7 試験について
「試験? 選抜試験のことだよね。もちろんあるよ。試験官はMOCAってことになっているけど、実際の採用担当は僕を含む研究チーム。つまり、MOCAを発掘したり、プログラム開発したり、運用したり、その他いろいろを受け持ってる人たちが本当の試験官さ。つまり、ちゃんとした人間が採点することになっている」
ヴァーミリオン先生は、持ち出し禁止のシールが貼られた書籍の文字列を目で追いながら、そう言った。
学生の中で優秀な一握りは、激ムズの試験に受かれば、飛び級できる。一年生から二年生とか、一年生から五年生とか、そういったせせこましい話じゃない。なんと、飛び級で教員になれるのだ。非常に難しい試験だが、この難関を通りさえすれば、ある程度の将来が確約されるという。それゆえ学外からの志願者もおびただしく、そのうち書類選考を通った者は特例で試験を受けることもできる。こうした学外受験者は年々増加する傾向にあり、そうして膨れ上がった倍率は、今やウン千倍やらウン万倍だとかいう話だ。
試験は、夏と冬の年二回行われ、一定の傾向はあるものの、試験の出題範囲は毎年変わらず幅広く、ヤマを張ったりしても無駄無駄だ。
「ていうか、MOCAが教師の役割を一手に引き受けてしまっている状況ですけど、この体制で選抜試験に受かっても意味ないんじゃ……?」
「大丈夫。試験に受かりさえすれば、それなりのグレートなポストは用意されるから。なぜなら、試験に受かっても何も優遇されないとなると、誰も懸命に学ばなくなってしまうからね」
「あ、たしかに、そうですね……現実を生きるというのはシビアなことですし」
「また試験、受けるの?」
「はい、もちろんですご主人様、今度こそ受かってみせます」
ご主人様は、次のページをめくって、一度ちらりと私の方を見た。ご主人様の澄んだ瞳と目が合った。
「本気のようだね」
ご主人様は、そう言って、再び本に視線を落とす。
「はい。もう後が無いくらいの気持ちで挑んできます。こんど落第したら死ぬんだ、ってくらいの覚悟で」
「……そうだね。他の受験者も、そのくらいの意気込みで来るから、まず気迫で負けない方がいい」
ご主人様は、本を閉じて立ち上がった。
「あれ、どちらに行かれるんですか?」
「食堂に。一緒に行こうか」
「……えっ、良いんですか?」
★
初めてだった。食堂に誘われたのは。
五月にメイドとして雇われて以来、いつも昼は一人で食べたいと言って、私を置き去りにしてきたのに、今日はおかしい。どうした風の吹き回しだろう。雪でも降るんじゃないだろうか。って、実際、今は冬だから雪が降ったって何らおかしくないんだけども。
第六校舎の地下にある食堂で、ご主人様と一緒にランチ。
夢のよう。
この学園には、三つか四つくらい食堂があるのだけど、私はこの第六校舎の食堂が最も味が良いから気に入っている。
広々としたフードコートになっており、七軒くらいのお店が並んでいる。ラインナップは、インドカレー、イタリアンを中心とした洋食、そして和食の丼メニュー。すべて五百円以内で食べられて、異常じゃないかっていうくらいの大盛りも可能だ。欲を言えば、ラーメン屋とか、中華料理屋が欲しいところだ。
とにかく、そんな感じで、選び放題、いろんな種類のお店がある。だけど私は、
「ご主人様! オムライス! オムライスですよ! オムライスにしましょう! オムライス! 私にはオムライスしか見えません! ね? いいですよね、オムライスで。オムライスにしましょう、オムライス」
ご主人様に無理矢理にオムライスを勧めたのだった。
もうオムライスしか目に入らなかった。何回オムライスって言うんだってくらいに、オムライスを連発したのだ。
「ご主人様は、そこに居て下さい。私がオムライスを持って来ますから!」
そうして、呆然としているご主人様に四人がけの席をとってもらって、私は黄色い看板の洋食屋ブースへと駆けた。
食券機に五百円玉をぶちこみ、オムライスセットのボタンを押す。トレイを手にして、列に並んだ。おねえさんに食券を渡して、オムライスが出てくるのを待つ。
「いらっしゃい……えっと、オムライスですね。ソースはいかがいたしますか?」
ソースは選べる三タイプ。特製トマトソースと、デミグラスソースと、ホワイトソースの三種類から選べと言われたけれど、私はその全てを選ばなかった。
「おねえさん。トマトケチャップください」
エプロン姿のおねえさんは、嫌そうな顔を見せながらも、はいはいと言って冷蔵庫を開け、プラスチック容器をくれた。ぎゅぎゅっと押すとブチュッと出るタイプのやつだ。中は赤いケチャップで満たされている。
トレイにサラダなどの副菜や、デザートが載せられ、スプーンやフォークなどの食器が並んでいく。
厨房では、白いコック帽をかぶった体格の良い男が、鍋を振るっていた。
ジュウ、と音がした方を見ると、鉄鍋の中に黄金の卵が投入されていた。あの黄金の服をチキンライスさんに着せれば、オムライスの完成だ。
完成を待っている間に、ご主人様の好きな烏龍茶をカップに注いで待つことにする。
「お待たせしました。オムライスですー」
あっという間に来た。さすが学生食堂。仕事が早い。真っ白なお皿に載ったキラキラのオムライスが出て来た。
そのもの、黄色き衣を纏いて白銀の雪原に降り立つべしィ……。
さあ、ここで最後の仕上げである。
いざケチャップを――、と、そう思った時に、他のお客さんと肩がぶつかった。どうやら、私が列の進行を邪魔しているらしかった。でも、工場のベルトコンベアのように淀みながらも流れる列の進行を妨げてでも、他の食堂利用者に多少の迷惑を掛けてでも、やらねばならないことがある!
「いざ、参ります!」
私は、ケチャップを握りしめ、オムライスの上に真っ赤なハートマークを描いた。エレガントな図形が完成した。我ながら見事だ。これで、ご主人様のハートも鷲掴みにしてみせる。
ケチャップをステンレスの台に放置し、トレイにキラキラ光るオムライスを載せて、ご主人様の待つ四人がけの正方形のテーブルへ。
真っ白の机に、真っ白の椅子。
私は、対面の席を避けて、斜め四十五度からご主人様を見つめられる所に座る。
緊張する。騒がしいはずの食堂なのに、雑音が遠くに感じられる。
男性としては長めの黒髪が少し邪魔で、ご主人様の端正な顔が全て見られるわけではないけれど、やっぱりこの斜めからの角度が、人の顔を美しく見せる視点だと私は思う。
ふぅ、と深く息を吐いた。これから飛び切り恥ずかしいことをするので、自分を落ち着かせるのだ。
落ち着け、落ち着け、私。
いつの間にか震えていた手で、色鮮やかなオムライス定食を、まるで私の肌のように真っ白なテーブルに置いた。
ご主人様の視線が、私を射抜く。
私は、きっと顔を真っ赤にして、しばらく俯いていたと思う。
私がメイドになったのは、たぶん、きっと、今、この時のため。
優れた人格を持つご主人様は、よく次のように言っている。「悪いことを恥ずかしいと感じる心はとても重要なものだ」って。だけど、これから行うのは悪事ではない。紛れも無く、ご主人様を喜ばせようとする善なる心から発した聖なる行動だ!
だったら、そもそも恥ずかしがることなんかないはずだ!
大丈夫。きっと大丈夫。ご主人様は喜んでくれる。
汗ばんだ手をギュッと強く握る。
私は、渾身の可愛らしい声を出す。甘えるような、高い声。
「はぁい、ご主人様ぁ、お待たせいたしましたぁ」
こういう声を、世間では猫なで声というのだろうか。メイドらしい声と動作。ご主人様のメイドになると決めた日から、一所懸命に練習してきた。ついに披露する時が来たんだ。
「もえもえー。ご主人様が食べたがってた、私の特製オムライスですぅ!」
ご主人様は、黙って私を見ている。ひどく冷たい視線のようにも感じられるけれど、きっと、ただ突然のことに面食らって呆然としているだけなんだ。普段の真面目な私とのギャップに驚いて言葉が出ないだけだろう。この、普段とのギャップというのもまた、男性の心を掴むための演出!
私はクネクネとした動作とともに言葉を発する。
「実はぁ、私、このまえ本を読んでいたらぁ、偶然見つけちゃったんですよぉ。え? 何を見つけたかって? それはですね、オムライスが美味しくなる魔法ですぅ! にゃんにゃんっ」
二人で来た食堂。目の前にはオムライスセットが一つ。ここでカワイイをアピールしなくて、何がメイドか!
「ご主人様、まずは、こちらのお茶で、お喉を潤して――きゃっ! ちめたいっ!」
私は、わざと烏龍茶を胸にこぼした。ドジっ娘をアピールしようというのだ。明らかに不自然な動きになったのは、私がメイドとして未熟だからに他ならない。
お茶が掛かったのが黒い部分だったから、汚れは目立たないけれど、やっぱり服が濡れると、それなりに不快ではある。
ふと、やってしまった後に、「失敗した」と思った。私には、こぼれ落ちそうなおっぱいなんてものは無くて、かといって、つるぺたメイドでもないからだ。中くらいの、普通の、何の面白味もない胸では、アピールにならないような気がする。
それでも、やりかけた以上は、アピールを続けなくては!
私は、胸のボタンを二つほど外して、ぱたぱたと空気を送り込む。ご主人様のほうをチラリと見た。
ご主人様は、ただ黙って私を見ている。あまり感情のこもっていない目。小屋を逃げ出した鶏が庭で暴れているのを見る時の目に似ている。
「きゃはっ、やっちゃった! 私としたことが、てへっ!」
どんどん、厳冬を感じさせる瞳になっていく。悪寒が襲ってきた。食堂には暖房が効いているはずなのに。
かと思えば続いて体が熱くなり、焦りで変な汗をかいてきた。
「だ、け、ど、魔法の方は得意だから安心して下さいね、ご主人様ぁ」
私は、オムライスに両の手をかざす。
「あっ、ああっ……オムライスの声が、きこえる……。この波動は……嗚呼、この子は……そう……愛に飢えているんだわ!」
ご主人様が眉間にしわを寄せた気がした。ガッと寄せた気がした。気のせいだと信じたい。気のせいだと思わなければもう立っていることすらできない。
「なんということでしょう、このオムライスを美味しくするには、ご主人様と私の、二人の愛の魔法が必要みたいですっ! 私一人の力ではどうにもならないので、ご主人様もご一緒にお願いします! 私が呪文を唱えるので、ご主人様も、私の後に続いて下さいね」
そして私は、胸の前に両手をもってくる。心を象る図形を親指と人差し指をくっつけて表現し、ふわふわと揺らしながら渾身の甘い声を出す。
「おいしくなあれ! もえもえピュン!」
呪文と共に、両の手をオムライス方面に突き出し、儀式を終えた。
無言だった。
もう一回呪文を唱えた。
口を開いてくれなかった。
ご主人様は、私に続いてくれなかった。一緒にもえもえピュンしてくれなかった。
それどころか、トレイからスプーンを手に取ると、赤くて綺麗だったハートマークを無言のままぐしゃぐしゃに崩してしまった。
「おいしくなれない……なえなえシュン……」
私は呟いて、机に伏して、泣いた。
しばらくして顔を上げた時には、ぐちゃぐちゃに崩されたオムライスがそのままあって、なんとご主人様は丼屋さんから焼肉丼を買ってきて食べていた。
「ひどい、それは、あまりにひどいですご主人様! せめてオムライスは食べて欲しかった!」
「何言ってんだ。次やったらクビだからな」
「……申し訳ありませんでした、ご主人様……」
私はただ、ご主人様に喜んで欲しかっただけなのに。
あまりにも悲しい。この日のために練習してきたんだから、少しは乗ってきて欲しかった。