは、打球にも伝染した。

 ふらふらと、シャトルは打ちあがった。


 冴火が、ジャンプした。

 打ち下ろしてくる。


 こめられた魔法は〔火〕。

 さっきの一撃にくらべれば、威力は遥かに下だった。

 やはり、あの一打に冴火も勝負を懸けていたのだ。


 飛羽は〔竜羅〕を張った。

 一枚が限界だった。

 難なくひきちぎられた。

 いまだ元気に燃えているシャトルに、飛羽は手が出せなかった。

 鼻先で、コートに落ちる。


 審判が、笛を吹き鳴らした。

 天野冴火に、プラス1ポイント。

 観客の歓声と拍手が、爆発した。


 天野冴火の表情が、ほっと緩んだ。

 が、すぐに口元を引き締めて、新しいシャトルを手にする。

 試合は、まだ続くのだ。


 飛羽も、ラケットをかまえた。

 足は、肩幅よりもやや広く。

 膝と腰を軽く曲げて、前傾姿勢。

 いままで、数限りなくかまえてきた、ファイティング・ポーズだった。

 どんな苦境に陥っても、このかまえをとつて、呼吸を整えることに専念すれば、たちどころに飛羽は冷静さを取り戻すことが出来た。

 いつだって。どんな試合だって。


 だが、今回は違ったようだ。


 頭のなかで、いまの場面が再生されていた。

 冴火の魔球を迎え討つ、飛羽の〔竜羅〕。

 四枚とも引き破られ、それでもまだ冴火の魔法は消えていない。

 そこで映像は終わり、瞬時に先頭に戻る。

 また再生スタート。

 延々と、そのくりかえしだった。

 映像は途切れることなく、無限にリピートされた。


 静かだった。

 聞こえるのは、己の心音と、気道を通る空気の音だけ。

 防音室に閉じこめられたみたいに、外部の音が、飛羽の耳から消えていた。

 錯覚だ。

 耳は、確かに観客たちの喚声を拾っていた。

 瞬きを忘れた目の先で、天野冴火がサーブを放った。

 飛羽の肉体は、機械的に反応した。長年の練習の成果だった。

 経験が、身体を動かすのだ。

 リピートする映像に釘付けになっている飛羽の心を置き去りにして、飛羽の身体は反射的に〔竜羅〕を張ると、シャトルの落下点へ、自動的に走り出していた。



   一 飛羽のマグバド


『終わる』


『尽きる』


『干上がる』


『時間切れ』


『幸せな時代よ、さようなら』


 その現象の呼び方は、いろいろあった。

 言葉の数は、想いの数だ。

 それだけ、その現象について、いろいろな人がいろいろな想いを持ったのだろう。

 その現象は、いずれ誰にでも訪れる、避けようのない期限だった。

 いわゆる、神の定めた摂理、というやつだ。


     1

 

 魔法を使うには、格好のシチュエーションだった。

 朝日がさしこむ、静けさに浸された体育館。

 足元の床には、四つの円が、中心を少しずつずらして重なり合った図形が描かれている。

〔竜界路〕。

 魔法の源となる魔力を、円滑に、かつ安全に制御するための、魔法の紋章である。


 四重円は、〔竜界路〕のプレーンな形態だ。

 試合では、これに各選手が加筆をし、自分の使いやすい姿にアレンジする。

 飛羽の集中力が高まるにつれて、〔竜界路〕が発光しはじめた。


 飛羽は、シャトルを真上に放り投げた。


 キリッ。


 と空気に緊張が走る。


 シャトルの羽根が、


 ぐるり。


 ねじれた。


 透明な、爆発。


 爆発につきあげられて、シャトルは一息に天井近くまで飛翔した。


 見上げる飛羽は、浮かない顔だった。


 ――やっぱり。


 昨日のあれは、気のせいではなかったのだ。


「いいっけないんだ!」


 とつぜん肩をつかまれて、飛羽はのどの奥で悲鳴を上げた。

 ふりむくと、メガネ越しの垂れ目が、ニコニコしていた。


「ダメじゃないですか。

 勝手に魔法練習まほれんしちゃ。

 監督の許可、取ってるんですか?

 言いつけちゃいますよ」


貴田たかたぁ……!」


 飛羽は、二年下の後輩――貴田花はなの後ろにすばやく回りこむや、鎖骨の下の二つのふくらみを、むんずとつかんだ。

 たわわな塊を、揉みしだく。


「心臓が止まったぞ、コンマ2秒!」

「そのくらい普通ですって。

 むしろ脈、早すぎるくらいですって」

「おまえのせいで早くなったんだよ。

 堅いこと言ってんじゃないの。

 こんな軟らかいもん、ぶらさげてるくせに!」

「痛い、痛いですってば。

 やさしくしてくれなきゃ、いやですよぉ!」


 花のうなじは汗ばんでいた。

 ランニングを終えたばかりなのだ。

 たいていのことは人並みよりもノロマな花だが、足だけは速い。

 今朝も他の部員をぶっちぎって、一人だけ先に帰ってきたのだろう。


 ふいに、コツンと頭を叩かれて、飛羽は揉みしだく指を止めた。

 打ち上げたシャトルが、いまごろ落ちてきたのだ。

 シャトルは床で跳ねて、円を描いて転がり、飛羽のつま先に当たって停止した。


「どうかしたんですか?」


 急に静かになった飛羽を、花がいぶかしむ。


「……あんたさ、右のほうが大きいよね。

 パット一個分くらい」

「ええっ!?」


 体育館の入り口に、ランニングを終えた部員たちがぞろぞろと現われたのを潮に、飛羽は花を解放してやった。

 しまった、と内心、焦る。

 花のせいで長居をしすぎた。

 もはや手遅れと悟りつつも、飛羽は急いで体育館を去ろうとした。


睦月むつきさん?」


 姓で呼ばれて、飛羽はギクリと固まった。

 部員につづいて体育館に入ってきた益居ましい監督は、一直線に飛羽のもとにやって来た。


「あなた、うちの部に入って何年になるんだったかしら?」


 二十代最後の一年を謳歌している益居は、説教となると、いささか回りくどくなるのが玉に瑕だった。

 なかなかの美人で、選手時代はアイドル的な人気を博したという。

 近くに寄ると、ちょっといい匂いがしたりして、こりゃ男子だったらたまらないだろうな、と飛羽などでも思うくらいだ。


「えーっと、六年目です」

「そう。じゃあ、ウチの部のルールを知らないなんて、まさかそんなはずは、ないわよね?」


ひとつ、試合の翌日は早朝練習を休み、静養するべし。』


 桶狭間おけはざま女子学園マグバド部、鉄の掟である。

 休養もまた大事な練習だ、と部員たちに厳に言い含めている益居だった。


「気分転換に散歩していただけですよ」


 言い逃れを試みるが、益居の目は、飛羽の足下に転がっているシャトルを見落としていない。


「体育館を?」

「いやー、この、靴底がキュッて鳴るのって、楽しいじゃないですか?」


 かかとを床にこすらせる飛羽に、益居はにっこり、恐ろしげな微笑を向けた。


「そんなに楽しいなら、午後の練習が始まるまで、ずうっとキュッキュッしていても、かまわないのよ?」

「もう十分に堪能しました。みんなの邪魔しちゃ悪いんで、このへんで失礼します」


 一礼。

 頭を下げたついでに、飛羽は拾ったシャトルをポケットにねじこんだ。

 きびきびと立ち去ろうとした飛羽は、すれ違った瞬間、益居に後ろ襟をつかまれた。


「ごめんなさいっ、許してくださいっ、ちゃんと休みますからっ」

「そうじゃないの。昨日の試合のことなんだけど、睦月さん、あなた……」


 言いかけて、益居は他の部員たちを見やった。

 皆、ランニングで乱れた息も整ってきて、ストレッチなどしながら、益居の指示を待っている。


「いいえ。なんでもないわ。

 また今度にしましょう。

 行っていいわよ。

 でも、ちゃんと休むのよ」


 益居は飛羽を手放すと、部員たちに『コートダッシュ』を命じた。

 コートの端から端まで、何往復でも、益居が終了の笛を吹くまで全力疾走をくりかえすメニューだ。

 一瞬、顔をしかめた部員もいたが、表立って不平を鳴らす者はいなかった。

 益居がへそを曲げようものなら、地獄の時間が果てしなく延長されてしまう。


 ――なんでもないのか、また今度なのか、どっちなんですか?


 益居の背中へ、心の声で問いかけて、飛羽は体育館をあとにした。


「さすが、監督」


 寮へとつづく渡り廊下を歩きながら、ひとりごちる。


「その目は節穴ではなかったか」


 益居が何を言いかけたのか、飛羽はわかっていた。

 昨日の試合を見て、気がついたのだろう。

 益居との師弟関係も、はや六年目である。


 ――そりゃ、気づかれるわな。


 風が生温かった。

 もうすぐ十月だというのに、夏はいつも往生際が悪い。

 遠くに目をやると、山の後ろに黒い雲があった。

 午後は雨になるかもしれない。


 することもないので、とりあえず朝食を採ってしまおうと食堂に行くと、先客がいた。


「おはよ」

「ん、あんう」


 欲張りなリスみたいに頬を脹らませている先客の肩を叩いて、飛羽はカウンターへ向かった。

 調理番もしている寮母と挨拶を交わして、おかずの皿だけが載ったトレイを受け取る。

 ご飯と味噌汁はセルフサービスでよそう。

 飛羽が向かい側に腰を下ろすのと、先客が空っぽの丼を手に席を立つのとは、ほぼ同時だった。

 三つ並んだ業務用炊飯器から、先客は熟練の手つきで丼に中身を補充した。

 日本昔話に出てくる

 みたいな白い塔がみるみる建築されていくさまは、なかなか感動的なものがある。


 ――三杯目、かな。


 おかずの減り具合から、飛羽は推量した。

 毎日スポーツに明け暮れている人間の一員として、飛羽もそれなりに大食いだが、彼女にはとてもかなわない。

 点けっぱなしのテレビでは、アナウンサーが能天気な笑顔を浮かべたところだった。


『女王、大海おおみ、大記録達成なるか?』


 映像が、屋内競技場の模様に切り替わった。

 満員の観客がごったがえすなか、コートでは二人の選手が躍動していた。

 飛羽も出場した昨日の大会の、決勝戦である。


『昨日おこなわれた「タキオン電社杯」。

 決勝は、桶狭間女子学園の大海晃あきらと、姉川あねかわ高校の天野冴火の対戦となりました』


 味噌汁をすすりながら、飛羽は、向かいの席の彼女と、テレビの中の彼女とを見比べた。

 飯をかきこむ彼女と、ラケットを振る彼女。

 一心不乱なことにかけては、どちらも甲乙つけがたかった。

 いつでも、なんでも、全力集中。

 晃のこの性格を、飛羽は手放しで尊敬している。


『五大会連続優勝中の大海が記録を六にのばすのか、はたまた、今年度はいまだ大海に勝ち星がない天野が雪辱を果たすのか。

 満員のファンが見守るなか、試合はまれにみる熱戦になりました』


 天野冴火は、さすが、絵になる。

 飛羽はうっとりとしてしまった。

 飛び散る汗まで、ダイヤモンドの輝きである。

 女の飛羽が見惚れるのだから、男どもの反応はいわずもがなだ。

 顔もスタイルも抜群の美少女が、惜しげもなくミニスカートをヒラヒラさせてくれるのだから、それが見られてもいいようにデザインされたスポーツウェアだとわかっていても、ついつい盛り上がってしまうのが、男心の哀しさというものなのだろう。


 まれにみる熱戦、とアナウンサーは言った。

 だがスコアを見るかぎり、決勝戦は一方的な展開だった、と言うべきだった。

 マギック・バドミントン――通称マグバドの試合は、3セットを行い、先に2セットを取った側の勝利となる。

 片方が2点差以上をつけて11点以上取るまでが、1セットだ。

 大海VS天野戦のスコアは、第1セットが11対7。

 第2セットが11対6。

 大海晃のストレート勝ちである。

 試合後の二人のインタビュー映像を見ても、バケツをひっくり返したみたいに汗びっしょりで、表情も疲れきっている冴火に対して、晃はまだまだ余力を残しているのが瞭然だった。


 ――強くなったよな、ほんと。


〔日本マギック・バドミントン協会〕が毎月更新している選手のランキング表において、晃はここ半年間、不動の1位だった。

 殿堂入りしそうな勢いである。


 それにひきかえ飛羽ときたら、50位近辺をフラフラしているていたらくだった。

 卑下するほど低くはないが、威張れるほど高くもない。

 なんとも中途半端な成績だ。


 ――あたしだって。


 とも思う。

 天野冴火に敗れはしたが、飛羽だって昨日の大会で準決勝まで進んだのだ。

 あと一歩で、決勝戦だったのだ。

 そうしたら、今朝のニュースで晃と対戦していたのは、冴火ではなく飛羽だったのだ。


『さて、マグバド界に期待の新星の登場です』

「げ」


 かぐや姫みたいなストレートヘアの少女が、テレビ画面に大写しになったのを見て、飛羽はおもわずうめいた。

 晃が、不思議そうな顔をする。


「やばいよ。強敵出現じゃん」


 まだ不思議そうにしている晃に、飛羽はじれったくなって、声が高くなった。


「期待されてるってことは、有望ってことだよ。

 ますます競争激しくなっちゃうよ。

 うあっ。

冬眠者スリーパー〕だって!」


 テレビが垂れ流す情報は、現役のマグバド選手であれば、誰にとっても一大事のはずだった。

 すくなくとも、飛羽にとってはそうだ。

 しかし晃には違ったらしい。

 飛羽の話にフムフムと頷きはするものの、その表情に危機感だとか、焦りだとかは微塵もなかった。


 そりゃそうか、と飛羽は納得すると同時に、落ち込んだ。

 大海晃が、いまさら新星の一つや二つに慌てるはずもないのだ。

 慌てるのは、自分みたいな中途半端な選手だけだ。




 中途半端。


 ――まったくだ。


 教室で、始業のベルを待ちながら、飛羽はさっき自分で思い浮かべた言葉に、あらためて打ちのめされていた。

 飛羽はいままで、一度も大会で優勝した経験がなかった。

四季杯しきはい〕と呼ばれる、年に四度の主要大会はもちろん、小さなトーナメントにおいてもだ。

 二度の準優勝が、最高である。


 Aクラス――ランキング80位以上――に昇格したのが、十四歳のとき。

 あの頃は、飛羽も『期待の新星』だったはずなのだが。

 現実は、甘くない。

 そう言ってしまえば、それまでだ。

 陳腐すぎるが。


 続々と同級生たちが登校してきて、教室は、賑やかさの階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。


「めっずらし」


 席が隣の佐野卵さのらんが、飛羽をみつけるなり、目を丸くした。


「早いじゃん。

 どうした?

 朝練、サボったか?」

「昨日、あたし、試合」


 単語三つで、飛羽は答えた。


「なんだかご機嫌斜めだね?

 そっか。

 試合か。

 負けたんだ?」


 卵はにべもなかった。

 スラリとした長身に、髪はいくらか天然パーマがかかったショートカット。

 下級生たちの間では、ファンクラブが結成されているとか、いないとか。

 卵は、カッコイイ女、だった。

 その人気たるや、昨年の学園祭において『お姉さまにしたい人』ランキング堂々1位に輝いた実績がある。

 バレンタインデーに靴箱を開ければ、チョコの雪崩が起こるのも、毎年のことだった。


「トーナメントってやつはね、優勝者以外は必ず負けるようにできてんの」


 机に左の頬をくっつけて、飛羽は、卵が鞄の中身を机に移していくのを眺めた。

 卵の教科書は、表紙の墨がめくれていたり、折り目があったり、どれもかなりくたびれていた。

 飛羽の机の上の、一時間目の古文の教科書など、新品同様のピカピカである。

 春に支給されて以来、ずっと机に置きっぱなしで、ろくにページもめくっていないのだから、当然だ。


「やっぱ負けてんじゃん」

「ベスト4だよ。立派じゃん」

「えらい、えらい」


 頭をなでられる。

 猫みたいにのどを鳴らした飛羽は、しかしすぐに仏頂面になった。


「卵の薄情者。応援にも来ないで、あまつさえ大会の存在すら失念していたなんて、友達ないがしろ罪で地獄に落ちるぞ」

「応援って簡単に言うけどさ、観戦チケットって安くないんだよ?」

「お金なら持ってんでしょ」

「持ってないよ。

 将来のこと考えたら、わたしのお金なんて、全然、持ってるうちに入んない」

「関係者席に無料ご招待してさしあげますって。

 卵様なら、部員一同大歓迎ですって」

「やだよ、肩身狭い。

 わたしゃ引退したの。

 マグバドに全精力を傾注できる飛羽とは、もう身分が違うんだよ。

 いま、これからの人生ってやつに直面してるところなんだ。

 いろいろ考えなきゃなんないし、他人の応援できるほど余裕ないんだよ。

 飛羽だって、たまには勉強もしなよ。

 わたしなんて、中学レベルの問題がチンプンカンプンだったんだから。

 まず小学レベルからやり直さなきゃならなかったんだぜ。

 マジで」

「あー、隣の席から現実という名の悪魔が襲って来るー!」


 飛羽は両耳を手でふさいだ。

 卵を、じっとりと睨んで、


「勉強してると、バカになっちゃうんだぞ」


 パカン。


 卵のノートが、飛羽の額を打った。

 視界を遮ったノートがどけられると、卵の沈んだ顔と目が合った。


「……ぶっちゃけるとさ、マグバドの話するの、ちょっとツライんだ」


 卵は、黒板へ目をそらした。


「やっぱ、まだ未練があるんだろうね。

 自分が手放さなきゃならなかったものを、誰かが持ってるのを見せ付けられるのは、すんごいキツイっていうか」


 ごまかすように、笑った。


「マグバドが嫌いになったわけじゃないよ。

 大好きだよ、いまでも。

 感謝だってしてる。一生遊んで暮らせるほどはないけど、大学行く間の学費と生活費くらいは稼がせてもらったし。

 ほんと、マグバド様々さ。

 ……けど、いまは見たくない。

 だから応援にも行けない。ごめん」


 黒板を見つめる卵の横顔に、朝陽が当たっていた。

 まぶしくて、飛羽は卵の表情がよくわからなかった。

 担任の教師が入ってきて、話はそこで打ち切りになった。


     2


 いかに由緒正しい名門校であろうとも、少子化の荒波を乗り越えるのは至難である。

 私立桶狭間女子学園――通称「桶女おけじょ」は、


『婦女子にも文武両道を!』


 との理念のもと、大正時代に創立された、中高一貫の女子校である。

 桶女といえば、全国的にも名の知られた有名校なのだが、近年の台所事情は、


『苦しい』


 の一語に尽きた。

 少子化だけでも相当な打撃であるのに、終わりの見えない不景気が追い討ちとなり、学費のかさむ私立にあえてわが子を入学させようとする家庭は減る一方である。


 打開策として、桶女が選択した道は、運動部の強化だった。

 もともと桶女は、スポーツ教育に熱心な学校として知られていた。

 その強みをさらに強めて、スター選手を輩出し、学園の広告塔になってもらおう、というのである。

 運動部所属の生徒たちには、午後の授業が免除されることになった。

 各種の試験においても、答案に名前さえ書いてくれれば合格、という特別待遇だ。


『スポーツをしろ!

 勉強なんか、いつでもできる!』


 恥も外聞もありはしない。

 モットーの『文武両道』から、『文』の字を取り除いてしまったのである。


 そんなこんなで、運動部の部員たちは、昼食が済むとすぐに部活動に専念することになる。

『女王』とまで呼ばれることもある大海晃を擁するマグバド部は、とりわけ学園の期待も大きく、世間からの注目度も高かった。

 部員たちのモチベーションも高く、日頃の練習にも熱が入るのだが、いま練習用第一コートで燃え上がりつつある熱は、そういう熱とはちょっと異質な熱だった。


 ――けしからん。まったくもって、けしからん!


 それが理不尽な怒りだとは、飛羽自身、重々承知しているのだが。

 花と試合形式の練習をすると、ついつい、暗い情念が燃え上がってしまうのである。


 ――胸が悪いんだ。あのちょこざいな胸が。


 コートで対面していると、まるでそこだけ別個の生き物みたいに揺れ動く、花の奔放な一部分が、いやでも目に付いてしまうのだ。


 ――二個も年下の癖に。


 スポーツ選手は、たいてい負けず嫌いだ。

 飛羽もむろん、負けるのは大嫌いである。


 ――だいたい、貴田花、いったいおまえはなんなんだ?


 なんなんだ、と訊かれても、花も困ってしまうだろうが、その胸といい、メガネ――いまは試合用のゴーグルタイプのものをしている――といい、おどおどした性格といい、花はまったくスポーツ選手らしくなかった。

 そんな花が、佐野卵が引退した今となっては桶女マグバド部に三人しかいないAクラス選手の一人なのだから、つくづく世の中は油断がならない。


 ともかく、飛羽が声を大にして言いたいのは、


 ――花の胸は、厳罰に処さねばならない!


 ということなのである。


「先輩、なんか、怖いです……」


 悪寒に襲われた花が、盾みたいにラケットを胸の前に立てた。


「いくよー!」


 サーブ権を持つ飛羽が、シャトルを身体の横へ手放した。

 サーブは、ウエストよりも低い位置で打つのがルールである。

 風をうならせたラケットは、シャトルをスイート・スポットでとらえた。

〔竜界路〕はすでに加筆済みである。

 飛羽の足下で、青い輝きが飛沫いた。

 キラキラと水滴を散らしながら、シャトルは飛んだ。


 と、その行く手に、突然、〔水〕の塊が出現した。


「えっ!?」


 花が泡を食う。


〔水〕の塊があらわれたのは、ネット際、ぎりぎり飛羽の自陣内だった。

 シャトルを受け止め、〔水〕の塊はゴムみたいに伸びた。

 いっぱいまで伸びきって、角度を変えて跳ね返す。

 吐き出されたシャトルは、ネットと平行にコートを横切って飛んだ。


 と、コートの端まで飛んだところで、またしても、シャトルの行く手に〔水〕の塊が出現した。


「ええっ!?」


 花が、またしても、驚きの声を発した。


〔水〕の塊は、またしてもシャトルを受け止め、角度を変えて、射出した。射出した瞬間、爆発する。

 爆圧で、シャトルは一気に加速した。


 花が横っ飛びして、ラケットを出した。

 が、届かない。

 シャトルは突き刺さるように、コート隅に着弾した。


「よっしゃ!」


 飛羽、ガッツポーズ。

 審判約の晃が、笛を吹き鳴らした。

 両手をクルクルと回転させてから、飛羽を指さす。


「反則。ペナルティとして、花に3ポイント」

「ええーっ!」

「ええー、じゃありませんよ! 当たり前じゃないですか!」


 飛羽の抗議に、花の非難がかぶさった。


「魔法による打球の軌道修正が認められるのは一回だけ。

 その際の変化角は、最も変化が大きく見える方向から見て、60度以内でなければならない」


 ルールブックを音読するがごとく、晃は淡々と判定を下した。


「いまのは二回。どっちも60度を越えてた」

「だからって、3点はないんじゃない?

 そんなルールないじゃん」

「完全に故意の悪質ファウル。

 試合だったら、失格にされても文句言えない。

 3点で済ませたのは、わたしの温情。

 大岡裁き」

「試合じゃ出来ないことをやるから、練習になるんじゃん。

 もっと臨機応変にやろうよ」

「審判への不当な要求。

 さらにペナルティ2ポイント」

「いきなしハンデ5点て。

 鬼か、あんた」

「審判への侮辱的発げ……」

「なんでもありませんっ、独り言ですっ、もしくはあなたの空耳ですっ」


 これ以上、点差をつけられてはたまらない。

 コートの外から予備のシャトルを拾ってきて、飛羽はさっさとサーブの体勢に入った。

 晃が笛を吹いた。


「両者合計で5ポイント入ったから、サーブ権は交代」

「そこはいいじゃん、特例で!」

「ダメ」


 審判台に座った晃の決定は、お釈迦様でも覆せない。


 10分後。

 9対11のスコアで、試合の軍配は、花にあがった。

 先輩の意地をみせそうとした飛羽だったが、スタート時点での5点差は、いかんともしがたかった。

「最初のあたしの悪ふざけがなかったら、まだ9対6なんだからな!」


 悔しまぎれに喚くと、花に鼻で笑われた。


「負け惜しみは見苦しいですよ。

 それに先輩の自爆5点がなかったら、わたしだって、もっと点入れてましたもん」

「なにぃ、手加減したっての!?」

「わたしだって、Aクラスですもん」


 ――生意気な……!


 飛羽は手の指を、ギュッギュッ、とボールを握りつぶすみたいに、握りしめた。

 殺気を感じた花が、さっと自分の胸を隠す。


「お、脅かしたって無駄ですよっ。

 くやしかったら、次のゲームで晴らせばいいじゃないですか。

 今度こそ、正々堂々、本気で勝負です!」

「いい度胸してんじゃん」


 時代劇に登場する山賊みたいに、飛羽は不気味に口をゆがめた。

 と、次の瞬間、


「なーんつって」


 飛羽はかまえを解くと、スタスタと歩いてコートから出た。


「晃、花の相手、代わって」

「あがるの?」


 晃が審判台から降りてくる。

 飛羽は、部特製のスポーツドリンク――やたらと酸っぱい――をごくごく飲みながら、うなずいた。


「早退の許可、もらってあるの?」

「んーん。これから」

「私がうさぎちゃんに言っとこうか?」

「いいよ。

 自分で言う。

 兎ちゃん、どこかな?」

「スポンサー来てたから、たぶん監督室だと思う」

「え、カミサマ来てんの?

 気がつかなかった」

「大丈夫?

 病院いくの?」

「ちょっと疲れが溜まっただけだよ。

 ここんとこ、けっこう追いこんでたからさ。

 やっぱ、無理はよくないね。

 本日は、優雅にシエスタと洒落こませていただきますわ」


 ホホホ、と飛羽は手の甲で口元を隠した。

 ウインドブレーカーを羽織ると、道具をつめたバッグを肩に、


「おさきにー」


 他の部員たちに声をかけながら、飛羽は体育館から外に出た。


「早退って、調子悪いんですか、飛羽先輩?」


 飛羽の姿が出入り口の向こうに見えなくなってから、花が晃に訊いた。


「対戦してて、わかんなかった?

 昨日の試合から、らしくなかったじゃん。

 魔法の出力が思うように出ないみたいでさ」

「へー」

「まだまだ鈍いね、花は。

 サーブは、私からでいい?」

「あ、はい。お願いします!」


 花は急いで自陣に戻った。


「〔竜界路サーキット〕、描き変えなくていいんですか?」


 晃のコートには、飛羽の〔竜界路〕が描かれたままだった。


「平気。

 たまにひとの〔竜界路かいろ〕使うとおもしろいよ。

 自分の癖とか、いろいろ発見があって。

 花も試すといいよ」

「そんなの、晃先輩ならではですよ……」


〔竜界路〕は、魔法使いがそれぞれ、長い年月をかけて修正を加えつつ築き上げていく、自分だけの城である。

 他人のものを借りてきて、即座に使いこなせるような代物ではないのだ。


 憧れの先輩の怪物ぶりをあらためて思い知らされた花は、ふと、その先輩のさきほどの発言に、ひっかかりをおぼえた。


「あのー、飛羽先輩、魔法の調子が悪いんですか?」

「んー。

 みたいだよ」


 花の表情が曇っているのを見て、晃はサーブの動作をいったん止めた。

 花は、辺りをはばかるように、小声になった。


「それ、かなりやばいんじゃ……」


     3


「逸材ぞろいですよ」

 男は、自信満々だった。

 スポーツ用品の販売で、国内二位のシェアを誇るカイナ社。

 その日本支社に所属する、戸上誠とがみ・まことである。

 部員たちが陰で『カミサマ』と呼んでいる男だ。

 たいした皮肉だ、と、応接セットに戸上と差し向かいに座った兎は思う。

 スポンサー様は神様か。

 もちろん、冗談半分なのだろうが。

 戸上の容貌は、カミサナよりもホトケサマ――仏像を髣髴とさせた。

 眠たそうな細い目に、優美なカーブを描いた眉毛。

 豊かな耳たぶに、ふっくらモチモチの頬。

 額の真ん中に、ホクロかイボがないのが残念である。

 桶女マグバド部監督、益居兎は、戸上から渡されたファイルを閉じて、テーブルに置いた。

 難しい顔をして彼女が黙りこむと、戸上は眉をひそめた。

「お眼鏡にかなう選手はいませんでしたか?」

 戸上はファイルを手に取り、益居の目の前でパラパラとめくった。

「もう一度、確認してみてください。我が社のスカウト陣が自信を持ってお届けする、選りすぐりの金の卵たちですよ。ほら、彼女なんて」

 戸上が指で示した顔写真には、益居にも見覚えがあった。どこかの大会で見かけたのだ。

 たしかに金の卵だった。

 しかもその殻には、すでにヒビが入っている。じきに孵って、全国に名前を知られる強豪選手の仲間入りをするだろう。

 他のページの選手たちもだ。

 いまはBクラスに甘んじていても、向上心を失わなければ、やがてはAクラスの選手たちを脅かす存在になるに違いない。

 そういうことではないのである。

 益居が気乗りしない理由は。

 一ページずつめくっては、セールスマンみたいに各選手の長所を売りこんでいた戸上も、益居がいっこうに興味を示していないのを察して、ついに口をつぐんだ。

 ため息をついて、ファイルを閉じる。

「お気に召しませんか」

「彼女たちに不満があるわけではないんです。ですが、こういうのは、ちょっと……」

「こういうの、ですか?」

「我が校に入って、我が部でマグバドがしたい。そう望む子がいるなら、私は拒みません。我が部の門は、意欲のある人に対してはいつだって開いています。ですから……」

「ですから?」

「誰かを選べ、と言われても、選べません」

「選んでいただかないと困ります。もう二学期なんですよ。はやくターゲットを絞っていただかないと」

「ターゲット、って……」

「有望な選手には、とうぜん他校も目をつけています。争奪戦は、熾烈を極めているんですよ」

 ターゲット。

 争奪戦。

 ――ああ、嫌だ嫌だ。

 益居は憂鬱だった。

 ファイルに束ねられていたのは、スポーツ特待生の候補者たちだった。

 学費も生活も、学園側が全額負担。むしろ学園の側から、

『ぜひ、うちに入学してください』

 と頭を下げて招じ入れる、特別な部員の候補である。

 益居は言った。

「私には、部員を選別するようなことはできません。水無月みなづきさんには、ご了解いただいていたと思うんですが」

 戸上が桶女マグバド部の担当になったのは、今年の春からである。前任者は、益居と同い年の女性だった。

「聞いていますよ。益居監督は『カッチコチの石頭で、もはや根治不能の病的平等原理主義者だから、覚悟しときなさい』! ……だそうです」

 ――美都みとのやつ!

 プライベートではいまも友人としてつきあいのある水無月の、邪気をはらんだ笑顔が、益居の脳裏をよぎった。

「ま、どの部員にも分け隔てのない益居監督の姿勢には、私も敬服しているんですが。特待生の選考にまで、平等主義を持ち出されてもですね」

 戸上は嘆息した。

 有名なスポーツ選手を宣伝に利用したいのは、学校だけではない。企業もである。

 選手と企業との契約には、大別して、二つの形式がある。

 選手個人と直接契約する場合と、選手が所属する学校の部などと契約する場合だ。

 桶女マグバド部とカイナ社の関係は、後者だった。

 この方式だと、部に所属する選手全員と、一括で契約することになる。企業側からすれば一人当たりの契約料が安くあがる利点があるが、その反面、宣伝効果が期待できない無名選手まで抱えこむリスクがある。

 ゆえに、桶女マグバド部に強豪選手が何名いるかは、カイナ社にとっても重大問題なのだ。

「天国に送るか、地獄に落とすか決めろ、と言っているわけではないんですから。単純に、この子に教えてみたい、そう思わせる選手はいないんですか?」

「それは、いますけど」

「なんだ。いるんですか。誰です?」

「全員です」

「…………」

「ですから、やっぱり、選べないんです」

 益居は、彼の目をまっすぐに見つめ、つづけた。

「私は、スポーツは教育の一環であると捉えています。マギック・バドミントンを通して、部員たちには人として大切なものを学んでもらいたい。彼女たちが卒業後も実り多い人生を歩めるよう、限られた時間のなかで最大限のサポートをするのが、自分の使命であると信じています」

 戸上は、うなずいた。

「ご立派な、お志だと思います」

「ありがとうございます」

「ですが、それと、特待生を選ばないことと、どんな関係があるんですか?」

「この子は優れているから教える。この子は劣っているから教えない。そんな態度が、教育者として正しいでしょうか?」

「…………」

 黙然となって、戸上は、耳たぶを指で揉んだ。癖なのだ。

 三回ほど揉んだところで、

「ようするに、あなたは、特待生という制度がお嫌いなんですね?」

「すくなくとも、現状の使われ方はおかしいと思います。有望な選手においしい条件をちらつかせて、そんな、猫を鰹節でおびき寄せるような、スカウトだなんて。教育上、よい結果を生むとは思えません」

「それはそうかもしれませんが、現実を見てください。いまや子供は貴重品です。才能に恵まれた子供となれば、希少価値は計り知れません。悠長に構えていては、ろくな選手が入ってきませんよ」

「そ、そういう考えは、嫌いです!」

 益居の声がうわずった。

「貴重品とか、希少価値とか、子供を物みたいに! ろくな選手が、って、いったい、部員を何だと思ってるんですか!?」

 いきなりの剣幕に、呆気にとられた戸上が、ポカン、口を開けた。

 われに返った益居は、真っ赤になってうつむいた。ボソボソと、つづける。

「私は、どんな部員も特別扱いしたくありませんし、できません。選手に優劣なんてないんです。協会はランキングを作っていますが、マギック・バドミントンは順位を上げるためにするものではないはずです。ランキングで上位にいけそうな選手だけ、特別待遇で迎え入れるなんて、私はしたくありません」

 沈黙が落ちた。

 溜めた息を、戸上が吐き出す。吐き出しながら、しみじみと言った。

「偽善者ですねぇ」

「っ!」

「とどのつまりは、ご自分の手を汚したくないだけでしょう? あなたがしなくたって、子供たちは常に選別されていますよ。入学試験なんて、選別以外の何だって言うんですか。学力だとか素行だとか、学園側が勝手に設けた基準で受験生をふるいにかけて、こぼれ落ちた子供のことなんて、顧みもしない。あなただって、そういう学園の一員なんですよ?」

「なんとおっしゃられましても、できないものは、できませんっ!」

 ピシャリと益居は叫んだ。

 もう意地だった。絶対に選んでやるものか。矢でも鉄砲でも持って来い、である。

 また沈黙が落ちて、やがて白旗を揚げたのは、戸上だった。

「わかりました。無理を言って、申し訳ありませんでした。益居監督に特待生を選べだなんて、もう言いません」

 益居は、眉間に入れっぱなしだった力を抜いた。ホッと空気を和らげて、

「いいえ。私こそ、わがままを言って、すみません」

「では、特待生は、私が選ばせていただくということで、よろしいですね?」

「!」

「反対しても無駄ですよ。来年の春には必ず一人、特待生を迎え入れていただきます。慈善事業ではないんです。我が社だって、伊達や酔狂で、部の皆さんのウェアやシューズをオーダーメイドしたり、遠征費を負担したりしているわけではないんですから」

「…………」

「そう深刻に捉えないでください。入部してしまえば、特待生もただの部員です。どうぞ、他の部員と分け隔てなく、平等に指導なさってください」

 事務的な口調で益居の反論を封じた戸上は、ふいに微笑した。

「変わってませんね、あなたは。いつまで経っても、あの益居兎のままだ」

 益居は当惑した。

 戸上の微笑みの意味がわからなかった。

 というか、はっきりいうと不気味だった。

「正々堂々、いつでも全力、一生懸命。選手時代のあなたのプレースタイルは、融通が利かないとか、バカ正直だとか、しばしば非難もされましたが、まっすぐなその姿勢は、多くの観客を勇気づけました。初めて告白しますけど、実は私も、ずっとファンだったんです」

「はあ……」

 益居は、背中がムズムズしてきた。

 ファンだった、と言われれば悪い気はしないが、全身を嘗めまわすような戸上の粘っこい視線は、不快以外の何物でもない。

 戸上はスーツの内ポケットに手を入れた。

「今日は、このファイルの他にもう一つ、あなたに受け取ってらもらいたい物があるんです」

 彼の手の上に現われたのは、ビロードの小箱だった。

 蓋を開けると、ささやかな輝きが詰まっていた。

 戸上は、言った。

「結婚してください」

 ドアの外で、派手な音がした。

 益居はただちに立ち上がると、駆け寄ってドアを開けた。

 左、右。

 すばやく廊下に目を走らせる。

 誰もいなかった。プラスチック製の模造観葉植物の鉢が倒れている他には、目につくものは何もない。

「逃げ足の速い……」

 益居は、ギリリ、奥歯を噛みしめた。

 立ち聞きしていたのは、おそらく部員の誰かだろう。

 すると、噂はあっという間に部全体に広まるに違いない。

 尾ひれも背びれも、ふんだんにつくだろう。

 にわかに疼きだしたこめかみを押さえて益居がふりむくと、指輪を手にした戸上が、迷子みたいに立ち尽くしていた。

 心細そうに、尋ねてくる。

「あの、お返事は?」

「その前に、ひとつ、お聞きしたいんですが」

「なんでしょうか?」

「私と戸上さんって、どういう関係でしたっけ?」

「……たまにお会いして、仕事の話をする。そういう関係ではなかったかと」

「ですよね。そうだと思ったんですよ。部の話しか、した事ないですもんね。それが、どうして突然、こういう事態になるんでしょうか?」

「……不自然、でしたか?」

「おもいっきり」

「あの、ですが、それでも、お返事は?」

 益居は慈愛の女神のように微笑み、そして答えた。

「お断りします。戸上さんみたいなひと、全っ然タイプじゃないんです」


     4


「ここで問題です」

 抜き足、差し足、忍び足。

 真っ暗な廊下を、そろりそろりと歩きながら、飛羽は自分に出題した。

「夕食の後、部屋を訪ねても大海晃さんがいません。寮のどこを探してもみつかりません。こんなとき、どこに行けば彼女と会えるでしょうか?」

 一つのドアの前で、立ち止まる。

 施錠されていなければならないはずのドアは、予想通り、開いていた。

 潜るとそこは更衣室。

 誰もいない室内を素通りして、飛羽はもう一枚のドアの前に立った。

「答えは、そう、プールです」

 雨の日、蟻が見上げた風景を、時間を止めて眺めれば、こんなふうかもしれない。

 ドアの向こうに広がっていたのは、巨大な雨粒たちに埋め尽くされた空だった。

 大きなものでは、寮の飛羽の部屋がすっぽり収まってしまうサイズのものから、小さなものでは、ソフトボール大のものまで。

 飛び込み台もあるプールの天井は高く、その膨大な空間を埋め尽くして、大小さまざまな水の球体が浮遊していた。

 思い思いに宙をただよう水玉たちは、くっついて一つになったり、また分裂したりをくりかえしている。

 とっくに見飽きた光景のはずなのに、今夜も飛羽は圧倒されてしまった。

 こんなにも大量の質量を宙に浮かべて、気ままに遊ばせるなんて、とても飛羽には真似できない。

 才能の差とは、つくづく恐ろしいものである。

 飛羽は、いちばん大きな水玉に、人型の影があるのを認めて、狙いを定めた。

 飛羽のかかとを中心に、タイルの床に、光の波紋がひろがった。

 少しだけ膝を曲げ、すぐに伸ばす。

 魔法のトランポリンが、飛羽を重力の鎖から解き放った。

 水の玉に側面から飛びこんで、バサロ泳法で上面をめざす。

 大の字になって浮かんでいる彼女は、隙だらけだった。

 飛羽は、彼女のふとももを抱えると、水中にひきずりこんだ。

 びっくりした彼女は、抗って飛羽から逃れると、大急ぎで水上に顔を出した。

「飛羽っ!」

 怒る晃に、飛羽は笑いながら、バシャバシャ、水を浴びせた。

「ひゃはははははっ!」

「こら、やめろ! ……このぉっ」

 晃は近場に浮いていた水玉――バスケットボール・サイズ――を呼び寄せると、飛羽の顔面に投げつけた。

 もろに食らって、飛羽はのけぞった。

 背中から水中に没し、そのままバック転して、頭から浮上する。

「卑っ怯だぞ!」

「わたしの縄張りにノコノコ入ってきた、おまえが夏の虫なのさ!」

 悪のりした晃が、つぎつぎと水玉を投げつけてくる。

 飛羽は水中に逃れ、自身も魔法を放った。

 水の大蛇が、晃の脚にからみつく。

 また水中にひきずりこまれそうになった晃は、ならば、と、水中そのものを無くしてしまう、という暴挙に出た。

 二人が内部でじゃれあつていた巨大な水の玉が、薬玉みたいに、パックリ、割れた。

 空中に放り出された二人は、大量の水とともに、プールに落下した。


 磨りガラスの窓からさしこむ月明かりに、天井の鉄骨が、入り組んだ影を作り出している。

 ひとしきり水遊びに興じた後、飛羽と晃は、大の字になって水面を漂った。

 ときおり、水音がする。

 静かだった。

「大ニュースがあるんだけど、知りたい?」

 イヒヒ、いやらしく笑いながら、飛羽がきりだした。

 晃は、こともなげに言った。

「ついに監督が結婚とか?」

「なんで知ってんの!」

「勘」

「うそっ」

「だって、そんな感じの笑い方してたじゃん。いかにもゴシップって感じの。だから、兎ちゃんのことかなって」

「おかしいよ、それ。二人だけの秘密にしてあげっからさ、白状しちゃいなよ。あんた、エスパーでしょ?」

「バーカ。……兎ちゃん、結婚するんだ。監督、辞めるのかな?」

「まだプロポーズされただけだよ。しかも相手はカミサマ。こりゃ、断ったね」

「なんでわかんの?」

「勘」

 二人は顔を見合わせ、おおいに笑った。

「だって、想像つかないじゃん。ウェディングドレス着た兎ちゃんを、バージンロードのゴールでカミサマが待ってるんだよ? 白タキシードで。そんで、誓いのキスするんだよ?」

 少女たちの前では、男の純情など、抜け毛ほどの価値もないのだった。

「でも、こっちの勘は外れたな」

 笑い疲れて、ふたたび静かになると、ふいに晃が呟いた。

「卵の次は、私だと思ってたんだ。飛羽は、いちばん最後だって気がしてた。けど、飛羽のほうが先なんだね」

 ――あ。

 飛羽は、無駄と知りながら、平静を装った。

「勘でしょ? そりゃ、外れるときもあるって」

「私の勘は外れなしだったんだ。生まれて初めてだ。いままで信用してきたのに。もうあてにできない」

 不服そうな口ぶりで言うと、晃は背泳ぎをはじめた。

 遠ざかる水音を聞きながら、飛羽は、ぼんやりと天井を眺めた。

 ――そっか。晃にも、気づかれちゃったか。

 いずれ、誰にもその日は訪れる。

 遅いか早いかは、純粋に運の問題だ。

 卵の次は飛羽、最後に晃。

 たまたま、そういう順番になっただけ。

 それだけのことだ。

 飛羽は、クロールで岸をめざした。

 水からあがって、プールサイドに腰を下ろす。濡れたティーシャツがくすぐったかった。水着に着替えたりなどしていないので、下着がくっきり透けている。

 ――盗撮されたら、えらいこっちゃ。

 と考えかけて、自分に男性ファンは多くない、という現実に突き当たる。

 盗撮魔が狙うなら、天野冴火だろう。これからは、花もターゲットになるかもしれない。

 飛羽は、足だけ水に浸しながら、泳ぐ晃を眺めた。

 桶女に入学してから、何度、こうして夜のプールで遊んだだろう。

 まだ入学して間もない頃、寮からいなくなった晃を探して、プールで泳いでいるのを発見したのが、最初だった。

 どんなに頑丈な錠前も、魔法に関しては掛け値なしの天才である晃にかかれば、まるで無力だった。守衛の巡回時間にさえ気をつければ、ちょっとやそっと騒いだところで平気だとわかると、夜のプールは、同学年の部員たちの秘密の遊び場と化した。

 当時、飛羽と晃の隣には、いつも卵がいた。他の部員たちも、大勢いた。

 それが時が過ぎるにしたがって、それぞれの事情で一人、二人と部を辞めていき、四年生に昇級する段階で、どっと大量の退部者が出、一気に飛羽、晃、卵の三人きりになった。

 桶狭間女史学園は、中高一貫の六年制で、高校一年生に相当する学年を四年生、以降を五年生、六年生と呼称する。中等部、高等部というような区別がないのだ。

 しかし生徒たちにとって、三年生と四年生との間には、心理的に大きな隔たりがあるらしく、四年生になるのを機に自らの才能に見切りをつけ、それまでとは別の道を選ぶ者が続出するのである。

 そして今年、ついに卵までもが部を辞め、いまでは寮も出て、通学に片道二時間もかかる実家に帰ってしまっていた。

「晃は、引退した後、どうすんの?」

 なんとなく、飛羽は質問してみた。

「漁師になる」

 即答だった。晃は飛羽の目の前を、ぐるぐる、円を描いて泳ぎながら、

「苗字は『大海』なのに、うちの家、山の中なんだ。おかしいな、ってずっと思ってた。きっとご先祖様は海辺に住んでて、なにか理由があって山に引っ越したんだよ。で、ずっと海に帰りたくって、それで大海って苗字にしたんだ。だから、ご先祖様が果たせなかった夢を、子孫の私が果たすんだ」

「海に帰るって、シャケかよ」

 飛羽が茶化すと、晃は泳ぐのをやめて、プールの底に足を着いて立った。

「違う。ウナギ。シャケは川で生まれて、海に出て、また川に帰ってくる。ウナギは逆。海で生まれて、川に来て、海に帰る。だから、わたしはウナギ」

 わたしはウナギ。

 飛羽は、爆笑した。

「な、なんだよ!? なんで、笑うんだよ!?」

 晃がうろたえた。

 飛羽は、腹を抱えてそっくり返った。抱腹絶倒。プルサイドを、ゴロゴロと笑い転げる。

「もういいよっ。飛羽のバーカ!」

 憤然と、晃が泳ぎ去る。今度はクロールだ。盛大に水しぶきをたてながら、みるみる遠ざかった。

 ――まったく、天然ちゃんなんだから。

 ようやくおさまった爆笑の余韻を、飛羽は長い息にして吐き出した。

『昔、子供は神だった』

 いつかどこかで聞いた、誰かの言葉が、耳の奥でよみがえる。

『昔、子供は神だった。なぜなら、魔法が使えるから』

 そんなの変だ。魔法が使えるだけじゃ、魔法使いにしかなれないはずだ。そんな簡単に、神様あつかいされてたまるか。

 だが晃と接していると、納得できる気がした。

 晃みたいな子供なら、神様あつかいされても、不自然ではない気がする。

 ――そっか。漁師か。海辺に住むのか。

 飛羽は急にさびしくなった。

 ――じゃ、あんまり会えなくなるな。

 自分がこの先どうするのか、てんで決めていない飛羽だが、海の近くに住むことだけはあるまい。潮の香りを嗅ぐと、吐き気がこみあげてしまう体質なのだ。


 シャワーで塩素を洗い流した後、〔風〕と〔火〕の混合魔法で服と髪を乾かした二人は、寮に戻り、それぞれの部屋へ別れた。

 すでに消灯時間は過ぎていた。

 常夜灯がオレンジ色に染めた廊下をすすんだ飛羽は、自分の部屋のドアの隙間から、白い光が漏れているのを発見して、息を呑んだ。

 部屋を出るとき、電気は消したはずだ。

 飛羽は、そっと忍び寄って、ドアノブをまわした。指の太さくらいの隙間を開けて、中を覗く。

 男の背中が、視界に入った。飛羽の座布団に座って、飛羽のマグカップで、飛羽の紅茶を飲んでいる。ちょっとくたびれた風情の、おそらくは四十歳過ぎの、男の背中だった。

 ガバッ。

 と、飛羽は一気にドアを開け放った。

「おお、飛羽……」

 ふりむいた男へ、飛羽は、そばにあった折り畳み傘を、悲鳴とともに投げつけた。

「待て、俺だ、父さんだ!」

「知ってる!」

「なら、なぜ!?」

 ドアの近くに置いてある物から、なるべく壊れにくそうなものをチョイスして、飛羽は久しぶりに対面した父親に、雨あられと投げつけた。

「や、やめろっ! ……やめて、おねがいっ」

「なんで、お父さんがいるのよ!」

「そりゃ、寮の玄関はもう閉まってて、裏にまわったら窓の鍵が開いていたから……」

「娘の部屋に窓から忍びこむな!」

「そりゃそうだが、父さんだってな、三階までよじ登るの、大変だったんだぞ!」

 騒ぎを聞きつけて、他の部屋の部員たちが集まってきた。開けっ放しのドアに、部員たちの顔が鈴なりになる。

 そのとき、テーブルの上に置きっ放しだった飛羽の携帯電話が鳴った。

 飛羽は、部員たちを追っ払うと、ドアを閉めた。

 頭を抱えたまま固まっている父親のそばを、黙って通りすぎ、携帯をとる。

「もしもし。あ、お母さん。え? お父さんが帰ってこない……?」

 黙っていてくれ、と必死の形相で拝んでくる父親をちらりと見て、

「うん。来てるよ」

「娘よ。どうしておまえは、そう薄情なんだ?」

 父は、泣いていた。

「だってあたし、お母さんのほうが好きだもん」

 飛羽は、電話の向こうで笑っている母へ、

「何があったの?」

『うーん。それがちょっと混み入ってるのよ。今日はもう遅いし、明日、車で父さんのこと迎えに行くから、そのときに話すわ。で、悪いんだけど、今夜は父さん、そっちに泊めてあげてくれないかしら』

「ええっ。勘弁してよぉ」

『ホテル代、もったいないでしょ。飛羽が出してくれるんなら、別だけど』

 ドアがノックされた。寮母だった。母が電話口で事情を説明して、とりあえず今夜だけ、父親を飛羽の部屋に泊めるということで、話はついた。

 父と娘、水入らずになった部屋で、積もる話をしようという父を、飛羽はひと睨みして黙らせた。電気を消す。飛羽はベッドで、父は床で、それぞれの布団にくるまった。

「……何も、訊かないのか?」

 暗闇の中、父親が口を開いた。

 はやいところ眠ってしまおうと努力していた飛羽は、不機嫌さを隠そうともせず、

「だいたいわかるよ。お父さんがお母さんに秘密で何かやって、例によって失敗したんでしょ?  お母さんに叱られるのが怖くて、逃げてきた。違う?」

 父はすぐには返事しなかった。

「人生にはな、何をおいても、走り出さなければならないときがあるんだ」

「で、けたんだ?」

「挑戦して、失敗するのは恥じゃない。恥ずかしいのは、失敗を恐れて挑戦しないことだ。おまえにも、そう教えてきただろう」

「そういうカッコツケ、お父さんには向いてないんだよ。お母さん、まだ笑ってたからいいけど。泣いたら、もうアウトだかんね。お母さん泣かしたら、あたしも許さないから」

 父は、沈黙した。

 重苦しい空気が、タバコの煙みたいに、部屋に充満する。

 ――ひとの部屋に来て、落ちこまないでよ、鬱陶しい。

 飛羽は頭から布団をかぶった。

 ――こっちはこっちで、大問題、発生してるんだから。

 その夜。

 飛羽はなかなか寝付けなかった。

 父親のせいではなかった。父親のことなら慣れている。いまさら、どうってことはない。

 眠りを妨げている問題は、もっと深刻で、取り返しのつかないことだった。

 ――そんなに悪くはないはずだ。

 と幾度も、後ろを向きたがる気持ちの軌道修正を試みた。

 大人になるということは、そんなに悪くはないはずだ。酒も飲めるし、来間の免許も取れる。選挙にだって行ける。自由の幅が広がるのだ。魔法が使えなくなるからといって、生活に支障はない。この科学万能の現代日本で、なにが魔法か。

 そうだ、不都合なんて、何もないんだ。

 そりゃ、マグバドはできなくなるけれど。

 お金だってある。これまで稼いだ賞金やスポンサーからの契約金は、授業料や寮費を支払っている以外、ほとんど手付かずなままだった。金があれば選択肢が増えるし、時間的ゆとりも得られる。卵みたいに大学に行くのも自由だし、何か事業を起こすのも、たとえばスポーツショップを開くなんてのも悪くない。しばらく何もしないでブラブラしていたって、誰に咎められる筋合いもない。マグバドを失っても、マグバドがもたらしてくれた貯金が、飛羽には残るのだ。

 すると結果的に、飛羽にとってマグバドとは、

『単なるカネヅル』

 だった、ということになりはしないか。

 しようがない。

 ちょっと情けない気もしたが、飛羽は素直に認めた。

 お金になっただけ、よかったじゃないか。

 お金さえあれば、どうにかなる……。


 耳の奥が痛かった。なんだって、こんなに喧しいのだろう。

 真っ赤な背中が、飛羽の目の前で躍動していた。ワンピースタイプの試合用ウェアの背中だった。

 一心不乱に、そのひとはシャトルを追っていた。

 その背中しか見えなかった。さっきまで耳を塞いでいた手のひらで、いつのまにか飛羽は、メガホンを形作っていた。

 生まれて初めて、誰かを応援した瞬間だった。


 目が覚めたとき、飛羽は泣いていた。

「……夢、か」

 上半身を起こす。父親が泊まっていたんだと思い出して、あわてて涙を拭いた。

 室内を見回すと、きれいに畳まれた布団が、壁際に寄せてあった。

 父は、いなかった。

 時計を見た。午前六時。まだ母が迎えに来る時刻ではない。

 飛羽は、とてつもなく不吉な予感がした。

 午前七時半。母が車でやって来た。

 寮母への挨拶を済ませると、母娘は部屋で二人きりになった。

「そう。逃げたのね」

「うん」

 母娘は力なくうなずきあった。

 父は遁走したのだった。飛羽の財布から中身を抜き取って。本棚の『マグバド入門』のカバー裏にはさんでおいた、もしものときのための十万円まで、持ち去って。

「言いにくいんだけど」

 気の毒そうな面持ちで、母はきりだした。

「飛羽が、これまで貯めてきたお金ね、あれ、父さんが内緒で、株とか、為替とか? 母さん、そういうの全然わからないんだけど、どうやら一攫千金を狙ったらしいのよ。それで……」

「聞きたくなーい!」

 おびえる娘を不憫に思いながらも、母は告げないわけにはいかなかった。

「ほとんどスッカラカンになっちゃったみたい」

「なんで? どうしてっ? あたしのお金じゃん!」

「父さんだって、悪気があってしたわけじゃないのよ。飛羽のために良かれと思って。でも、ほら、優しさだけじゃ人は生きられないっていうか? けど、べつに借金が出来たわけじゃないんだし、きっと大丈夫よ」

「どこが、どう、大丈夫なのよ!?」

 母はニコニコするばかりで、その疑問に答えてはくれなかった。

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