その五 はなのかんばせ いとめでたし
猩紅熱騒ぎ以来、お屋敷ではお偉い方々の診察のような事もするようになり、身体の不調があれば呼ばれる事が増えてきた。
初日は挨拶と基本的な情報収集。
大臣様、北の方様も目立った症状はないのだが、この時代の生活スタイルがとある生活習慣病の引き金になりそうだな~というのがある。
糖尿病だ。
運動量が少ないのだ。特に女性!
男性は蹴鞠の宴に備えて練習する日があるから、多少は運動していると言えるのだが女性は一日中座って過ごしている。
そして食事内容が野菜食べない肉食べないとあって、バランスがかなり悪いときたもんだ。
今は症状がないけど、症状が出たらどうしようもない。
薬もないし、食事療法もできそうにない。
とりあえず経過観察中というか様子見で過ごしている。
そして、珠姫様なのだが、極端すぎるほどの偏食のせいなのか【るい痩】といってもいいほどの痩せ方なのだ。
これが偏食ではないとしたら甲状腺の疾患を考えた方がいいのだが、治療という治療はできない。
医療が封じられていると言ってもいいくらいの平安時代で何ができるのだろう?
経過を見ながら食事や、漢方薬などに近い原始的な医療を施すしかないのかもしれない。
今日も今日とて、北の方様から歯が痛むとの事で呼び出されたわけで。本当は一昨日からの痛みだったらしいのだが、昨日は占い結果が凶で物忌みしなければ、ということで延期になったのだそうな。
痛みを我慢しなきゃならないのに大変だねぇ。
呼び出しの際には事前に症状を伝えてもらいたいと家司の与志麻呂さんにお願いしておいたので、症状に合わせた道具や薬を用意できるようになったのはありがたかった。
痛み止めと歯の汚れを取る目的で、柳の樹皮を乾燥させたものと柳の枝を準備した。
古来から柳は鎮痛消炎作用があると知られていた。
何でこんな事を知っていたかというと、かつて勤めていた病院の薬剤部の部長がうんちくを語るのが好きで、忘年会で隣に座った時に
「柳にはねぇ、サリチル酸が含まれてるから古代ギリシャで痛み止めとして使われてたんだよぉ。
日本の江戸時代でもね、柳の枝で楊枝を作ってそれで歯の痛み止めにしてたのよ。
柳っつったら幽霊の添え物じゃないのよね~」
酔っ払いのうんちくメンドクサーと思っていたけれど、こんな所(平安時代)で役に立つとは思わなんだ。
薬剤部部長は話すと面白い人だったので、素面の時だけ話すようにしていた。思い出したらちょっと懐かしくなってしまった。
歯の手入れという事でついでに鉄漿も持参してた。。
お屋敷に来てすぐの頃、大臣様や北の方様にお目通りが叶ってご挨拶をした時にまだ歯が白いままだったのでいつかは出番が来るだろうと作っておいたのだ。
てってれー!お歯黒水―!!青い猫型ロボットじゃないよ!
既に唐帰りの知識人の中では使い始めている人もいるらしい。
父が筑紫にいた時に鉄漿をしている人がいて驚いたと話していたが、その人だったのだろう。
公家=お歯黒なイメージだが、実際公家文化から一般庶民に広がったものである。
平安時代からお歯黒は始まっているのでちょうど今がそのタイミングなのだろう。私が作り始めた頃には少しずつ広がっているのだから。
「北の方様、お呼びでしょうか。ひろでございます」
部屋の中に案内されると、女房様から
「北の方様はひろならばよく効く薬など持っておるかもと申されてな、覚えがめでたくて何よりじゃな」
「恐れ多い事でございます。まずは痛む歯を見て効きのいい薬を選びとうございます」
「うむ、こちらへ」
しずしずと北の方様に近寄ると、お香のいい匂いがふわっと鼻を刺激した。
時間差で体臭というか、手術後お風呂に入れない患者さんの臭いがした。懐かしい。
お風呂は週に一度かそこら、洗髪は月一度の時代だから仕方ないよね。
でもお香の匂いが混ざってるのに嫌な臭いになってないのは香道センスの技だろうか。皮脂の臭いを上手に紛らわせている。毎回部屋に入る度感心させられる。
「お口を拝見します」
ライトとかないからよく見えないけど、上の前歯の歯茎が腫れて赤くなっている。
「あー、赤くなってますねー。ちょっと押さえますよ、痛いですか?」
痛むのは前歯だけのようだ。歯肉炎というところか。歯槽膿漏まではいってないと思う。歯科は専門外なのでよくわからないが歯そのものは丈夫なようでよかった。
この時代で酷い虫歯になったら抜くしかないもんね。
柳の樹皮を削った物を取り出し、女房様に煎じるようにお願いする。
次に柳楊枝を取り出し、歯磨き指導みたいなことをやってみる。枝先を房状にしているので歯ブラシっぽく使えるのだ。歯間や歯茎との境目も掃除してもらう。
「あれ、痛みが少なくなったようじゃ。流石はひろの見立てじゃな」
一旦口を漱いでもらって鉄漿について説明する。
「北の方様、これは先日筑紫に向かった私の父から教わった唐で最も新しい歯のお手入れであり美容の『お歯黒』と申します。唐からの使者の方や唐から戻られた学者の方、今は帝も嗜まれておられますそうな」
容器の中のダークマター……もとい、鉄漿を取り出し
「多少臭いはございますが、歯の虫食い(虫歯)も防ぐ事もできますし唐ではこれが高貴な方の身嗜みとして皇帝貴族は当たり前にされておられるそうです」
と仰々しく恭しく差し出して見せた。
「ほぉ、唐の皇帝や貴族も嗜むとな」
珍しいもの好き、かつ新しいもの好きな北の方様は臭いも嫌がらず覗き込んでいる。
「次の歌会ではお方様が唐の新しき物を身につけていると皆様に知らしめるのがよろしいかと」
ベルサイユでもそうだ。最先端のファッションリーダーは高貴な方々からだ。
お歯黒はファッションというより、歯の衛生状態がよくないこの時代に『歯の手入れ』という概念を持ってもらうためのもの。どちらにしても平安時代からお歯黒は私が勧めなくても遅かれ早かれ流行っていくものなのだ。
お歯黒は明治時代まで続く日本の文化だけど、文化以前に歯科衛生の意識を高めて長く自分の歯で食事をして健康でいてもらいたい。
口を開けてもらって刷毛でちょいちょいと縫っていく。
「臭いがあるのう」
え?今頃?見せる前から臭ってたと思うけど?
「さようでございますが、じきに消えますゆえ」
塗り終わって見事なお歯黒フェイスが出来上がる。と、同時に薬を煎じに行ってた女房様が戻って来られた。
「戻ったかえ?」
扇で口元を隠しながら北の方様は言うと、煎じ薬が台に置かれるや
「ほれ!」
と口を開いて女房様に見せた。
「ひぃ!」
女房様はひと声叫んで後ろにひっくり返った。
「ほほほ、驚いたかえ?唐の皇帝様もされてる化粧じゃ」
大臣様の奥様はどうやらお茶目な方のようだと思った。
いつの時代も海外トレンドは女性の心を激しく揺さぶるらしく、北の方様のお歯黒を初めこそ怪訝な顔で見ていた女房様たちもキラキラした目でこちらを見始めた。
「女房様もお歯黒されますか?」
柳の枝、多めに持ってきててよかった~。
歯ブラシして、うがいが済んだ人から順番に塗布していく。
今度の歌会が楽しみだな。
いろんな意味で。
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古代の医療について、それなりに調べて作っておりますが間違っていたりしてたらご指摘いただけると助かります。