12 - 虫の知らせ
その日は寒かった。晩夏が突然初秋に切り替わり、おまけに土砂降りだった。私は部屋でのんびりと身支度を整えながら、蛍様に言われたことを思い出していた。
──『復讐は何も生みやしない。諸悪の根源を絶ったところで、あまりに深く傷つけあった心はもう治らん。そうならんよう、強く美しい心でおれ。復讐心じゃ人の心は動かせん。強く美しい心を持つこと。努努忘れてはならんぞ。』
──『新たな可能性に目を向ける。それがどんなに大切か。』
──『月の国と太陽の国の起源にまで遡るこの戦い。その始まりを知っとるか? 今となっては戦いの起源を知る術はない。なぜこの戦いが始まったのか、具体的なことは何も分からん。これは儂の方でずっと調べとるが、手がかりがとんとない。もし何か分かれば教えてくれるか。』
あれから蛍様と会っていない。そろそろ訪ねて来る頃かと思っていたが、こちらから訪ねてみようか。今日は休日だから、まずは図書館に行って私でも得られる情報を整理しよう。その後、守護隊の庁舎を訪ねてみようか。そんなことを考えていた時だった。勢い良く自室のドアが叩かれた。
「真白、いるか!」
あまりに切迫詰まった声に慌ててドアを開けた。そこにいたのはずぶ濡れの八雲だった。
「八雲さん!? 女子フロアは男子禁制なのに……! って、それよりタオル……!」
他の部屋の女の子たちがざわつき始めていた。私は慌ててタオルを取ろうと踵を返したが、それは八雲によって制止された。
「……八雲さん?」
見上げると八雲の髪から垂れた雫が私の頬を伝った。
「蛍様が、亡くなった。」
「え……。」
一気に何も聞こえなくなった。ただその場に立ち尽くした。いや、私は立っているんだろうか。平衡感覚さえ分からない。ただ、すべてが遠く感じた。
どうやって移動したのか覚えていなかった。気づいたときには、私は守護隊庁舎の総隊長執務室にいた。その場にはもちろん総隊長もいた。
「真白。」
総隊長に声をかけられてやっと顔を上げた。その表情は歪められていて、嘘じゃないんだと働かない頭で理解した。
「彼奴はお前に目をかけておったから、呼び出させてもらった。すまんのぅ、真白。」
私はただ拳を握って首を横に振った。それに伴って涙がポロポロと零れた。総隊長はデスクから立ち上がると窓の外に目をやった。その方角は月桂樹の丘の方角だった。月桂樹の丘には殉職者の墓がある。
「……自宅で死んでおった。心臓を、ナイフで一突きじゃ。」
「っ……!」
「傍らには太陽の国のマークが残されておった。ご丁寧に、蛍の血で描かれておったわ…!」
私は思わず唇を噛み締めて目を背けた。脳裏に浮かんだその光景があまりに耐え難くて、噛み締めた唇の隙間から嗚咽が漏れた。
「儂の膝元で、歴戦のあの婆が、じゃ。」
総隊長が拳を握る音が聞こえた気がした。痛いほど悲しい怒りだった。私はその場に膝から崩れ落ちて咽び泣いた。八雲は傍らに跪くと、私の背中を優しく撫でてくれた。
「蛍が目をかけておったお前も標的にされるやもしれん。警戒を怠るでないぞ。」
「っ、はい……。」
「それを伝えるためにお前には来てもらった。……近いうちに、本格的な戦になるやもしれん。」
「!」
総隊長の呟きに、私と八雲は息を飲んだ。今の月の国と太陽の国は、長いこと冷戦状態にある。諍いがゼロになることこそないが、一方的に攻め込まれることが多く、月の国は基本的に沈黙を守ってきた。それは現総隊長の足心様が比較的穏健派だからだと思っていたが、きっと蛍様が押し留めていたんだろう。そのことに今気がついた。そしてそのストッパーがいなくなった今、沈黙が破られようとしている。
「ダメ……!」
私は咄嗟に叫んだ。振り向いた総隊長は静かに私を睨みつけた。怖い。まるで蛇に睨まれたネズミだ。
「お主かて悔しかろう! 太陽の国が憎くはないのか!」
「っ……!」
以前蛍様に同様のことを問われたときとは状況が違う。今度は大切な人を確かに奪われている。悔しいに決まってる。憎いと形容していいだろうドス黒い感情が胸の中にいるのも感じる。だけど。
「蛍様が大切に守ってきたものを、そんな風に簡単に壊さないでください……!」
きっと蛍様はただ平和を願っていたんだろう。その道をずっと模索していたに違いない。だから私に疑問を投げかけてくれたんだ。なぜ、何のために戦うのかと。
「じゃあどうしろと言うのじゃ! ただやられっぱなしでおれと言うのか!」
「やり返したって蛍様は還って来ません! 死者は、生き返りません──。」
ああ、なんて滑稽なんだろう。一度生き返っておいて、その可能性を自分で否定するなんて。そう、死者は生き返らないのだ。じゃあ私はなぜここにいるんだろう。私は顔を俯けた。我慢できない嗚咽が次から次へと漏れていく。こんな無力な私じゃなくて、蛍様が生き返ればいいのに。
「……総隊長。俺も今は賛成できません。人員不足です。」
八雲は簡潔にそう言うと私の肩を抱いて退室を促した。私は唇を噛み締めたまま、執務室を後にした。




