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あのあと、何事もなかった顔で詰所を抜けて、ひと気のない書庫に逃げ込んだ。
閉じた扉の向こうで、笑顔を張り続ける必要はない。それでも、心は不思議なほど落ち着かないままだった。走ったわけではないのに息苦しい。
(……“無理はしないでください”……ね。)
レオンの声が、何度も頭の中で繰り返される。
あの男に、あんな風に言われるなんて。最初はただの冷たい文官だと思ってたのに。そのくせ、たった一度、俺の仮面が崩れただけで――
(どうして、そんな目で俺を見るんだよ。)
頭を抱えて、書棚にもたれかかる。
(あんなの、見られるわけにいかないんだって。)
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この世界では十歳になると教会で祈りを捧げる。この祈りでは神が祝福を与えると言われていて、稀に特殊能力を授かることがある。ただし、人口の約三割といわれる能力者は貴族に多いらしい。らしいというのは、能力を暴くことはタブーとされている為、詳しいことは誰も知らないからだ。
ーー俺は十歳の祈りの儀で呪いを受けた。頭の中に、自分のではない知識が流れ込む不快感と共に理解した。
【心鏡ノ操影】
これは俺にとって呪いだ。周りの人間の感情が流れ込み、自分と共鳴する。そして、自分が他人の感情を操ることもできるこの力は、自分に使うことも可能だった。俺は常に感情を自分で操っている。そうでもしないと、周りの感情に振り回される。誰にも言えない。こんな気持ちの悪い能力。他人の気持ちを操ろうなどと思わない。こんな能力なんていらなかった。欲しいというなら、今すぐに譲ってやる。俺はそれくらいこの能力を憎んでいる。
誰かの“怒り”や“哀しみ”が流れ込むたびに、心が削れていく。他人の感情が流れ込むたびに、自分が自分であるのかすら疑ってしまう。でもそれを言えば、能力を使いこなせていないと言われる。同情されるのも、哀れまれるのも、もう嫌だった。
だから笑う。軽く、飄々と、何も感じないふりをして。それが、俺のやり方だ。
「頼るつもりなんか、ない。」
口の中で、ぽつりとつぶやいた。幸い俺は剣の腕があった。一人でも生きていける。
ーー今までだってそうだったんだ。
孤児院で育った俺―私はグレイスと名付けられた。活発で子供らしい子供だった。みんなと庭を駆け回り、木の枝を振り回して遊んでいた。たまに来てくれる大人に剣を習った。楽しかったんだ。
――能力を得るまでは。私は能力を得た後は大分荒れた。他人の感情が入り込んでくることが、どうしても気持ちが悪かった。でも周りは理解をしてはくれない。平民に能力が宿ることは稀だから。
それが分かってから、一人で生きていくこと決めた。だから、努力した。剣も能力の制御も、自分の隠し方も。剣術を磨き、体を鍛えた。口調と一人称を変え、女の子らしい髪を切り、見た目も男らしく整えた。隠してはいないが、わざと『レイ』と名乗った。自分の心は決して見せないと決めたんだ。
平気だ。一人で平気なんだ。
でも。
あのときのレオンの目。無表情の奥にほんの少しだけ浮かんだ、“困っている”ような色。
(……あの人、何が見えてたんだろ。)
知りたくなんか、ないのに。気づかれたくなんか、なかったのに。なのに、こんなにも――あの声が離れない。
「……くそが。」
小さく呟いた声は、誰もいない書庫に消えていった。