その三 ぺにしりん なる 薬ありけり
氷室から氷を出した日から一週間ほどが過ぎたある日、下人の戸麻呂さんが
「最近うちの長屋の子供も大人も高い熱の出る病にかかってるんだよ。移ると嫌だからしばらく牛小屋の隅っこで寝泊まりしたいんだが」
と家令の与志麻呂さんに話しているのが聞こえた。
ああ、また流行り病か。
『ひろ』の母と弟も流行り病で死んだ。同じように原因を調べる術もなく効果のある治療法もなく、木の葉が落ちていくのをただ見守るように人が死んでいくのを見てるだけなのかとやるせない気持ちになっていた。
話を聞くと、高熱、咳や鼻水はないのに喉の痛み、扁桃に白い付着物、舌が赤くイチゴのようになるのが主な症状のようだ。
この症状は猩紅熱、つまり溶血連鎖球菌感染症略して溶連菌感染症ではないかと思われる。
ウイルス性の感染症なら西暦2000年代でもどうしようもないが、菌なら何とかなるかもしれないと一瞬思った。
そう、現代なら何とかなるのだ。抗生剤という人智の結晶が存在している。
抗生剤かぁ……溶連菌に効果のある抗生剤はセフェム系の抗生剤だったっけ?溶連菌でよく処方されてるのはサワシリン、ワイドシリン、パセトシン……
ペニシリン系の抗生剤だったよね!
完全に記憶の奥深くに埋もれた抗生剤に関する知識を掘り出していた。
ドクターと薬剤師さん任せだったけど、時々は薬剤情報読んでてよかったとこんなタイミングで思うなんて。
ペニシリン…………アオカビ……それと……
ぐるぐると渦を巻く記憶の欠片を拾い出す。
炊屋の片隅に、籠に入ったまま放置されていた瓜があるのが目に入った。
姫様が瓜が食べたいと言ってたから畑から採ってきたのに、かき氷が食べたいとの気まぐれで忘れられた瓜だ。
真夏なのですぐ腐って、あっという間にカビの温床になってしまった瓜だった物体を見ると……
あった……アオカビ!!
現代にいた時に好きで録画して見ていた医療系のタイムスリップもののドラマでも作っていたペニシリンが作れるかもしれない。
マンガからドラマ化された作品で、マンガの方もよく読んでいた作品だから何とかなるんじゃ??
瓜の裂けた皮目に包丁を差し込み、割ってみると中にもたくさんのカビが生えていた。
他の白カビや黒カビなどを避けてアオカビのみを集めた。
まだ足りない。件のドラマでは芋の煮汁と米のとぎ汁で培地を作っていた。
それに加えて新たに食べ残しの瓜の搾り汁でカビの増えるのを待った。
うろ覚えであることと道具が揃わない事を鑑みて、完全なペニシリンができるとは思えないがフレミング(ペニシリンの発見者)がたまたま見つけた抗菌作用に期待してみる。
理科の実験みたいな道具、この時代にあるもので間に合わせることができるのだろうか。
炊屋から使わなくなった壺や須恵器、姫様が投げつけて縁の欠けた皿や高坏を集めてみる。
壺の中の水を沸騰させて蒸気を冷やして蒸留水を作りたいのだが、完璧を求めるのは難しい。
掻き集めた食器類や調理器の中から古い甑と鉢と椀を使って不純物の少ない蒸留水を作ることができた。
ペニシリンの素を濾過するために甑に綿(綿花はないので予め病気の蚕の繭を集めて洗浄して干し、ほぐしておいたもの)を敷き詰めた。
大臣様の荘園で養蚕をしている家があるので繭集めは簡単にできたのがありがたい。
甑と繭をほぐしたもので濾過した液体を本来なら脂溶性の成分と水溶性の成分に分ける必要があるのだが、現代のように精製された油が手に入らないので諦める。
他にも抽出方法に則ってちゃんとした成分を抽出すべきなのだろうけど道具が足りないので諦める。
諦めっぱなしなのは悔しいけれど、何もないよりはマシと信じてやってみる。
そうやってできたなんちゃってペニシリンだが、人体実験などは到底できる時代ではない。
幸い、医師の娘と認識され、薬草の知識もあり屋敷でも信頼されているだ。
このまま放置していればどっちにしても熱などの症状が落ち着いたとしても腎臓や心臓などに影響が出る確率は高い。
母親の虫女さんに尋ねた。
「私の作ったこの薬は、効果がどの程度のものなのかまだわからないものです。それでも何もしないでいるよりはマシなのではないかと思います。」
「ひろが今まで作ってくれた薬はどれもよく効いたからね、それにあたしらには陰陽師様や験者様の御祈祷は受けられない。お偉い医師様に診てもらうことだってできやしない……」
悔しそうな顔の虫女さんはぱっと顔を上げて
「それでもひろが懸命に薬を作ってくれて、うちの子がよくなるようにって寄り添ってくれたのだからありがたいよ!」
と微笑んでくれた。
虫女さんからペニシリンを使う許可が出たので、アレルギーテストを行う。
皮膚テストを行い、反応がないので少量内服してみる。
アレルギーは大丈夫そうなのでいよいよ本格的に使ってみる。
点滴用の針やチューブを作っている時間がないので内服する事にした。
副作用がどんな風に出るのかわからないので、ずっと経過観察をするしかない。
水分補給をしつつ、少しづつペニシリンを飲ませていく。
血中濃度がどれくらいなのかわからないので、こまめに内服させている状態だ。
最初の内服から二時間は経っただろうか。呼吸が少し楽になってきたようだ。
効いていると信じたい。
引き続き芋の煮汁や米のとぎ汁で培養を続ける。
なんちゃってペニシリンだが、それなりに効果があるようなので量を増やそうとカビの培養を続けていた。
幸い米のとぎ汁はたくさん手に入るので樽でカビを培養できるほどだ。
二日目には熱も下がり、喉の痛みなどの症状もなくなった。体のあちこちに影響を残すのが溶連菌の厄介なところだ。
症状がなくなっても引き続き抗生剤の投与をしなければならない。
相変わらず感染した人は多く、都の庶民も貴族も分け隔てなく病魔は手を伸ばしていた。
虫女さんの子供が良くなったと聞いた下人の何人かは
「病にかかりたくないから薬をくれ」
と言ってきたが、予防には使えないと説明しても聞いてくれなかった。
牛小屋で寝泊まりしたいと言っていた下人の戸麻呂さんが長屋の私の部屋に押し入り、残っていたペニシリンを勝手に飲み干してしまったのだ。
飲み干した戸麻呂さんは
「これで流行り病にはかからないな!」
と嬉しそうにしていた。
「何て事をするんですか!これを飲んだからって病気にならないわけじゃないんですよ!」
「いいじゃねぇか、そこらへんの物でできる薬なんだろ?……ぜぇ……ぜぇ……何だ?ちょっと気持ち悪いんだが……」
まずい、ペニシリンショックだ。
虫女さんの子供には飲ませる前にアレルギーテストを行って、大丈夫であると確認していたのだが、戸麻呂さんにはペニシリンが体質に合わなかった上にアレルギーテストの数倍の量を飲んでしまったのだ。
完全な抽出ではないといってもアオカビを原料とした原始的なペニシリンであるのは間違いない。
むりやり強奪して飲んだのだからそのまま放置でもいいんじゃない?と心の中の悪魔が囁いたができる範囲で手当てをすることにした。
私の作ったもので誰かの命を奪ってはならない。
腹立たしい。苦労して作ったペニシリンは感染して苦しんでいる人にこそ使いたかった。
何の症状も出ていない人におまじない気分で飲み干された挙句、副作用を防ぐこともできなかった。
いろいろな薬品が揃っている現代なら手当も簡単にできるのだけど、生憎薬草などに頼る時代なので経過を見ながら対応するしかない。
「私がいいと言ってないのに勝手に飲むからこんな事になるんですよ」
腹立たしい気持ちを抑えながら、口に指を突っ込んで吐き出させる。意識があるので水を飲ませてまた吐かせる。
「薬も間違った使い方をすれば毒になるんです!勝手に飲んだのだからこのまま死んでも恨まないでくださいね!」
真っ青な顔の下人は口を拭きながら
「あぁ、すまなかった。もう勘弁してくれ。病気よりも死にそうだよ」
苦しそうにしているが吸入する酸素なんてない。ショックに対応する術はない。
それに……このままこの人が死んだら検非違使(この時代の警察のような組織)に捕まって、毒を使って人を殺したと犯罪人にされてしまうのだ。
「貴方がこのまま死んでしまったら私は犯罪者になってしまうんです!貴方の身勝手で!病気の人の為の薬を奪われて!」
抗う腕を押さえて口に指を突っ込み続けた。
「本当なら死んだっていいんですよ、貴方みたいな人!だけど、だけど……この薬が毒だと思われたら助かる人たちを助けることができなくなってしまう!」
原始的な方法だけど、胃洗浄はできた。あとは……神に祈るだけだ。
江戸時代にタイムスリップしたお医者さんならちゃんとしたペニシリンができたはず……。