45.どういうこと?
「嬢ちゃん。行き先の住所を教えてくれ。カーナビに入力する」
神木邸から徒歩五分ほどの場所にあるコインパーキング。黒いワンボックスカーに乗りこんだマコトは、バックミラー越しに陽菜へ声をかけた。
警察のデータベースを見て記憶した住所を陽菜がそらんじ、マコトが素早く入力していく。
「どれくらいで着く?」
「ナビの予測では二十分程度だ。道の混雑状況にもよると思うが……」
車のエンジンを始動したマコトは、助手席に座る咲良をちらりと見やった。冷静に見えるが、咲良の口は真一文字に固く結ばれ、額にはじっとりと汗が滲んでいる。気が気でないはずだ、とマコトは咲良の内心を慮った。
勢いよくコインパーキングを飛びだしたワンボックスカーがぐんぐんと加速していく。
「影浦の野郎……絶対に許さねぇ……」
助手席に座る咲良が、真っすぐ前を見つめながら呟いた。思わず背筋がぞくりとするような冷たい声に、マコトだけでなく葉月や昌も思わず慄く。
「……落ち着け、咲良。いいか、もしその影浦とかいうヤツを目の前にしても、お前は絶対に手を出すんじゃねぇぞ」
「……」
じろり、と横目で睨まれていることに気づきながらも、マコトは気にすることなくアクセルを踏み込んでいく。
「くそ……こんなことになるのなら、もっと樹里に気をつけるよう注意するべきだったんだ……!」
悔やむように声を絞りだす咲良の様子に、後部座席へ座る葉月と昌がそっと目を伏せる。
「咲良さん。その、影浦という人の弟に似た人を見た以外にも、何か気になることがあったんですか?」
「……うん。しばらくはなかったんだけど、去年くらいから、樹里の『glamorous』に変なメッセージが送られてくるようになったんだ」
「変な、メッセージ?」
「……その、樹里を盗撮した写真が、送られてくるようになったんだよ。なかには、スカートのなかを盗撮したようなものもあったらしい」
初めて耳にする情報に、葉月と昌の顔が驚愕に染まる。一方、普段あまり表情が変化しない陽菜も、露骨に顔をしかめていた。
そして思いだした。樹里がときどき、スマホを見たあと顔色を悪くしていたことを。
「樹里は……ただのイタズラだからと言っていた。読モとして有名になって、知名度も上がったから仕方がないと。もしかして、影浦なんじゃないかと言ったときも、海外にいるはずだからそんなはずはないって……」
絞りだすような咲良の言葉を聞いた陽菜は、膝の上でぎゅっと拳を強く握った。犯人への怒り、相談してくれなかった樹里への憤り。そして、気づいてあげられなかったことへの後悔の念が津波のように押し寄せてくる。
陽菜はサッと顔を上げると、強い意思を宿した瞳を正面へ向けた。
……今は、余計なことを考えているときじゃない。絶対に、絶対に樹里を助けるんだ。たとえ、どんな手を使ってでも助けるんだ。
唸るようなエンジンの鼓動とロードノイズを聞きながら、陽菜は下唇を強く噛みしめた。
――陽菜たちが出て行ったあと、葉子はポケットからスマホを取りだしおもむろに電話をかけ始めた。相手は友人のキャシー。
普段なら数コールで出るキャシーが今日に限ってなかなか出ない。アメリカ時間はおそらく二十一時くらい。まだ眠る時間ではないだろうが、シャワーを浴びている可能性もある。
そう考えた葉子は、十分ほど時間をあけてから再び電話をかけた。すると、何度めかのコール音が鳴ったあと、「ハーイ」と底抜けに明るい声が耳に届いた。
「あ、キャシー!? よかった……ちょっとお願いがあるんだけど!」
『いったいどうしたってのよ、葉子。そんなに慌てて』
「ちょっと、こっちで大変なことになってるの。あなた、影浦さんの連絡先知ってるでしょ?」
『影浦? ええ、でもどうし――』
「教えて!」
いくら友人とはいえ、社内の人間の電話番号を勝手に教えていいものか、と一瞬迷ったキャシーだったが、葉子の切羽詰まった様子にただごとではないと感じ、渋々ながら応じてくれた。
葉子がすぐさまキャシーから教えてもらった電話番号へかけ始める。知らない番号からの電話、しかもアメリカは夜。出てくれない可能性もある。そう思っていた矢先――
『ハロー?』
「あ……! か、影浦さん、でしょうか?」
『あ、ああ。ええと、どちらさまですか?』
「私はキャシーの友人で、神木葉子といいます」
『ああ……ブライアンの。で、いったいどのような……?』
電話口から聞こえる影浦の声からは、明らかにこちらを警戒している様子が窺えた。が、葉子はストレートに尋ねることにした。
「実は、私の娘の大切な友人が誘拐された可能性があります。その女の子の名前は、佐々本樹里ちゃん。聞き覚え、ありませんか?」
影浦がハッと息を呑む声が、葉子の耳にはっきりと聞こえた。
「大変失礼なのですが、あなたと息子さんのことは話に聞いているので知っています。私の会社は、あなたの会社とも取り引きがあるので」
キャシーから直接聞いた、と言うと影浦と彼女の関係性が悪くなってしまうおそれがある。そう考え、葉子は情報の入手先はごまかすことにした。
『……もちろん、覚えています。愚息が……あんなことをしてしまったお相手なので』
影浦が少し声のトーンを落として言葉を紡ぐ。
「樹里ちゃんにストーカー行為をしていたあなたの息子さん、日本に戻っていると聞きました。そして、樹里ちゃんは今日何者かに攫われた可能性がある。正直、私はあなたの息子さんを疑っています」
はっきりと、力強い声で葉子は伝えた。もし、本当に影浦の息子が彼女を攫ったのだとしたら、それはとても許せることではない。自分と娘を救ってくれた命の恩人、その娘さんを手にかけたのだから。
『……たしかに、息子は日本へ戻っています』
「アメリカでも問題行動が絶えなかった息子さんを、なぜ日本へ戻したのか、そのことについて聞くつもりはありません。ただ、もし息子さんが樹里ちゃんを攫ったのなら、私は何としてでも助けなくてはならない。協力してもらえませんか?」
電話口から、影浦が小さく息を吐く音が聞こえた。そして、わずかに間をおいたのち、影浦の口から驚くべき言葉が吐きだされた。
『……残念ですが、私に協力できることは何もありません』
――新池袋二丁目までやってきた陽菜たち一行は、カーナビの案内の通り影浦の実家らしきマンションへと向かった。
幸い、繫華街からは離れているため道が混雑している様子はない。マコトは、ナビを確認しつつ慎重に一方通行の道路を抜けていく。
「多分、ここだな」
ハザードを出して歩道のそばへ車を停める。咲良や陽菜たちが窓越しに視線を向ける先には、レンガ調のタイルで仕上げたマンションが建っていた。もともとオレンジ色だったはずのタイルはすっかり色あせており、それなりに築年数が経っている建物とわかる。
「池袋エレファントガーデン……間違いありません」
陽菜の言葉に、咲良や葉月たちが頷く。ハザードを出したまま全員で車を降り、目的の部屋へと向かった。
「陽菜ちゃん、部屋番号は!?」
「五〇三号室です」
エレベーターへ乗りこみ五階へ。それほど広くない通路を足早に歩き、五〇三号室の前までやってきた。
「さすがに、いまどき表札は出てないか……」
ドアの周辺へ咲良が視線を巡らせる。
「とりあえずチャイムを――」
「嬢ちゃん、下がってろ。俺がやる」
陽菜がチャイムのボタンへ指を伸ばそうとしたところ、マコトがそれを制止した。もし、人を攫うようなストーカーがここにいるのだとしたら、そんな危険人物の前に幼い少女を立たせるわけにはいかない。
マコトがチャイムのボタンを押す。『ピーンポーン』と、よくあるチャイムの音が室内からドアの外まで響いてきた。
少し待つも、玄関のドアが開く様子はない。咲良と視線を交わしたマコトが、もう一度チャイムへと手を伸ばしたそのとき――
ガチャッ、と解錠するような音が聞こえ、静かにドアが開いた。
――影浦の口から発せられたまさかの言葉に、葉子は唖然とした。
「ど、どういうことですか、影浦さん? あなた、自分が何を言っているのか、わかってるんですか!?」
スマホを持つ葉子の手はかすかに震えていた。もちろん、影浦に対する怒りの表れである。
『神木さん、と仰いましたか。どういうことも何も、さっきお伝えした言葉がすべてです。私に協力できることは、何もないんですよ……』
「あ、あなたは……! あなたは、それでも人の親なんですか!? 息子さんが、かつてストーカー行為をした相手をまた手にかけようとしているかもしれないんですよ!? 親なら、子どもの過ちを正して止めるべきでしょう!?」
怒りのあまり葉子は絶叫していた。これほどの大声を出したのは、陽菜が生まれて以来初めてのことだった。
『……私が言葉足らずなせいで、申しわけない、神木さん。協力できることはない、と言ったのは、娘さんのご友人を攫ったのが息子ではないからです』
「な、何でそんなこと……」
『なぜなら、息子の恭平は……』
――陽菜をはじめ、咲良や葉月、昌、マコトまでもが愕然とした様子でその場に立ち尽くした。
チャイムを鳴らしたマコトたちの前に現れたのは、穏やかそうな顔つきをした妙齢の女性。影浦恭平の母親だった。
マコトが機転をきかせて古い友人であると伝えると、貴美子と名乗った女性はまったく疑うことなくマコトたちを邸内へと招き入れてくれた。
そして、影浦恭平の自室へと案内された陽菜たちは、そこで愕然と立ち尽くすことになる。彼女たちの視界に映るのは、うっすらと目を開いたままベッドに横たわる影浦恭平の姿。
だらしなく半開きになった口からはよだれが垂れ、瞳にはまったく生気がなかった。
「わざわざ来てくれたのに、ごめんなさいねぇ……」
申しわけなさそうに口を開いた貴美子へ、咲良が恐る恐る話しかける。
「あ、あの……これは、いったい……?」
「……麻薬のせいよ。この子、アメリカで悪い遊びを覚えちゃったみたいで……。死ななかっただけマシだけど……すっかり廃人になっちゃったわ……」
貴美子が力なく笑う。見た目は若々しいものの、髪にはいくつも白いものが混じっている。
「麻薬……そ、その……彼は、いったいいつからこんな状態なんですか……?」
「もう……半年以上も前だったかしら。わけあって父親と一緒に海外へ行ってたんだけど、こんな状態だし、日本へ戻すことになったのよ」
咲良と陽菜が顔をしかめる。目の前にいる影浦恭平は、どこからどう見ても廃人だ。おそらく、日常生活すらままならないのだろう。
だとしたら、いったい誰が? 影浦でなければ、いったい誰が樹里を?
寒々とした病室のような空間で、陽菜たちはしばらくのあいだ立ち尽くすしかなかった。




