第1話 黒猫の頭が、ここではないどこかに突っ込まれていた。
「ユズハおねぇちゃん、ちこくさんだよっ!」
身体を揺すられて目を開けた。
「ん……」
「ほら、ユズハおねぇちゃん。学校、ちこくしちゃうよ?」
「あー……。ユカリ、今日もかわいいねー。ほれ、ぎゅーっと」
「わふ! お、おねえひゃん!」
もがもがと腕の中で身じろぎ、妹はじたばたしている。相変わらずかわいいやつである。
「あと三回ちこくで一週間のバツそうじとうばんってわかってて、そこまで寝ていられるどきょーは、すごいって思うんだ」
「そうだった!」
慌てて枕元の時計に視線を投げた。
七時──五十二分。
「すぐ、行くから!」
腕の中の妹を解放してやると、あたしは布団を蹴飛ばした。
片手でパジャマのボタンをはずしながら、もう片方の腕を伸ばしてハンガーにかかった制服を掴む。靴下、夜に選んでおいてよかった!
「おかぁさぁんー! おねぇちゃん、起きたー!」
階段をとたたっと降りてゆく妹の背中がちらりと見える。
っと、扉、開けっ放し!
慌てて閉めてからパジャマを脱ぎ捨てた。
三分でリビングへと駆け降りる。
食卓では父と妹がハムエッグをつついていた。
「ユズハ。トーストでいいの? って、ほらユズハ、まーた髪留めが曲がってるわ。もう」
「ふぁりふぁと」
かあさんの差し出してくる厚切りトーストを口に咥えたまま感謝。
「ちゃんとすればあなただって可愛いんだからね、ユズハ」
「ふぁい」
しかしそれは、素のままではかわいくない、と言ってませんか?
大急ぎで玄関を出る。
忘れ物を思い出した。
食卓に戻る。
「いもうとよ!」
「ユズハおねえちゃん!」
互いにぎゅーっと抱き合う。よし。エネルギー充填120パーセント!
「あんたたち、毎朝それやっててよく飽きないわねー」
「かーさんたちだって毎朝やってるじゃん」
父さんがコーヒーを吹き出し、広げていた新聞を台無しにしていた。
「じゃ、行ってきます!」
うむ、とうなずく父と、ニコニコしながら見送ってくれる母。行ってらっしゃいを忘れない妹。それが繰り返されるあたしの毎朝の風景だった。
玄関を出て、最初の細い路地に入る。
裏道だ。誰も歩いてない。太陽も輝く初夏の朝で、まだ色づかない紫陽花の花が垣根の向こうで揺れている。
路地裏をせっせと歩くと少し汗ばんでくる。夏が近いからだ。今日は暑くなるのかも、と思う。
そのとき、あたしの視界を黒い塊がよぎった。
ん?
目の高さにある塀の上を真っ黒な日本猫が歩いてゆく。
子猫だ。
びろうどみたいな毛なみの見かけない黒猫。
塀の角を曲がり、子猫は背の高い木の向こうへと歩いていった。
遅刻しそうな時刻だ。放っておいて学校に急ぐべきところ。
けれど、我慢ができなかった。
だって、子猫である。
大急ぎで追いかける。
「ちょっとだけ目の保養をっと……」
角を曲がって塀の上に視線を投げて──そこであたしは息を呑んだ。
黒猫の頭が、狭い穴の向こうの、ここではないどこかに突っ込まれていた。
魔法使いの猫の王様と、彼の使い魔になってしまった女子中学生の冒険譚です!