3 学園の過去と現在
第六校舎から校長室に行くためには、一度敷地の外に出なければならない。室内だけを通って向かうことも一応できるけれど、非常に面倒な手続きを踏まなければならないので、結果的にかなりの遠回りになってしまう。だからどうしても、仕方なく外に出ることになる。
第六校舎にある薄暗い地下通路を抜け、エスカレーターに乗って外に出る。
「寒い……」
早歩きで身体を温めることにする。とはいえ、校長室までは、だいたい三、四分。そこまで遠いわけでもないのだけれど。
敷き詰められた赤茶色の煉瓦を、私のピカピカの黒い靴が叩いている。杖を突いている偉い人の立像があって、なだらかな坂を見下ろしている。坂には、桜並木があって、春には花見ができる。並木の中を人工的な小川が流れていて、その周辺で肥え太ったハトが首を出したり引っ込めたりしながら歩いていた。
「ハト、か」
屋外はこんなに平和なのに、どうして一歩校舎に入ると乱れまくっているのだろう。
金丹が大流行してから、生徒の質が悪化した。そして、金丹をやらない生徒たちもやる気を無くしてしまったようで、ご主人様の講義に出てくる人数もどんどん減っている。
ずいぶん前から兆候はあったけど、近頃の荒廃ぶりは尋常じゃない。
校長に、少し手を打つのが遅すぎたんじゃないのか入れ歯ジジイと言ってやりたいけれど、「クソ校長はクソ校長なりに頑張っているんだ」ってご主人様が言っていたから、しばらくの間は暴言は控えてあげようと思う。
桜並木を抜けると、人工的な池……というか円形の水溜りがある。実はこれ、噴水なのだけれど、学園が乱れてからは一度も動いた姿を見たことがない。そして、そのすぐ先に門があった。これが正門だ。これも平和な時には全開だったのだが、今は九割閉じている。
門の開いているわずかな隙間を抜けて、右に曲がる。
堅牢そうな鉄柵を右手に見ながら歩を進めると、乗用車一台がギリギリ通れるかってくらいの、これまた小さな門があり、両側に屈強そうな警備員が立っている。
私はポケットから取り出した通行証を見せた。
「ええと、ヴァーミリオン先生の専属メイド……さん?」
「はい」
私は、いつものように警備員に通行証を見せた。けれど、どうやら新人さんらしくて、戸惑っていた。何度か警備用帽子のつばに手を触れた後に、彼は言う。
「あの、メイドさん……ですか。これ、名前書いてないけど」
「メイドに名前が必要ですか?」
「そりゃ――」
と、言いかけたところで、もう一人の警備員が肩に手を置いて制止する。この人の顔は知っていた。
通ってよし、と目で合図してくれた。
私はニコリと会釈すると、小さな門を颯爽と抜けた。
ぐにゃぐにゃうねる白い通路があり、立ち入り禁止の芝生と数本の松の木が脇を固めている。小さな胸像が置かれた広場を抜ければ、真新しい真っ白な箱が聳えている。
新造の、八階建ての第八校舎は、他の校舎から隔離されていた。地下にも地上にも校舎と校舎を繋ぐ通路はある。しかし、学内が金丹やあやしげな宗教で乱れてしまったことにより、封鎖され、通行申請しないと通れない。しかも、許可が下りるまでには審査があり、二日ほどかかる。金丹ジャンキーや邪教徒のせいで、不便になったものだと思う。まことに許し難い。
正面から見た新築建造物は、ぱっと見て、「凹」という字を逆さにしたような形に見える。エントランスの開口部は透明なパネルがびっしり張られたデザインになっていてオシャレなのだが、もっとこのスペースを有効に活用しようとは思わなかったのか、と私の正義心が言っている、でも、ご主人様が、「そういう、威厳めいたものが必要なときもある」と言うので、偉い人に談判とかは、やめておこうと思う。
「まったく、こんな新校舎建てるくらいなら、図書室の充実とか、より素敵な先生呼ぶとか、すればいいのに」
独り言でボヤくに留め、灰色の自動扉を抜けて、エレベーターに乗り込んだ。
校長室は、生徒および生徒の保護者たちから金を巻き上げて建築されたピカピカの校舎、その最上階にある。
ふかふかの絨毯が敷き詰められた廊下。ここに立って、大都会の街を眺めるたび、本当に贅沢な建物だなあと思う。
ゆっくりと歩を進めると、一番奥に、校長室があった。重たい扉の前に立つ。
校長の目的は崇高だ。この乱れた学園を正常化しようとしている。私のご主人様も目標は学園の恒久的な平和を実現することなので、共通の敵が多い。だから、ご主人様は、大嫌いな校長が下す指令にとりあえず従って、賊どもを討伐しているのだ。
私は校長室の扉をノックした。
どうぞ、という声がしたので、全体重をかけて扉を押し開けた。
「入ります」
バスケットボールができそうなくらいに広い部屋だった。天井はそんなに高くは無いが、奥行きがあって、部屋の中央にある校長のデスクの前まで三十歩くらい歩かなくてはならなかった。
「ヴァーミリオンくんのところのメイドか」
老人らしい、しわがれた声がした。喉に痰が絡んだような、今にもくたばってしまいそうな声だ。
校長は、とても綺麗な歯並びをしたお爺さんである。でも、その美しい歯並びは、実は入れ歯。病魔にも冒されていて引退が近いと噂されている。
「相変わらず美しいね」
「はぁ、どうも」
「いつも眠たそうな顔をしているのが、少し残念だが」
余計なお世話だ。
「しかしその美貌は、ヴァーミリオンくんのメイドにしておくには勿体無い」
あなたは相変わらず老いぼれですね、校長にしておくには勿体無いので、さっさと仏様にでもなって下さいとか言ったら、たぶん入れ歯がすっ飛ぶほど激怒するんだろうなぁ。
「校長、報告に上がりました」
「聞こうか」
校長はふかふかの背もたれにもたれかかったまま、私に先を促した。
「金丹ジャンキーを壊滅に至らしめました」
「ほう、ついに敵の本部を壊滅せしめたのだな」
「おそらく、そうですね。あそこまでディープなジャンキー集団は、今まで見たことありませんでした。十中八九、あいつらが金丹を製造して売りさばいていた奴らです。もっとも、あいつらに、元締めだった頃の記憶が残っていたとは思えませんが」
「なるほど……これで、我が学園が荒れた原因の一つは解決と言ってもよいな」
「残党狩りと、製造施設へのガサ入れ等、まだ仕事が残ってはいますが、だいたいは片付いたかと」
「そうか。よくやってくれた」
「ソリッドウェル校長の作ったMOCAのおかげです」
「MOCA……? ふむ、あのアンドロイドか……、いや、しかし、あれは、このソリッドウェルが作ったのではない。掘り出しはしたがな」
「え、そうだったんですか? 知らなかったですぅ」
白々しく言ってやった。本当は知っていた。発掘に同行したご主人様から聞いていた。この、書類作成と詩を作る以外のことに関しては全く無能なソリッドウェル校長が、ゼロからMOCAを作れるわけがない。
校長は、私がビックリして見せたことで機嫌をよくしたようで、フォフォフォと笑い、「そうなのじゃ、内緒じゃぞ」と言って、さらに言葉を続けた。
「だいぶ量産が進んだようじゃな。はじめは一体しかいなかったが、今やちょっとした軍隊じゃ。確か、第六校舎の研究チームが量産してくれたんだったか。特にヴァーミリオンくんの功績が大きかったと記憶しておる」
「ええ、我が主、ヴァーミリオン先生に限界はありません」
校長は、フムと言って、ゆっくりと立ち上がった。窓の外、ビルが立ち並ぶ絶景を見ながら、手を後ろで組んでいる。
「よいか、メイドよ。人間には上・中・下の三種類ある。貴様が今回捻り潰したのは、最下辺に位置する連中じゃ。われわれのような中級の民は、どちらにも転ぶが、下民は下民にしかなれぬ。別格の存在である上級な、『聖人』と称されるような人間には決してなれない存在。根本的に違う。下民は、どこまでいっても下民なのじゃ。未来永劫、目の開かれることのない度し難いクズどもの取り締まり、これからも頼んだぞ」
私は、満面の笑顔の裏で、知ったことか黙ってほしいと思っていた。
――下民は、どこまでいっても下民。
学園の長たる貴方が、そんな考え方だから、この学園は一向に治まらないのではないですか?
教師のトップが生徒の無限の可能性を信じないでどうするのですか。
ご主人様はあなたの考え方が嫌いです。
こんなことを口走ってしまったら、ご主人様に迷惑が掛かるので、言わないですけど。
「メイドよ、報告はそれだけかな」
「はい、今のところは」
「フム……作戦を次の段階へと進めても良い頃合だな」
「次の段階……?」
「そうじゃ、学園の秩序を乱している主な要因は何かな?」
校長の謎かけに、私は的確に答える。
「金丹などの違法薬物と、死後に安楽を求める新興宗教です。この二つを何とかしない限り、学園の平和はありえません」
「ご名答。さすがはヴァーミリオンくんのところのメイドだ」
現実に絶望した人間は、二通りのコースを歩む。一つは、不老不死が得られるという甘い言葉に踊らされ、金丹を服用し、快楽に溺れて人間をやめる。もう一つは、来世や天国など、幻の世界に思いを馳せて、「今」をないがしろにして周囲に迷惑を撒き散らす。
何故、そのようなコースを歩めるのかと言えば、薬物が手に入る環境が存在しているからであり、有害な宗教団体が幅を利かせているからである。
そうして薬物が蔓延したり、退廃的なムードが盛り上がってくると、現世に絶望していない人間にも危険が及ぶことになる。たとえば、飲み会でいきなり金丹飲まされて廃人にさせられたり、現実の人間関係を捨てなさいと誘惑された結果、学業などの社会的責任を放り出して謎のお経を唱えはじめたり。
生徒たちの「廃人化」と「社会的責任の放棄」がはっきり目立ち始めた時になってようやく、ソリッドウェル校長が動き出した。学園内に蔓延する二つの害毒を除去するため、地下深くに封印されていたMOCAを掘り出して武力として運用することに決めたのだった。
今、廃人化の問題は解決しつつある。となれば、次は、生徒たちに社会的責任を自覚させる段階に入るのだろう。
「次は宗教団体の制圧ですか? それとも、ひきこもりの就学支援ですか?」
私は尋ねた。しかし、ソリッドウェル校長は、私の質問には答えなかった。窓の外を見つめながら、こう言った。
「机の上に、封筒がある。それをヴァーミリオンくんに渡してくれ」
「これ……ですか?」
私は薄っぺらい茶封筒を手に取る。
「次の作戦が書いてある」
黒スカートのポケットに封筒を入れた。