第2話 泳ぐキンギョソウ。
あの日から、彼女はすっかりあの髪型が定着してしまっていた。
私としては、せっかくの長く美しい髪が結われてしまうのはなんとも残念にも思えたが、一々口を挟む事でも無いだろうとその髪型について発言する事はしなかった。
彼女は私に関心があるようだが、他への関心は入学当初と変わらずまったく無いようだ。
成績も平均的で、優秀という訳でも落ちこぼれている訳でもない。
要領の良い彼女の事だから、少し頑張れば成績なんて簡単に上がるし逆に面倒だとサボってしまえば成績なんて簡単に下がる。
だけど彼女は優秀者にも落ちこぼれにもなろうとしていない。
何事にも深く干渉しようとしない無頓着な彼女が、どうして自分にだけは干渉してくるのか。
普段は誰にも笑顔なんて見せもしないくせに、どうして自分にだけ優しく接してくれるのだろうか。
それが彼女への一番の疑問だった。
「ひできち先生っ」
もう聞き慣れてしまった鈴を転がしたような綺麗な声から発せられる聞き慣れない名に振り返ると、そこには案の定無邪気そうなにこにこ顔を浮かべた彼女が居た。
「……ひできち、ってもしかして」
「うん。先生の事だよ?」
それがどうかしたの?とでも言いたげな『?』の顔つきに、私は心底呆れた。
「渾名ですか?…何でまた」
ひできち、というのは恐らく私の名前『秀坂佳吉』から取ったのだろう。普通あだ名なんてのは、名前を少しもじる程度に留めて「かきっちー」なんてつけるのが安易だと思うが、苗字と名前の最初と最後の漢字をくっつけるとは。中々気をてらっている。
「それは……その」
その先の言葉を紡ぐ事を躊躇うように視線を迷わして、片方の足をブラブラと空中に遊ばせている様子から彼女が動揺しているのが手に取るように分かる。
普段は何考えてるのかさっぱり分からないのに、私の前でだけは素直な反応を見せる彼女が何処か愛しくも感じつつ、憎らしかった。
ブラブラとさせていた足を止め、視線をゆっくりとこちらへ戻した彼女は熱くなった頬を冷ますように手を当てて、今にも消え入りそうな声でこう云った。
「私だけが呼んでいい……先生の愛称が欲しかったから」
嗚呼。
彼女はきっと、私の事が『好き』なのだろう。
今更ながら、そう思った。
でも、私は生憎好意を寄せられる事に慣れていないから。
「……そうですか」
彼女が望むような返答を、返す事が出来ない。
「有難う御座います」
まるで機械のような薄っぺらい感情の無い言葉しか、贈ることが出来ない。
けれど、彼女はそんな機械みたいな言葉でもこんな風にまるで花が咲いたように、全身で喜びを表してくれるのだから厄介だ。
バレないように歯軋りをしながら、そう思った。
「―――――では、"サヨウナラ"」
またね、バイバイ、また明日。
掛ける言葉はいくらでもあったというのに"サヨウナラ"と口走ったのは、無意識的に彼女を避けてしまっていたのだろう。
「……うん、"またね"」
彼女が呟いたその言葉を無視するように、私は彼女に背を向け去っていく。
その時、彼女がどんな表情をしていたのか、私は知らない。