8(レオンside)
報告書の山を前にしても、目が活字を追うだけになっていた。手は動いている。判断もしている。だが、頭の奥にこびりついた言葉が消えない。
『俺の性別知ってます?』
『レオン殿は貴族でしょ?』
あの声。あの目。まるで、試すように。突き放すように。でも、どこかで“怯えている”ように感じた。俺が貴族だから?同性だから?それを理由にしたいように聞こえた。
(上手く逃げられた気がする…。)
彼の言葉を聞いた瞬間、自分が戸惑ったことに、まず戸惑った。
だが、それ以上に――
(……それが、何だというんだ。)
彼が何者であろうと、あの時の気持ちは変わらない。助けたいと思った。笑っている裏で、誰よりも人の感情に晒されているその姿を、守りたいと思った。強がりで、一人で苦しんでいる彼の隣に立ちたい。
ただ、それだけだったはずなのに――
(“ないですよ、そういうの”)
その言葉の裏にあるものを、レオンはまだ掴めずにいた。本音なのか、冗談なのか。それとも――
「……わからないな。」
ぽつりと呟いた声が、静まり返った部屋に吸い込まれていく。
けれど、ひとつだけ、確かなことがある。
あの言葉に、傷ついた自分がいた。それはつまり、もう“好意”を否定できないということだ。
****
資料の整理を進めていた昼下がり、ノアが図書室から届け物を持って訪れた。
「この間の報告書、追加分が出ました。担当者名が修正されています。」
「助かる。……ああ、例の視察記録か。君の方にも保管があるんだったな。」
「ええ。レイのところの訓練記録、重なっていて……。」
名前を聞いた瞬間、無意識に手が止まった。だが顔には出さず、そのままやり取りを続ける。
「……騎士団の資料は今も君が担当しているのか?」
「一部だけです。レイの分は、彼女が――」
そこまで言って、ノアは何も気づかないまま、話を続けようとした。
だがレオンの中では、“彼女”の一言が頭の中で何度も反響していた。
(……彼女?)
ノアの口から出た言葉。それは、意図された暴露ではなかった。ただ、知っている者が、当然のように口にした“事実”。
つまり――
(あいつは……。)
脳裏に、あの日の言葉がよみがえる。
『俺の性別、知ってます?』
あの時の問いは、ただの冗談ではなかった。彼は俺が知らないことにかけてそう言ったのか。
(諦めて欲しかった?)
でも、はっきりと拒絶せずそう返した。自分からではなく、俺から離れることを望んでいたように。近づいて欲しい気持ちはあるのに、近づかれることが怖いのか。自分を知ってもなお、変わらないことを信じたいのか。
「レオン殿?」
「……いや、問題ない。ありがとう、ノア。助かった。」
ノアは少し首を傾げたが、それ以上は何も言わずに去っていった。
レオンは手元の書類を見下ろしたまま、ふかく息を吐いた。
(……彼女。)
その一言が、胸のどこかに沈んで、まだ静かに波紋を広げていた。
静まり返った室内に、ペンの音だけが響く。日報も報告も、すでに終わっている。なのに、手が止まらなかった。
ノアが言った言葉が、まだ耳の奥で残響のように揺れている。
『……彼女が――』
レイは、女性だった。
レイとして振る舞い、男として騎士団に所属し、誰よりも自然にその仮面を着こなしていた。
そうであることを、疑いもしなかった。
そのうえで、“好きになっていた”という事実がある。
(……俺は、何も知らなかった。)
性別のことだけじゃない。なぜ彼女が笑っているのか、なぜあんなに無理をしているのか――気づいているつもりで、何も見えていなかった。
彼女の言葉の裏にあったものも、あの笑顔の下に隠されたものも、何ひとつ。
レオンは、静かに席を立つ。
(知りたい。ここで引くのは俺らしくない。)
その思いが、胸の奥に静かに灯る。
仮面の奥の本音も、名前じゃない“レイ”という人間も。ただ、知りたいと思った。好きになった相手を、ただの印象や感覚で終わらせたくなかった。
彼女が何を隠していても、何を恐れていても――
それでも、近づいていくと決めた。