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夜悼列車 「上」

作者: 詩之葉

 私は死んだ。


 とある冬

 とある用事の帰り

 とある市電の駅で。


 躓いて落としてしまった携帯電話を拾おうとして、エスカレーターの最上段から転落。そのまま御仏さまに。


 …なんとも間抜けだけれど、不思議と未練はなかった。

 きっと、風見鶏と揶揄されてもおかしくない生き方をしてきた私にとって、こういう最期が相応しいと神様が判断したんだろう。

 不意に訪れた滑稽な人生の幕引きに、私は苦笑いするしかなかった。


 …あーあ、死んじゃった。


 先刻(さっき)までは未練はないと思っていたが、記憶が蘇るにつれそれは戻ってくる。


 今夜は大好きなアニメの最終回の日なのに。見逃したなあ…

 友達に借りてた漫画も読み切ってないしなあ…。いやはや残念無念。


 ―どうしようもない未練だった。


 漂う意識は暗闇を行く先告げずに流れてゆく。でも私は死んでしまったのだ。

 …なら、ここは何処なんだろう? 

 この世、あの世

 その世、どの世? 

 悪い事はして来なかった。していたとしても、遅刻とかずる休みとかその程度。人様を困らせるようなことはしていない。と、思う。…どうか地獄ではありませんように。


 人は死ぬ間際に、ソウマトウという代物を拝むらしい。過去の記憶が次々に脳裏に押し寄せるという、あれだ。

 私も見た。

 犬に追っかけられてる場面を延々と。

 私は犬が苦手だ。死ぬほど。

 というか、もう死んでるけど。

 俗に言うトラウマというやつだった。

 幼少の頃に腕と頭をかじられたのがきっかけで、犬の歯を見る度に全力で逃げ出すようになったのだ。 そして、その度に追っかけられる。

 まさかそれを思い出すなんて…

 

 死んだ後にそんな恐怖体験をさせられたもんだから、いくぶん現在の私は不機嫌だ。

 天国逝きなのか地獄逝きなのかもわからず、苛々が募る。死んでもなお苦しめるなんて! 死神様はとても意地悪みたいだ。


     ◇


 …気付けば私は電車に乗っていた。電車と言っても、丸くて白くて天井からぶら下がっているあの名前のわからない輪っかや、種類と嗜好を自重しないたくさんの広告なんかはどこにもない。硬めの二人分の座席が、前を向いて整然と、窓に沿ってずらずらり。


 たったそれだけ。


 そのうちの一つに腰掛けて、慎ましくしていた。


 車両内には私一人。 

 窓の外は闇一色。

 電車は無音不動。

 空気は不穏で重苦しい。

 暑くもなければ寒くもない。

 そもそも気温も湿気もない。

 死後の私は気分爽快。

 

 身体(からだ)の様子も変だ。


 落死の割には無傷無痛。

 首も頭も手も足も

 五体満足健康体。 

 心身正常不自由なし。


 死後の世界と直感しながら夢か(うつつ)か疑わしい。

 揺れ動く車両の中で、孤独と不安が沸き起こる。


 私はどこへ行くのだろう…?

 

 飄々と今現在の私を楽しんでいたが、次第に恐ろしくなってくる。

 生前と死後の世界は違うのだ。勝手も、常識も、生活も、なにもかも。

 何も分からない。するべき事、やってもいい事、してはいけない事、なにもかも。

 背筋を悪寒が走る。

 

 死後の『意識』とは、一体どういうことなんだろう…?


 不安に駆られて、辺りをふらふらと窺ってみる。ふと、車両の一番後ろの座席に、一人のおばあさんが座っているのが見えた。今まで独りと思っていた心に、じわじわと安堵が溢れてくる。席から立ち上がり、揚々と彼女に近づいた。


     ◇


「こんにちは」


 私が近づくと、おばあさんは顔を上げ、そう言ってほほ笑んでくれた。


「こんにちは」


 こんなにも挨拶が心強いと感じたのは初めてだ。


「…隣、座ってもいいですか?」

「どうぞどうぞ」


 おばあさんが席の奥にずれてくれた。空いた場所に腰を下ろす。

 彼女は編み物をしていた。誰もが想像する『おばあちゃん』その人よろしく。優しい柔らかな表情を浮かべ、かちかちとこそばゆい音を奏でながら何かを編んでいた。一体、誰のために編んでいるのだろう?


「何を編んでるんですか?」


 彼女は手を休め、編んでいたものを広げてみせた。


「マフラーよ。これから寒くなるしねぇ」


 今は確か3月。私の住む地域はまだまだ寒いけれど、南の方はもう春が迫っている時期だ。


「誰かにあげるんですか?」

「孫がね、上京するの。ここより寒い所だろうと思ってね」


 孫のために。そう言えば、私にもおばあちゃんが居た。こんな優しい顔をする人ではなく、厳格な姑タイプの人で、親類一同彼女の世話に手を焼いている。それでも、孫という存在には甘かったと思う。私と私の弟は、おばあちゃんの家に遊びに行く度、採れたて野菜や甘い果物をたらふく食べさせてもらったものだ。そんな彼女よりも先に逝ってしまうなんて…。


 ふと、頭の中で違和感が生まれた。

 私は言うなれば『死者』だ。ならば、今私の隣に居るおばあさんもそうではないのか。

 しかし今、孫のために、という意味の事を言わなかったか。彼女は、自分が既に故人である事に気付いていないのだろうか。

 編み物を黙々と続ける彼女の所作に、幾ばくの迷いも見られない。一心に手を動かし、まさに心を込めているかのよう。誰かを想う気持ちは、優しく、尊い。たゆたう大海のように、その人を包みこんでしまう。心の底から人を想っているからこそ、彼女の所作には温もりが宿っている。薄暗い車両内、死後の世界と知っている私の横で、彼女はひたすら手を動かし続けていた。私の疑問は、その光景に見とれているうちに露と消えてしまった。


     ◇


 黙って編み物を続けるおばあさんの横にずっと居座り続ける事にためらいを感じ、車両と車両を隔てる連結部を渡り、隣の車両へと赴いた。他には誰もいないのだろうかという、不安と期待の入り混じった感覚が抑えられなかったのだ。車両の最前列から後方までを一通り眺めてみる。座席は前を向いているため、後方は前座席の背もたれが重なっていて見辛い。座席の間を貫く通路をゆっくり進みながら、辺りを見回すことにした。


 車両の中程まで歩いた時、微かに人の(いびき)が聞こえた。音のする方を覗き込んでみると、そこには中年男性が横になって爆睡していた。二人分の座席に上半身を預け、腰から下は折り曲げて座席の下に収めている。なるほど、この格好なら私も普通に寝られそうだ。何処の企業なのかは知らないが、胸にそれらしきを示すワッペンのついた白いシャツを着て、灰色で動きやすそうなズボンを履いている。如何にもな会社員その人だ。私の父親も時折似たような格好をして朝早く出掛ける時があるが、基本的には家の中で横になっている。目の前にいる男性とその時の情景がリンクして、少し笑い出しそうになるが、慌てて堪える。折角二人目を見つけたのに、休眠中とは残念だ。起こさないよう、そろそろと傍を通り抜ける。


 次の車両には子供が二人、通路を挟んで両側に一人ずつ座っていた。私も世間から見れば子供だが、彼らは私よりもうんと幼い。きっと小学校低学年かそれ以下だろう。そして、見るからに兄妹だと分かる。髪の毛のうねり具合とかその毛色、目元の感じがそっくりだ。お互いに窓の外を向いているが、漆黒を望む窓はまるで鏡のように車両内を映し、お互いの背中も映っている。兄妹不仲は良く聞く話だが、私と弟はそうでもない。一緒にテレビゲームに興じたり、漫画の貸し借りも普通にする。学校の宿題を手伝う事もある。純粋無垢なサッカー少年である弟は、きっと今頃悪友(あくゆう)達と春休みを満喫していることだろう。

 引き換え、目の前に隔壁を錯覚させるような雰囲気を漂わせる彼らは、どうしてそこまで仲がよろしくないのだろう。私の気配に気付いているのだろうけれど、お互い顔を合わせる事を避けるように、少しも動じようとしなかった。何をするでもなく徐々に居心地が悪くなり、そそくさと場を後にした。


 次の車両へと渡る。入ってみれば、そこは電車の最後尾を告げるように、後ろの方で座席が中途半端に終わっていた。誰もいない運転席が不気味に見えたが、次の瞬間には別の事に目線が奪われていた。

 長く艶やかな黒髪を撫でながら、景色のない窓をぼぉと眺めている女性が一人、一番後ろの席に座っていた。白く滑らかな肌、ふっくらとした柔らかそうな唇、知性を感じさせる漆黒の瞳…。一目で美人だと直感した。私が見とれていると、彼女は扉の前に突っ立ったままの私に気づき、軽く会釈した。慌てて会釈を返す私。彼女はそのまま、視線を窓の方へと戻した。


「し、失礼しました」


 何を思ったのか、私はきびすを返し、謝りながら車両を飛び出した。


 …何を恐れるでもなく、何を待っているわけでもなく、此処にいる人たちは日常を切り取ったかのように自然だ。季節遅れのマフラーを編むおばあちゃん、人目を気にせず大胆に爆睡する男性、大喧嘩の後に訪れる冷戦状態の兄妹、凛とした黒髪美人の女性。皆、ありふれた日々をそのまま生きているかのように、自然だった。私のように、おたおたなどしていなかった。自分の置かれた立場に飲まれそうになっている人は見受けられなかった。誰も、不思議に思わないのだろうか。これから自分が何処に向かって、何をするのか。何をしなければならないのか。どうなってしまうのか。進んでいるのか止まったままなのかの判断がつかない車両の中で、皆不自然だとは思わないのか。だって、死んだんだよ? 死んだら、もう何もかもが真っ暗で、どうすることもできなくなってしまうに違いないと思っていたのに。こんなにも判然(はっきり)と意識があるというのは、一体どういうことなんだろう? 床を踏みしめる足の感覚も、背もたれを掴んだ時にする布の感触も、自分の履いているスカートのひだが足をくすぐる感触も、全部生前の時と同じように感じる。

 

 ―まだ、私生きてるの?


 そう錯覚してもおかしくはない。自分自身は、何も変わっていないのだから。

 それでも、車両の窓が見せる暗闇はどす黒く、一筋の光も受け付けてはいない。

 見慣れたビル群も、毎朝忙しない構内も、通り過ぎる公園も樹木も住宅街も、何も見えない。

 そこにあるのはひたすら闇、闇、闇…。

 迷える羊を嘲笑うかのように、窓は不安に怯える姿を黒々と映し出す。


 ここは、どこなんだろうか。


     ◇


 おばあさんの居た車両に戻ってくると、案の定彼女はまだ編み物をしていた。通路を挟んだ反対側の座席に、私は腰を下ろした。しばらくしてふと爆睡していた男の人の事を思い出し、格好を真似てみる。…なかなかに落ち着く。彼には少々きつそうに見えた座席は、小柄な私には丁度良すぎるほどの広さだった。自分の熱で温もった座席に横たわり、目を閉じた。不安と恐怖に纏わりつかれていたが、おばあさんが奏でるかちかちという音がそれを祓ってくれているお陰で、自然と眠りに落ちて行った―――


 ―お客さん、お客さん


 …。


 ―お客さん、お客さん


 …。


 ―お客さん、お客さん


 …?


 身体を小突かれた私は、いつの間にか寝入ってしまった事に気づいて跳ね起きた。


「お客さん。乗車券」

「…乗車、券?」


 目の前には車掌らしき人が立っていた。紺色のジャケットと帽子をかぶり、如何にもないでたちの。ふと視界の端を見てみれば、編み物のおばあさんが心配そうにこちらを覗きこんでいる。段々と気恥ずかししくなって、頬が火照るのを感じる。とりあえずは乗車券を見せろという事だったので、無意識にポケットに手をいれてまさぐった。そして気づく。そんなものあるわけが無い、と。


「すいません。ないです」

「ない?」

「はい」


 意外な答えに驚いたのか、聞き返した車掌の声は裏返ってしまっていた。彼は、んー、と呻くと、頭を掻きながらぼそりと言った。


「それなら、次で降りてもらわないとねぇ」

「次って…、駅ですか?」

「そうだよ」

「駅があるんですか!?」


 思わず聞き返してしまった。二度も突拍子もない事をしでかされ、車掌は完全に目を丸くして困惑していた。


「あるんですかって…。お客さん、これ汽車ですよ?」

「汽車…」


 振り返り、窓の外を見てみる。相変わらず、そこは闇だった。心配そうな顔のおばあさん、怪訝な面持ちになった車掌さん、そして見るからに焦っている私の顔が、そこにはあった。次で降ろすということは、今この瞬間にもこの汽車は進んでいるということだ。なのに、その感覚だけがぽっかりとないのは何故だ。前へ前へと運ばれている感覚がないのは何故なんだ。


「つ、次の駅はなんて言うんですか」

「名前? ---だよ」

「え?」

「だから、---」


 …そんな。そんなはずは。


「…すみません。もう一度お願いします」


 -・-・-。


 足の力が抜け、座席にへたり込む。同時にじとっとした汗が全身から噴き出るのを感じた。 

 車掌は、確かに口を開いて、言葉を発していた。しかし、何も聞こえない。彼が駅の名を口にしている間だけ、その言葉が耳に入ってこなかった。どうして? 何故? 何が起こってるの? おばあさんがますます心配そうな顔で見つめてくる。


 やめて、見ないで…


 心で呟き、窓側へと後ずさる。車掌までもが心配そうな表情を浮かべている。どうして。どうしてあなた達はそんなに平然としているの? どうして私だけ怯えているの…?


 どうして、どうして、どうして、どうして…


 声を失ったかのように口を開けて呆ける。ようやく聞きたいことが喉の奥から出かかった時、まるで見計らったかのようなタイミングで車両を繋ぐ場所の扉が開いた。見れば、そこには顔の片方を赤く染めた中年男性が眠たそうに立っていた。先刻座席で爆睡していた男の人だった。男の人は車掌を見るなり口を開きかけたが、ただ事でない雰囲気に気づいたのか口をつぐんでしまった。それを見かねてか、車掌がにこやかに彼に話しかけた。


「何かご用ですか?」

「今、どのあたりですか?」

「今ですか? 今は×××と---の間ですね」

「あらららら…」


 また…。車掌の口元を見、男の人の苦笑いを見れば、聞こえなかった部分に駅名があったのは確実だ。男の人は、駅の名を知って寝過ごしてしまったことが判って困っているに違いない。

 なんということだ。私にだけ認知できないものがあるということが証明されてしまった。一体どうなっているのだ。何故私だけ? 何故私だけ行先が告げられないのだ?


「あ、あの…」


 こうなったら一か八か。真実を知って打ちのめされても構わない。今はただ、自分が『何なのか』を知りたい。


「この…汽車? は最終的には何処へ行くんですか?」


 車掌は再び怪訝な顔をして私に言った。


「そりゃ終点にきまってるだろ。からかうのはいい加減に―」

「なんていう名前の駅なんですか?」

「…。###だよ」


 ここまでは想定内。次におばあさんに問いかける。


「おばあさん。あなたは何処で降りるんですか?」

「あたし? あたしは次の駅で降りるんだよ」

「何のために?」

「孫にこのマフラーを届けに。見て御覧、出来上がったんだよ」


 にこにこと膝の上にあった編みたてマフラーを広げるおばあさん。しかしそれを無視して、私は中年男性に問いかけた。


「あなた、何処へ行こうとしていたの?」

「家だよ。でも、駅は過ぎちまった」

「本当に?」


 赤の他人に問い詰められた男性は、車掌と同じように不快を露わにした。


「君、なんでそんなこと聞くんだ?」


 応えるべきか、そうでないか。心が揺れた。しかし、一刻も早く知りたかった。そして、口を開いた。


「…実は私、死んでるんです」


 その場にいた誰もが、その言葉の意味を理解できていないように思えた。私は、構わず話を続けることにした。


「学校が春休みに入って、ちょっと遠出をしようと電車の駅に向かった時でした。エスカレーターの一番上の段で、携帯電話を落としてしまったんです。それを拾おうとして、躓いて、まっさかさまに落ちました。それで、死にました」


 中年男性の顔からは眠気がなくなり、車掌の顔からは血の気が引いていた。まだ、話し続ける。


「気づいたらここにいました。この車両の前の方です。独りかなと思って見渡したら、まずおばあさんがいました。後ろの車両にも何人かいました。でも、どの車両も、外の景色が見えませんでした。いえ、見えないというよりは、真っ暗闇と言った方が―」

「いい加減からかうのはよしてくれ」


 車掌がもううんざりとでも言うように大げさに手を振った。中年男性も、気味悪いものを見るかのようなまなざしで私を見下していた。…それもその筈だ。普通の人が、こんな戯言を信じるはずがない。そして、私の心の中で一つの答えが芽生えた。


 私だけが、死んでいる。


 車掌と男の人は連れ立って後方の車両へと消えていった。…どうやら、見放されてしまったようだ。溜め息をつきながら、座席に腰を下ろした。窓の外は相変わらず闇一色。やりきれない気持ちで窓に映る自分の顔を睨みつけていると、隣におばあさんが腰掛けてきた。…急に、なんだろう?


「あなた、死んじゃったの?」

「はい」

「本当に?」

「はい」

「そう…。それは残念ねぇ」

「え?」


 おばあさんは完成した手編みのマフラーを膝掛けのようにして広げた。水色を基調に、白い糸で雪の結晶が刺繍されている。…結構な腕前だ。


「もしあなたがあたしの孫なら、これは誰が身につけるのかしらね」


 しみじみと語りかけるように彼女はしゃべりだしたが、私には何の事だかさっぱりだ。


「もしあなたが死んでしまっているとしたなら、きっとあなたを失って悲しむ人がいるはず。自分に身近な人が悲しんでいるのを見るのは、あなたにとっても悲しい事なんじゃない?」

「…どういうことですか?」


 私が問うと、おばあさんはあらあらと言って笑いだした。


「…きっと時間はあるわ。もう少し、お考えになって」


 そういうと、彼女は元の席へと戻っていった。


     ◇


 かちかちと、再び軽やかな音が車両内に響き始めた。きっと、隣の座席にいるおばあさんがマフラーの二本目を編み出したのだろう。

 お考えになって、と言われて随分時間がたった気がする。しかし何も思いつかない。そもそも何を考えろと? 日々を飄々と生きて、女の子らしい過ごし方をしてきたつもりだった。そして、ただ単に、突然訪れた不幸に抗うことができなかった。たったそれだけのことではないのか。死人となったからには、死人らしく暗闇に消えてなくなるのが普通じゃないのか? 考えろと言われたって、その前に自分が何処へ向かっているのかを知りたかった。死んでもなお意識が与えられているという事が、不思議でならない。何故意識があるのか。何故生前のように動き回り、思考することができるのか。訳が分からない。意味不明だ。


 窓の外は闇一色。

 汽車は無音不動。

 空気は不穏で重苦しい。

 暑くもなければ寒くもない。

 そもそも気温も湿気もない。

 死後の私は気分爽快。

 

 身体(からだ)の様子も変だ。


 落死の割には無傷無痛。

 首も頭も手も足も

 五体満足健康体。 

 心身正常不自由なし。


 ここは一体、何処なんだろう?


 問いかけに応えるかのように、再び車両を繋ぐ扉が開いた。入ってきたのは車掌さんと黒髪の美人さんだった。車掌さんに先導され、女の人はそのあとを黙々とついて行く。しかし、車両中程まで行ったところで、急に女性が振り向いた。女性は私の顔を凝視している。その突然な出来事に、思わず小さく悲鳴を上げてしまった。女の人が車掌に何か話し始める。すると車掌は肩を竦めてみせ、女の人は小さくお辞儀をすると足早に私の方へと近づいてきた。その迫力に、たまらず身を固める。女の人は座席の横に座りこむと、私を見上げるようにして見つめてきた。漆黒の瞳に見つめられ、身動き一つできない。その眼はあまりにも綺麗で、まさに吸い込まれるような錯覚がする。女の人が問うてきた。


「ねぇ、先刻私のところへ来たわよね?」

「…はい」

「その前の車両に、誰か居た?」

「いましたよ」


 確か、仲の悪そうな兄妹が、車両の中程の座席で冷戦をしていたはずだ。


「そう。ありがとう」

「いえ」


 女の人は微笑むと、さっさと行ってしまった。一体なんだったのだろう? 

 ふと、あの兄妹二人を思い出す。年が近いせいで、言い分が対立しやすいのだろう。しかしあの二人は、どこにでも存在する兄妹像のひとつであることには違いない。そして私にも、年の近い弟がいる。仲は良いほうだ。母と三人で、よく水族館に行った。家の近くにたまたま出来た、結構立派な水族館。生き物好きな弟が連れてけと親によくせがむので、それに便乗してよくついていった。今でも、色鮮やかな鱗や尾ひれをなびかせて泳ぐ魚たちや、水上を舞うイルカのショーの感動を思い出せる。家族全員が揃った休日は、隣町の中心街に聳えるデパートによく通っていた。一日をそこで過ごしても、飽きることは無く、毎度毎度あっという間に日が暮れてしまっていた。デパートに用が無い時でも、父はよく家族をドライブに連れ出してくれた。そして陽気で気さくな母と、ひねくれ者だがなかなかな冗談をかます弟がいるだけで、どんな場所に行っても楽しかった。…あの頃は、家族の繋がりをごく当たり前のように感じ、幸せなのだと惚気ていた。


 ―あの頃は。

 

 今はもう変わり果ててしまっていた。

 笑いが消え、色鮮やかな日々は褪せていき、目の前は霞みがかっている。

 モノトーンの部屋を出たあの日から、全てがただの思い出となった。

 

 私の母が、死んでしまった。


 死因は、過労死。最低勤務時間をゆうに超えた過労働を連日のようにこなしながらも、家族みんなに元気を振りまいていた母。あの人は不死身なんじゃないかと本気で思ったことがあるほど、彼女は明朗快活な人だった。優しく、おおらかで、物事の善悪をしっかりと把握している、とてもよくできた人だった。それはそれは密かに尊敬を寄せてしまうほどに。それだけに、彼女の死顔をみたということが未だに信じられなかった。だって、ただ眠っているだけにしか見えなかったんだもの。御身が棺に入れられた時も、明日の朝には台所で母の姿を見れるものだと素直に考えてしまった。…しかし、母は二度とその姿を見せることはなかった。

 それからというもの、残された3人は、何とか元気を保とうと、日ごろからよく笑いあうように心がけていた。つまらない顔をしていたら、毎日話題の中心にいて、談笑の渦のど真中にいた母に申し訳ないから、と。しかし、それは長くは続かなかった。今度は父が、心労とストレスの所為で内臓を悪くし、仕事を辞めざるを得ない状況に陥った。そしてそれに追い打ちをかけるように、今度は弟が、学校で何かしらの暴力沙汰を起こし、何ヶ月か謹慎処分を受けた。私たちは、心に大きな風穴を開けてしまったせいで、抱えていた大事なものを次々とこぼしてしまったようだ。今でこそ家族としての体裁は保っているが、実質中身はバラバラだった。太くて頑丈な鎖で繋がっていたのが、急にバラバラになったような、そんな感じだ。それでも、私は皆が好きだ。父の頼りなく曲がった背中も、弟の年相応にとびはねた髪の毛も全部。母が残してくれた大切なものは、きっとまだ残っているはずだ。だから、私は好きでいられるのだ。家族を。壊れ、傷つき、荒んでしまってもなお。母ならきっと、元気のない彼らを見て笑い飛ばしていただろう。そう思えたからこそ、母のようになりたいと思っていたからこそ、私はがんばってこれた。生きてこれた。


 ―――でも、死んでしまった。


 これは不幸の他の何物でもなかった。でも、きっとどこかで思っていた。


 このまま行けば、このままこの汽車に乗って行けば、母に会えるのでは、と。


 座席に座り、じっと待っていればそのうち、窓の外が白けてきて、そこに会いたかった人がいるのではないだろうかと。はちきれんばかりの笑顔で、私を抱きしめてくれるのではないだろうかと。


 思えば思うほど、私は彼女に会いたくなった。

 会いたい、会いたい、会いたい、会いたい…。

 このまま汽車に乗って、会いに行けるのなら、迷わず私はその道を選ぶだろう。


 この汽車がどこへ行くのか。

 それだけが、私の知りたいただ一つの答えだ。


     ◇


 車両の扉が開く。今度は車掌一人だった。今まで私を相手にしていた人とはまた違う人らしい。彼は帽子を被っておらず、接客業としてどうなのかと疑うほどのぼさぼさ頭だった。彼は真っ直ぐに私のところへやってきた。その顔は先刻の人よりも怪訝さを増していた。


「あの、ちょっと来てくれます?」


 言われるがままに、車掌のあとをついていく。

 行きついたのはほかでもない、あの冷戦兄妹がいる車両だった。しかし、先刻来た時と様子が違っていた。よく見れば、妹と思われる女の子の両目が、泣き腫らしたかのように赤く染まっていた。兄と思われる男の子のふてぶてしい態度をみれば、彼が彼女を泣かせたのは一目瞭然だ。でも、何故私が連れてこられたのだろう?


「この男の子、あなたの所為で女の子が泣いたと言ってるんです」


 私の所為? なんというとばっちりだ。


「私、ですか?」

「よくわからないけど、これは連れてきた方が早いと思いましてね。とにかく、他の人たちに迷惑だから、早くどうにかしてくださいね」


 そう言い残して、車掌はさっさと行ってしまった。あの車掌、間違いなく私を嫌ってるなあ。…と、そんな事はさておいて。

 兄妹は再び、窓越しのにらめっこを始めていた。窓越しといっても、お互い別々の窓だが。溜め息を漏らしそうになるが、堪える。手始めに、男の子に話しかけることにした。


「ねぇ。あの子私の所為で泣いちゃったの?」


 男の子は無言で頷いた。


「どうして?」


 その問いに、彼は答えなかった。しかし、その代わりなのかどうかは知らないが、窓に顔を向けたまま、自分の後ろを指差した。多分、女の子に話を聞けということなのだろう。無言の指図に従って、今度は女の子に問いかけてみる。


「ねぇ。あなた私の所為で泣いちゃったの?」


 女の子は答えない。首肯もしない。泣き腫らした自分の顔とにらめっこし続けるだけで、私の事は完全に無視していた。


「どうして?」


 問うても、やっぱり答えてはくれなかった。どうしたものかと周りを見渡しても、周りには誰もいない。完璧にこの子たちだけの空間だ。少しだけ、思案を巡らせてみる。私がこの子達の前を通ったのは、随分前だ。今となって考えてみれば、黒髪美人さんが私に問いかけたのは、この事だったのかもしれない。ただ、それだけにしては少し緊迫しすぎていたように感じなくはないが。ここを通ったのは随分前で、さらに居た時間はそれほど長くは無かった気がする。二度目は帰りに通り過ぎた時だ。この時は考え事をしながらだったため、二人の顔は見ていない。その時には既に泣いたあとだったのだろうか? しかしどうにも、何故女の子が私の所為で泣いたというのが判らなかった。私は何もしていないのに。

 もう一度、男の子に問うてみる。


「ねぇ。なんで私の所為なの?」

「お姉ちゃん、ほんとはユーレイなんだろ」

「え?」


 男の子があまりにもあっけらかんと答えたので、その言葉を飲み込むのに数秒かかった。


「俺らのせいでお姉ちゃんこまってただろ、さっき」


 困るというほどではないが、居心地が悪くなったのは確かだ。とりあえず、首肯しておく。


「それをアイツに言ったんだ。俺らのせいで今のお姉ちゃんこまってた、だからもうなかなおりしようぜって」


 なんだ、解決しようっていう気はあったのね。


「そしたらアイツ言うんだ。お姉ちゃんてだれのことって」


 え?


「だから言ってやったんだ。今とおった姉ちゃんだよって。そしたらアイツ言うんだ。そんな人とおってないって。そんで、お兄こわいって言ってなきだした」


 …。


「お姉ちゃんもっかいとおったよな? そんときもおんなじこと言った。で、おんなじようになきだした。もうすこしでなかなおりできたのに。お姉ちゃんのせいだからな、ゼンブ」


 そう言って男の子は再び窓の外を睨みつけ始めた。


 この子が行ったことが真実なら、それはどういう事なのだ。

  

 男の子に私の姿が見えている。

 女の子に私の姿は見えていない。

 男の子は私の声に答える。

 女の子は私の声に答えない。

 この子は見える。

 あの子は見えない。

 私には両方見えている。

 しかし、あの子に私は『見えない』


 私の方が泣きたい気分だ。先刻からなんだか普通じゃない。死後の世界ってこんなにも面倒くさいところだったの? 言葉が聞こえなかったり、姿が見えなかったり、一体どうしたら終わらせられるの? 一体何を目指したらいいの?

 気づいたら、私はその場にしゃがみ込んでいた。頭を抱え、俯きながら。そんな哀れな姿を尻目に、兄妹は相も変わらず窓の外を睨みつけていた。


     ◇


 私は元居た座席に戻っていた。もう、何もかもが嫌になっていた。こんなの、わかるわけないじゃない。なんで私が見える人と見えない人が居るの。何故聞こえるものと聞こえないものがあるの。何故皆人の形で人らしくしているの。ここは死んだ人の世界じゃないの。なんなのよ、もう。

 俯き、背もたれに体重を預ける。気づけば、自分の着ているシャツの裾が、斑点模様に濡れていた。まさかと思い、手の甲で目元を撫でる。ひんやりとした水の感触。…泣いていた。そして次の瞬間には、それはとめどなく溢れていた。やりきれない思い、不安と焦燥、いろんな感情が織り交ざり、ぽたぽたとシャツを湿らせていく。ふと気付けば、隣におばあさんが腰掛けていた。手にはおそらく二つ目のマフラーだろうか、真っ赤に染まったそれは、灰色に霞んだ視界によく映えていた。止まらない涙をどうにかしようと躍起になっている時、彼女がまた語りだした。


「辛いときはうんと辛いと思いなさい。この世で一番辛いんだと思うくらいに。それはおかしな事じゃないわ。だってその人にしかわからない辛さなのだから」


 辛い。

 確かに、今の私は辛い気持ちに押しつぶされそうになっていた。おばあさんはまだ口をとじようとしない。


「でもね、これだけは覚えておいて。厳しい事を言うようだけど、あなたが辛い事を抱えているように、他の誰かも辛い事を抱えている。そして、その辛い事というのは、絶対あなたにはわからない事なの。でもね、理解しようとしなくていい。辛い事や嫌な事は、その人だけが抱える問題であり、他の人には解決できないことだから。あなたは今辛いのでしょうけど、あたしにその辛さはわからない」


 言葉が切れ、私は彼女の方を向く。彼女は満面を笑みを浮かべていた。


「でも、きっと和らげることはできると思うの」


 そう言うと、おばあさんは私の首に真っ赤なマフラーを巻いてくれた。編みたてのマフラーは、とてもちくちくしてて、とても優しく、暖かかった。それでも、零れる涙は止まらなかった。嗚咽が漏れ出し、無意識のうちに言葉を発していた。


「車掌さんの声が、聞こえないの。二人兄妹の片方は、私の姿が見えていないって。おばあちゃんだって、もうすぐ春だって言うのにマフラー編んでるし…。ここにいる皆、変だよ。私は何も悪くないのに」


 ぼろぼろと涙とともに愚痴をこぼしだす私の肩を、おばあさんは優しく抱いてくれた。私が学校でいじめられた時、泣きじゃくっていた私に母がそうしてくれたように。


「今辛い事が辛いのは、きっと今だけ。そのうち消えてなくなるはずだから。ね?」


 懐かしかった。

 できることなら、母に会いたかった。そしてやはり、このままじっとしていれば、それは叶うんじゃないかと思えてきた。

 元の意識が息を吹き返したかのように、涙はぴたりと止んだ。滲んだ視界の中で、おばあさんの方を見る。彼女は笑っていた。


「あなたは何も悪くないわ。きっと元に戻れる」

「元に、って?」


 問い返すと、おばあさんはまたあらあらと言って笑いだした。


「あなた、生きていた時に戻りたくはないの?」

「どういうことですか?」

「そのままの意味よ」


 生きていたときに戻る。それは、あの無味乾燥な日常に戻るということ。華やかさを失った、灰色の日常へと。


「私は、母に会いたいです」

「お母さん?」

「はい。…もう、死んじゃったけど」

「それでも?」

「はい」


 おばあさんの顔から笑みが消えていた。今の彼女の顔は真剣そのもの。まるで今考えていることが全部見透かされているかのような、そんな気分になる。


「そうね。でも、もしこのままここに居て、お母さんに会えなかったらどうするの?」


 会えなかったら? そんな事、考えたこともなかった。死人の行きつく先は、ひとつではないの?


「わかりません」


 私がそう言うと、おばあさんの表情がふたたび穏やかになった。


「いずれにしても、次の駅で降りなくちゃね」


 そうだった。先刻車掌に言われたではないか。乗車券をもってないなら、次の駅で降りろ、と。


「おばあさんは乗車券持ってるんですか?」

「持ってるわよ。これでしょ?」


 そういって、おばあさんは懐をまさぐった後、その手を掲げてみせた。

 …また。また、この違和感。

 今度は私?


「おばあさん。それ本当に券ですか?」

「そうよ。ほら、ちゃんと―――行きって書いてあるでしょう」


 彼女の手は確かに、何かをつまんでいる時の形をしているが、宙にあるのは手だけだ。今度は、私に『見えない』ものが現れた。ありえない出来事に声を失っていると、おばあさんが口を開いた。


「もらわなかった?」

「…いつですか?」

「この汽車に乗るときに」


 乗るとき? 私は気付いたらここにいたのだ。そんな瞬間は記憶にない。そして、もしここに『来た』瞬間が『乗るとき』であったとしても、私にはわからない。見えないのだから。


「もらって、ないです」

「それは変ねぇ。この汽車、乗せてもらうときにも券を見せなきゃいけないのよ。もう少しちゃんと探してみなさいな」


 気付いたら此処にいた、などという言い訳が通じることは叶わないだろう。おばあさんの言葉に頷くと、再びうなだれるような格好で目をつむった。

 他人には起こり得ない事が私には起こっている。そしてここは死人の世界。死人には普通のである筈の事柄が、私には通用しない。いや、感じられない。聞こえない、見えない。それは得てして自分の目には死人の世界を認知できない部分があるということ。もしくは自分の頭がそれを理解できていないということ。分かりかけているようでその実分かっていない。何故聞こえない、何故見えない。分かりそうなのにそのための材料が乏しい。永遠にこのしっぽ取りが続きそうな予感がして、思わずため息が漏れた。


 乗車券がなければこの汽車に乗り続けることはできない。でも、母に会うためにはこの汽車に乗り続けなければ。乗車券は、どうしたら手に入るだろうか? おばあさんは、乗るときに貰い、その時にそれを提示してこの汽車に乗り込むのだと言った。だとしたら、この車両内の人々は皆必ず乗車券を持っているということだ。万が一にも、車両内に券をもってないという人はいないだろう。なら、どう手に入れよう? 車掌に発券を頼む? いや、持っていなければ強制的に降ろす、というようなことを言った本人に言っても、それは叶わないだろう。では、誰かに? 乗客の誰かに貰うか? いや、それはできない。汽車は皆目的地があって、そのための券を買うものだ。頼んだところで断られるのは目に見えている。


 しかし、券がなければ乗り続けることはできない。

 母に会うためには乗り続けなければ。

 今の私を支える目的である母に会うには、券が必要だ。

 母に会えれば、私はそれでいい。

 生前に戻る気など、最初からない。

 今はただ母に会えるという可能性を追いかけたい。

 そのためには券が要る。

 券が欲しい。

 どうすればいい。


 ―奪う。 


 誰の…


「おばあちゃん」


 隣にいるおばあさんに話掛ける。彼女は元の席に戻っていて、居眠りを始めようとしていたところだった。耳が遠いのか、聞こえていないようだ。


「おばあちゃん」


 気付いてくれない。早くしなければ。彼女は次の駅で降りてしまう。席を立ち、おばあさんの座る席の横で呼びかける。


「おばあちゃん」


 頭を上下に揺らし、目をつぶったまま起きない。電車の座席に座っていると自然に寝たくなるのは万人に共通すること。それでも今は起きて欲しいので、耳元で呼びかける。


「おばあちゃん」


 …反応がない。もう一度。


「おばあちゃん」


 微かに心地よい寝息が聞こえてくる。


「おばあちゃん?」


 寝息が深くなっていく。なぜ起きない? こんなに近くで呼んでいるのに。身体を揺さぶろうと、彼女の肩に手をかけた。


 動かない。どんなに力を込めても。おばあさんの着ているくたびれたセーターの感触も、体温も感じられるのに。深い寝息とともに上下する肩の動きも、手を伝って感じられるのに。自分の力では動かすことが出来なかった。まるで空間に縛りつけられているかのようだ。これでは、券の在り処がわからない。目に見えないものを探すという経験は初めてだった。このままおばあさんを相手にしていては埒が明かない。次の相手を探すべきだ。眠りこけるおばあさんを後にし、車両の後方の扉を開ける。先刻爆睡していた男性は居なかった。この車両にはだれもいない。通路を早足に駆け、二つ目の扉を開ける。整然と並ぶ座席、車両の中程の車両に、冷戦状態の兄妹がいた。漆黒の窓を睨みつけ、お互いの背中を窓越しに凝視している。険悪な雰囲気は全く変わっていない。しかし、それに構うことなく男の子の方に話しかける。


「ねえ、乗車券持ってない?」


 男の子は返事をしなかった。車掌さんに呼ばれて来たときの事を根に持っているのか、無視を決め込んでいるのだろう。次の手を決めかね、ふと闇を映す窓の方を見やった。

 窓に、こちらを振り返る女の子の姿が映っていた。明らかに不機嫌な顔をしているが、その眼は間違いなく私を視界に捉えていた。自分も振り返り、鏡像ではない車内を見る。女の子は確かにこちらをみており、その目線は振り返った私の目を確かに見ていた。


「お兄。お姉ちゃんきてるよ」


 女の子がそう言うと、男の子は窓から目を逸らし、女の子の方へと向き直った。


「うそつけ。いないじゃないか」

「いるもん。お兄の目のまえに」

「おどかそうとしたってムダ。そんなことより、いいかげんにキゲン直せよ」

「いるもん!」


 会話の内容を茫然と聞いているうちに、その意味を理解しようとしない自分が居た。先刻と状況がまるで違う。目の前で口喧嘩を始めた兄妹に、私は弄ばれているような気分になる。


 女の子に私の姿は見えている。

 男の子に私は姿は見えていない。

 女の子は私の声に答える。

 男の子は私の声に答えない。

 あの子は見える。

 この子は見えない。

 私には両方見えている。

 しかし、この子に私は『見えない』


 何が起きたのだ。私が泣いていた間に。何が変わったというのだ。しかし、今は目的が判然としてるだけに、心は気丈に働いた。


「ねぇ、乗車券持ってない?」


 睨みあいに変わった兄妹喧嘩に割り込み、女の子に尋ねる。


「じょうしゃけん? あるよ」


 女の子はポケットからそれを取り出した。しかしそれはそういう仕草に見えただけであって、肝心の券は見えなかった。いや、見えないだけでそれは確かに『ある』はず。乗車券はあるのだ、そこに。


「ちょっと見せてくれる?」

「いいよ」


 私が手を広げると、女の子はそこに何かを摘まんでいる手を近づけ、開いた。

 

 手に確かな感触。そして、それは現れた。

 手に触れた瞬間、乗車券と呼ばれていたものが。

 白紙だった。表面はまっさらな白。

 裏地だろうと思いひっくり返しても、やはり白紙だった。

 これが、乗車券?


 …いや、どう考えたって違う。これはただの紙だ。


「これ本当に乗車券?」


 女の子が頷く。彼女にはきっと見えているのだろう。この券が連れて行く駅の名が。私には見えないが、この世界の人になら見えるはずだ。


 おそらく、車掌さんにも。


 …それは偶然の悪戯かとさえ思った。後ろから扉が開く音が聞こえ、続けて聞き慣れた声が聞こえてきたのだ。


「お客さん。---です。降りて下さい」


 車掌さんだった。これなら、奪うことなく自然な形で券を見せることができそうだ。振り返り、手を突き出して言う。


「これですよね、乗車券」


 彼は驚き、真っ白な券を手に持って確かめる。背中にじとりと汗が滲むのを感じる。私自身には、ただの白紙にしか見えなかった。そして今、私の手から離れたそれは、消えている。しかし私に見えない物ではあるが、彼にはきっと見えているはずだ。立ちすくみ、見えない乗車券を見つめている間、何時間もの時が流れた気がした。そして、車掌は確認を終えるとそれを私に返し、持っていた手帳に何かを書き込んだ。そしてなにも言わずに私の脇を通り過ぎて行き、後ろの車両へと消えていった。…やった。成功だ。そう思うと、頬が緩んだ。


「ありがとう」


 笑顔で女の子に乗車券を返す。これで、このままこの汽車に乗り続ける事が出来る。券に記された場所まで。たとえそれが望み通りの場所でないにしても、その途中で降りる事はできる。こっそりと抜け出せばいいだけの話だ。女の子が下りるそぶりを見せた時、車掌が来るよりも早くドアをくぐればいい。もう、こんな不気味なところは御免だ。女の子は券を受け取ると、そのまま窓に視線を戻し、黙りきってしまった。終わることのない冷戦は、まだ続いて行くのだろう。しかし、私には関係のない事だ。女の子の挙動がわかるよう、彼女の後ろの席に腰を下ろした。


     ◇


 車掌は手帳を眺め、頭を抱えていた。その様子を傍から眺めていた一人の女性が、声をかけた。


「どうかなさいました?」


 不意をつかれた車掌はあわてて手帳を懐へしまうと、取り繕ったような笑顔で答えた。


「少し、厄介な乗客がおりまして。どうしたものかと悩んでいたのです」

「…もしかして、あの女の子ですか?」

「ええ、まあ…」


 女性は何を思ったのか、笑みをこぼして言った。


「あの子、死んでないんでしょう?」

「しかし、それなのにこの汽車に乗ってるんですよ。でも券は持ってない」

「不思議ですね」

「しかし、先刻呼びに行ったら持っていたんですよ。それも、終点までのを」


 車掌が摩訶不思議とばかりに話すのを横目に、女性はつまらなそうに座席に寄りかかった。


「それなら、もう死んでしまったという事なんじゃありませんか。そんなことより、私はどうしたらいいんです?」


 女性がそう尋ねると、車掌はメモ帳から目を上げ、顔をしかめた。


「あなたもあなたです。どうして無くしたんです」

「私が知りたいです」

「その鞄、もう少しよく調べたらどうですか?」

「もう何十回もひっくり返して調べました。それでもないからこうして相談したんじゃないですか」


 お互い譲ることをせず、出口のない問答が車両内に響いていた。




   『夜悼列車「下」』へ続く

本職の連載小説をすっぽかしてこっちの編集をずっとやってました。申し訳ないです…。最近は忙しいってのを言い訳としておきますが、本音は連載の方の話のネタに行き詰っていることが原因ですorz

小説を書くぜとふんぞり返っている自分の想像力を疑います。こちらの話の続きは恐らく再び連載の方が停滞期に入った時、手をつけ始めると思うので、どうか忘れないでやってくださいね。

そして是非! ご感想下さいまし! (批評とかでも全然構いませんよ!)

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