第一章 次に使う手
朝一番の客は、鍋の取っ手を握りしめていた。
鍋の方は、脇に抱えた息子が持っている。少年の鼻の下には煤がついていた。母親を手伝おうとして、かまどの奥まで潜ったのだろう。
「取れただけなんだよ。底には穴もないし」
女は取っ手を作業台に置いた。
ユウは鍋を受け取り、欠けた付け根を確かめた。鉄板を丸めた取っ手。留め金は左右に二つ。片方は折れ、もう片方は長い間こすられて、紙のように薄くなっていた。
「両方替えます」
「折れた方だけじゃ駄目かい」
「こっちも、もう保ちません」
女の視線が、台の奥に置かれた秤へ動いた。
ユウは鍋をひっくり返した。底に三つ、修理の刻印が並んでいる。いちばん古いものは、彼が生まれるより前の日付だった。
「取っ手を少し短くしていいですか。留める分は、そこから取れます」
「短く?」
実物を当てて見せると、女は自分の手を差し入れた。
「布を巻いても持てるね。それなら頼むよ」
ユウが留め金を外そうとすると、息子が背伸びをした。
「それ、ちょうだい」
「使うのか?」
「重さを量ってもらう。僕の箱に入れる」
ユウは小さな受け皿を少年の前に置いた。
「じゃあ、ここを見ててくれ。落ちたら拾ってほしい」
鏨を当て、槌を振る。砕けた留め金の頭が皿に跳ねた。
少年はそれを、両手で押さえた。
*
「右をかばってるな」
客が帰ってから、炉の向こうでガンツが言った。
師匠は片目を細め、鍬の刃先を眺めていた。白く濁った左目は、昔、研磨石の破片を受けてからほとんど見えていない。
「昨日、挟んだだけ」
「どこで」
「万力」
「どの指を」
ユウは返事の代わりに、右手を開いた。
ガンツは鍬を置き、親指と人差し指を順に押した。小指に触れられたときだけ、ユウの肩が動かなかった。
「また読んだか」
「荷車の軸だ。中まで割れてた」
「頼まれたのか」
「あのまま返せなかった」
ガンツは手を離した。
工房の入口には、修理待ちの道具が並んでいる。鋤、蝶番、井戸の滑車。どれも持ち主の名前を記した木札が結わえてあった。直らない道具を持ち帰る客の背中を、ユウは何度も見ている。
「次は先に俺を呼べ」
「呼んだら止めるだろ」
「止めるかどうかを決めるために呼べ」
炉の炭が崩れた。
ユウは左手で火箸を取った。
初めて鉄の内側に触れたのは、十二の冬だった。
回収炉へ運ばれてきた歯車を仕分けていたとき、目には見えない筋が、指の骨を引っかいた。手を離せば消え、触れれば戻った。歯車を割ると、その場所から黒い亀裂が現れた。
それより前から、夜中に咳が出ていた。爪の根元には、いくら洗っても落ちない灰色の筋があった。
診療所の医師は、粉を吸い続けたせいだと言った。
回収炉には何でも来る。農具も、壊れた時計も、戦場から荷車で運ばれる鎧も。何が混ざっているか、刻印のない金属からは分からない。
それでも、炉を閉めるわけにはいかなかった。
ガンツはユウを選別場から鍛冶場へ移し、粉の出る仕事をさせなくなった。以来五年、咳は減った。爪の筋は残った。そして鉄の傷を探すたび、しびれが長く続くようになった。
入口で、鈴が鳴った。
「親方、南の巻き上げ機だ」
荷役の男が立っていた。片方の靴に、川泥がこびりついている。
「留め具を見てほしい。荷を上げると、台が傾く」
ガンツは窓の外を見た。
川沿いの倉庫へ向かって、穀物袋を積んだ荷車が列を作っていた。秋の長雨が来る前に、川舟へ積み替える荷だ。
「止めてあるな」
「今はな」
「誰も動かすなと言え」
師匠は壁の工具袋を取った。
「ユウ、楔と支え木。大きい方も持て」
*
巻き上げ機は、川に面した石造りの倉庫に据えられていた。
地上と二階の搬入口の間を、大きな木の荷台が上下する。上部の巻胴を牛が回し、鎖を巻き取る仕組みだ。ユウが物心つく前から使われている。継ぎ足された鉄の鎖は、輪ごとに色が違っていた。
荷台は二階の床より少し下で止まっていた。積まれた穀物袋が、片側へ寄っている。
「載せたままか」
ガンツの声に、倉庫番が唇をなめた。
「一度下ろそうとしたんだが、引っかかって。船が昼には出るんだ」
「人は」
「上に二人」
若い荷役と、古参のオルダだった。オルダは荷台の縁に腰を落とし、揺れないよう柱をつかんでいる。
「先に降りろ」
ガンツが言うと、オルダは後ろの若者を振り返った。
「聞こえたろ。袋は置け」
若者が搬入口へ乗り移る。オルダも立ち上がろうとした。
その足元で、短い音がした。
荷台が傾いた。
ユウには、どこが外れたのか見えなかった。穀物袋が滑り、オルダの脚を押し倒した。片側の吊り金が抜け、残った鎖が張りつめる。
木枠が柱に食い込み、落下が止まった。
「動くな!」
ガンツが走った。
「牛を外せ! 巻胴を押さえろ!」
ユウは支え木を引きずり、荷台の下へ向かった。頭上から麦の粒が降った。倉庫の男たちが梁へ綱を回し始める。
オルダは腹ばいになり、荷台の縁をつかんでいた。膝から下が袋の下にある。
「脚が抜けねえ」
普段の大きな声とは違った。
ガンツが梯子を掛けた。ユウは下から木枠へ支えを差し込む。しかし片側の柱に食い込んだ荷台は斜めで、支え木の端が掛からない。
「もう一本、左へ!」
頭上の鎖が鳴った。
ユウは顔を上げた。
残った吊り金。鎖を受ける、手のひらほどの鉄環。その内側に赤茶けた筋がある。
表面の錆か。中まで達しているのか。
「ユウ、そいつは触るな」
ガンツは梯子の途中から見ていた。
「先に袋をどける」
ユウは梯子の反対側へ回った。木枠を足場に上がれば、吊り金へ届く。袋を一つずつ運び出す間、その鉄環が保つのか。それを知らずに師匠を上げたくなかった。
「少しだけ読む」
「下りろ」
右手を伸ばした。
冷えた鉄が、掌に収まった。
表面のざらつきが消えた。
細い傷が、骨の内側を走った。古い鍛接の境目が二本。その一方から、深い裂け目が曲がりながら伸びている。鎖に引かれるたび、その先端が、わずかに開いた。
ユウは歯を食いしばった。
「親方。上の輪、継いだところから割れてる」
「分かった。離せ」
「外側から綱を掛けても駄目だ。輪ごと抜ける。荷台の下梁に――」
右の薬指が、ひとりでに曲がった。
腕の奥を、熱い針が肘へ抜けた。
思わず手を離す。木枠をつかみ損ね、胸を打った。
下から男が肩を支えた。
「そこの長い綱だ!」
ガンツが怒鳴った。
「下梁へ回せ! 上で巻くな、地上から引け!」
二人が荷台の下へ綱を通し、反対側で四人がつかんだ。ユウは地面へ降ろされた。右手が握れない。左手で支え木を押し直した。
「こっちを引いて。もう少し」
荷台の傾きがわずかに戻った。
支え木の先が、下梁に掛かる。
ユウは楔を足で寄せた。槌を左手で取り、打ち込む。一度目は外した。二度目で楔が沈んだ。
その上で、ガンツが袋を切り裂いた。
麦が滝のように落ちた。
荷が軽くなり、綱を引く男たちが一歩退く。ガンツは空になった袋をむしり取り、オルダの脇へ腕を差し入れた。
吊り金が裂けた。
木枠が落ち、支え木が軋んだ。
ユウは身を伏せた。頬の横を木片が飛んだ。綱を握った男が悲鳴を上げた。
大きな衝撃が、一度。
荷台は地面の少し上で止まっていた。
梯子に、二人分の重みが掛かっている。
オルダの靴が、ゆっくり一段下りた。
*
麦を踏む音がした。
ユウは膝をつき、右手を胸に抱えていた。腕は痛むのに、指先がどこにあるのか分からない。
近くで、倉庫番がしゃがんだ。
「袋を持ってこい。川へ落ちる前に拾うぞ」
男たちが散らばった麦を集め始めた。ユウも左手を伸ばした。
その手首を、ガンツがつかんだ。
「お前は来い」
「まだ下に」
「ほかの奴がやる」
立たされると、膝が震えた。
オルダが壁際に座っていた。額から血を流し、片脚を伸ばしている。目が合うと、何か言いかけた。
ユウは先にうなずいた。
師匠の手が、背中を押した。
*
診療所で、右手を布に包まれた。
老医師は指先を針で押し、感じるかと何度も聞いた。親指と人差し指は分かった。中指は曖昧だった。残りの二本は、触れられていることさえ分からなかった。
「いつまで?」
ユウが聞くと、医師は針をしまった。
「今は言えん」
「前は戻った」
「前より悪い」
ガンツは横で黙っていた。
薬包を渡され、工房へ戻った。昼を過ぎているのに炉は落ちたままだった。ユウは朝の鍋を作業台に見つけ、取っ手を確かめようとした。
右手から滑った。
ガンツが受け止め、台に戻した。
「今日は寝ろ」
「客が取りに来る」
「俺が渡す」
「刻印がまだ」
「俺が打つ」
ユウは鍋を見た。
新しい留め金は、きちんと収まっていた。自分が朝、直したものだった。
「……俺の印で」
ガンツは引き出しから、小さな刻印鏨を取り出した。
「分かってる」
*
巻き上げ機の吊り金は、夕方、工房へ運び込まれた。
裂けた断面には錆が入り込み、中央のわずかな部分だけが新しく光っていた。
倉庫の管理人はそれを挟んで、ガンツと向かい合った。
「直るか」
「これは戻せん。新しく作る」
「同じ重さでいいんだ。回収分で足りるだろう」
「継いだ鉄を、また同じ場所へ使えん。荷を吊るんだぞ」
「じゃあ、使える鉄は」
ガンツは答えなかった。
工房の在庫帳が開かれた。倉庫向けに取ってあった棒材には、先月、徴発済みの線が引かれている。
「町に頼めないか。あれが止まったままじゃ、船に積むたび人手が要る」
「俺からも言った」
管理人は帳面から目を上げた。
「今朝来た返事も、同じか」
ガンツはうなずいた。
入口の木札が、一つ取り外された。巻き上げ機の修理依頼だった。管理人はそれを袖に入れ、裂けた吊り金も持って帰った。
工房に鉄の音がしなくなった。
ユウは寝台の上で、右手を開こうとした。
薬指は途中までしか伸びなかった。
*
五日目、オルダが松葉杖をついて訪ねてきた。
干し肉を置き、作業台に腰を預けた。
「女房が持ってけって」
「脚は」
「折れちゃいねえ。歩くなって言われたが、飯は勝手に来ねえからな」
ユウは笑おうとした。
オルダの目が、包帯を巻いた右手へ落ちた。
「聞いた」
「大丈夫。まだ動く」
「そうか」
長い間があった。
炉のそばで、ガンツが鑢を使っていた。荷揚げの仕事が止まってから、工房へ来る修理も減っている。倉庫から給金が出ず、支払いを待ってほしいという客が三人来た。
「俺は、助かってよかったと思ってる」
オルダが言った。
「お前の手を見て、そう言うのもどうかと思ったが」
「助けられてよかったよ」
それは本当だった。
オルダはうなずき、干し肉を指で押した。
「食え。俺も食う」
二人で硬い肉を噛んだ。塩が強かった。オルダは歯の隙間を気にしながら、子供の話をした。下の娘が、診療所で自分より先に泣いたという。
帰り際、男は左手を差し出した。
ユウも左手で握り返した。
*
八日目の夜、ユウは一人で火箸を作っていた。
右手の感覚は戻っていなかった。
柄を握ると、小指が外れた。目で確かめて巻きつけ直す。槌を持ち上げる。重心がずれ、柄が掌の中で回った。
落ちた槌が足元を打った。
拾う前に、火箸も滑った。
「ユウ」
背後で声がした。
ガンツが、床に落ちた火箸を拾った。
ユウは右手を作業着にこすりつけた。煤だけが広がった。
「見てた?」
「途中からな」
「握りを太くすれば、いけると思った」
「重くなりすぎたか」
「多分」
師匠は火箸を台に置き、ユウの右手を取った。
親指の付け根に、水膨れができていた。
ユウはそのとき初めて気づいた。
ガンツは水桶から布を取り、手に当てた。
「いつ触った」
「分からない」
布の端から、水が床へ落ちた。
「明日は火を使わず、握りだけ合わせる。革を巻いて、留め方も変えるぞ」
ユウはうつむいた。
「俺、直せなくなるのかな」
ガンツはすぐには答えなかった。
右手を冷やしたまま、左手で槌を拾った。それをユウの前に置く。
「今のままじゃ、できん仕事がある」
柄には、何度も革を巻き直した跡があった。
「できるように変える。道具も、やり方も。俺一人で分からなけりゃ、ほかへ聞く」
ユウは顔を上げた。
「頼みがある」
ガンツの眉が動いた。
「河下のセルトへ行きたい」
大きな水車と、再生炉がある町だった。川を上る商人が、ときどきそこの鉄を持ってくる。薄く均一に延ばされた板も、継ぎ目の分からない長い棒材も見たことがあった。
「使える鉄があるか、聞いてくる。あの吊り金を作れる材料も。なければ、どう直すか教わる」
ガンツは椅子を引いた。
「その手でか」
「だから、紹介してほしい。親方が前に言ってた、セルトの職人に」
師匠の左目が、炉の明かりを受けて白く光った。
「あいつは手紙をよこさん。生きてるかも分からんぞ」
「工房はあるんだろ」
「ある。先月の荷にも印があった」
「じゃあ行く」
ガンツは冷えた布を取り替えた。
「旅に出たら、事故もある。壊れた橋も、助けを呼ぶ奴もいる。そのたび今と同じことをやる気か」
ユウは答えを探した。
オルダの脚を押さえていた袋。引き伸ばされる鉄環。師匠の載った梯子。
「目の前にいたら、放っては行けない」
「だろうな」
ガンツは机の引き出しを開けた。
紙を一枚取り出す。片面には、商人の古い送り状が書かれていた。裏を返し、指で平らに延ばした。
「それを変えろとは言わん」
ペン先を削る音がした。
「だが、戻ってきてから作る物も決めておけ」
「作る物?」
「吊り金だけじゃ足りん。倉庫の滑車も替える。井戸の軸受けも、お前が途中までやったままだ」
ユウは入口の木札を見た。
まだ預かったままの名前が、いくつもあった。
「……覚えてる」
「なら、その仕事に使う手も持って帰れ」
師匠は紙へ最初の一文字を書いた。
*
出立の朝、ガンツは工房の戸を外していた。
片方の蝶番が鳴るので、ユウが直すと言ったままになっていたものだ。
「帰るまで置いといてくれればいいのに」
「毎朝うるさい」
ユウは荷袋を背負い直した。
中には着替えと干し肉、師匠の紹介状。工具は必要なものだけ選んだ。右手の握りに合わせて革を巻いた槌も入っている。
ガンツは外した蝶番から、短い釘を一本抜いた。曲がっていたので、敷居の上で軽く叩いて戻した。
「手を出せ」
ユウは左手を出した。
「そっちじゃない」
右の掌に、釘が置かれた。
見なければ、そこにあるのか分からなかった。
「朝と晩に、触って確かめろ。良くなっても悪くなっても、書いとけ。医者に見せるとき役に立つ」
ユウは釘を、薬包とは別の小さな布に包んだ。
「ほかには」
「飯を食え。寝ろ。紹介状を濡らすな」
「子供じゃないんだけど」
「じゃあ、言われんでもやれ」
師匠は蝶番へ向き直った。
ユウは工房の中を見た。炉はまだ暗い。作業台には、鍬の刃先が二枚。自分の刻印鏨は、いつもの引き出しに残してある。
「行ってくる」
「ああ」
戸口を出て、川沿いの道へ下りる。
倉庫の前では、人が並んで袋を運んでいた。止まった荷台に、朝日が当たっている。
オルダが木箱に座り、数を読み上げていた。ユウを見つけると、帳面を掲げた。
「帰りは船に乗せてもらえよ!」
ユウは左手を上げた。
道は川を離れ、丘へ続いていた。その先にある町を、まだ見たことがなかった。
荷袋の位置を直そうとして、右手が空をつかんだ。
ユウは足を止めた。
肩紐を左手で引き直し、右手の指を一本ずつ確かめる。
それから、また歩き始めた。
(第一章・了)




