第1話『ハーデンベルギアに祝福を』
この物語は、私の物語ではなく彼女の物語と云っても過言では無い。
何故ならば、彼女の人生=私なのだから。
別にこれは彼女の事を愛しすぎた男の戯言では無い、彼女自身がそう私に告げたのだ。
偽りの無い純粋なその美しい瞳で、まるで「貴方無しでは生きられない」と懇願するように。
だから、この物語は私の物語で在り彼女の物語でも在るのだ。
♢
一年と少し程前、色鮮やかな桜が風に乗り春の訪れを知らせる頃。
当時この学園に教師として配属され3年となる私は、入学式のしおりを片手に真新しい制服でスクールバッグをもう片方の手に持ち門をくぐり抜ける彼女を見つけた。
入学式というものは、誰だって緊張するものだろう。
私だって、学生の頃は酷く緊張して、名を呼ばれて返事する時に少しだけ声が裏返ってしまう程だった。
現に他の生徒達はキョロキョロとして、動きもフワフワと落ち着かない様子が見て取れる。
けれど彼女だけは、真っ直ぐに前を見据えていた。
緊張して固まっているという訳でも無く、何の含みもない真っ直ぐな瞳で。
『落ち着いている』というよりは、そもそも『興味がない』と云う感じだった。
(今時、冷徹な高校生が居るもんだな…)
第一印象は多分、それくらいだったけれど、今思えば既にこの時から彼女の事を意識していたのだと思う。
♢
そして、一年後の現在。
あの時真っ直ぐに前を見据え、学園を見つめていた彼女の視線の先には何故か、私が居た。
彼女の存在を認識してから既に一年は経過しているが、私の担当している学年は2年。
当時一年生の彼女と関わるような事は、正直云って皆無だった。
進級し2年生となった彼女のクラスを持つ事となった時は驚愕したものだ。
「秀坂佳吉先生」
暫くこちらを凝視し、黙り込んでいた彼女がようやく口を開いた。
「……どうかしましたか、黒羽ユリさん」
私がそう返すと、彼女の綺麗な瞳に輝きが宿る。
目元に幽かな影を落とす程に長く美しい睫毛の瞼で何度かぱちくりとまばたきをした後、満足気な微笑を浮かべていた。
「私の名前……知ってくれてたんですね」
心做しか、先程よりも声色が高く思えるのは自意識過剰という奴なのだろうか。
けれどそう云った彼女の表情はあの日みたいに冷徹なものではなく、思いがけない喜びに出会ったかのようなニコニコとした今時の女子高生らしいありふれたものだった。
「ええ、担任ですからね」
本当は担任になる前から存在を認識していたけれど、今時の女子高生にそんな事を告げると下手をすれば退職処分だ。
だから敢えて口を噤んだ私に、彼女はほんの少し残念そうに「そっか」と苦笑した。
これが彼女との初めての接触だった。
それから彼女は頻繁に私の元へと訪れるようになった。
朝も、授業間の隙間時間も、昼休みも、放課後も。
周りの教員達が「懐かれてますね」と苦笑する程に彼女は私をついて回す。
懐かれている、と受け取れば確かに彼女は猫のように可愛いし、飼い猫につけられているようにも思えて微笑ましい。
けれど、私には到底そうは思えなかった。
懐かれている、というよりは
常時『監視』されているような。
それは猫なんて可愛いものでなく、捕食対象を見つけて強く絡みついて離れようとしない毒蛇のように。
――――なんて思えてしまうのは、私がひねくれているからなのか否か。
そんな事を思いつつ彼女に視線を向けてみせると、相変わらず純真な微笑を浮かべていた。
その微笑はとても愛らしいものなはずなのに、どこか冷酷的に思えてすぐに視線を逸らした。
そんな私の反応が好ましくなかったのか、口元を歪ませ下唇を噛んだ彼女の表情を知る由もなく。
♢
気分転換でもしたいのだろうか。
黒バラのリボンで二つに結われた彼女の髪を見て、そう思った。
今まではゴムで結ってなどいなかったというのに。
私より少し低めの身長で、上目遣いでこちらを伺う。
何か欲しい言葉でも強請るように。
敢えて自分からは云わずに、相手に気づかせるためか無言でじっと見つめてくるその真剣さに私は思わず吹き出した。
髪を笑われてしまったのかとあわてて結われた髪を解こうとする彼女に制止の言葉を入れると安堵の表情でホッと胸を撫で下ろしていた。
「髪、どうしたんですか」
この質問をずっと待ち焦がれていたであろう彼女に、問いかける。
けれど彼女の反応は、少し意外なものだった。
「……やっぱり」
そう呟くと、瞳を伏せながら『期待はずれ』とでも云うように私に背を向け去っていく。
何か気に障ることでもしてしまっただろうか。
彼女があの時、どんな反応を示して欲しかったのか。
私には到底理解できそうに無かった。