ゴブリン、出会う
「………………い………おい………!おい!!大丈夫か!!?」
目を覚ますと、顔が二つあった。
人間の顔だ。生きた状態でそれらを目にするのは、いつ以来だろうか。
「………生きて、いるのか。俺は」
「えっ……し、喋った……!?」
左側に見える顔。女の方が驚きのあまり口を両手で覆う。
右側の男は、驚きよりも安堵を表出させていた。
「腹の傷が深い。大人しくして、あまり喋るなよ!」
骨を軋ませながら、顎を下げて己の腹を見る。
何周もかけて包帯が巻かれていた。腕にも、足首にも。無数の切り傷には薬草が貼り付けられ、やや痺れる様な感触がある。
眼瞼を再び閉じる。状況を整理する。
俺は同族に裏切られた。斬られ、刺され、殴られ、そして追われた。
ようやく追手を撒いて、山の中の樹に凭れかかり、そこから記憶が途切れている。
そして今現在。……状況だけは理解できる。しかし、状況だけだ。
「何故、助けたんだ」
「は?」
「俺達は奪うだけだ。殺し、犯し、燃やして、腹が減れば肉すら喰らう。天敵だ。………何を企んでいる」
男は素っ頓狂な顔をしながら、新しく貼り変える用の薬草を準備し始めた。
「……お前は、娘の恩人だ」
「娘……?」
遠くの方で、無邪気な餓鬼の声がする。人間の女だ。穢れも知らぬ笑い声が、病み上がりの鼓膜に突き刺さる。
「夜に家を飛び出して、あの山で迷子に合った娘を……野犬から守ってくれたじゃないか」
………違う。
「あんな小娘なぞ、助けた覚えはない」
「いいえ。この腕の噛み痕だって、あの子を庇って出来たものでしょう?」
「ふざけるな!!貴様ら人間など、俺達にとっては只の肉の袋だ。慈悲だの正義だのに腑抜けて、都合の良い解釈をするな」
しかし、怒号する俺の両手を、二人はそれぞれ握り込んだ。
「随分、人間に詳しいんだな」
「それに、こうして当たり前の様に会話出来てる。………そんな私達人間に、歩み寄ろうとしてくれたんでしょう?」
違う。違う。馬鹿な事を言うな。
「君のお陰だ」
ふざけるな。何だその顔は、言葉は。貴様ら人間が俺達に向けるのは、いつだって苦痛と怨恨に塗れた死相だ。俺達は、ゴブリンは、只の獣だ。情欲に溺れ、無差別に人間を殺めてきた。
だから俺は………
「ありがとう」
俺は、俺達自身を変えようとしたのだ。
◇◆◇
「わぁ!!すっごーーい!!まっぷたつだぁ!!」
あれから一年が過ぎた。俺は、村の外れで黙々と薪を割っていた。
「危ないだろ。もっと下がれ」
「えーーやだ!!ここで見る!!」
俺を助けた二人の人間はつがいで、この餓鬼がその娘。
夫の名はエルド。妻はシェラ。そして娘はフィオラ。
フィオラは、たった今斧を振り下ろした切り株のすぐ横に座り込み、輝いた瞳で薪割りを眺めていた。
「怪我でもされたら面倒だ。頼むからどいてくれ」
「………じゃあ、”およめさん”にしてくれる?」
「はぁ!!?」
フィオラは立ち上がり、斧を持ったままの俺に近づいてくる。
まだ齢は八で、身長は俺の腰辺りまで。どこからどう見ても餓鬼だ。
しかし、何故か彼女は異常なまでに俺に懐いてしまい、あろうことか求婚までするようになってしまった。どうせ年中イチャついているエルド達の影響だろう。このままでは教育に悪い。今夜にでも夕食の場で叱りつけねばなるまい。
「およめさんにしてくれたら、どいてあげる!!」
「………あのなぁ。ふざけた事言ってないで、もう家に戻れ。シェラ……母親が、菓子でも作っているだろう」
「ふざけてない!!リーナと結婚するんだ!!」
彼女が口走ったのは、エルドに付けられた俺の仮の名だ。
ゴブリンに名前という概念は存在しない。それを聞いた彼は『俺が考える』と言い出し、それから命名に使えそうな単語や歴史書、果ては花言葉まで調べ、数か月かかってこの名を与えた。
”リーナ”とは、人間達の神話に登場する女神の名。希望を司り、この世界に豊穣と愛を齎したそうだ。
無論、俺はこの名を全く気に入っていない。由来はともかく、何故女神……女の名を付けたのか微塵も理解できない。ゴブリンは雄しかいないのだ。
だが、それを是としないとエルドとシェラは憤慨し、小一時間程ネチネチと小言を言ってくる。面倒を避ける為、このふざけた名を看過せねばならないのが現状だった。
「フィオラ。幼いお前にはまだ分からないかもしれないが………生き物には”種”がある」
「”しゅ”?」
「あぁ。そこに伸びている樹と、横に咲く花。その花に群がる虫と、樹の上で身を休める鳥。それらは体の造りや価値観、何より見えている”世界”が違うんだ」
「せかい……」
難しい顔で、俺の言葉を懸命に噛み砕こうとしている。
一度斧を離れた場所に置き、屈んで視線を合わせた。
「俺とお前もそうだ。お前たちは人間で、俺はゴブリン。種も世界もまるで違う。違う者同士は、本来理解し合えない」
「でも、リーナはママとパパ……私とだって仲良しだよ?」
「仲良っ………ま、まぁ発言を直そう。確かに、歩み寄れば理解はし合える。だがそこまでだ。愛し合う事は出来ない」
この一年で、俺はすっかり奴ら夫婦とこの餓鬼に絆されてしまった。
他愛ない話、笑い合う食卓、共に見る夕日。そのどれもが愛おしく感じる様になってしまった。
だが、そんな資格は無い。いくら理解し合った所で歴史が変わる訳ではないのだ。
俺達の種が、常に彼らの世界を歪めてきた。そんな罪深い存在が今更善人ぶった所で、神からすれば噴飯ものだ。希望の女神でさえ嘲るだろう。
「もう!さっきからむずかしいことばっかで分かんない!」
フィオラは遂に痺れを切らし、地団駄を踏みながら激怒してしまった。
「いつか、心からお前を愛し、愛せる人間が目の前にきっと現れる。告白は、その時までとっておけ」
「……私はほんきだもん。リーナじゃないひととなんて……」
俯き、目に涙を浮かべて呟く。
思わず手が伸びてしまい、そして引き戻す。
この子の身体を、決して壊さぬよう優しく抱きしめたい。身の程知らずな願いが脳裏をよぎった。
「う、生まれ……変わったら」
「え?」
「もし、俺が死んで、次は人間に生まれ変わる事が出来たなら。その時は……俺も心からお前達を愛せる気がする」
茹った脳が妄言を吐き出してしまった。
神は信じるが、生まれ変わりなど毛頭信じていない筈なのに。
「リーナ、しんじゃうの……?」
「えっ!?い、いや……」
「うあぁぁあああぁ!!!やだやだやだやだやだ!!!しんじゃやだぁーーーーー!!!」
「おいおい泣くなよ!!まだ死ぬつもりはない!!」
「うぁぁああぁ!!!」
譲歩したつもりが完全に逆効果であった。
結局その後も俺はフィオラを泣き止ませるのに注力し、風呂も沸かせぬ程の薪しか作れなかった。