6(レオンside)
書類の提出で回廊を通っていたとき、聞き慣れた笑い声が耳に届いた。
“レイ”。
その声に、なぜか足を止めてしまった。最近、彼はこちらを避けている。それは明らかだった。話しかけても、目を合わせようとしない。書類も、新人を使って間接的にやりとりするようになった。
(……まあ、無理もないか。)
あんな姿を見られたのだ。距離を取りたくなるのは当然だ。彼が隠している唯一だろうから。それでも、あの目が、声が、頭から離れない。
そんなことを考えながら曲がり角を抜けると――
「……騎士団の王子様ともなると、随分と偉くなったものだな?」
張り詰めた声が聞こえた。
視線を向けると、そこには数人の貴族令息たちに囲まれているレイの姿があった。彼は笑っていた。相変わらず、軽く、柔らかく。
「いえいえ。俺なんて、ただの平民上がりですよ。偉そうに見えたなら、申し訳ない。」
「平民上がりが副隊長、とはな。まったく、笑わせてくれる。」
口調は穏やかだが、言葉の棘は鋭かった。“王子様”と呼ばれること、若くして騎士団の要職に就いていること――それらすべてが、彼らの中で“許せない”のだろう。
レイは何も言わなかった。ただ、静かに笑っていた。
だが――
(黙っているのではない。黙るしかないのか。)
爵位も家名も持たない彼は、貴族の前では“地位がない”というだけで対等になれない。例えどんなに剣を振るい、仲間を守っていても。
その事実に、レオンの中で何かが、音を立てて動いた。
次の瞬間、無意識のうちに足が前へ出ていた。
「――そこまでにしていただけますか?」
レオンの声に、場の空気が一気に変わる。
貴族令息たちがぎくりとこちらを振り向き、咄嗟に姿勢を正す。
「クラヴィス殿……これは、冗談で。」
「その冗談で、私の部下に不快な思いをさせているようでしたが?」
不快だった。努力もせず爵位だけで威張り散らす彼らが。レイが何も言えないことを、分かって攻撃していることが。彼の努力を踏みにじったことが。
彼らは何も言えず、早々にその場を後にした。
残されたのは、まだ笑っているレイ。
「……助け舟なんて、珍しいですね。」
「放っておくには、少々不快だったので。」
それだけ言って歩き出すと、レイの気配が背後で揺れた。
「……ありがとう、とは言いませんよ?」
「言われるとは思っていません。」
それでも――彼の声が、ほんの少しだけ揺れていたことに、レオンは気づいていた。
(……ありがとう、とは言いませんよ?)
レイはそう言って、いつも通りの軽口を残して歩き出した。それでも、彼の声の端に揺れがあったことに、レオンは気づいていた。
その背中を見送りながら、レオンは立ち尽くす。
仮面のような笑顔、見え透いた誤魔化し。なのに、なぜか目が離せなかった。避けられても、気づけば探していた。
だが今、はっきりとわかる。
自分は――
(俺は、レイを……特別に想っている。)
ただの同情でも、義務でもない。あの無理に作られた笑顔を、あの黙って耐える姿を、どうしようもなく、放っておけなかった。自分の手で守ってやりたかった。
それが“感情”だと、今ようやく理解した。
(……なんて、面倒な。感情というのはままならないものだな。)
苦笑がこぼれる。でもその苦笑すら、いつの間にか穏やかなものに変わっていた。