初登板
「いよいよね」
エミリーは興奮していた。そして三回の表、巧が登板した。
「コントロール、いいね」
ジニーは呟いた。そして、二球で追い込んだ巧はカーブで簡単に三振を捕った。次の打者はカーブを見せ球にして、チェンジアップで内野ゴロに仕留めた。最後の打者はチェンジアップをファウルさせてカウントを稼ぎ、ホップするストレートを外角低めに決めて二個目の三振に仕留めた。
「いいリズム、アウトの捕り方知ってる」
またジニーは呟いた。そしてその流れるフォームとホップするストレートは、視線を釘付けにした。
「どういう事?」
リンジーの横顔に、エミリーは不思議そうに聞いた。
「まあ、要するに、上手いってこと」
視線を外さないまま、ジニーは呟いた。
「ふぅーん、そうなんだ」
エミリーにはよく分らなかった。五回は左の打者二人、右打者を一人を全部サードゴロに打ち取り、六回は右打者二人、左打者一人を全部セカンドゴロに打ち取った。
ハイタッチでベンチに戻る巧の背中に、ジニーは鳥肌が立った。
「何なの……あいつ」
「すごいね松田、誰もヒット打てないね……それに私達、知り合いだもんね」
驚くジニーを尻目に、エミリーは嬉しそうに笑った。
「そうだね」
エミリーを見ないで呟いたジニーだったが、レべッカの悲鳴みたいな声援が余韻を台無しにした。
「タクミィ! 愛してるっ!」
ベンチの上でレべッカは興奮していた。
「あれ、なんとかしてよ……」
ジニーは溜息を付いた。
「レべッカも松田のファンなのよ……それより……」
肯定したエミリーの優しさがジニーには嬉しかったが、またエミリーのお願いだろうと、少し寒気がした。
「今度はなぁに?」
「遊びに行っていい?」
少し頬を染め、俯き加減のエミリーは小さな声で言った。
「いつでもどうぞ」
リンジーは笑顔でエミリーを抱きしめた。
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家に帰るとジニーは部屋に直行した。そしてクローゼットの中をひっくり返し、青い包みを探した。ダンボールの間から出てきたその中には、古いグラブが入っていた。
一瞬、朧げに誰かの姿が浮かぶが、ジニーは穏やかな気持ちで宙に消した。
「ママ、ミンクオイルある?」
居間に降りたジニーは、夕食の用意をするサラに問い掛けた。
「どうするの?」
背中で聞くサラだった。
「これ、バイトで使うようになったんだ」
グラブを持って、ジニーは舌を出した。
「そう、でも無いわね……そうだ、巧に聞いてみるわ」
笑顔のサラの言葉に、ジニーは何故かキュンとなった。
「ええ? いいっ……自分で行って来る」
自分ではそう言うつもりはないはずだったのに、言葉が自然に出て赤面したジニーだった。
「分った、それじゃ夕食の後にでも行ってらっしゃい。ブルーベリーパイ焼いてるから、ついでに持って行ってあげて」
「うん……」
どうしてこんな事になったのかジニーにも分らず、食事も喉を通らなくて、考えようにも思考回路は混乱していた。
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ドアの前でジニーは緊張し、五分以上固まっていた。しかし中の物音に押されてやっとジニーはドアをノックする事が出来た。
「ジニー、どうしたの?」
ドアを開けた巧の笑顔に、ジニーは赤面した。
「あの……ママが持ってけって……」
パイを差し出したジニーは俯いた。
「ありがとう。受かったんだって? マイクに聞いたよ」
玄関先の巧は風呂上りなのか、いい匂いがした。
「ええ……ありがと……」
玄関が暗くてよかったと、ジニーは心から思った。
「それじゃ、おやすみ」
微笑んだ巧がドアを締めた。バタンとドアの閉まる音がして、ジニーは我に返った。 グラブのオイルも借りてないし、今日の登板の事も言ってない……でもジニーにはもう一度ドアをノックする勇気は残ってなかった。
「ジニー、オイル借りられた?」
帰って来たジニーにサラは声を掛けたが、返事もしないでリンジーは部屋に上がっていった。
「どうしたんだろ……」
どうして普通に話せないのか、何故巧の前では緊張するのか自分でも分らずにジニーはベッドに倒れ込んだ。遠くに波の音だけが響き、月明かりの外はぼんやり明るかった。
目を閉じると、巧の投球フォームがスローモーションで脳裏に浮かんだ。
「綺麗なのよね……」
呟いたジニーの耳にドアの開く音が飛び込んだ、慌てて窓の外を見ると巧がランニングに出かける所だった。電光石火でジャージに着替えたジニーは、勢いよく居間に駆け下りた。
「どうしたの、そんな格好で?」
ソファでテレビを見ていたサラは、不思議そうな顔をした。
「散歩っ! 行って来るねっ!」
叫ぶ様に言ったジニーは、表に飛び出した。そして百メートルぐらい先を走る巧に全然追い付けないジニーは、悲鳴に近い声を上げた。
「何よぉあいつっ! もう少しゆっくり走ってよぉ!」
海岸通りから海浜公園に入った巧に、ジニーは追うのを諦めた。そして公園の入口に座り込んでしまった。
「マイナーでも……やっぱプロよね……」
流れ出る汗と、激しい動悸でジニーはその場にあお向けになった。夜空の星が綺麗で見ているうちに、ジニーの呼吸も整いかけた。
「何してるの?」
星の隙間から、急に巧が覗き込んだ。
「えっ、その、あの……自主トレ」
あまりの驚きに、ジニーの胸は爆発しそうだった。
「大丈夫かい?」
差し出した巧の手はとても暖かかった。起こされるとタオルを掛けられ、巧は走って行った。唖然と見送るジニーに、すぐに戻って来た巧はスポーツドリンクを手渡した。
「ありがと……」
ジニーは、この辺りが暗くてよかったってまた思った。
「ダメだよ、いきなり無理しちゃ」
「うん……」
すぐ隣に座る巧の体温は、ジニーの胸を激しく圧迫した。そして冷たいスポーツドリンクは、ジニーの体と心をなんとかクールダウンしてくれた。
「あの……」
ジニーは何と呼べばいいのか分らなかった。
「巧でいいよ」
巧の笑顔はとても眩しかった。
「あの……巧……質問があるの」
ジニーは更に真っ赤になりながら小声で呟いた、少し声が震えている。
「何?」
「今日の投球……サードとセカンドのゴロ、わざと打たせたの?」
「ああ、トムと事前に打ち合わせしてた。上手く行くとは、あんまり思ってなかったけどね」
巧は笑顔で言った。
「凄いよ、あんなの見た事なかった、それにホップするストレートなんて初めて」
ジニーは興奮した。緊張なんて海の彼方に消え、投球を思い出し鳥肌が立った。
「ははっ、ありがと」
巧は笑っていた。その飾らない態度と笑顔は、リンジーの胸にど真ん中のストレートを投げ込んだ。そして話したい事は山ほどあるのに、次の言葉が中々出ないリンジーだった。
「鼻の頭」
ふいに巧はリンジーの鼻を指差した。
「えっ?……」
「汗」
笑いながら巧は、ジニーの肩に掛かるタオルで拭いた。子供みたいに鼻の頭に汗をかいている事に、まして拭いてもらった事にジニーは耳たぶまで赤くなった。
そして立ち上がった巧は、そんなジニーを優しく見下ろした。
「帰ろうか」
「うん……あっ……グラブのドロース、貸して欲しいの」
リンジーは、ぼそっと言った。
「ああ、いいよ」
巧は優しい笑顔でジニーを見つめた。
「それとね、あのファールボール、狙って当てたの?」
「そうだよ。ジニーに当たるかもしれないって思って、必死だったんだ」
「えっ?」
笑顔の巧の言葉が胸に刺さる、血液が逆流して息が出来ない。しかし、それは長続きしなかった。
「うそ、まぐれだよ」
笑いながらの巧の言葉で我に返ったジニーは、大きな溜息で体とココロを安定させた。
巧と並んで歩く道は、ジニーが経験したことの無い不思議な感覚だった。二人とも言葉は少なかったが、ジニーは家が遠ければいいのにと……心で思っていた。