42.成功者じゃないですか
十二月に入り、本格的な冬がやってきた。外を歩けば鋭い冷気が容赦なく肌を刺し、吐く息は白い靄となり寒々とした空へ吸い込まれてゆく──
ローテーブルの上から一枚の紙を手に取った陽奈が、険しい目で上から下へ視線を這わせる。その向かいでは、やや緊張した面持ちの樹里がゴクリと喉を鳴らした。
陽奈は目を通した紙をローテーブルへ戻し、別の紙を手に取ると、再び同じように視線を這わせ始める。やがて、すべての紙に目を通した陽奈が「ふぅ」と小さく息を吐いた。
「まあ……及第点といったところですね」
「ほんと!?」
「ええ。苦手な数学と英語の点数もかなり上がりましたし」
「よかったぁ〜……」
「あくまで及第点、ですからね。この調子で頑張ってください」
チェックが終わった期末テストの答案用紙を樹里へ差し出す。受け取った樹里がわずかに口もとを綻ばせた。
「あ〜……テストも終わったし、あとは冬休みを待つばかり……!」
すでに気持ちは冬休みなのか、樹里の顔がだらしなく歪む。そんな彼女に陽奈は呆れたような目を向けた。
「冬休みは何か予定でも?」
「ん? 特にないよ。でも、冬休みはクリスマスにお正月、大きなイベントが二つもあるじゃん!」
陽奈がキョトンとする。陽奈にとって、クリスマスもお正月もそれほど大したイベントではない。これまで、誰かとパーティーをしたり、お正月に親戚一同が集まって騒いだりといったこともなく、彼女にとっては平日と何ら変わらなかった。
「ねぇねぇ、陽奈! クリスマスはパーティーしようよ! それに、お正月は一緒に初詣にも行こう!」
「あ……そ、そうですね」
「ん? どしたん?」
一瞬、陽奈がハッとしたような表情を浮かべたのを樹里は見逃さなかった。
「……いえ。今まで、そういうことしたことがなかったので」
「あ、そうなんだ」
「はい……あ、そうだ。樹里、そのクリスマスパーティーうちでやりませんか?」
「え、いいけど、どしたの?」
思いがけない申し出に、今度は樹里がキョトンとする。
「以前、私が家出したときに、樹里や咲良さんたちが私を探してくれたじゃないですか。で、お母さんがずっと咲良さんや葉月さんたちにお礼をしたいと言っていたんです」
「あー、なるほど」
「いい機会なので、樹里から咲良さんたちに言っておいてもらえますか?」
「うん、わかった!」
にんまりと笑みを浮かべた樹里は、スマホのカレンダーアプリを起動すると素早く予定を入力した。
「樹里、冬休みは撮影はないんですか?」
「うん、冬休みはないよ。でもね……」
ふふふ、と変な笑い方をする樹里に、陽奈が訝しげな目を向ける。
「冬休み明けにね、撮影が二つも入ってるんだよ。しかも、ガルガルとLady ann!」
「えっ。またLady annに載るんですか?」
「うん! しかもまた表紙!」
「凄い、ですね。もう樹里、成功者ですね」
「いやいや、成功者て」
「もうすっかり芸能人じゃないですか」
「うーん……まぁ、声をかけてくれてる芸能事務所はあるんだけどね」
カリスマ読者モデルとして活躍する樹里に注目している芸能事務所は少なくない。多くの業界人が目を通すLady annの表紙を飾ったことで、さらに注目度は高まった。
「じゃあやっぱり……いずれは芸能の世界に?」
「んー……正直、そこまでは考えてないかなぁ。モデルの仕事は楽しいし、雑誌に写真が載るのも嬉しいけど、別に芸能人になりたいわけじゃないし……」
「そうなんですか?」
「うん。それに、芸能人になんてなったら陽奈ともあまり遊べなくなるかもだし」
陽奈の心臓がドクンと波打った。それはまさに、陽奈が懸念していたこと。樹里が、大切な友達が有名なファッション誌の表紙を飾り、注目度がますます高まるのを嬉しく、誇らしく思っている反面、手の届かない遠い世界へ行ってしまいそうな不安を覚えていた。
そんな陽奈の心情を察したのか、かすかに表情を曇らせた彼女の顔を樹里が覗き込む。
「私は陽奈とずっと一緒にいたいからさ。だから、心配しなくていいよ?」
「な……! わ、私は別に……! じ、樹里が芸能人になろうが私は……!」
「ん〜?」
ニヨニヨといやらしい笑みを浮かべる樹里。
「ちょっと、その顔やめてくださいっ」
「んもうー、素直じゃないなぁ」
苦笑する樹里から顔を背けた陽奈が唇を尖らせる。口ではああ言ったものの、ずっと一緒にいたいと言われ、陽奈はただただ嬉しかった。
──もともとクソみたいな人生だった。もちろん、順風満帆なときもあったさ。だが、それも今思うとわずかな時間だ。
結局、俺という人間はどこまでいっても俺でしかなく、そんな俺を見知らぬその他大勢のヤツらが踏み躙っていく。
人生の歯車が狂い始めたのはいつからだったか。エスカレーターで女子中学生のスカートのなかを盗撮し、鉄道警察に捕まったときだったか。
自分の性癖が病気であることは気づいていた。小学生女児や女子中学生、女子高生に性的な興奮を覚えるのは立派な病気だ。
それでも、最初は卑猥な本やネットで拾った画像を見るだけで満足できていた。だが、そこから行動へ移し始めるまでに時間はそれほどかからなかった。
同年代の女とつきあったことがないわけではない。俺のことを特別な存在だと、愛していると言ってくれた女もいた。が、やはり長続きはしなかった。
薄暗い部屋のなか、パソコンのモニターだけがぼんやりと青白い光を放っている。まっすぐに見つめる先には、美しい栗色の髪が印象的な少女。
モニターに映し出された少女を指で触れる。白い頰に触れ、そのままスーッと指を下げていく。ふっくらと膨らんだ柔らかそうな双丘を指で執拗に弄った。
誰もいない空間に、はぁはぁと切なげな息遣いが響く。やはり、彼女は素晴らしい。魅力的な笑顔、天使のような声、男を虜にするいやらしい体。
中学生のころから彼女の魅力は際立っていた。そして、いずれ多くの男が彼女の虜になることも。だから、何とかして彼女に近づいた。
が、いろいろな邪魔が入り結局こうだ。このまま、きっと彼女は遠い世界へ行ってしまうのだろう。
いわゆる、もっている者であり人生の成功者。自分とはまったく真逆の人間。何もかも、すべてを失ってどん底にいる自分とは対極にいる者。
この感情は何なのだろう。淡い恋心なのか、それとも肉欲なのか。はたまた、持たざる者ゆえの嫉妬なのだろうか。おそらく、全部だと思う。
ぐちゃぐちゃにしてやりたい──
何者でもない俺が、人気のカリスマ読者モデルをぐちゃぐちゃのめちゃくちゃにする。これほど愉快なことがあるだろうか。
そして、これほど俺の幕引きにふさわしいことはない。俺は目を閉じると、これから自分がすべきことを頭のなかで整理し始めた。




