2 金丹ジャンキーを倒す
荒い呼吸音と呻き声が、暗闇の中を這い回っている。
私は、意を決して、電気を点けた。
視界が一瞬だけ真っ白になり、次の瞬間には、腐った人間どもが見えた。物理的に腐っているわけではない。ゾンビやキョンシーのように屍が動いているわけではなくて、精神的に腐っている奴らがいたのだ。そいつらは、うつろな目をしたり、恍惚の表情を浮かべたり、よだれを垂らして呻いていたり、生まれたままの姿になって机の上で寝ていたり、といった惨状を呈している。ほんとに、薬物の力ってのは、おそろしい。
定員三十名ほどの狭い教室。腐臭はしない、ただ甘ったるい匂いと、血の臭いみたいな生臭さが混ざり合っていた。暖房を入れていないからか、肌寒い。
第六校舎地下一階の一室は、まるで放置された動物園。理性を失った人たちの掃溜めであった。だいたい十五匹。その大半の者は、まっすぐに歩くことすらできず、私が部屋の扉を開けた意味すら理解していなかった。かろうじて自我を保っていた者も、反応が鈍かった。
「やっと現場を押さえることができた。『金丹』取締り任務を開始する! MOCA、やっちゃって!」
私が指示を与えると、私の背後に群れていた戦士たちが一斉に動き出す。よどんだ狭い部屋に一斉に雪崩れ込む。
私の膝上で、フリルが可愛らしいスカートがひらひら揺れる。上に掛かっている白エプロンもふわふわ揺れる。
新米の頃は、スカートが揺れるたびにいちいち押さえていたけれど、今はもう気にしない。太ももが見えたって動じない。どうだっていい。プライベートならいざ知らず、今は仕事中。まして、これは、とても大事なお仕事なのだから。
だけど、大事な仕事とは言ったけれど、私が直接手を下さずとも、彼女たちが……MOCAたちが、やってくれるのだから、内容としては緊張感なんてない。実に楽な仕事だ。
――MOCA。
MOCAと書いて、「モーカ」と読む。人型アンドロイドである。
MOCAたちは、一糸乱れぬコンビネーションで、次々と薬物中毒者たちに大ダメージを与えていく。しなやかな長い脚は、私よりもずっと美脚。長身も羨ましい。しかも、鼻筋は通っているし、目はぱっちりとしているし、化粧いらずの美貌だ。その上、MOCAのために特別に作られた服、ぴったりとした濃紺の戦闘服も素敵で、凛と伸びた背筋をよく引き立たせている。服装だけなら、私のメイド服も可愛らしいから負けてはいないと思うけれど。
私の白黒メイド服。
真っ白に波打つ頭飾り、黒い服の上から装備した白いエプロンは、いくつものひらひらで飾られている。ふわりと膨らんだ肩、襟と袖口の白。黒いスカートの下からは、またしても白いひらひらが登場する。スカート二枚重ねで、黒の中から白がはみ出している形だ。膝までの黒ハイソックスとスカートの間の領域は肌が露出されている。足元ではラメ入りのエナメルシューズが光る。黒いリボンタイは気分によってつけたりつけなかったりするけれど、つけていることが比較的多い。特に、こういう、気を引き締めなくちゃならない仕事の時は、うっかり忘れない限り装備することにしている。
一人の屈強そうなパーカー男が、椅子を持ち上げて、私に向けて振り下ろした。私は、それを避ける必要が無いことを知っていた。
椅子は、私の頭飾りの純白フリルに触れることなく止められた。
私の服も肌も一切汚れなかった。
落ちてくる椅子を止めたのはMOCA。大量生産された人型アンドロイド。
この仕事が終わるまでは、何よりも優先して私を守ることをプログラムされた、古代兵器。オーパーツ。MOCAと戦闘して勝てる人間など何処にも居ないだろう。だから、つまり、MOCAは私にとって、この上なく心強い兵器。最強の。純粋な兵隊。武力。
もしMOCAが敗れるとしたら、私の尊敬するご主人様を相手にした時くらいだ。なんたって、ご主人様はMOCAのプログラムを管理している大天才なのだから。
そんなわけで、MOCAは恐怖の対象として全校生徒から恐れられている……はずなんだけど……。
どうやら、この重度の金丹ジャンキーたちには常識ってものが通用しないみたい。
大暴れしたり、虚空を眺めたり、嘔吐して恍惚の表情を浮かべてウヒヒヒと笑ったり、MOCAが来ても怯える気配さえ見せない。
こんなに痛めつけてもなお、何が起きたのかわかっていないのか、それとも、何が起きてもキモチイイと思っているのか。
「キンモチウィッ!」
遠く黒板の前で殴られた男が言った。やはり何をされてもキモチイイという感覚なのかもしれない。私には理解も賛同もできない。
殴ったMOCAは無表情で追撃の蹴りを顔面に入れていた。容赦はするなという命令に忠実に従うMOCAは、そこかしこに血だまりを作っており、無抵抗になった相手をさらに痛めつけてから手錠と足枷を掛けている。
手錠を掛けられた者たちは、まるで人間以下の生物のように放り投げられ、教室中央に整然と積み上げられていた。大きな書店で時折見かける、本の芸術的な平積みのよう。
――金丹ジャンキー。
一歩間違えば、私もこんな風になっていたかもしれないと思うと、身震いせざるをえない。
入学したての頃、まだメイド服なんか着ていない頃、期待と不安で胸をいっぱいにしていた頃、無知で無垢だった頃のこと。私は、あやうく金丹を飲まされそうになった。
「飲んでる?」
無精ひげを生やしたスーツの男が、ジョッキを片手に私の顔を覗き込み、話しかけてきた。
「君、フランス人形みたいで可愛いね」
私は既に酔っ払っていて、ただヘラヘラと笑っていたと思う。
ちなみに、人形みたいという言葉は、昔から、わりとよく言われることである。親譲りの病弱であまり日光を浴びなかったから、肌の白さと手足の細さは自慢できる。
「これ飲んでみない?」
サークルの新入生歓迎会で、悪の先輩どもが、新入生にお酒が回った頃を見計らい、無知で無垢で素直なあの頃の私たちを薬漬けにしようとした。その金丹という銀色の液体をお酒に混ぜながら、無精ひげを生やしたスーツの男は耳元で囁いた。
「大丈夫、キモチイイよ?」
今となっては、何が「大丈夫」なんだか、さっぱりわからない。
「今、この高級なクスリを特別に無料で配っていてね、これを飲むと不老不死になれるんだけど、どうかな?」
どうもこうもない。不老不死なんて嘘っぱちだ。逆に、金丹を飲んで気持ちよくなったかわりに、再起不能に至った人を何人も見てきた。
人間の精神を壊す毒薬。この薬の蔓延は秩序を乱す害悪。だから、社会を守るため、根絶しなければならない。
それでも、あの頃の、罪深いほどに無知で無垢で素直だった私は、その薬を受け取って飲もうとしてしまった。人生で初めてのお酒に自我をふにゃふにゃにされ、促されるがままに金丹の混じった赤銀のワインを傾けた。
ギリギリだった。
直前でグラスが割れた。MOCAが握り潰したのだ。グラスはアンドロイドの手の中で砕け、次の瞬間には、悪しき先輩の身体が壁に叩きつけられていた。
と、昔のことを思い出しているうちに、制圧が完了したようだ。
ジャンキーたちは、このあと、学外の更生施設に移され、徹底的に金丹と隔離される予定だ。
ふと見渡すと、血の海と人間たちを背景に、大勢のMOCAたちは、相変わらずの無表情で私の指示を待っている。
「終わったね。じゃ、戦闘終了。片付けて」
片付けくらいは、なんとなくメイドの役割っぽいから、MOCAさえ居なければ自分でやりたいところなんだけど、効率を考えるならアンドロイドにやらせた方がてっとり早いし、血を拭き取ったりすることで気持ち悪い思いをするのも嫌だから。いつも通り、彼女たちに任せよう。
「私は、校長に報告しに行くから。よろしくね」
MOCAたちは一斉に頷いた。一瞬たりともズレることなく、一斉に。