魅惑のサブマリン
カリフォルニア州真ん中辺り、海に面したサンライズベイは西海岸独特の気候の穏やかさはあるが、ロサンゼルスやサンディエゴなどの大都市とは懸け離れた、華やかさとは無縁の小さな田舎町だった。
人々は温厚で人情が厚く、楽しみと言えばマイナーリーグの1Aチーム、サンライズベイ・プラネッツだけだった。
チームには伝統があり、1Aでは珍しく外野スタンドまである立派なスタジアムもあった。ただし、かなり老朽化はしていたが……。
しかし近年は低迷し万年Bクラスが指定席だったが、街の高齢化のおかげで年配の人々を中心に観戦に訪れ、他の1Aチームと比べれば観客は多い方だった。
そして人々の楽しみにしていた、スプリングトレーニングのシーズンがやって来た。
「ねえ、ジニー。プラネッツのスプリングトレーニング見に行こうよ」
ハイスクールの授業が終わると、エミリーが声を掛けて来た。小柄で少しポッチャリ型、ブラウンのクセ毛をショートにしたソバかすが可愛い女の子で、プラネッツの大ファンだった。
「あたし、ベースボールに興味ないから」
ベビーブロンドをポニーテールにして、切れ長で濃い青色の瞳。細いがメリハリのあるプロポーション、人形みたいな小さな顔のジニーは少し面倒そうに答えた。
「今年の新人に日本人がいるの、その子がもうキュートなんだ」
どこから情報を仕入れたのか、エミリーはとても嬉しそうだった。
「東洋系趣味だったの?」
はしゃぐエミリーに、ジニーは溜息を付いた。
「凄く優しそうなの、笑顔なんて可愛くて最高だよ」
乗れないジニーをよそに、エミリーはハイテンションだった。
「何て名前なの?」
少しは付き合わないと可哀想かなと、ジニーは頬杖を付いた。
「巧・松田」
「タクミ・マツダ……ママの車と同じ名前だ」
大声で即答するエミリーに、家の小さな赤いハッチバックを想像したジニーだった。
「ねぇ、ホットドッグ奢るからさぁ」
エミリーは満面の笑顔でジニーの腕を揺すった。
「しょうがないないなぁ」
その仕草が何だか可愛くて、ジニーは仕方なく付き合う事にした。
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プラネッツの本拠地ブルーベイスタジアムは海岸通りにあり、ハイスクールからも十五分程の距離だった。そこはサンライズベイのダウンタウンで、海浜公園とスタジアムが唯
一の娯楽の場所でもあった。
「ほらあの子よ」
ブルペンを見下ろすスタンドで、エミリーは興奮していた。
「リトルリーグじゃないの?」
他の選手に比べ巧は一回りも小さくて、ジニーは苦笑いした。
「そこが可愛いのよ」
ジニーの皮肉なんて全く気にしてないエミリーは、嬉しそうに笑っていた。そして巧の投球が始まると、エミリーは不思議そうな顔をした。
「何か、変わった投げ方ね?」
「下手投げね、サブマリンと呼ばれてるわ……でも、左か……」
ジニーは平然と言うが、左投げのサブマリンに言葉を濁した。
「あんた、何で知ってんの?」
また不思議そうな顔で、エミリーはジニーの横顔を見た。
「たまたまよ……」
巧に視線を向けたままジニーは言葉を濁したが、その投球フォームに無意識に引き込まれていた。振りかぶった両腕を一杯に伸ばして頭上で止め、右脚は胸のマークまで上がる、そこから腰を折り始め、左腕が大きく真っ直ぐにテークバックして行く。
鞭の様にしなる左腕は、踏み出した右足の着地からかなり遅れてボールをリリースすると、ボールは地面すれすれの軌道を描き、低い軌道を維持したまま構えたキャッチャーミットに寸分の誤差も無く吸い込まれた。
乾いたミットの音が響く。その流れる様な美しいフォームは、ジニーの視線を釘付けにした。
「ちょっとジニー、どうしたのよ?」
真剣な眼差しのジニーに、エミリーは首を傾げた。
「……綺麗……」
ボンやりとした視線のまま思わず口に出た、エミリーはまた不思議そうな顔になった。
「えっ、何?」
「あっ、フォームがよ」
何故かジニーは赤面した。
「まさかあんた……」
エミリーはニヤリと笑った。
「何よ……それより彼、背番号1番なんだ」
慌てたジニーは話題を変えた。
「こっちじゃ投手はあまり付けないけど、日本じゃエースナンバーなんだって」
事前に仕入れた知識を、エミリーは得意そうに言った。
「そうなんだ……」
リンジーはまだ巧のフォームに見とれていた。
「まさか、ジニーがこんなとこにいるなんて」
振り向くと後ろにはレべッカが立っていた。そしてお決まりの様に、取り巻きのパットとリタがいた。
「三人組か……」
ジニーは溜息を付いた。どこのハイスクールでもいるトリオは、リーダー各のレべッカを中心に学内を仕切っていた。背中まであるウェーブしたブロンドの髪と、高校生離れしたプロポーションが自慢の高飛車女がレべッカだった。
「ダメよリンジー、松田はレべッカが目を付けてんだから」
レべッカの横で赤毛のロングカーリーの高身長、パットが腕組みした。
「私達、松田の親衛隊なの」
ブルーネットのリタも豊満なボディを揺らし、口元で笑った。
「そうなんだ……」
首を傾げたジニーも、微笑み返した。
「ジニー……」
三人組が苦手なエミリーは、ジニーの陰に隠れた。
「これは皆さんお揃いで」
まずい雰囲気の中に現れたのは、テッドとサムだった。テッドはハイスクールのエースピッチャーで、サムとバッテリーを組んでいた。
「あんたらまで」
レべッカは呆れ顔で腕組みした。
「レべッカ、こんなとこよりドライブにでも行こうぜ」
テッドは、その長いブロンドを手櫛で掻きあげた。その横では、大柄だが人の良さが溢れているサムが穏やかに微笑んでいた。
「なんであんたなんかと」
レべッカは相手にしてなかった。
「痴話喧嘩ならよそでしてよ」
ジニーは、面倒そうに言って立ち上がった。
「何よ、あんた」
リタやパットがジニーに詰め寄り、もみ合いが始まった。
「お前達、静かにしろっ!」
その時、騒がしさに気付いた係員がやって来た。その瞬間、ファールボールがジニーの方目掛けて飛んで来る。打球音に気付いたジニーの視界に、太陽とボールが重なる。思考の速度を超え、目に映るボールが風切音と連れて大きくなる。
「危ないっ!!」「避けろっ!」
誰かの叫びがした。刹那、ファールボールが横に弾けた。
「何?」
一瞬周囲が静止する。訳が分からず辺りを見渡すと、エミリーを始め、皆が唖然としていた。ゆっくりとブルペンを見ると、投球動作を終えた様な巧がジニー達の方を向いていた。
『何でキャッチャーと逆を向いてんのよ』
心の中で呟くが、瞬間に答えが閃く。
「まさか……」
今度は口に出た。ブルペンに居た選手やコーチが巧の肩を叩いたり、驚きの奇声を上げたりしていた。なんと巧はファールボールがジニー達の方へ飛び、危険を察知して投球途中に振り返り様、ファールボール目掛けボールを投げ、しかも見事に命中させたのだった。
「大丈夫だった?」
暫くの沈黙の後、サムがジニーに声を掛けた。大人しくて人当りのいいサムに、本当はエミリーが気にしている事を知っていたジニーは笑顔を向ける。
「エミリーにも声を掛けてやってよ」
ジニーの言葉にサムは素直に応じ、大柄な体を屈めた。
「エミリー、大丈夫かい?」
「ええ、何でもないわ。でも、何が起こったの?」
赤面したエミリーに、サムは驚きながらも笑顔で説明した。
「ファールボールが飛んで来て、松田がそれにボールを当てた……奇跡だよ、神業だよ……もし、投げなかったら、誰かに当たってたかもしれない」
ジニーは背筋が震えた。予感? みたいなモノも全身を駆け抜ける。少し遅れて来た衝撃は、ブルペンで何事も無かったみたいに投球練習に戻る巧の背中でリンクした。
急に心臓の動悸が激しくなる。今までに経験した事の無い胸の高鳴りに、ジニーは改めて巧の後姿を見詰めた。